銀丁百貨店
本社所在地 |
日本 熊本県熊本市花畑町90[2][3][4] ↓ 熊本県熊本市新市街1-18[5][6] |
---|---|
設立 |
(初代)1930年(昭和5年)10月1日[2] ↓ (2代目)1948年(昭和23年)12月9日[1][6][7] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 |
鈴木彌三郎(社長)[3] ↓ 池田重利(社長・中央紡績社長兼務)[4] ↓ 山口鶴亀(社長)[2] |
資本金 |
35万5000円[3] ↓ 6000万円[2] |
従業員数 |
355[8] ↓ 350[2] |
決算期 | 2月末日[2] |
主要株主 | 株式会社大洋83%[6] |
(初代)銀丁百貨店 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 熊本県熊本市花畑町 |
開業日 | 1930年(昭和5年)10月11日[9] |
閉業日 | 1945年(昭和20年)7月に[12]戦災で全焼[13]。 |
延床面積 | 6,109 m²[8] |
商業施設面積 | 5,748 m²[8] |
店舗数 | 40店[10] |
営業時間 | 9:00 - 21:00[11] |
(2代目)銀丁百貨店 | |
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店舗概要 | |
所在地 | 熊本県熊本市花畑町90[14] |
開業日 | 1951年(昭和26年)10月1日[15] |
閉業日 | 1976年(昭和51年)8月31日[16] |
敷地面積 | 1,726 m²[5] |
延床面積 | 5,359 m²[5] |
商業施設面積 | 2,772 m²[5] |
銀丁百貨店(ぎんちょうひゃっかてん)は、熊本県熊本市にあった日本の百貨店である。
歴史・概要
[編集]1930年(昭和5年)10月11日に[17]京都の時計商だった鈴木弥三郎[注 1]が熊本県熊本市の新市街の一角に鉄筋コンクリート3階建ての店舗を建設して銀丁百貨店として本格的な百貨店を開業したのが始まりである[19]。
なお、当店は出品制と呼ばれていたテナントが出店する形態の店舗で[20]、小売商40店が出店していた[10]。
食堂などが人気を集めて「味の銀丁」と言われていたほか、子供遊園地や屋上庭園なども備えていた[19]。
1934年(昭和9年)には福岡県飯塚市の昭和通の東町角にあった筑豊地方初の百貨店だった「丸一百貨店」(1933年(昭和8年)4月開店)を傘下に入れ、「京屋百貨店」と改称したが、1936年(昭和11年)に火災に遭って閉店となった[21]。
1935年(昭和10年)に株式会社丸銀マーケットを設立し[13]、同年12月3日に3階建てへの増築工事が竣工し[22]、1,800坪へ増床した[23]。
日用食料品などを販売する「花畑市場」が店内にあったほか[24]、熊本市内一円で無料配送を行っていた[25]。
1940年(昭和15年)に株式会社味の銀丁を設立した[13]。
やや先行して開業していた1927年(昭和2年)1月に開店した「いずみや百貨店」[26]などのライバルを凌ぎ、1906年(明治39年)に開業した熊本県内初の本格的な百貨店であった「千徳百貨店」[27]と共に第二次世界大戦前は熊本の2大百貨店として多くの買い物客を集めていた[28]。
1945年(昭和20年)6月に強制疎開となった「熊本無尽」が当店内に移転して業務を続けた[12]。 しかし、同年7月に[12]戦災で全焼した[13]。
1948年(昭和23年)12月9日に旧経営陣が[1]「銀丁建設株式会社」を設立して[29]再発足した[30]。
1949年(昭和24年)に「株式会社銀丁」に社名変更し[29]、1950年(昭和25年)4月に清水組(現・清水建設)の施工で新店舗を着工した[31]。
しかし、1951年(昭和26年)1月に熊本地方裁判所の決定により高杉故春が職務執行責任者となり[5]、同年に鈴木弥三郎が退社した[13]。 同年2月に清水組(現・清水建設)との施工契約が解消され[32]、同月5日に一時廃業した[33]。 同年4月に池田重利[注 2]が社長に就任し[34][36]、同年6月29日に資本金を6000万円に増資し[1]、同年7月に「株式会社銀丁百貨店」に社名変更した[29]。 同年9月に総工費5324万8000円で鉄筋コンクリート造3階建て・延べ床面積1,079坪の建物が竣工し[31]、同年10月1日に再開店した[15]。 この店舗は熊本では第二次世界大戦後初の鉄筋コンクリート造の本格的な百貨店であった[37]。
この新店舗の3階には、戦前から人気を博していた食堂を設けて和洋中華を提供したほか、催事などを行うホールを設置していた[1]。
なお、この店舗は売り場面積の関係で百貨店法の規制の対象外となっていたことから営業時間も制約を受けず、外商にも力を入れていた[38]。
その後は、昭和20年代中頃に開業して非常な勢いで勢力を伸ばして[39]鶴屋百貨店と共に新たに2大百貨店と呼ばれるようになった戦後創業の大洋デパート[40]の傘下に入り[19]、1955年(昭和30年)7月に山口鶴亀が社長に就任し[2]、同年10月に株式会社大洋が株式の83%を取得した[6]。 同年11月12日に日本デパートメントストア協会(現・日本百貨店協会)を脱会した[41][42]。
戦前の最大のライバルだった千徳百貨店が1955年(昭和30年)7月に倒産した後も営業を続けたが、1973年(昭和48年)11月29日に親会社の大洋デパートで日本では最大の百貨店火災事件となった大洋デパート火災が発生した影響で[19]経営が悪化したため、銀丁百貨店は解散に追い込まれ[19]、1976年(昭和51年)8月31日に閉店して[16]その歴史に終止符を打った。なお、大洋デパートも2か月後の10月27日に会社更生法の適用を申請して破綻した[43]。
なお、人気を博していた店頭で製造・販売する「銀丁饅頭」は[44]、1939年(昭和14年)6月30日に「株式会社銀丁」が商標登録している[45]。
年表
[編集]- 1930年(昭和5年)10月11日 - 銀丁百貨店として百貨店を開業[9]。
- 1934年(昭和9年) - 福岡県飯塚市の「丸一百貨店」を傘下に入れ、「京屋百貨店」と改称[21]。
- 1935年(昭和10年)
- 1936年(昭和11年) - 火災に遭って閉店となった[21]。
- 1940年(昭和15年) - 株式会社味の銀丁を設立[13]。
- 1945年(昭和20年)
- 1947年(昭和22年)8月30日 - 当社が加盟していた日本百貨店組合が解散[46]。
- 1948年(昭和23年)12月9日 - 旧経営陣が[1]「銀丁建設株式会社」を設立[29]。
- 1949年(昭和24年) - 「株式会社銀丁」に社名変更[29]。
- 1950年(昭和25年)4月 - 清水組(現・清水建設)の施工で新店舗を着工[31]。
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)1月22日 - 日本デパートメントストア協会(現・日本百貨店協会)に入会[47]。
- 1953年(昭和28年)
- 1955年(昭和30年)
- 1976年(昭和51年)
過去に存在した事業所
[編集]- 工場(熊本市寺原町182[5])
過去に存在した関連会社
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『全国主要会社業績と商品総覧 昭和27年版』 野田経済研究所、1951年12月25日。pp346
- ^ a b c d e f g h i 『熊本紳士録 1964年版』 週刊熊本新聞社、1964年9月1日。pp30
- ^ a b c 百貨店年鑑 昭和16・17年度, 日本百貨店通信社, (1941-1-25), pp. 166
- ^ a b 『熊本商工名鑑 1955年版』 熊本商工会議所、1954年10月10日。pp781
- ^ a b c d e f g 『日本繊維商社銘鑑 1970年版』 東京信用交換所、1969年10月1日。pp532
- ^ a b c d e 『全国繊維企業要覧 昭和45年版』 信用交換所大阪本社、1969年9月15日。pp2958
- ^ 『肥後銀行史』 肥後銀行、1960年11月25日。pp附録106
- ^ a b c 『日本百貨店総覧 昭和14年版』 百貨店新聞社、1939年5月1日。pp521
- ^ a b 「新・熊本の歴史」編集委員会 『新・熊本の歴史 10 年表編』 熊本日日新聞社、1983年8月28日。pp126
- ^ a b 『西日本産業要覧』 福岡日日新聞社、1937年。pp274
- ^ 『日本百貨店年鑑 昭和13年版』 日本百貨店通信社、1938年8月25日。pp990
- ^ a b c d e 『日本の礎』 共同通信社、1968年4月29日。pp1049
- ^ a b c d e f g h i j 『熊本年鑑 昭和32年版』 熊本年鑑社、1957年5月5日。pp170
- ^ “第二十二回理事會報告”. 日本デパートメントストア協会通報 135号 (日本デパートメントストア協会) (1952年2月1日).pp1
- ^ a b c 『西日本産業要覧』 福岡日日新聞社、1952年1月25日。pp264
- ^ a b c 「新・熊本の歴史」編集委員会 『新・熊本の歴史 10 年表編』 熊本日日新聞社、1983年8月28日。pp166
- ^ くまもと女性史研究会 『くまもとの女性史 第1巻』 熊本日日新聞情報文化センター、2000年3月。ISBN 978-4877550820
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- ^ a b c d e 銀丁会事務局『銀丁物語』銀丁会、1995年10月。
- ^ 清水正己 『アメリカ式商店経営 資本急速度回転』 商店界社、1948年12月30日。pp227-228
- ^ a b c d e 飯塚市誌編さん室 『飯塚市誌』 飯塚市、1975年9月1日。pp671
- ^ a b 熊本県警察史編さん委員会 『熊本県警察史 第2巻 大正・昭和前期編』 熊本県警察本部、1982年4月1日。pp1484
- ^ “二 増築竣成せしもの(但し改修工事完成に依る拡張のものを含む”. 研究資料 第25輯 昭和十年日本百貨店一覧 (大丸) (1936年11月5日).pp48
- ^ 『九州産業大観』 九州日報社、1936年12月5日。pp998
- ^ 『日本百貨店年鑑 昭和13年版』 日本百貨店通信社、1938年8月25日。pp288
- ^ 『写真集・熊本100年』熊本日日新聞社、1985年11月。
- ^ 桑野豊助『くまもと商売事始めと企業のルーツ』くまもと企業のルーツ刊行会、1979年8月。
- ^ 熊本日日新聞社熊本県大百科事典編集委員会『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年。
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- ^ 『肥後銀行史』 肥後銀行、1960年11月25日。pp321
- ^ a b c d 『建築経済統計資料 1956』 日本建築学会、1956年9月5日。pp114
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- ^ a b c d 『人事興信録 第17版 上』 人事興信所、1953年11月。ppい64
- ^ a b 『人事興信録 第24版 上』 人事興信所、1968年11月。ppい64
- ^ a b 『大衆人事録 第26版 西日本編』 帝国秘密探偵社、1968年6月1日。pp149
- ^ 『熊本県史 第5巻』 熊本県議会、1964年10月31日。pp383
- ^ 坂田大 『熊本人間山脈』 坂田情報社、1961年10月20日。pp124
- ^ “いまやシール販売時代:元祖の宇土で三周年:発案者表彰や抽選会”. 熊本日日新聞 (熊本日日新聞社). (1957年5月11日)
- ^ 新熊本市史編纂員会『新熊本市史 通史編 第8巻 現代1』熊本市、1997年3月30日。
- ^ a b “会員移動(銀丁百貨店脱会)”. 日本デパートメントストア協会通報 273号 (日本デパートメントストア協会) (1955年12月1日).pp2
- ^ a b “会員移動”. 日本デパートメントストア協会通報 279号 (日本デパートメントストア協会) (1956年2月1日).pp4
- ^ a b 『熊本年鑑 昭和53年版』 熊本年鑑社、1978年1月20日。pp73
- ^ “手先が器用と言われたが?”. えんゆう 1999年9月号 (そのだ脳神経外科医院) (1999-9).
- ^ “商業登記”. 官報 第3805号 (大蔵省印刷局) (1939年9月9日).pp48
- ^ 『日本百貨店協会10年史』 日本百貨店協会、1959年5月26日。pp29
- ^ “第二十二回理事会報告”. 日本デパートメントストア協会通報 135号 (日本デパートメントストア協会) (1952年2月1日).pp4
- ^ “熊本、銀丁百貨店一時廃業”. 日本デパートメントストア協会通報 179号 (日本デパートメントストア協会) (1953年4月20日).pp7
- ^ 『日本百貨店協会10年史』 日本百貨店協会、1959年5月26日。pp260