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KAL-2

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

KAL-2

所沢航空発祥記念館にて撮影

所沢航空発祥記念館にて撮影

KAL-2(カル・ツー、ケイエイエル・ツー)は、日本の航空機メーカー、川崎航空機(現在の川崎重工業)が製作したレシプロエンジン連絡機。K・Aは川崎航空機、Lは連絡機の略。

概要

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1954年昭和29年)に保安庁防衛庁に改編されることとなったが、練習機導入をめぐって対立した川崎航空機と富士重工業に対して多座席連絡機の製作を依頼した。川崎はKAL-1KAT-1の経験を踏まえ、設計を一から見直した5座席の機体「KAL-2」を2機製作、1号機は11月に初飛行[1]12月に2号機も初飛行し、同月に発表した後、1号機を海上自衛隊、2号機を航空自衛隊にそれぞれ納入して返答を待った。一方、富士は自社でライセンス生産していたT-34Aの座席数を増やしたLM-1を開発し、同じく納入した。

1955年(昭和30年)になって審査が本格的に行われた結果、同庁は9月、練習機として採用したT-34Aと部品が共通していることを理由に富士のLM-1を採用、川崎は再び敗北した。二度にわたって敗北した川崎は、アメリカ合衆国の技術力を学ぶために以降は富士や三菱重工業と同じく、積極的にライセンス生産の道を歩む。独自の練習機開発はT-4練習機でようやく実現した。

海上自衛隊の1号機は解体されてしまったが、2号機は1964年(昭和39年)に陸上自衛隊へ移管、後に埼玉県所沢市所沢航空発祥記念館所沢航空記念公園内)が譲り受けた[1]

海上自衛隊のKAL-2

機体

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KAT-1をベースに設計を見直しており、全金属製で近代的な前輪式・引込脚を採用した。主翼はKAT-1と同様のものを使用した上で、機体強度を向上し、ある程度までの高等飛行を可能とした。また、キャビンは操縦席周囲を気泡型のキャノピーとし、視界を向上させ、また、乗員2人に乗客3人の5人乗りとした。

スペック

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国産エンジン

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カワサキワールドに展示されている試作エンジン

川崎は1953年(昭和28年)から国産レシプロエンジンKAE-240の開発を進めていた[2]。設計開発は永田大典、牧角稠が担当[3]。当時ライセンス生産を始めたベル47Gのライカミング社エンジンを参考にし、性能試験や150時間運転も成功させて、1955年(昭和30年)に戦後の国産第1号エンジンとして運輸省の形式証明を取得した。

川崎はベル47Dの他、KAL-2に国産エンジンを搭載し、純国産ブランドを回復しようとしていたが、エンジン開発が遅れたために試作機はライカミングのエンジンを搭載した。そこで、制式採用されたときには、量産機にKAE-240を搭載しようと計画したが、結局不採用に終わったため、エンジン開発も中断された。KAE-240は空冷式水平向対向6気筒[3]、出力は240馬力であった[2]

耐久試験用の試作機が岐阜県各務原市岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で、KAT-1練習機とともに展示されている。

仕様

  • 全長 - 1,450 mm
  • エンジン形式 - 空冷水平対向6気筒
  • 排気量 - 7.4 L[4]
  • 出力 - 240 hp
  • 燃料消費率 - 8 g/HP-h[4]
  • 重量 - 235 kg

脚注

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  1. ^ a b 平成30年8月「川崎 KAL-1 連絡機」”. www.city.kakamigahara.lg.jp. 各務原市. 2020年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月26日閲覧。
  2. ^ a b 日本の航空宇宙工業50年の歩み』社団法人日本航空宇宙工業会、2003年5月、64頁https://www.sjac.or.jp/common/pdf/toukei/50nennoayumi/4_4_nihonnokoukuki5-6.pdf 
  3. ^ a b 大槻幸雄『純国産ガスタービンの開発―川崎重工が挑んだ産業用ガスタービン事業の軌跡』三樹書房、2015年9月1日、35頁。ISBN 4895226476 
  4. ^ a b 坂上, 茂樹「軽飛行機用 4 サイクル空冷倒立発動機技術史点描 - 潤滑油消費率に注目しつつ -」『大阪市立大学大学院経済学研究科 Discussion Paper』第107巻、2017年9月4日、34頁。 

関連項目

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外部リンク

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