高野山大学寮生門柱引き倒し事件
高野山大学寮生門柱引き倒し事件(こうやさんだいがくりょうせいもんちゅうひきたおしじけん)は、高野山大学の歴史においての出来事。
概要
[編集]高野山大学に在籍する大学生が、学寮の付近に建てられていた花街の門柱を実力で抜き取って付近の溝に捨てたという事件[1]。
事件まで
[編集]1926年に高野山大学は旧制大学に昇格を期に、それまでの金剛峰寺付近から現在も高野山大学が建っている場所に移転する。現在の高野山大学が建っている場所というのは移転当時は遊郭や商店が軒を連ねる色町であった。このことから当時の金剛峰寺と高野町は色町を鶯谷に移転させた。移転してからは鶯谷側は入り口となる門柱を建てて、この門柱より先は鶯谷であるということを表していた[2]。
色町が鶯谷に移転したのは1930年で、その2年後の1932年に高野山大学の学寮が高野町役場付近に建設された。この学寮が建った場所というのは鶯谷の門柱をくぐらなければ行けないという場所であったために、学生にとっては屈辱であった。学寮の建設当時から学生側は鶯谷や役場や警察や本山に門柱を排除することを求めてきたが、解決の糸口はつかめなかった[3]。
事件の発生
[編集]1937年6月20日の深夜に学生が門柱を引き倒すことにして、寮監はどうしてもやるのかと問えば、学生はどうしてもやると答えたために、それだけの信念を持っていたことから止めはしなかった。それから50人ほどの寮生が高野山小学校から借用した綱引き用のロープで鶯谷の門柱を引き倒した。それから首謀者の学生は凱歌を歌いながら黎明会と書かれた幟を上げて、奥の院に参拝して寮に帰った[3]。
事件から
[編集]事件の翌日には首謀者の学生は高野警察署に拘留されて、高野山大学の学生は警察署の前で夜通し歌い拘留された学生を励ました。それから警察側は首謀者を釈放して処分を大学側に委ねた。その処分というのは停学5日間と謹慎10日間であった。この処分に対して鶯谷側はいきりたち、門柱は電柱も兼ねていたことから首謀者を告発した。大学側は門柱の再建に反対して、鶯谷側は門柱の再建を最低限の要求として対立する。この膠着した状態を高野町長に就任したばかりであり高野山大学教授であった人物が9月4日に本山と鶯谷の代表を警察署に参集させることに成功して、即日に門柱の撤廃と鶯谷の電灯の増設と学寮の門を鶯谷へと至る分岐点に移設して寮の存在を明確にすることにした。首謀者の告発も取り下げられた[3]。
脚注
[編集]- ^ 今井幹雄『真言宗昭和の事件史』東方出版、1991年12月、13頁。
- ^ “としょかんだより第62号”. 高野山大学図書館. 2024年11月26日閲覧。
- ^ a b c “高野山大学学報vol73”. 高野山大学. 2024年11月26日閲覧。