難波正
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人物情報 | |
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生誕 |
1859年5月14日(安政6年4月12日) 備前国岡山城下(現・岡山県岡山市) |
死没 |
1943年10月12日(85歳没) 京都府京都市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 開成学校→旧東京大学物理学科 |
学問 | |
研究分野 | 電気工学 |
研究機関 | 京都帝国大学理工科大学→工科大学 |
学位 | 工学博士 |
学会 | 電気学会 |
難波 正(なんば まさし、1859年5月14日(安政6年4月12日) - 1920年(大正9年)12月22日)は、元電気学会会長の工学博士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。京都の疏水を利用した発電法の考案のほか、蓄電池の研究・開発を行った。
経歴
[編集]- 1859年(安政6年) - 備前国岡山城下(現・岡山県岡山市)生まれ。
- 1873年(明治6年) - 開成学校(後の東京大学)に入学。
- 1875年(明治8年) - 東京大学仏語物理学科に入る。
- 1879年(明治12年)7月 - 東京大学仏語物理学科第2期卒業。仏ソルボンヌ大学留学[1]。
- 1881年(明治14年) - 東京物理学講習所の創立者の一人となる。
- 1885年(明治18年) - 東京物理学校維持同盟員となる。
- 1887年(明治20年)4月 - 第二高等中学校へ教諭兼教頭として赴任。
- 1898年(明治31年)8月 - 新設された京都帝国大学理工科大学の教授に就任、電気工学科を創設。
- 1912年(明治45年)5月 - 京都帝国大学理工科大学の学長(現在の学部長)に就任。
- 1914年(大正3年)7月 - 京都帝国大学の理工科大学が理科大学と工科大学に分離され、京都帝国大学工科大学教授となる。
- 1919年(大正8年)1月 - 第7代電気学会会長となる[2]。
- 1920年(大正9年)12月22日 - 死去[3]。京都大学名誉教授となる[1]。
- 上記のほか、東京大学助教授を勤めた。
家族
[編集]長男の難波幸一は九州帝国大学電気工学科卒、同大学名誉教授、次男の難波勝二は京都帝国大学法学部卒業後、横浜正金銀行を経て東洋大学名誉教授、五男の難波捷吾は国際電気通信技師、次女・春江の夫は住友原子力工業取締役・高州紀雄、三女・環の夫は京福電気鉄道専務・石川敬介(同社会長石川芳次郎長男)[1][1][4][5]。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[6]
- 1910年(明治43年)6月11日 - 従四位[7]
- 1915年(大正4年)7月20日 - 正四位[8]
- 1920年(大正9年)12月21日 - 従三位[9]
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b c d 故難波正先生の略歴と難波先生の御奥様の御他界京都大学工学部電気工学教室内 洛友会会報59号、1969年2月20日
- ^ “歴代会長”. 電気学会. 2019年2月9日閲覧。
- ^ 『官報』第2523号 本文「彙報 - 官庁事項 - 官吏薨去及死去」、1920年12月28日、769頁。
- ^ 京都市名誉市民 石川芳次郎(いしかわ よしじろう)氏京都市、2019年2月20日
- ^ 原子力産業新聞1975年6月12日
- ^ 『官報』第908号「叙任」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
- ^ 『官報』第891号「叙任及辞令」1915年7月21日。
- ^ 『官報』第2518号「叙任及辞令」1920年12月22日。
- ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
外部リンク
[編集]- 難波正(歴代総長・教授・助教授履歴検索システム-対象:1949年以前の在職者-)、京都大学大学文書館。
- 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」『難波正』 - コトバンク
- 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」『難波 正』 - コトバンク
学職 | ||
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先代 久原躬弦 |
京都帝国大学理工科大学長 1912年 - 1914年 |
次代 水野敏之丞 理科大学長 大藤高彦 工科大学長 |
先代 大井才太郎 |
電気学会会長 7代:1917年 - 1919年 |
次代 鳳秀太郎 |