長興寺 (豊田市)
長興寺 | |
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所在地 | 愛知県豊田市長興寺1-29 |
位置 | 北緯35度4分25.48秒 東経137度10分5.14秒 / 北緯35.0737444度 東経137.1680944度 |
山号 | 集雲山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 東福寺派 |
寺格 | 別格寺院 |
本尊 | 十一面観音 |
創建年 | 建武2年(1335年) |
開基 |
太陽義冲 (招聘は衣城主 中条秀長) 永禄10年(1567年焼失) |
中興年 | 天正11年(1583年) |
中興 | 余語正勝(衣城代) |
正式名 | 長興禅寺 |
文化財 | 絹本著色仏涅槃図、紙本著色織田信長像、絹本著色無為昭元像(重要文化財) |
法人番号 | 8180305005685 |
長興寺(ちょうこうじ)は、愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院。
概要
[編集]山号は集雲山(しゅううんざん)。本尊は十一面観音。開山は太陽義冲。
歴史
[編集]建武2年(1335年) 三河国衣(ころも)城主[1]中条秀長が菩提寺として太陽義冲を招聘して創建。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院であった。
室町時代中期、応仁の乱(1468年 - 1477年)後、中條氏の衰退と共に衰退。永禄10年(1567年)には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失した。天正11年(1583年) 信長の家臣で衣城代の余語正勝が、再興した長興寺で信長の一周忌法要を行った。その際に、日本の歴史教科書にも掲載されている狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」[2](重要文化財)が寄進された。
元禄年間(1688年 - 1704年) 本堂、庫裏を重建。現本堂は昭和50年代 鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
長興寺村
[編集]長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こりである。
江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。
明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に1906年(明治39年)、城下と合併して挙母町となった。
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]愛知県指定文化財
[編集]豊田市指定文化財
[編集]-
織田信長像(全図)
-
無為昭元像
-
仏涅槃図
民話(昔ばなし)
[編集]長興寺には、鐘泥棒の昔ばなし「長興寺の鐘」のがある。
泥棒に盗まれた鐘が「長興寺恋しやポンワンワン、返しておくれんポンワンワン」と鳴ったと云う民話が語り継がれている。
詳しくは、外部リンクを参照。
交通アクセス
[編集]ギャラリー
[編集]-
観音堂
(2019年(平成31年)4月) -
境内
(2017年(平成29年)1月) -
中条秀長の墓
(2017年(平成29年)1月) -
長興寺の鐘
(2017年(平成29年)1月)
脚注
[編集]- ^ 「衣」を「挙母」と表記するようになるのは、天和元年(1681年)、本多家が藩主となってからである。
- ^ 信長の戒名は「総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀」であるが、これには「天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門」と書かれている。
- ^ “絹本著色仏涅槃図”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ “紙本著色織田信長像〈狩野元秀筆〉”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ “絹本著色無為昭元像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ “絹本著色補陀観音像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ “絹本墨画三十三観音像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ “絹本著色太陽禅師像”. 愛知県. 2013年6月4日閲覧。
- ^ a b c d “指定・登録文化財一覧”. 豊田市. 2013年6月4日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 歴史の香る散歩みち 朝日丘地域 長興寺コース(豊田市:朝日丘まちづくり委員会)
- (民話)「長興寺の鐘」 朗読シアター(中京テレビ)