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長崎派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長崎派(ながさきは)とは、江戸時代鎖国体制下において、オランダ朝との交渉があった長崎で生まれた、諸画派の総称である。

概要 

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この諸画派は、漢画派(北宗画派)・黄檗派南蘋派南宗画派(文人画派)・洋風画派長崎版画の6つに分けられる[1]

長崎を通じて流入した新様式が、上方江戸の画壇に広まり、新興絵画を生む契機となった。とりわけ南蘋派の影響は大きく、写実性を追求する姿勢が芽生えた[要検証]


歴史 

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長崎には、頻繁に画僧・画人が清朝から渡来した。正保年間(1644-48年)、黄檗僧逸然性融の来日が嚆矢となり、以後沈南蘋伊孚九費漢源などが来日した[要出典]

鎖国後の絵画史は以下の2つの時期に分けられる[2]

  • 第1期:ポルトガル人退去後、初(17世紀中頃から終わり)の戦乱を逃れて、亡命した中国人によってもたらされた中国文化、とりわけ黄檗文化が伝播した時期。
  • 第2期:19世紀初頭の文化文政期に、唐絵目利の画家や町民画家[要検証]と清朝の画風が混ざり合って相互に影響した時期。

200年以上にわたり、海外からの文化を真っ先に受けた長崎の特異な土壌が、長崎派を形成した。しかし開国後は、南宗画文人画)系の祖門鉄翁木下逸雲らが人気を博したものの、長崎派はしだいに衰え、明治に入り、その役割を終えた[要出典]

各画派

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漢画派(北宗画派)

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この画派は長崎漢画もしくは唐絵と呼ばれ、主に画の影響が色濃い。代の絵画様式を模倣した、室町時代水墨画とは別系統の漢画である。 1642年(正保2年)に来日した黄檗僧逸然性融は、長崎漢画の祖と呼ばれ、羅漢達磨布袋像などの道釈人物画を多く描いた。逸然以前にも范道生陳璜陳玄興といった渡来画人が作画している。また陳賢の道釈人物図が、渡来僧によって幾たびか持ち込まれた。逸然の門弟に河村若芝渡辺秀石などが育ち、北宗画風の漢画を善くした。逸然のほかにも絵画をたしなむ黄檗僧は多く、この画派は長崎派の主流とされる[要出典]。河村若芝は一家をなし、門下に上野若元山本若麟・牛島若融らがつらなり幕末まで続いた。

黄檗派

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黄檗宗の渡来僧がもたらした黄檗美術のうちでも、頂相は、濃厚な色彩表現と顔貌の正面性、その陰影法に特徴がある。これは代に江南地方で活躍した肖像画家曽鯨の流れを汲む様式である[3]隠元が日本にもたらした「費隠通容像」は、曽鯨の門弟のひとり張琦の作で、当時の画家に衝撃をもって迎えられた[要説明]。同じく曽鯨門とされる楊道真は隠元に随行してきた画人で、主に隠元像を手がけた。その弟子となった喜多長兵衛[注 1]は隠元・木庵即非頂相を中心に制作した。道矩の子の喜多元規は黄檗派の代表格に挙げられ[要出典]、黄檗僧に限らず、在留唐人や大名など各地に200以上の肖像画を残している。「隠元禅師像」・「独立和尚像」・「鍋島直条像」などがある。黄檗画像の表現法は、のちの鶴亭片山楊谷などが受け継がれ南蘋派などと混交して独特の画法を生んだ[要出典]。またその写実的表現は長崎版画(長崎絵)にも影響を与えた。

南蘋派

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1731年享保16年に来日した、清朝の画家沈南蘋と、その一派による画派。細密な彩色花鳥画に特長がある。円山応挙伊藤若冲など新興の画家の台頭を惹起した[要出典]

南宗画派(文人画派)

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1720年(享保5年)に伊孚九が来舶し、長崎に南宗画を伝えた。池大雅桑山玉洲などの多くの画家が私淑した。続いて1734年(享保19年)に来日した費漢源張秋穀(1786年・天明6年)、江稼圃(1804年・文化元年)と合わせて来舶四大家と呼ばれる[要出典]。このほかにも宋紫岩・徐雨亭・陳逸舟など多くの清人が長崎に南宗画を伝えている。別系統で日本に伝わっていた南画と渾然一体となり、全国に広まっていった。長崎の南宗画派からは幕末に鉄翁祖門木下逸雲などの文人画家を輩出した[要出典]

洋風画派

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オランダ人によって西洋画法が持ち込まれるなどして、他に先駆けて生島三郎左や野沢久右衛門などの、蛮流と呼ばれる初期の洋風画家[注 2]が誕生している。その後、18世紀後半に若杉五十八、ついで荒木如元石崎融思シーボルトのお抱え絵師である川原慶賀などが現れた。

長崎版画

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1645年(正保2年)に刊行された木版画『万国総図』が知られるが[要出典]、初期のものは大半が作者不明である。およそ安永 (元号)天明年間(1772-1789年)頃から作品の数が増加し始め、最盛期は文化文政期(1804-30年)であった[要出典]。大半は唐人屋敷に住んでいた唐人、出島屋敷に住んでいたオランダ人を描いたものである。

長崎に遊学した主な画家

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一次史料

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  • 『崎陽画家略伝』(著者不詳)
  • 渡辺秀実『長崎画人伝』
  • 荒木千洲『続長崎画人伝』
  • 朝岡興禎編『長崎画系』
  • 西川如見『長崎夜話草』1719年(享保4年)
  • 虞千里『長崎先民伝』1731年(享保16年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 喜多宗雲説がある[要出典]
  2. ^ 洋風画とは、一般的に遠近法や陰影法などの表現法を取り入れるばかりでなく、その題材が西洋人や西洋の事物・風景であることも含める[要出典]

出典

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参考文献

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  • 越中哲也『長崎の美術・工芸-長崎文化史序説』蝸牛社、1981年12月。NCID BN03784933 
  • 石田尚豊ほか編『日本美術史事典』平凡社、1987年5月25日。ISBN 978-4582126075全国書誌番号:87041645 
  • 陰里鐵郎「川原慶賀と長崎派」『日本の美術』第329号、至文堂、1993年10月、1-98頁、ISSN 0549401X 
  • 阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』形文社、1995年12月。全国書誌番号:97006152 
  • 錦織亮介『黄檗禅林の絵画』中央公論美術出版、2006年5月。ISBN 978-4805505076NCID BA76614921