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陳誠 (明朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陳誠は永楽帝の命を受け、陸路で中央アジアのティムール朝を訪問した。(経由地はGoodrich & Tay 1976に基づく、緑色の線) また、鄭和は海上ルート (黒) で、亦失哈は河川ルート (青) で周辺諸国への使節として派遣された。

陳 誠(ちん せい、拼音: Chén Chéng1365年 - 1457年)は、外交官探検家は子魯、号は竹山。本貫吉州吉水県

生涯

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1393年、陳誠は挙人に、翌1394年には貢士となり、後に殿試において同進士出身の称号を得た。

1396年、サリク・ウイグル(撒里畏兀児、現在のツァイダム盆地西部地区)へ国境防衛施設設立のために派遣された。1397年、永楽帝により安南陳朝への使節として派遣された。1406年から1411年まで北京紫禁城文淵閣中国語版において永楽大典の編纂に関わった。

1414年・1416年・1420年に陳誠は明の使節としてティムール朝の都のサマルカンドを訪れ[1]、この際の見聞を西域番国志及び西域行程記中国語版に記した[2]

著作

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関連項目

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脚注

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  1. ^ Tsai 2002, p. 162.
  2. ^ 間野英二「十五世紀初頭のモグーリスターン : ヴァイス汗の時代」『東洋史研究』第23巻第1号、東洋史研究會、1964年6月、1-27頁、doi:10.14989/152662hdl:2433/152662ISSN 0386-9059NAID 400026593622023年2月15日閲覧 
  3. ^ 伴真一郎「明初における対モンゴル政策と河西におけるサキャ・パンディタのチョルテン再建―漢文・チベット文対訳碑刻,宣徳5年(1430) 「重修涼州白塔誌」の歴史的背景」『アジア・アフリカ言語文化研究』第84巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2012年9月、61頁、ISSN 0387-2807CRID 10500013377082932482023年2月15日閲覧 
  4. ^ クラビホ - 大辞林 第三版の解説”. コトバンク. 2013年3月1日閲覧。

参考文献

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