門脇孝一
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門脇 孝一(かどわき こういち、1879年(明治12年)4月20日[1] - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、弁護士[1][2]。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡手間村大字天萬(現・南部町天萬)出身[1]。門脇休三郎の長男[1][3][4][5]、あるいは三男[6][7]。1900年、家督を相続する[4][5][6][7]。1902年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業[8]、同年判検事試験に合格し、松江地方裁判所検事に任ぜられて在官1年余に及んだ[1]。
1904年、弁護士となり米子市五十人町に法律事務所を設けて弁護事務に従事する[1]。弁護士事務の傍ら各種の事業に関係し[1]、銀行会社の重役である[4][5]。三好英之を助けて山陰日日新聞の経営に当たる[1]。
日本産業貯蓄銀行代表取締役[4][5]、同専務取締役[1][9]、伯陽電鉄代表取締役[6][7]、山陰日々新聞社代表取締役[4]、同副社長[5]、山陽銀行、米子電気軌道、六甲越有馬鉄道各取締役、博愛病院監査役などをつとめる[4]。
人物
[編集]日本産業貯蓄銀行専務の門脇孝一、その妹婿で同行監査役の森啓蔵らにかかる産貯行金横領、背任事件は、1933年(昭和8年)9月同銀行の破産宣告と共に進展、門脇孝一は検事の取り調べを受け勾引状を発せられ、刑務所へ収容された[11]。
住所は鳥取県西伯郡手間村[4][6][7]大字天萬[12]、米子市立町[1][5][9]。
家族・親族
[編集]- 門脇家
- 父・休三郎(1851年 - ?、鳥取平民、農業)[3] - 休三郎に対し、門脇孝一の申立により米子区裁判所は1899年9月19日に禁治産の宣告を行う[3]。
- 妻・きく子(1884年 - ?、鳥取、村上常三の姉)[4][5]
- 庶子[4][5]
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『鳥取県人名鑑 昭和5年版』カ191 - 192頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月2日閲覧。
- ^ 『改正日本弁護士名簿』141頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月22日閲覧。
- ^ a b c 『官報 1899年09月29日』官報 第4875号 407頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第9版』カ85頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第8版』カ93頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月14日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第13版 上』カ98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月16日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 上』カ100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月16日閲覧。
- ^ 『明治大学校友会会員名簿 大正13年7月』208頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月2日閲覧。
- ^ a b c 『日本全国諸会社役員録 第38回』上編364頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年7月14日閲覧。
- ^ 『米子自治史』37頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月5日閲覧。
- ^ 『銀行犯罪史』207 - 208頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月3日閲覧。
- ^ 『官報 1915年05月24日』官報 第841号附録 4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 大蔵省印刷局編『官報 1899年09月29日』日本マイクロ写真、1899年。
- 真船多吉編『改正日本弁護士名簿』日本弁護士協会、1908年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1915年05月24日』日本マイクロ写真、1915年。
- 『明治大学校友会会員名簿 大正13年7月』明治大学校友会本部、1924 - 1925年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 鳥取新報社編『鳥取県人名鑑 昭和5年版』鳥取新報社、1930年。
- 商業興信所編『日本全国諸会社役員録 第38回』商業興信所、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 銀行問題研究会編『銀行犯罪史』銀行問題研究会、1936年。
- 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。