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藤原範季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 範季
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 大治5年(1130年
死没 元久2年5月10日1205年5月30日
官位 従二位式部権少輔
従一位左大臣
主君 後白河法皇後鳥羽天皇
氏族 藤原南家高倉流
父母 父:藤原能兼
母:高階為賢または高階為時の娘
養父:藤原範兼
兄弟 範兼範季
藤原範能の娘
平教子平教盛の娘)
阿御前(藤原範能の娘)
範時重子範茂範資範弘季子藤原範宗室、高階経仲室、隆重室、
吉田資経室、藤原範家
特記
事項
順徳天皇の外祖父
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藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原南家高倉流の祖。式部少輔藤原能兼の子。官位従二位式部権少輔後白河法皇近臣順徳天皇の外祖父。

生涯

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保延5年(1139年)10歳の時に父・能兼が没し、兄・範兼の養子になる。文章得業生から越後大掾を経て、久寿元年(1154年対策に及第し、翌久寿2年(1155年大膳亮に任じられる。保元2年(1157年)には六位蔵人に補せられて後白河天皇に仕え、翌保元3年(1158年従五位下叙爵された。

経緯は明らかでないが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。長寛3年(1165年)4月に範兼が死没すると、残された子の範子兼子範光らを引き取った(範光には実の娘である季子を嫁がせて婿にしている)。

後白河院政期前半は近江守常陸介上野介など受領職を歴任。安元元年(1175年)式部権少輔として京官に復すが、翌安元2年(1176年)1月に陸奥守を兼任すると、3月には藤原秀衡の後任として鎮守府将軍も兼ねて4月に陸奥国へ下向。治承2年(1178年)10月以前に帰洛した。

九条兼実の忠実な家司である一方、兼実が嫌う平家とも繋がりを持ち、平清盛の姪である教子を正妻に迎え、清盛の義弟である能円に姪(義妹)である範子を娶せている。

治承4年(1180年高倉天皇の第四皇子・尊成親王が誕生し、範季が邸に迎えて養育にあたった。また、姪の範子・兼子がその乳母となっている。養和2年(1182年従四位下、翌寿永2年(1183年)正月に従四位上に昇叙。同年7月に安徳天皇が平家一門と共に都を落ちると、後白河法皇によって新たな帝の選定が行われ、8月に範季が養育する4歳の尊成親王が擁立されて即位した(後鳥羽天皇)。範季はその践祚にあたって奔走したという。元暦2年(1185年木工頭皇太后宮亮に任じられる。

後白河法皇の指示か奥州藤原氏との縁によるものか不明だが、源義経を庇護し、文治2年(1186年興福寺に潜伏中の義経と接触し匿まっている。ただし、子の範資は義経の追討に積極的で、義経が九州に向けて都落ちする際、在京していた範頼の手勢を率いて出陣している(河尻の戦い)。同年11月に義経を匿った事が露見し、源頼朝の要請によって範季は解官された。

建久6年(1195年)範子の娘・源在子が後鳥羽天皇の第一皇子・為仁親王を産む。建久7年(1196年正四位下。娘の重子は建久6~7年頃に女房として内裏に出仕し後鳥羽天皇の寵愛を受けて、建久8年(1197年)9月第二皇子・守成親王を産んだ。同年12月には後鳥羽天皇侍読を勤めた労により従三位に叙せられ公卿に列した。建久9年(1198年)後鳥羽天皇が譲位し、3歳の為仁親王が即位(土御門天皇)した。娘・重子の産んだ守成親王は後鳥羽上皇の寵愛厚く、正治2年(1199年)4月に皇太弟に立てられた。

建仁元年(1201年)に発生した建仁の乱では首謀者の一人・藤原高衡が一時邸内に逃げ込む。高衡は範季と親交のあった藤原秀衡の四男で奥州藤原氏の滅亡後は秀衡の6人の息子の中で唯一生き残って降伏し、一時流刑にされていたが、梶原景時の取り成しで鎌倉幕府食客(客将)となっていた人物であった。結局、同じ乱の首謀者である城長茂の郎党が唐橋(信濃)小路にある範季邸に押しかけて高衡は連れ出され、最期は幕府の追っ手によって討ち取られている。高衡が討たれた事を聞いた範季は嘆息したという。

建仁2年(1202年正三位に昇叙され、建仁3年(1203年従二位に至る。元久2年(1205年)5月10日薨去享年76。

没後の承元4年(1210年)に外孫である守成親王が即位(順徳天皇)したため、従一位左大臣を贈られた。範季は死後の贈官を考えて、最期まで出家しなかったという。

人物像に関する評価

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有能な行政官・政治家でありながら、平清盛に滅ぼされた源義朝の遺児である範頼を育て、九条兼実の家司でありながら兼実とそりの合わない後白河院の院司を兼ね、源義経が頼朝に追われた際には義経を支持し、奥州藤原氏の滅亡後に藤原泰衡の弟・高衡を匿う等、当時の権力者の意向に背く危険な選択を選び続けたため、アナーキー性の持ち主だと評価されることもある[1]

官歴

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諸家伝』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6
  2. ^ 公卿補任
  3. ^ 尊卑分脈

出典

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年