高階経時
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(高階経雅から転送)
高階 経時(たかしな の つねとき、治承4年(1180年)[1]または寿永元年(1182年)[2] - 没年不詳)は、鎌倉時代の公家。名はのち経雅(つねまさ)。正三位・高階経仲の子。官位は従二位・修理大夫。
経歴
[編集]後白河院政期末の文治6年(1190年)従五位下・和泉守に叙任される。建久5年(1194年)但馬守に遷り、正治2年(1200年)従五位上に叙せられ、正治3年(1201年)右衛門佐として京官に復した。元久元年(1204年)右衛門佐を辞す代わりに正五位下に昇叙されるが、翌元久2年(1205年)今度は左衛門佐に任ぜられている。
承元5年(1211年)従四位下に叙せられると、建暦2年(1212年)院分によって美濃守に任ぜられ、建保2年(1214年)内蔵頭を兼ね、建保3年(1215年)正四位下に昇叙される。建保7年(1219年)従三位に叙せられて公卿に列した。
承久3年(1221年)に発生した承久の乱での動静は明らかでない。公卿昇進後はしばらく散位であったが、寛喜3年(1231年)正三位に叙せられ、文暦2年(1235年)修理大夫に任ぜられ、これを建長5年(1253年)まで務めた。この間の嘉禎4年(1238年)従二位に至り、仁治3年(1242年)北条経時が鎌倉幕府の第四代執権に就任すると、同名を避けて経時から経雅に改名している。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 文治6年(1190年) 正月24日:従五位下、和泉守
- 建久5年(1194年) 正月20日:但馬守
- 正治2年(1200年) 正月5日:従五位上(殷富門院当年御給)
- 正治3年(1201年) 正月29日:右衛門佐
- 元久元年(1204年) 11月1日:正五位下(止佐叙之)
- 元久2年(1205年) 正月29日:左衛門佐
- 承元5年(1211年) 正月18日:従四位下(殷富門院御即位御給)
- 建暦2年(1212年) 12月10日:美濃守(院分)
- 建保2年(1214年) 6月13日:兼内蔵頭
- 建保3年(1215年) 4月11日:正四位下
- 建保6年(1218年) 正月:去守
- 建保7年(1219年) 正月22日:従三位、元内蔵頭
- 承久3年(1221年) 8月2日:服解(母)。閏10月:免
- 嘉禄2年(1226年) 2月:服解(父)
- 寛喜3年(1231年) 2月5日:正三位
- 文暦2年(1235年) 8月30日:修理大夫
- 嘉禎4年(1238年) 7月20日:従二位
- 仁治3年(1242年) 10月12日:経時から経雅に改名(関東左近大夫将監同名故也)
- 建長5年(1253年) 12月5日:止修理大夫
- 建長6年(1254年) 2月:出家
系譜
[編集]注記のないものは『尊卑分脈』による。