高天錫
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高 天錫(こう てんし、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。トルイの配下で第二次金朝侵攻に活躍した高宣の息子。
略歴
[編集]高天錫は父の高宣が仕えていたトルイの息子のクビライに若いころから仕え、ケシクテイ(宿衛)に入ってビチクチ(書記官)の地位を授けられた[1]。中統2年(1261年)、父の官位を継承して、鷹坊都総管の地位を授けられた[1]。中統4年(1263年)、燕京諸路奥魯総管を経て按察副使とされ、また鷹坊都総管を兼ねた[1]。このころ、高天錫は丞相のボロトと左丞の張文謙に「農桑は衣食の大本であって、問題があればすなわち民の衣食不足につながります。古の王政では、此に先んずるものがなかったことを、願わくば留意ください」と述べており、この言をボロトを通じて聞いたクビライは喜び、司農司の設立に繋がったとされる[1]。司農司の設立後、高天錫は中都山北道巡行勧農使と司農丞を兼ね、司農少卿・巡行勧農使、戸部侍郎、嘉議大夫・兵部尚書を歴任した末に没した[2]。
子孫
[編集]高天錫の息子の高諒は皇太子チンキムに仕え、チンキムが燕王に封じられた時に符宝郎とされ、その後父の官位を継承して鷹房都総管とされた。チンキムは高諒を非常に気に入っており、董文忠を通じて高諒の管轄する民戸をチンキムに隷属させることで自らの直属とさせようと働きかけ、クビライもこれを許可したという。その後、嘉議大夫を経て兵部尚書の地位に就いたが、間もなく亡くなった[3]。
その息子の高タシュ・ブカは高天錫からの縁により大司農の地位に至っている[4][5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 宮 2018, p. 332.
- ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子天錫、事世祖潜邸、為必闍赤、入宿衛、甚見親幸。中統二年、授以其父官、為鷹坊都総管。四年、改燕京諸路奥魯総管、遷按察副使、仍兼鷹坊都総管。天錫語丞相孛羅・左丞張文謙曰『農桑者、衣食之本、不務本、則民衣食不足、教化不可興、古之王政、莫先於此、願留意焉』。丞相以聞、帝悦、命立司農司、以天錫為中都山北道巡行勧農使、兼司農丞。尋遷司農少卿・巡行勧農使、又遷戸部侍郎、進嘉議大夫・兵部尚書、卒。後贈推忠保義功臣・太保・儀同三司・上柱国、追封営国公、諡荘懿」
- ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子諒、裕宗初封燕王、以諒為符宝郎、俄命襲其父官、為鷹房都総管。裕宗甚愛之、謂符宝郎董文忠曰『汝為我奏請、以諒所管民戸隷於我、庶得諒尽力為我用』。文忠入奏、帝従之。未幾、授諒嘉議大夫、遷兵部尚書。卒。仁宗時、贈推誠保徳賛治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、追封営国公、諡宣靖」
- ^ 宮 2018, p. 424.
- ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子塔失不花、成宗命世其祖父官、以居喪辞。大徳元年、授奉議大夫・章佩監丞。四年、改朝列大夫・利用監丞。八年、陞少監。武宗即位、授中議大夫・秘書監丞。仁宗居東宮、召入宿衛。至大三年冬、遷少中大夫・納綿府達魯花赤、且諭之曰『此先世所守旧職也』。皇慶元年春、改授嘉議大夫・同知崇祥院事。冬、進資徳大夫、為院使。延祐四年夏四月、帝謂塔失不花曰『汝祖嘗為司農、今復以授汝』。遂遷栄禄大夫・大司農。英宗居東宮、塔失不花撰集前代嘉言善行、名曰承華事略、並画豳風図以進。帝覧之、奨諭曰『汝能輔太子以正、朕甚嘉之』。命置図書東宮、俾太子時時観省。六年、改集禧院使。退居于家、卒」