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高宣 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 宣(こう せん、生没年不詳)は、最初期のモンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。遼陽府の出身。

略歴

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1229年己丑)に元帥の地位を授けられ、トルイ率いる軍団に属し第二次金朝侵攻に加わった。高宣はトルイにみだりに人民を殺さないよう進言し、トルイもこれを受け容れて全軍にみだりに人命を取らないよう下令した。城を攻略しても城民を虐殺しないトルイの軍団に対して、民心は心服したという[1]

1232年壬辰)正月にトルイ軍が第二次金朝侵攻における最大の激戦である三峰山の戦いに勝利すると、捕虜とした2千戸余りを打捕鷹坊都総管府に組織し、高宣が都総管としてこれを統べることになり、この地位は代々子孫に受け継がれた[2]。息子には高天錫[3]、孫には高諒[4]、曾孫にはタシュ・ブカがいる[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「高宣、遼陽人。太宗元年、詔宣為元帥、賜金符、統兵従睿宗攻大名、宣進曰『今奉命出師、伐罪弔民、願勿嗜殺、以称上意』。睿宗召元帥朮乃諭之、下令軍中如宣言。及城破、兵不血刃、民心悦服」
  2. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「[太宗]四年正月、従破金兵三峰山、降宣者二千餘戸、籍以献、立打捕鷹坊都総管府統之、以宣為都総管、賜金符、仍令子孫世其職。卒。皇慶二年、贈宣力功臣・銀青栄禄大夫・大司徒、追封営国公、諡簡僖」
  3. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子天錫、事世祖潜邸、為必闍赤、入宿衛、甚見親幸。中統二年、授以其父官、為鷹坊都総管。四年、改燕京諸路奥魯総管、遷按察副使、仍兼鷹坊都総管。天錫語丞相孛羅・左丞張文謙曰『農桑者、衣食之本、不務本、則民衣食不足、教化不可興、古之王政、莫先於此、願留意焉』。丞相以聞、帝悦、命立司農司、以天錫為中都山北道巡行勧農使、兼司農丞。尋遷司農少卿・巡行勧農使、又遷戸部侍郎、進嘉議大夫・兵部尚書、卒。後贈推忠保義功臣・太保・儀同三司・上柱国、追封営国公、諡荘懿」
  4. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子諒、裕宗初封燕王、以諒為符宝郎、俄命襲其父官、為鷹房都総管。裕宗甚愛之、謂符宝郎董文忠曰『汝為我奏請、以諒所管民戸隷於我、庶得諒尽力為我用』。文忠入奏、帝従之。未幾、授諒嘉議大夫、遷兵部尚書。卒。仁宗時、贈推誠保徳賛治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封営国公、諡宣靖」
  5. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子塔失不花、成宗命世其祖父官、以居喪辞。大徳元年、授奉議大夫・章佩監丞。四年、改朝列大夫・利用監丞。八年、陞少監。武宗即位、授中議大夫・秘書監丞。仁宗居東宮、召入宿衛。至大三年冬、遷少中大夫・納綿府達魯花赤、且諭之曰『此先世所守旧職也』。皇慶元年春、改授嘉議大夫・同知崇祥院事。冬、進資徳大夫、為院使。延祐四年夏四月、帝謂塔失不花曰『汝祖嘗為司農、今復以授汝』。遂遷栄禄大夫・大司農。英宗居東宮、塔失不花撰集前代嘉言善行、名曰承華事略、並画豳風図以進。帝覧之、奨諭曰『汝能輔太子以正、朕甚嘉之』。命置図書東宮、俾太子時時観省。六年、改集禧院使。退居于家、卒」

参考文献

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