飯沼守
生誕 |
1888年11月25日 日本 愛知県 |
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死没 | 1978年3月21日(89歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1909 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
飯沼 守(いいぬま まもる、1888年(明治21年)11月25日[1][2] - 1978年(昭和53年)3月21日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]尾張藩士・飯沼端の長男として生まれる[1]。名古屋明倫中学(現・愛知県立明和高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業[1][2][3]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第51連隊付となる[1][3]。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第51連隊中隊長となる[1][2]。
1920年(大正9年)8月、陸軍運輸部員となり、第20師団参謀、参謀本部部員を歴任[1]。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級[1]。1927年(昭和2年)3月、歩兵第1連隊大隊長[1]。陸軍歩兵学校教官に転じ、1929年(昭和4年)3月、陸軍歩兵中佐に進級[1]。1930年(昭和5年)8月、第3師団参謀となり、歩兵学校教官、陸大教官を歴任[1]。1933年(昭和8年)8月、陸軍歩兵大佐に進級[1][4]。1934年(昭和9年)8月、近衛歩兵第2連隊長、陸士本科生徒隊長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し陸軍予科士官学校幹事に補される[1][2][4]。
1937年8月、上海派遣軍参謀長となり日中戦争に出征[1][2][4]。第二次上海事変、南京攻略戦に参加[2]。1938年(昭和13年)3月、予科士官学校幹事に転じ、同年11月、陸軍省人事局長に異動[1][2][4]。1939年(昭和14年)10月、陸軍中将に進級して東部防衛司令部付となる[1][2][4]。同年12月、第110師団長に親補され中国に出征[1][2][4]。1942年(昭和17年)8月、予備役に編入された[1][2][4]。
1945年(昭和20年)2月に召集され、第96師団長に親補されて済州島に赴任し終戦を迎えた[1][2][4]。同年10月、召集解除となった[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[6]
- 1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[7]
- 1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[8]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[9]
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[10]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[11]
- 1939年(昭和14年)12月28日 - 従四位
- 1942年(昭和17年)1月15日 - 正四位
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本陸海軍総合事典』第2版、15頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸軍将官辞典』48-49頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』259、263頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』263頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
- ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
- ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
- ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
- ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
- ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。