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高階経仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高階業仲から転送)

高階 経仲(たかしな の つねなか、保元2年(1157年) - 嘉禄2年(1226年)2月)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公家。初名は業仲正三位高階泰経の長男。官位正三位播磨守

経歴

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永万2年(1166年大膳亮に任官。皇太后平滋子皇太后宮権少進六位蔵人右近衛将監を経て、仁安3年(1168年従五位下叙爵する。

その後、石見守常陸介などの国司や、右衛門佐を務め、この間の承安2年(1172年)従五位上、治承3年(1179年正五位下に昇叙された。また、父の高階泰経とともに後白河法皇近臣として近侍する。治承2年(1178年平清盛の外孫・言仁親王春宮に立てられると、経仲は春宮権大進となるが、治承3年(1179年)平清盛による後白河法皇の鳥羽殿幽閉治承三年の政変)に伴って、経仲は泰経とともに解官された。

治承5年(1181年)泰経が復任していることから、このころに経仲も許されたらしく、寿永2年(1183年従四位下元暦元年(1184年)従四位上・右馬頭に叙任されている。文治元年(1185年)には源義経行家謀叛が発生すると、源頼朝から謀叛への関与を疑われて、再び泰経とともに解官の憂き目に遭った。

文治5年(1189年)泰経が復任していることから、このころに経仲も再び許されたらしく、翌文治6年(1190年正四位下播磨守に叙任され、建久2年(1191年内蔵頭を兼ねる。建久3年(1192年)に後白河法皇が没すると、後鳥羽上皇の側近となって院別当を務め、常に院御所に祗候した[1]。建久10年(1199年従三位に叙せられて公卿に列し、建仁4年(1204年正三位に至る。

建保4年(1216年)3月に出家し、嘉禄2年(1226年)2月薨去享年70。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ 『朝日日本歴史人物事典』

参考文献

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