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1974年のル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1974年のル・マン24時間レース
前年: 1973 翌年: 1975
1974年のコース

1974年のル・マン24時間レース24 Heures du Mans 1974 )は、42回目[1]ル・マン24時間レースであり、1974年6月15日から6月16日にかけてフランスのサルト・サーキットで行われた。

概要

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フェラーリアルファロメオも欠場し、優勝を狙える有力チームはマトラだけであった[2]

前年日本車として初めて参加したシグマ・オートモーティブ(現サード)はマツダオート東京とジョイントしての出場となった[3][4]。チーム運営は加藤眞に依頼されて大橋孝至が担当した[3]。シグマのエースでトヨタ自動車の契約ドライバーだった高橋晴邦[注釈 1]、マツダの寺田陽次郎、岡本安弘と日本人ドライバーで固めた[4]。新型車シグマ・MC74を持ち込み[4]、前年と同様のマツダ・12A型エンジン[3]を搭載し、マツダオート東京がエンジンチューンとメンテナンスを担当した[4]。前年の経験を生かしてボディを小型化し空気抵抗を低減するなど戦闘力が上がるはずだったが、耐久性を持たせるためシグマ・MC73との比較で100kg[3]も重くなってしまっていた[4]。少ない人数での参加だったので作業性に留意し、何があっても修理時間が短く済むような設計とし、ドライバーに「何が何でもピットに戻って来い」と厳命し、車載工具を搭載した[3]

予選

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シグマ・MC74の25号車は4分20秒4で27位[4]と、前年の14位からかなり順位が落ちた。

決勝

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出走したのは49台[1][5]

シグマ・MC74の25号車はインダクションボックスの金網が破れて小石が侵入し、エンジンの内部に入り込んでロータリーが破損する致命的なトラブルに見舞われた[1]。エンジン自体の積み替えは許されない[3]ためピットでローターハウジングやサイドハウジングを残してエンジン内部をそっくり交換[1]、これに3時間半以上かかりサーキットのオフィシャルはリタイア届を出すよう迫った[3][1]が、再びコースに復帰できた[3][1]

結果

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完走したのは20台[1][4][5]

ライバル不在[2]アンリ・ペスカロロ/ジェラール・ラルース[5]マトラシムカ・MS670B[1]の7号車が24時間で4,606.571km[1][5]を平均速度191.940km/h[1]走って優勝[2][1]した。マトラシムカ1972年からの3連勝であったが、この後スポーツカーの生産に力を入れることにしてレース活動を中止した[2]

シグマ・MC74は最後まで走って最下位[注釈 2]でゴールを迎えたが、周回数が155周[3]と少なく、完走扱いにはならなかった[3][4][注釈 3]

注釈

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  1. ^ オイルショックトヨタ自動車がレースから完全に手を引き、他メーカーのエンジンを積んだマシンに乗れることになった。
  2. ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.162に27位とある。en:1974 24 Hours of Le Mansは完走20台なので、最後まで走った車両しか数えないなら21位ということになる。Did Not Finishが27台あり周回数の記述ないため、周回数の多い順で何位相当になるのかは不明。
  3. ^ 完走扱いに必要だったのは総合優勝車が走行した337周の70%である235周。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.223「資料1」。
  2. ^ a b c d 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.27-154「ルマン24時間レースの歴史」。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.5-28。
  4. ^ a b c d e f g h 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』pp.155-220「ルマン24時間レース挑戦 日本チーム」。
  5. ^ a b c d 『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』pp.298-303。

参考文献

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  • 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版 ISBN 4-87687-161-2
  • 黒井尚志『ル・マン 偉大なる草レースの挑戦者たち』集英社 ISBN 4-08-780158-6