錦町 (仙台市)
錦町 | |
---|---|
仙台市役所錦町庁舎 | |
北緯38度16分09.4秒 東経140度52分44.8秒 / 北緯38.269278度 東経140.879111度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 仙台市 |
区 | 青葉区 |
人口 | |
• 合計 | 3,061人 |
郵便番号 |
980-0012[2] |
市外局番 | 022[3] |
ナンバープレート | 仙台 |
錦町(にしきちょう)は、宮城県仙台市青葉区の町丁。郵便番号は980-0012[2]。人口は3,061人、世帯数は1,795世帯(2022年10月1日現在)[1]。現行行政地名は錦町一丁目・錦町二丁目であり、全域で住居表示を実施している[4]。
仙台市都心部の北側、かつて長丁と呼ばれた地域であり、現在はその立地からオフィスやマンションなどが建ち並んでいる。
概要
[編集]仙台市都心部北側に位置し、1丁目と2丁目からなる。東側が宮町、北側が上杉、西側が本町、南側が本町・花京院となっている。ブロック内は道路が狭く、ほとんどが一方通行である。ただし、愛宕上杉通および定禅寺通(仙台市道路愛称名)という大通りに面する部分は、宮城県庁や国の出先機関が集中する勾当台地区に隣接するため、オフィスやマンションが多い。
現在の愛宕上杉通の1本東側を並走する同心町通[5]より東側の定禅寺通、および、その東側に続く細い道は、かつて「長丁」(ながちょう)と言い、沿道の町名としても使われた。これが1935年(昭和10年)に「錦町」に改称された。1970年(昭和45年)には住居表示が施行され、錦町は街区の名称となり、道路名としては廃れてしまった。
なお、長丁(道路名)の東端は東六番丁通で丁字路で終わり、そのすぐ北で東六番丁通から小田原長丁通が東に延びている。仙台城の城下町では「○○通」は「○○に通じる道」という意味であったから、小田原長丁通は「長丁に通じる小田原の道」という意味であり、長丁・東六番丁・小田原長丁通による2つの近接する丁字路は、変則四叉路と見なされていたと考えられる。
地価
[編集]住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、錦町1-1-30の地点で23万7000円/m2となっている。宮城県内で最も地価が高い。[6]
歴史
[編集]長丁(旧町名)
[編集]藩政期には「長丁」(ながちょう)[7]と呼ばれ、西端を同心町通[5]、東端を東六番丁通とする道路名として用いられた。また、町名としては、東六番丁の西側を東六番丁と並走する新小路[8]あるいは新名懸丁[9]より西側の沿道のみで用いられたようである。仙台の城下町では、侍町は「丁」(ちょう)、町人町は「町」(まち)と表記・呼称したため、長丁は侍町として武士が住んだ(参照)。
長丁は仙台上町段丘面にあり、それより一段低い仙台中町段丘面に城下町の中心地(奥州街道筋の国分町・南町と大町筋とが交差する芭蕉の辻など)が広がっている。両段丘面の間には、南西方向に凸の弧状をした標高差のある段丘崖が概ね現在の勾当台地区から宮城野橋(X橋)付近まで続いており、崖下には東三番丁通と元寺小路が、崖上には寺社地が、寺社地の裏手には外記丁と花京院通が、その弧状地形に沿って3つの帯状地帯として連なっていた。長丁から崖下の城下町へ行くには、長丁西端で直交する同心町通を北上して北一番丁通に出て、外記丁や定禅寺などの北側を迂回するか、あるいは、同心町通を南下して大仏前(おぼとけまえ)で崖を下り、大仏前と東三番丁と元寺小路がつくる変則五叉路に出る必要があった[10]。
奥羽越列藩同盟の盟主だった仙台藩は、戊辰戦争の敗北によって大幅な減封処分を受け(参照1・参照2)、1871年(明治4年)の廃藩置県により消滅してしまう。すると勾当台地区では、藩の財政的裏付けがなくなった藩校の養賢堂が仙台県庁(のちに宮城県庁)に転用され(参照)、1873年(明治6年)には旧養賢堂敷地内に宮城師範学校も設置された(その後、外記丁との間で数度移転)。また、藩消滅と廃仏毀釈から廃寺となった定禅寺の跡地も1877年(明治10年)に仙台鎮台病院(→仙台衛戍病院→仙台陸軍病院と改称)になり、1881年(明治14年)には旧養賢堂敷地内に宮城書籍館、1885年(明治18年)には勾当台通を挟んだ旧養賢堂敷地内に仙台区の区役所庁舎(のちの仙台市役所)も設置された。
明治中期になると、旧定禅寺付近の段丘崖が開削され、崖下の定禅寺通東端と崖上の長丁の西端とを結ぶ道路が新設された[11]。これで公的施設が集積する勾当台地区との連絡が良くなった長丁は、かつての侍町から商店街へと変貌した(1894年(明治27年)に遊廓が常盤丁から小田原に移転したため、長丁および北一番丁は、勾当台地区と遊郭とを結ぶ道ともなった。国分町 (仙台市)#歴史参照)。
錦町(旧町名)
[編集]1915年(大正4年)2月1日、広瀬川南岸の旧奥州街道・長町宿を継承した名取郡茂ヶ崎村が町制を施行して長町(ながまち)と称し、1928年(昭和3年)4月1日には仙台市に編入合併された。これにより、市内に「仙台市長丁」と「仙台市長町」という紛らわしい町名が存在することになった。長町には、1894年(明治27年)に日本鉄道(現JR東北本線)に設置された長町駅があり、1914年(大正3年)には秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の長町駅が開業するなど、長丁よりも知名度が高く、郵便物の誤配が発生したり、荷物が誤って長町駅留めにされたまま放置されたりするなど混乱した。
1920年代の仙台市電建設に伴い、定禅寺通および長丁は勾当台通から光禅寺通までの区間で拡幅され、長丁には1927年(昭和2年)に循環線・光禅寺通駅が設置された。1930年代に入ると、長町線が延長されては次々電停が造られるようになり、1936年(昭和11年)には長町駅前に乗り入れとなった。このような中、1935年(昭和10年)に長丁は長町との紛らわしさ解消のため新町名を市民から募集し、一等になった「錦町」(にしきちょう)を町名に採用した[12]。また、光禅寺通駅も錦町駅に改称した。
戦後復興期には仙台市復興局により戦災復興事業が行われ、上杉山通と日吉丁との間に道路が新設された。これにより、錦町の西端はこの新道になった(この新道はのちに愛宕上杉通と名付けられた)。
錦町(街区名)
[編集]1970年(昭和45年)2月1日、道路名を沿道の町名にも用いる方式から、道路に囲まれたブロックごとに町名を付ける街区方式に変更する住居表示が仙台市都心部に施行され[13]、錦町(新町名)は、南を錦町(道路名)[7]、東を新小路[8]、北を北一番丁通[14]、西を愛宕上杉通[15]で囲まれるブロックとされた[16]。また、光禅寺通を境に西側を1丁目、東側を2丁目とされた[16]。これにより、錦町(旧町名)のうち、錦町(道路名)の南側は本町などになり、北側のみが錦町(新町名)になった。また、ブロック内に含まれた新小路、二本杉通、空堀町、光禅寺通、中杉山通、同心町通、外記丁、六軒丁、長刀丁、長刀横丁、北一番丁の全部あるいは一部が錦町という新町名になった。
1982年(昭和57年)、仙台市の道路愛称命名事業により、光禅寺通および駅前通より西側の錦町(道路名)は、より西側にある明治期の新道部分[11]と共にその西側の道路名が適用され定禅寺通と命名された。他方、東側は愛称を与えられず、錦町あるいは長丁という道路名も用いられなくなり、現在は専門家が定禅寺通宮町線という市道の名称で呼ぶだけになった。
世帯数と人口
[編集]2022年(令和4年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
錦町1丁目 | 1,164世帯 | 1,958人 |
錦町2丁目 | 631世帯 | 1,103人 |
計 | 1,795世帯 | 3,061人 |
主な施設
[編集]現在存在している施設
[編集]かつて存在した施設
[編集]- 錦町駅(仙台市電循環線)
- AFRS仙台(1945年(昭和20年)9月23日開局。WLKE、1450kc/s 3kW。NHK仙台中央放送局(現NHK仙台放送局)内にあった。キャンプ・センダイ(仙台城二の丸)に移転後、1953年(昭和28年)10月3日閉局)
- 一般財団法人みやぎ婦人会館[18](1972年開館。2010年3月末閉館して建物は取り壊し、施設名と事業は宮城野区榴ケ岡の旧宮城県立図書館3階に移転)
- 仙台錦町郵便局(2014年3月15日廃止)
- NHK仙台放送局(2018年2月に旧ホテル仙台プラザ跡地に移転)
その他
[編集]※ また、つけ麺屋しずくも隣接しており、仙台を代表する飲食店である。
脚注・参考文献
[編集]- ^ a b c “町名別年齢(各歳)別住民基本台帳人口”. 仙台市. 2022年11月5日閲覧。
- ^ a b “宮城県 仙台市青葉区 錦町の郵便番号”. 日本郵政. 2022年11月5日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ 仙台市市民局戸籍住民課: “住居表示実施地区 町名一覧表(区毎・五十音順)”. 仙台市. 2022年11月5日閲覧。
- ^ a b 仙台市道青葉1139・同心町通線
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ a b 仙台市道青葉1141号・定禅寺通宮町線
- ^ a b 仙台市道青葉1132号・新小路線
- ^ 仙台市道青葉1142号・新名掛丁線
- ^ その他、長丁の中ほどで直交する光禅寺通を南下して茂市ヶ坂で崖を下るか、長丁東端近くの新名懸丁を南下して掃部丁(かもんちょう)で崖を下るかして元寺小路に出る方法もあった。のちに元寺小路に下りる道は他にもいくつかできた。
- ^ a b 定禅寺跡地付近を開削して造られたこの新道の町名は、西側が東三番丁、東側が外記丁となった。
- ^ 仙台の城下町では侍町は「丁」(ちょう)、町人町は「町」(まち)と表記・呼称したが、侍町から商店街化した長丁の錦町への町名変更は、同様に侍町から商店街化した東一番丁が一番町に町名変更するより先んじたことになる。なお、侍町から商店街・オフィス街化しても「丁」から「町」に町名変更せずにいるのは、名掛丁を初めとして多数ある。特殊例として、国分町は表記に変更は無いが、「こくぶんまち」から「こくぶんちょう」に読みが変化した。
- ^ 歴史的町名復活検討委員会報告 資料(仙台市「歴史的町名復活検討委員会」)
- ^ 仙台市道青葉739号・北一番丁2号線
- ^ 仙台市道青葉1153号・愛宕上杉通1号線
- ^ a b 中央(昭45)(仙台市「仙台市の住居表示実施状況」 2.実施地区名一覧《実施年降順》)
- ^ 仙台外記丁団地(独立行政法人 都市再生機構)
- ^ みやぎ婦人会館
- 「忘れかけの街・仙台 ~昭和40年頃、そして今~」(河北新報出版センター ISBN 4-87341-189-0)