那須資重 (23代当主)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長14年(1609年)[1] |
死没 | 寛永19年7月25日(1642年8月20日)[1] |
別名 | 与一[1] |
戒名 | 天心玄性自境院[1] |
官位 | 従五位下・美濃守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 下野那須藩主 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:那須資景、母:小山氏娘[1] |
兄弟 |
資重、喜連川尊信正室 養兄弟:資弥(青木利長次男) |
妻 |
正室:土方雄重娘[1] 継室:大関政増娘[1] |
那須 資重(なす すけしげ)は、江戸時代前期の大名。那須氏23代当主。下野国那須藩2代藩主。
那須氏22代当主・那須資景の長男として誕生した。
時期は不明だが徳川家光への御目見をした後、寛永元年(1624年)1月1日、従五位下・美濃守に叙任され[1]、父の跡を継いだ[2]。寛永8年(1631年)に日光山普請助役[1]、寛永18年(1641年)3月3日には日光東照宮造営助役を務めた[1][3][4]。翌寛永19年(1642年)に跡継ぎのないまま、父に先立ち死去した。享年34。
大名の那須家は無嗣断絶となったが、翌寛永20年(1643年)、江戸幕府は那須与一以来の名家の廃絶を惜しみ、隠居していた父の資景に所領の一部5千石が与えられ[3]、大身旗本として那須の家名を再興することが許された[1]。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』(七百三十五)
- 『人見私記』(三月三日、三月十五日)
- 『寛永日記』(三月三日)
- 『萬年記』(三月六日)