高橋白山
高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年) - 明治37年(1904年)3月10日)は幕末の漢学者。明治時代の教育者。諱は利貞。字は子和。通称は敬十郎。信州教育の開拓者と呼ばれる[1]。
生涯
[編集]信濃国伊那郡高遠城下に高遠藩儒の高橋利常(確斎)の長男として生まれる。藩校進徳館で中村元起に学び、16歳で助教、文久3年(1863年)には師範代となり[1]藩主の侍講も兼帯した。好学にして博識、在任の13年間で進徳館の蔵書3万冊をほとんど読みつくしたという[1]。文政年間に江戸に出て藤森天山に入門、鷲津毅堂、大沼枕山らと交流した[2]。
明治維新の際には白山の思想は危険視され、長尾無墨と共に藩を追放される[1]。その後、幕府領の手良村野口(現伊那市)で開塾し、医者も兼ねた[1]。
明治3年(1970年)、小野村(現辰野町)に招かれ実相庵「時習館」初代館長となり、洗馬村(現塩尻市)の塾主も務めた後、明治4年(1871年)千国街道成相新田宿(現安曇野市)に藤森桂谷が開いた「実践社」の塾頭に招かれ、同6年(1873年)矢原村(現安曇野市)の「研成学校」の初代校長となる。一方、筑摩県権令・永山盛輝に認められ、筑摩県師範講習所の講師を兼任した[1]。東京師範学校に派遣された後、『上下小学授業法細記』『小学授業必携』などを著した[1]。また権参事渡辺千秋による県内巡察に同行、各郡に学校を設立し、教育振興に努めた[3]。当時の文部省が各県の学校成績を調べたところ、筑摩県が1位だった。これは権令だけでなく白山の助力もあってのことと言われる[1]。
明治10年(1877年)永山の異動に伴い新潟県に移り、新潟師範学校教授や村上小学校初代校長を務めたが、同12年(1879年)父の病気により伊那谷に帰郷[1]。同14年(1881年)父の死後、西高遠、上伊那郡松島、北佐久郡小諸の小学校長を歴任した後、同19年(1886年)から長野師範学校教授となり、論語と漢文を教えた[1]。同32年(1899年)に退官、東京の息子・高橋作衛のもとに移住した[4]。
平素は謹厳だったが、酒を好み、酔うと些事にこだわらず、時勢を論じて子弟を励ました[5]。その子弟は数千人に及ぶとされる[1]。詩文も好み、その著作もある[5]。62歳の時、長野市城山に頌徳碑が建立された[4]。
明治37年(1904年)69歳で没。辞世の詩として「清風繞高枕、穏臥夢猶閑、名刻信山石、神遊天地間」を残す。大正7年(1918年)従五位を追贈された[6]。長男の高橋作衛は法学博士で国際法の権威[7]となり、のちに貴族院議員となった。
著作
[編集]- 『上下小学授業法細記』
- 『小学授業必携』(1875年)
- 『小学作文熟字鈔』(1876年)
- 『上等小学作文軌範』(1877年)
- 『白山楼詩文鈔』
- 『白山文集』
- 『白山詩集』
- 『清征詩史』
- 「登浅間岳記」「登白崩岳記」「登御岳記」「神代桜記」(『信濃名勝詞林』1901年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『高遠町誌 上巻 [2] (歴史 2)』高遠町誌刊行会、1983年3月、820,821頁。
- ^ 『信濃教育史概説』信濃毎日新聞出版部、1933年、328,329頁。
- ^ 『教育功労者列伝』信濃教育会、1935年、167頁。
- ^ a b 『教育功労者列伝』信濃教育会、1935年、173,174頁。
- ^ a b 『高遠案内 改訂版』矢島書店、1956年、56頁。
- ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.46
- ^ 『高遠町誌 改訂2版』高遠町、1974年1月、214頁。
出典
[編集]- 佐藤寅太郎「信濃人物志」 文正社 1922年
- 村沢武夫「信濃人物誌」信濃人物誌刊行会 1965年
- 「日本人名大辞典」 講談社 2001年
外部リンク
[編集]- 高橋 白山 安曇野ゆかりの先人たち 安曇野市
- 『上下小学授業法細記』国立教育政策研究所 教育図書館 貴重資料デジタルコレクション
- 『征清詩史』,高橋作衛,明30.7. 国立国会図書館デジタルコレクション