高山公通
高山 公通(たかやま きみみち、1867年9月5日(慶応3年8月8日[1][2]) - 1940年(昭和15年)8月28日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧名・永井源之進[1]。
経歴
[編集]鹿児島県[1][2][3]伊佐市[要出典]出身。永井藤兵衛の二男として生れ、高山信助の養嗣子となる[1]。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業[2]、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる[1][3]。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した[1][2][3]。1900年(明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征[1][2]。歩兵第48連隊大隊長を経て、奉天会戦直後、歩兵第32連隊長に発令された[1][2][3]。
1905年(明治38年)6月、後備混成第8旅団参謀長に就任し、関東総督府付、第4師団参謀長を歴任[1][3]。1908年(明治41年)12月、歩兵大佐に昇進[1][3]。参謀本部付(奉天特務機関長)、歩兵第2連隊長を経て、1914年(大正3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長に就任した[1][2][3]。
1916年(大正5年)8月、関東都督府参謀長となり、1918年(大正7年)7月、陸軍中将に進み独立守備隊司令官に就任[1][2][3]。1919年(大正8年)7月、第18師団長に親補された[1][2][3]。1922年(大正11年)8月、待命となり、翌年3月、予備役に編入された[1][2][3]。のち、関東國粹会会長を務めた[1]。墓所は多磨霊園(21-1-31-1)
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)2月3日 - 正八位[4]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 従五位[5]
- 1918年(大正7年)8月30日 - 従四位[6]
- 1920年(大正9年)9月10日 - 正四位[7]
- 1923年(大正12年)4月20日 - 従三位[8]
- 勲章等
- 1904年(明治37年)5月27日 - 勲五等瑞宝章[9]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[10]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[11]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、97頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』430頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』87-88頁。
- ^ 『官報』第2576号「叙任及辞令 - 永井源之進」1892年2月4日。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
- ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
- ^ 『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。