金剛寺 (秦野市)
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金剛寺 | |
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所在地 | 神奈川県秦野市東田原1116 |
位置 | 北緯35度23分49.8秒 東経139度13分25.0秒 / 北緯35.397167度 東経139.223611度座標: 北緯35度23分49.8秒 東経139度13分25.0秒 / 北緯35.397167度 東経139.223611度 |
山号 | 大聖山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 不詳 |
中興年 | 建長2年(1250年) |
中興 | 波多野忠綱 |
文化財 |
木造阿弥陀三尊立像(市指定重要文化財) 源実朝公御首塚(市指定史跡) |
金剛寺(こんごうじ)は、神奈川県秦野市にある臨済宗建長寺派の寺院である。
歴史
[編集]創建年代は不明である。1219年(建保7年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は甥の公暁によって暗殺された。実朝の首は公暁に持ち去られ、行方不明となった[注釈 1]。三浦義村の家臣の武常晴は、長尾定景が率いる公暁討伐の一団に加わっていたが、その際に実朝の首を手に入れ、何らかの理由により首を持ち帰らずこの地に葬ったと伝わる[1]。
1250年(建長2年)、当地を所領としていた波多野忠綱が実朝の菩提を弔うために再興した。当寺には実朝の坐像が安置されている[2][3]。
文化財
[編集]秦野市指定重要文化財
[編集]- 中尊の阿弥陀如来は、像高83.5cm。脇侍の勢至菩薩は、像高59.0cm。観音菩薩は像高58.2cm。いずれも寄木造[4]。「実朝の念持仏」との由緒が伝承されるが、実朝没後間もない鎌倉時代前期に波多野氏らが中心となって供養のために造立されたものと推定されている。なお中尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代中期の阿弥陀如来立像の形式に倣った室町時代後期から江戸時代初頭にかけての補作とみられる[4][5]。
秦野市指定史跡
[編集]歌碑
[編集]- 御首塚に近接して、1960年(昭和35年)に建立された歌碑があり、金塊和歌集におさめられた源実朝の「物いはぬ 四方のけだもの すだらにも あはれなるかなや 親の子を思ふ」が刻まれている。書は実朝研究家であり、歌人・国文学者の佐佐木信綱の揮毫。
交通アクセス
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『秦野:郷土のあゆみ』秦野市、1977年、57頁 。
- ^ a b 源実朝公御首塚 秦野市観光協会「秦野の”旬”な観光情報」(2022年11月28日閲覧)
- ^ a b 稲葉博 著『関東古社名刹の旅(千葉・埼玉・神奈川編)』読売新聞社、1986年、198-199p
- ^ a b c “金剛寺木造阿弥陀三尊立像”. 秦野市 (2022年9月6日). 2022年11月28日閲覧。
- ^ “市重要文化財に三尊立像 東田原の金剛寺が所有”. タウンニュース 秦野版. タウンニュース社 (2022年8月26日). 2022年11月28日閲覧。
- ^ “源実朝公御首塚”. 秦野市 (2012年12月20日). 2022年11月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 稲葉博 著『関東古社名刹の旅(千葉・埼玉・神奈川編)』読売新聞社、1986年
外部リンク
[編集]- 金剛寺 - 秦野市観光協会