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馬屋原二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

馬屋原 二郎(うまやばら[1] / うまやはら[2] / まやはら[3] じろう、1847年11月24日(弘化4年10月17日[3][注 1])- 1915年大正4年)11月3日[2][注 2])は、幕末長州藩士明治・大正期の裁判官政治家貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介[4]、小倉右衛門介・衛門太[5]

経歴

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長門国阿武郡萩江向村[4](現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる[3][5]。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関三田尻に屯営し、下関戦争第二次長州征討小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた[1][3][5]

明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ[5][6]。帰国後、1875年5月9日、司法省に入省し七等出仕、以後、判事に任官し、函館始審裁判所長、大審院評定官、神戸始審裁判所長、神戸重罪裁判所長、神戸地方裁判所長、大阪地方裁判所長、大審院判事などを歴任し、1898年11月30日、大審院判事を休職し、1899年2月3日退職した[2][4]

1903年7月15日、貴族院勅選議員に任じられ[7]、在任中の1915年11月、東京市牛込区原町の自宅で療養中に死去した[2][8]

栄典

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位階
勲章

著作

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  • 『元治甲子禁門事変実歴談』防長学友会、1913年。
  • 編『防長十五年史』馬屋原仙一、1915年。
訳書
  • アントワーヌ・ド・サンヂョセフ著『英仏民法異同条弁』司法省、1882年。
  • アントワーヌ・ド・サンヂョセフ著『各国民法異同条弁』司法省、1883年。

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「従四位勲四等馬屋原二郎」には、弘化3年10月17日生の記述もある。
  2. ^ 『日本人名大事典』第6巻、7頁では、11月2日没。

出典

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  1. ^ a b c 『増補 近世防長人名辞典』55頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』101頁。
  3. ^ a b c d 『日本人名大事典』第6巻、7頁。
  4. ^ a b c 「従四位勲四等馬屋原二郎」
  5. ^ a b c d 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、151頁。
  6. ^ 『幕末明治海外渡航者総覧 第1巻 (人物情報編)』161頁。
  7. ^ 『官報』第6011号、明治36年7月16日。
  8. ^ 『大正過去帳』168頁。
  9. ^ 『官報』第204号「賞勲叙任」1884年3月7日。
  10. ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
  11. ^ 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
  12. ^ 『官報』第4196号「叙任及辞令」1897年6月29日。
  13. ^ 福澤大四郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

参考文献

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  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
  • 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典』マツノ書店、1976年。
  • 『日本人名大事典』第6巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和13年刊)の改題複製)。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 手塚晃・国立教育会館編『幕末明治海外渡航者総覧 第1巻 (人物情報編)』柏書房、1992年。
  • 富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。
  • 内閣「従四位勲四等馬屋原二郎」大正4年。国立公文書館 請求番号:勲00481100・本館-2A-018-00