1965-1966シーズンのNBA
1965-1966シーズンのNBA | ||
---|---|---|
ボストン・セルティックス | ||
期間 | 1965年10月16日-1966年4月25日 | |
TV 放送 | ABC | |
観客動員数 | 2,022,436人 | |
ドラフト | ||
レギュラーシーズン | ||
トップシード | フィラデルフィア・76ers | |
MVP | ウィルト・チェンバレン | |
スタッツリーダー | ||
得点 | ウィルト・チェンバレン | |
プレーオフ | ||
イースタン 優勝 | ボストン・セルティックス | |
フィラデルフィア・76ers | ||
ファイナル | ||
チャンピオン | ボストン・セルティックス | |
<1964-65 |
1965-1966シーズンのNBAは、NBAの20回目のシーズンである。シーズンは1965年10月16日に始まり、1966年4月25日に全日程が終了した。
ドラフト
[編集]ドラフトではフレッド・ヘッツェルが、デトロイト・ピストンズから全体1位指名を受けた。この年のドラフトは豊作の年で、リック・バリー、ビリー・カニンガム、ゲイル・グッドリッチ、ビル・ブラッドリーと後に殿堂入りを果たす4名の選手が指名を受けている。またジェリー・スローン、ディック・バン・アースデール、トム・バン・アースデール、フリン・ロビンソンらが指名を受けている。
シーズン
[編集]オールスター
[編集]- 開催日:2月11日
- 開催地:シンシナティ
- オールスターゲーム イースト 137-94 ウエスト
- MVP:エイドリアン・スミス (シンシナティ・ロイヤルズ)
イースタン・デビジョン
[編集]チーム | 勝 | 負 | 勝率 | ゲーム差 |
---|---|---|---|---|
フィラデルフィア・76ers | 55 | 25 | .688 | - |
ボストン・セルティックス | 54 | 26 | .675 | 1 |
シンシナティ・ロイヤルズ | 45 | 35 | .563 | 10 |
ニューヨーク・ニックス | 30 | 50 | .375 | 25 |
ウエスタン・デビジョン
[編集]チーム | 勝 | 負 | 勝率 | ゲーム差 |
---|---|---|---|---|
ロサンゼルス・レイカーズ | 45 | 35 | .563 | - |
ボルチモア・ブレッツ | 38 | 42 | .475 | 7 |
セントルイス・ホークス | 36 | 44 | .450 | 9 |
サンフランシスコ・ウォリアーズ | 35 | 45 | .438 | 10 |
デトロイト・ピストンズ | 22 | 58 | .275 | 23 |
スタッツリーダー
[編集]部門 | 選手 | チーム | 記録 |
---|---|---|---|
得点 | ウィルト・チェンバレン | フィラデルフィア・76ers | 2,649 |
リバウンド | ウィルト・チェンバレン | フィラデルフィア・76ers | 1,943 |
アシスト | オスカー・ロバートソン | シンシナティ・ロイヤルズ | 847 |
FG% | ウィルト・チェンバレン | フィラデルフィア・76ers | .540 |
FT% | ラリー・ジークフリード | ボストン・セルティックス | .881 |
※1969-70シーズン以前はアベレージよりも通算でスタッツリーダーが決められていた。
各賞
[編集]- 最優秀選手: ウィルト・チェンバレン, フィラデルフィア・76ers
- ルーキー・オブ・ザ・イヤー: リック・バリー, サンフランシスコ・ウォリアーズ
- 最優秀コーチ賞: ドルフ・シェイズ, フィラデルフィア・76ers
- All-NBA First Team:
- All-NBA Second Team:
- All-NBA Rookie Team:
王座陥落?
[編集]ボストン・セルティックスがフィラデルフィア・76ersにデビジョン首位の座を明け渡した。イースタン・デビジョン首位の座がセルティックス以外のチームに渡ったのは実に10年ぶりのことである。76ersは加入して2年目のウィルト・チェンバレンを始め、チェット・ウォーカー、ハル・グリアにルーキーのビリー・カニンガムと戦力が整い、レギュラーシーズンのセルティックスとの直接対決でも6勝4敗と勝ち越すなどいよいよその地位を脅かした。チェンバレンはルーキーイヤー以来のMVPを獲得した。
デビジョン準決勝 | デビジョン決勝 | ファイナル | |||||||||||
1 | レイカーズ | 4 | |||||||||||
Western Division | |||||||||||||
3 | ホークス | 3 | |||||||||||
3 | ホークス | 3 | |||||||||||
2 | ブレッツ | 0 | |||||||||||
W1 | レイカーズ | 3 | |||||||||||
E2 | セルティックス | 4 | |||||||||||
1 | 76ers | 1 | |||||||||||
Eastern Division | |||||||||||||
2 | セルティックス | 4 | |||||||||||
3 | ロイヤルズ | 2 | |||||||||||
2 | セルティックス | 3 |
八連覇達成
[編集]10年ぶりにデビジョン首位の座を明け渡したボストン・セルティックスは、10年ぶりにプレーオフ1回戦(デビジョン準決勝)からの参戦となった。初戦の相手はシンシナティ・ロイヤルズだった。セルティックスはオスカー・ロバートソンとジェリー・ルーカス擁するロイヤルズに苦戦を強いられ、1勝2敗と先にシリーズ王手を掛けられた。しかしチームの立て直しに成功したセルティックスは、2連勝を飾ってデビジョン決勝へ進んだ。
デビジョン決勝でセルティックスを待っていたのは、打倒セルティックスに燃えるウィルト・チェンバレンとフィラデルフィア・76ersだった。デビジョン準決勝の激戦で疲労困憊の上、レギュラーシーズン中の直接対決では負け越している相手だけに、セルティックスの連覇記録もいよいよ途切れるかに思われたが、蓋を開けてみればセルティックスが4勝1敗であっさりと勝利した。どうしてもセルティックスに勝てないチェンバレンは弱点のフリースローを徹底的に突かれ、このシリーズでも68本のフリースローを打たされ、28本しか決められなかった。
ウエスタンからはライバル、ロサンゼルス・レイカーズが勝ちあがってきた。レイカーズはエースのエルジン・ベイラーが選手生命を脅かすほどの故障を抱えており、このシーズンはそれまでのキャリア平均を大幅に下回る16.6得点9.6リバウンドの成績だったが、プレーオフに入って徐々に調子を上げていき、デビジョン決勝で宿敵セントルイス・ホークスを破って2年連続でファイナルに進出した。
ファイナル第1戦はベイラーが36得点、ジェリー・ウェストが41得点を記録し、オーバータイムの末にレイカーズがものにした。その後セルティックスが3連勝、レイカーズが2連勝し、シリーズは第7戦までもつれた。最後はリーグ最小失点を誇るセルティックスのディフェンス力が、リーグ最多得点を誇ったレイカーズのオフェンス力を封じ込め、95-93のロースコアゲームでセルティックスが勝利し、8年連続の優勝を決めた。八連覇という金字塔はNBAに留まらず、アメリカのプロスポーツ史の中でも最長記録である。
後期セルティックス王朝へ
[編集]不滅の記録を打ち立てたセルティックスは、節目の時を迎えていた。セルティックスの優勝を全て知る選手はビル・ラッセルだけとなり、さらにこのシーズンを最後にレッド・アワーバックがヘッドコーチから退いたのである。前年にセルティックスのオーナーでチーム運営を担当していたウォルター・ブラウンが亡くなり、彼の仕事を引き継いだアワーバックは多忙を極め、とてもヘッドコーチとの兼任は続けられなかった。アワーバックのコーチ辞任により、セルティックスの連覇記録は途切れることとなるが、絶対的な指導者が退いたことで王朝が瓦解したかと言えば、そうではなかった。アワーバックはプレーオフ期間中に後継者としてビル・ラッセルを指名し、シーズン終了後にはNBA初の黒人ヘッドコーチが誕生した。さらにこのシーズンのプレーオフで大活躍したジョン・ハブリチェックがセルティックスの新たな主役として台頭し、サム・ジョーンズと共に新たなウィングコンビを形成した。そしてアワーバック自身は人事部門責任者として辣腕を振るい、ベイリー・ハウエルの獲得など的確な補強を行っていく。セルティックスは衰えることを知らず、新たな顔ぶれのもとで次の時代を迎えることとなる。
ラストシーズン
[編集]- ジャック・トゥィマン (1955-66) 引退後は解説者に転向。
- トム・ゴーラ (1955-66)
- ウィリー・ナオルス (1956-66) キャリア晩年をボストン・セルティックスで過ごし、3度の優勝を経験。
- クリフ・ヘイガン (1956-66) ABAのダラス・チャパラルズに移籍するため、NBAではこのシーズンが最後のシーズンとなった。ABAでは1970年までプレイした。