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野副昌徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野副昌徳

野副 昌徳(のぞえ まさのり、1887年明治20年)11月20日[1] - 1981年昭和56年)11月2日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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佐賀県[1][3]神埼郡[2]出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官した[4]

1937年(昭和12年)4月、歩兵第46連隊留守隊長に就任し、同年8月、歩兵大佐に昇進[3]。同年9月、歩兵第55連隊長に発令され日中戦争に出征[1][3]。杭州湾上陸作戦、南京戦、広東作戦などに参戦した[1]。1938年(昭和13年)12月、陸軍戸山学校幹事に転じた[3]。1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級し第2独立守備隊長に発令され満州に赴任した[1][3]

1941年(昭和16年)3月、独立混成第7旅団長に発令され中国戦線に出征[1][3]。1942年(昭和17年)7月、前橋陸軍予備士官学校長に転じた[1][3]。1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に昇進し第63師団長に親補され[3]北京の周辺警備を担当した[1]。1945年(昭和20年)3月9日、西部軍管区司令部付となり[5]、同年4月2日、予備役に編入された[1]。翌日に召集され久留米第1陸軍予備士官学校長に就任[1][3]。同年8月27日、第303師団長に発令された[1][3]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

1981年11月、急性腎不全のため大村市立病院(現市立大村市民病院)で死去した[2]

栄典

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外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸軍将官辞典』565頁。
  2. ^ a b c 『現代物故者事典 1980〜1982』249頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』279頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』271、279頁。
  5. ^ 第55号 昭和20年3月10日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120935900 
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
  7. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。※牟田口昌徳
  8. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  9. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  10. ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
  11. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。