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高タシュ・ブカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 タシュ・ブカ(こう タシュ・ブカ、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。トルイの配下で第二次金朝侵攻に活躍した高宣の曾孫で、司農司設立に寄与した高天錫の孫。

略歴

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高タシュ・ブカはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世の初期に祖父の高天錫の地位を継承したが、この時は喪に服するため職を辞している。大徳元年(1297年)、改めて奉議大夫・章佩監丞の地位を授けられ、大徳4年(1300年)に朝列大夫・利用監丞、大徳8年(1304年)に利用少監と昇任を続けている。

大徳11年(1307年)、クルク・カアン(武宗カイシャン)が即位すると、中議大夫・秘書監丞の地位を授けられた。また、クルク・カアンの即位と同時に弟のアユルバルワダが皇太子に立てられており、高タシュ・ブカは皇太子アユルバルワダのケシクテイ(宿衛)に入ることになった。至大3年(1310年)冬には少中大夫・納綿府ダルガチの地位に移った。至大4年(1311年)、クルク・カアンが急死しアユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると取り立てられ、皇慶元年(1312年)春に嘉議大夫・同知崇祥院事、冬に資徳大夫・崇祥院使とされた。

延祐4年(1317年)4月、ブヤント・カアンは高タシュ・ブカに「汝の祖(高天錫)は嘗て司農であった。今また汝にこの地位を授けよう」と述べ、栄禄大夫・大司農に任じた[1]。なお、同年には前任者の死を受けて名門ジャライル部のバイジュが大司農に任命されており、これと連動した人事であったと考えられている[2]。またこのころ、アユルバルワダの息子で皇太子のシデバラに前代の嘉言善行を纏めて「承華事略」と名付けた書と画豳風図を献上し、これを見たブヤント・カアンから今後シデバラをよく輔弼するよう声を掛けられている。延祐6年(1319年)には集禧院使に改められたが、隠居して家居し、それから間もなく亡くなった[3]

脚注

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  1. ^ 宮 2018, p. 424.
  2. ^ 宮 2018, p. 385.
  3. ^ 『元史』巻153列伝40高宣伝,「子塔失不花、成宗命世其祖父官、以居喪辞。大徳元年、授奉議大夫・章佩監丞。四年、改朝列大夫・利用監丞。八年、陞少監。武宗即位、授中議大夫・秘書監丞。仁宗居東宮、召入宿衛。至大三年冬、遷少中大夫・納綿府達魯花赤、且諭之曰『此先世所守旧職也』。皇慶元年春、改授嘉議大夫・同知崇祥院事。冬、進資徳大夫、為院使。延祐四年夏四月、帝謂塔失不花曰『汝祖嘗為司農、今復以授汝』。遂遷栄禄大夫・大司農。英宗居東宮、塔失不花撰集前代嘉言善行、名曰承華事略、並画豳風図以進。帝覧之、奨諭曰『汝能輔太子以正、朕甚嘉之』。命置図書東宮、俾太子時時観省。六年、改集禧院使。退居于家、卒」

参考文献

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  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻153列伝40高宣伝
  • 新元史』巻144列伝41高宣伝