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野平省三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野平 省三(のひら しょうぞう、1900年5月30日[1] - 1974年8月7日)は、日本騎手調教師である。宮内省下総御料牧場などの牧夫を経て騎手兼調教師に転じ、ウアルドマインで第2回横濱農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)に優勝。戦後は調教師としてJRA顕彰馬スピードシンボリなどを管理した。それぞれ騎手・調教師の野平富久は長男、野平祐二騎手顕彰者)は次男、騎手の野平幸雄は三男である。

経歴

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1900年、千葉県印旛郡に生まれる。中央競馬ピーアール・センターが刊行した『日本の騎手』によれば、実業補習学校を経て1925年1月に下総御料牧場に入り、種牡馬チャペルブラムプトンの交配管理を担当したとされているが[2]、次男・祐二の著書『馬の背で口笛吹いて』によれば、ずっと早く下総御料で育成に従事しており、こちらでは「20歳か、22、3歳の頃」に下総御料牧場から経験のある省三が抜擢され、当時の場長と共に北海道根室の牧場に移り、後に下総御料に戻り、『日本の騎手』の記述にある大正末期にはシンボリ牧場を手伝っていたとされている[3]

『日本の騎手』によれば、牧夫から騎手へ転じるきっかけとなったのは、自身が育成調教を担当していた63ブラマンテー(競走名セイコウ)であり、新馬戦で同馬が勝利するところを目の当たりにして騎手に憧れ、1926年に秋山辰治厩舎に入門、翌1927年3月に中山競馬場で騎手免許を取得した[2]。騎手としては通算712戦89勝を挙げ、1940年ウアルドマインによる横浜農林省賞典四歳呼馬制覇などがある。同馬は調教師としての管理馬でもあった。

戦後は調教師として、かつて手伝っていたシンボリ牧場とも提携しながら活動し、重賞3勝を挙げたスイートワン、同4勝のスイートフラッグ、二度の年度代表馬に選出されたスピードシンボリなどを管理、また非シンボリ牧場出身馬も、メイジアスターハーバーゲイムが1968年、1969年と最優秀4歳牝馬を連続受賞した。

1973年頃より体調を崩し、1974年8月7日、脳血栓移行肺炎で死去[4]。これに伴って管理馬は長男・富久などの厩舎に移り、また祐二は省三の後を継ぐため[5]、翌年騎手を引退して調教師に転身した。その最後の騎乗馬カーネルシンボリは省三が管理していた馬であり、祐二は目黒記念優勝で引退を飾った。

人物

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サラブレッドジェントルマンが作り出したのだから、ジェントルマンとして馬に関わらなければならない」という持論を息子達が幼少の頃から語った[6]。この考えは特に祐二に対して大きな影響を与え、後年祐二は騎手生活を通じて徹底したフェアプレーを貫き、また競馬が社会悪として蔑まれていた時代にあって「文化・スポーツとしての競馬」の発展に尽力し、「ミスター競馬」と呼ばれた。祐二は省三を「あくまで純粋で誠意の人」「競馬社会の芸術家」と評している[7]。また、ヴァイオリンを嗜み、教会やキリスト教系の学校で賛美歌に合わせて披露するなど、当時としてはハイカラな趣味人であった[6]

成績

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騎手成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
89 83 74 466 712 .125 .241

主な騎乗馬

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※いずれも管理調教師を兼務。括弧内は騎乗時の勝利重賞競走。太字は八大競走

調教師成績

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  • 4771戦633勝、重賞38勝(中央競馬発足以降)

主な管理馬

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主な門下生、厩舎スタッフ

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脚注

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  1. ^ 1967年天皇賞(春)優勝後に長男・富久の厩舎から転厩。重賞通算12勝。
  2. ^ 省三死去後に富久の厩舎へ移籍、目黒記念に勝利。
  1. ^ 『中央競馬年鑑 昭和44年』(日本中央競馬会、1970年)p.187
  2. ^ a b 『日本の騎手』p.77
  3. ^ 野平(1994)pp.38-39
  4. ^ 野平(1994)pp.163-165
  5. ^ 野平(1994)p.171
  6. ^ a b 野平(1994)p.40
  7. ^ 野平(1994)p.161

参考文献

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