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鯉登行一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鯉登 行一
生誕 1891年3月27日
日本の旗 日本 愛媛県
死没 (1972-11-16) 1972年11月16日(81歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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鯉登 行一(こいと ぎょういち、1891年〈明治24年〉3月27日[1][2] - 1972年〈昭和47年〉11月16日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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本籍群馬県[1][2][3]。鯉登行文・陸軍中佐の息子として松山市に生まれる[1]豊津中学校熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業[1][2][4]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第2連隊付となる[1][4]。陸士生徒隊付などを経て1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第2連隊中隊長に就任[1][2][3]

1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員に異動し、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進[1]1929年(昭和4年)12月、第16師団参謀に就任し、第2師団参謀、歩兵第11連隊付を歴任し、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進級[1]。同年12月、歩兵第22連隊付(松山高校配属将校)、留守第14師団参謀、第14師団参謀などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第77連隊長に就任した[1][3]

1938年(昭和13年)3月、陸軍兵器本廠付となり、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級した[1]。翌月、熊本陸軍幼年学校長に就任[1][2][3]1940年(昭和15年)11月、第35歩兵団長として日中戦争に出征した[1][2][3]1941年(昭和16年)11月、陸軍中将に進み第7師団長に親補され終戦まで北海道に駐屯した[1][2][3]太平洋戦争中、第7師団は一部の部隊をガタルカナル島アッツ島ニューギニア島などに派兵されたが、本隊は無傷のまま本土に残った[5]。この間、師団司令部を旭川から帯広に移転、本土決戦に備えた[5]。唯一の現役師団の指揮を執り、終戦を迎えた[5]1945年(昭和20年)12月、予備役に編入された[1]

戦後は公職追放を経て[6]、建設会社の倉庫番となり、戦死した部下の霊を弔う日々であった[5]。生活そのものは清貧であったという[5]

栄典

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親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』295頁では11月17日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、67頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』295-296頁。
  3. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』314頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』308、314頁。
  5. ^ a b c d e 『北海道大百科事典 上』607頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、53頁。NDLJP:1276156 
  7. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  8. ^ 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年、981頁。 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 北海道新聞社編『北海道大百科事典 上』北海道新聞社、1981年。
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。