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利用者:Askr

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下書き

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バーガヴァタ・プラーナ10巻10章

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ナタ太子ファンのためのバーガヴァタ・プラーナ(en:Bhagavata_Purana)。 IAST表記の底本は、ゲッティンゲン大学[2]

śrī-rājovāca
kathyatāṃ bhagavann etat
tayoḥ śāpasya kāraṇam
yat tad vigarhitaṃ karma
yena vā devarṣes tamaḥ

大王(śrī-rāja)は言った。
バーガヴァン[1]よ、どうか教えてください、
二人が呪われた理由を。
禁忌のカルマ(karma)のせいなのか、
あるいは、デーヴァリシ(devarṣi)[2]の不徳(tamaḥ)か。

śrī-śuka uvāca
rudrasyānucarau bhūtvā
sudṛptau dhanadātmajau
kailāsopavane ramye
mandākinyāṃ madotkaṭau

大シュカ(śrī-śuka)は言った。
二人はルドラ(rudra)の眷属[3]として生まれ、
二人は財宝神(dhanada)[4]の息子として驕り、
魅惑のカイラス(kailās)の庭の、
曼陀枳尼(mandākinī)[5]のほとりで、酔って[6]慢心していた。

vāruṇīṃ madirāṃ pītvā
madāghūrṇita-locanau
strī-janair anugāyadbhiś
ceratuḥ puṣpite vane

ヴァールニー[7]とマディラー [8] を飲み、
酔って目を回した。
女達と歌を歌い、
花咲く森をさまよい歩いた。

antaḥ praviśya gaṅgāyām
ambhoja-vana-rājini
cikrīḍatur yuvatibhir
gajāv iva kareṇubhiḥ

ガンガー(gaṅgā)の中に入った。
そこには、水蓮(ambhoja)の森が一面に浮かんでいた。
二人は若い女達と遊んだ。
まるで、雄象と雌象のように。[9]

yadṛcchayā ca devarṣir
bhagavāṃs tatra kaurava
apaśyan nārado devau
kṣībāṇau samabudhyata

やがて、偶然にもデーヴァリシ(devarṣi)[2]である、
カウラヴァバーガヴァンがそこに来た。
ナーラダ(nāradh)は二人の神(devau)[10]を見て、
虚ろな目つきから、事態を悟った。

taṃ dṛṣṭvā vrīḍitā devyo
vivastrāḥ śāpa-śaṅkitāḥ
vāsāṃsi paryadhuḥ śīghraṃ
vivastrau naiva guhyakau

彼が見ていると、女神たちは、
裸を恥じらい、呪い(śāpa)を恐れて、
すぐに上着を体にかけた。
しかし、グヒヤカ族の二人(guhyakau) [11] はそうせず、裸だった。

tau dṛṣṭvā madirā-mattau
śrī-madāndhau surātmajau
tayor anugrahārthāya śāpaṃ
dāsyann idaṃ jagau

彼らのマディラーに酔っている様を見るに、
神(sura)の二人の息子は、大いなる酔いに目が眩んでいる[12]
慈悲の心から、彼らに呪い(śāpa)を
与えて、こう言った。

śrī-nārada uvāca
na hy anyo juṣato joṣyān
buddhi-bhraṃśo rajo-guṇaḥ
śrī-madād ābhijātyādir
yatra strī dyūtam āsavaḥ

大ナーラダは言った。
この世の楽しみは、物質的に満たされることではなく、
智(buddhi)を育み、欲を抑えることにある。
ābhi[13]生得(jātya)のものが原因で、大いなる酔い、
すなわち、女、賭け事、酒(āsavaḥ)などにつながる。

hanyante paśavo yatra
nirdayair ajitātmabhiḥ
manyamānair imaṃ deham
ajarāmṛtyu naśvaram

動物がすぐに死ぬ原因は、
慈悲がなく、自制心を欠くからである。
これを考えると、肉体の
不老(ajara)不死(amṛta)も儚い。[14]

deva-saṃjñitam apy ante
kṛmi-viḍ-bhasma-saṃjñitam
bhūta-dhruk tat-kṛte svārthaṃ
kiṃ veda nirayo yataḥ

神(deva)として知られた者も、結局は、
蛆と灰として知られるようになる。
あのように、世に逆らい、利己的な所業を積み重ねると、
奈落(nirayah)を知る所以となる。

dehaḥ kim anna-dātuḥ svaṃ
niṣektur mātur eva ca
mātuḥ pitur vā balinaḥ kretur
agneḥ śuno 'pi vā

体とは、己に糧を与える者のもの。
父のもの(niṣektur)、母のもの、さらには、[15]
母の父のもの、あるいは、強者のもの、主人のもの、
ひいてはアグニのもの(agneḥ)、犬のもの[16]

evaṃ sādhāraṇaṃ deham
avyakta-prabhavāpyayam
ko vidvān ātmasāt kṛtvā
hanti jantūn ṛte 'sataḥ

このように、肉体の持ち主は、
見えないところで、生成消滅するものである。
自分のものと認識する者の行いは、
理由の無い殺生である。

asataḥ śrī-madāndhasya
dāridryaṃ param añjanam
ātmaupamyena bhūtāni
daridraḥ param īkṣate

物質的な大いなる酔いの目の眩みには、
貧困が最上の軟膏である。
全てを自分と比べる
貧しい者は、最も見える。

yathā kaṇṭaka-viddhāṅgo
jantor necchati tāṃ vyathām
jīva-sāmyaṃ gato liṅgair
na tathāviddha-kaṇṭakaḥ

茨に貫かれている者は、
生き物にその痛みを望まない。


BhP_10.10.015/1 daridro nirahaṃ-stambho muktaḥ sarva-madair iha
BhP_10.10.015/3 kṛcchraṃ yadṛcchayāpnoti tad dhi tasya paraṃ tapaḥ

BhP_10.10.016/1 nityaṃ kṣut-kṣāma-dehasya daridrasyānna-kāṅkṣiṇaḥ
BhP_10.10.016/3 indriyāṇy anuśuṣyanti hiṃsāpi vinivartate

BhP_10.10.017/1 daridrasyaiva yujyante sādhavaḥ sama-darśinaḥ
BhP_10.10.017/3 sadbhiḥ kṣiṇoti taṃ tarṣaṃ tata ārād viśuddhyati

BhP_10.10.018/1 sādhūnāṃ sama-cittānāṃ mukunda-caraṇaiṣiṇām
BhP_10.10.018/3 upekṣyaiḥ kiṃ dhana-stambhair asadbhir asad-āśrayaiḥ

BhP_10.10.019/1 tad ahaṃ mattayor mādhvyā vāruṇyā śrī-madāndhayoḥ
BhP_10.10.019/3 tamo-madaṃ hariṣyāmi straiṇayor ajitātmanoḥ

yad imau loka-pālasya
putrau bhūtvā tamaḥ-plutau
na vivāsasam ātmānaṃ
vijānītaḥ sudurmadau

これら、ローカパーラ(loka-pāla)の
息子二人は、不徳(tamaḥ)に染まっていたので、
かれら自身が裸であったことに、
気が付かずに、怒った。

ato 'rhataḥ sthāvaratāṃ
syātāṃ naivaṃ yathā punaḥ
smṛtiḥ syān mat-prasādena
tatrāpi mad-anugrahāt

それゆえ、不動(sthāvaratāṃ)の報いを受けた。
再び同じことをしないように、
ずっと覚えていられるように、親切な計らいで、(mat-prasādena)、
いや、それにも増した、特別な計らいで(mat-anugraha)。

vāsudevasya sānnidhyaṃ
labdhvā divya-śarac-chate
vṛtte svarlokatāṃ bhūyo
labdha-bhaktī bhaviṣyataḥ

ヴァースデーヴァ[17](vāsudeva)の近習は、
百の神の秋(divya-śarat)の[18]後に、
再び、人界の人々(loka)の声(svara)に、
献身(bhakti)を取り戻し始めるだろう。[19]

śrī-śuka uvāca
evam uktvā sa devarṣir
gato nārāyaṇāśramam
nalakūvara-maṇigrīvāv
āsatur yamalārjunau

大シュカ(śuka)は言った。
そう言って、かの神のリシは、
ナーラーヤナ(nārāyaṇa)のアシュラムに去った。
ナラクーヴァラ[20]とマニグリーヴァ [21]は、
一対(yamala)のアルジュナ[22]として残された。

ṛṣer bhāgavata-mukhyasya
satyaṃ kartuṃ vaco hariḥ
jagāma śanakais tatra
yatrāstāṃ yamalārjunau

一流のヴァーガヴァンであるリシの、
サティアンの言葉を、ハリ(hari)[23]が実践し、
やがてそこに至る。
かの地、一対のアルジュナに。

devarṣir me priyatamo
yad imau dhanadātmajau
tat tathā sādhayiṣyāmi
yad gītaṃ tan mahātmanā

[24]神のリシは、我が敬愛するtamahである。
とはいえ、彼らは、財宝神(dhanada)[4]の息子たちであるが。
その通りに実行(sādha)しよう。
とはいえ、そのギータ(gīta)は、マハートマ[25]のものであるが。

ity antareṇārjunayoḥ
kṛṣṇas tu yamayor yayau
ātma-nirveśa-mātreṇa
tiryag-gatam ulūkhalam

こうして、アルジュナの隙間に、
クリシュナ(kṛṣṇa)が進み入り、
回帰(nirveśa)を心に描いただけで、
畜生(tiryak)[26]は臼(ulūkhala)になった。

bālena niṣkarṣayatānvag ulūkhalaṃ tad
dāmodareṇa tarasotkalitāṅghri-bandhau
niṣpetatuḥ parama-vikramitātivepa-
skandha-pravāla-viṭapau kṛta-caṇḍa-śabdau

その臼(ulūkhala)に繋がれたものを力づくで引きずり
udareṇa拘束された(bandaha)足(aṅghri)の紐(dāma)を素早く引き伸ばした。
至高の(parama)力により、とても震えながら倒れて
二つの木の幹と枝は、けたたましい音を立てた。

tatra śriyā paramayā kakubhaḥ sphurantau
siddhāv upetya kujayor iva jāta-vedāḥ
kṛṣṇaṃ praṇamya śirasākhila-loka-nāthaṃ
baddhāñjalī virajasāv idam ūcatuḥ sma

そこに、美しく完璧(parama)で、全方位に後光を放つ、
二人の悉曇[27]が、二つの木の間から、まるで煙のように[28]現れた。
至高(parama)のクリシュナ、全ての地(loka)の主、に頭をを垂れながら、
手を合わせて、virajasāv、彼らはこう言った。

kṛṣṇa kṛṣṇa mahā-yogiṃs
tvam ādyaḥ puruṣaḥ paraḥ
vyaktāvyaktam idaṃ viśvaṃ
rūpaṃ te brāhmaṇā viduḥ

クリシュナ、クリシュナ、大いなるヨガの方。
あなたは、元々、人を超越している。
この世に、顕れたるもの(vyakta)から、顕れざるもの(avyakta)まで、
ブラフマーの知る全ては、あなたの化身[29]

BhP_10.10.030/1 tvam ekaḥ sarva-bhūtānāṃ dehāsv-ātmendriyeśvaraḥ
BhP_10.10.030/3 tvam eva kālo bhagavān viṣṇur avyaya īśvaraḥ

BhP_10.10.031/1 tvaṃ mahān prakṛtiḥ sūkṣmā rajaḥ-sattva-tamomayī
BhP_10.10.031/3 tvam eva puruṣo 'dhyakṣaḥ sarva-kṣetra-vikāra-vit

有情(sattva)

BhP_10.10.032/1 gṛhyamāṇais tvam agrāhyo vikāraiḥ prākṛtair guṇaiḥ
BhP_10.10.032/3 ko nv ihārhati vijñātuṃ prāk siddhaṃ guṇa-saṃvṛtaḥ

BhP_10.10.033/1 tasmai tubhyaṃ bhagavate vāsudevāya vedhase
BhP_10.10.033/3 ātma-dyota-guṇaiś channa- mahimne brahmaṇe namaḥ

BhP_10.10.034/1 yasyāvatārā jñāyante śarīreṣv aśarīriṇaḥ
BhP_10.10.034/3 tais tair atulyātiśayair vīryair dehiṣv asaṅgataiḥ

BhP_10.10.035/1 sa bhavān sarva-lokasya bhavāya vibhavāya ca
BhP_10.10.035/3 avatīrṇo 'ṃśa-bhāgena sāmprataṃ patir āśiṣām

BhP_10.10.036/1 namaḥ parama-kalyāṇa namaḥ parama-maṅgala
BhP_10.10.036/3 vāsudevāya śāntāya yadūnāṃ pataye namaḥ

BhP_10.10.037/1 anujānīhi nau bhūmaṃs tavānucara-kiṅkarau
BhP_10.10.037/3 darśanaṃ nau bhagavata ṛṣer āsīd anugrahāt

BhP_10.10.038/1 vāṇī guṇānukathane śravaṇau kathāyāṃ
BhP_10.10.038/2 hastau ca karmasu manas tava pādayor naḥ
BhP_10.10.038/3 smṛtyāṃ śiras tava nivāsa-jagat-praṇāme
BhP_10.10.038/4 dṛṣṭiḥ satāṃ darśane 'stu bhavat-tanūnām

BhP_10.10.039/0 śrī-śuka uvāca
BhP_10.10.039/1 itthaṃ saṅkīrtitas tābhyāṃ bhagavān gokuleśvaraḥ
BhP_10.10.039/3 dāmnā colūkhale baddhaḥ prahasann āha guhyakau

グヒヤカ族の二人[11]

BhP_10.10.040/0 śrī-bhagavān uvāca
BhP_10.10.040/1 jñātaṃ mama puraivaitad ṛṣiṇā karuṇātmanā
BhP_10.10.040/3 yac chrī-madāndhayor vāgbhir vibhraṃśo 'nugrahaḥ kṛtaḥ

BhP_10.10.041/1 sādhūnāṃ sama-cittānāṃ sutarāṃ mat-kṛtātmanām
BhP_10.10.041/3 darśanān no bhaved bandhaḥ puṃso 'kṣṇoḥ savitur yathā

BhP_10.10.042/1 tad gacchataṃ mat-paramau nalakūvara sādanam
BhP_10.10.042/3 sañjāto mayi bhāvo vām īpsitaḥ paramo 'bhavaḥ

BhP_10.10.043/0 śrī-śuka uvāca
BhP_10.10.043/1 ity uktau tau parikramya praṇamya ca punaḥ punaḥ
BhP_10.10.043/3 baddholūkhalam āmantrya jagmatur diśam uttarām

  1. ^ 訳註:このプラーナのタイトルにもなっている聖人たちの尊称。ここでは語り手のシュカ(śuka)のこと。en:Bhagavan参照。ちなみに、このभगवानは梵語版般若心経にも釈迦如来の尊称として出てくる。
  2. ^ a b 訳註:神仙。ナーラダのこと。聖人が二人出てきてややこしいが、少なくともこの聯の表現では、ナーラダはただのrṣiではなく、devarṣiと呼ばれて区別されているようである。
  3. ^ 訳註:この章は、表向きには、聖人が不良を更正させる話だが、一方で、ルドラ勢力(自然信仰)をクリシュナ陣営(文化信仰)が引き抜いたとも読める。
  4. ^ a b 訳註:クベーラの別名。dhanapatiとも。
  5. ^ 訳註:マンダーキニーガンジスを指すの雅語の一つ。漢訳は、大乗理趣六波羅蜜多経(788年)の三巻[1]發菩提心品や、その引用である往生要集における、天人五衰の説明で「曼陀枳尼殊勝池水沐浴無由」として出てくる。
  6. ^ 訳註:以下、madaは全て「酔う」と訳しているが、正気を失っている状態。
  7. ^ 訳註:酒。ヴァルナの妻。乳海攪拌によって生まれたアムリタは、説話によっては、擬人化されヴァルナと結婚し、ヴァールニーと呼ばれる。 このバーガヴァタ・プラーナでは、乳海攪拌で生まれた8つの存在、スラビー(牛)、ウッチャイヒシュラヴァス(馬)、アイラーヴァタ(象)、カウストゥバ(宝石)、ラクシュミ(アプサラス)、ヴァールニー(女デーヴァ)、ダーンワンタリ(デーヴァ)とアムリタ(飲み物)、のうちの一つ。協議により、牛は生贄の儀式に使われ、馬はマハーバリのもの、象はインドラのもの、宝石とラクシュミはヴィシュヌのものとされた。そして、ヴァールニーはアスラ族に嫁ぐことになった。ここでのアスラ族は完全に悪者だが、ヴァールニーとヴァルナが結ばれるという話だけは、不思議と残っているようである(アスラはヴァルナの眷属)。

    8巻8章
    athāsīd vāruṇī devī
    kanyā kamala-locanā
    asurā jagṛhus tāḿ vai
    harer anumatena te

    次に現れたのは、女神ヴァールニーだった。
    蓮の目(kamala-locanā)をした娘であった。
    アスラ(asurā)が彼女を受け取り、きちんと、
    ハリは彼らの行為を認めた。
  8. ^ 訳註:酒。このバーガヴァタ・プラーナの9巻24章によると、マディラーはアーナカドゥンドゥビー(ヴァスデーヴァ)の妻の一人。

    pauravī rohiṇī bhadrā
    madirā rocanā ilā
    devakī-pramukhāś cāsan
    patnya ānakadundubheḥ
    アーナカドゥンドゥビーの妻には、デーヴァキーを筆頭に、パウラヴィー、ローヒニー、バードラー、マディラー、ロカナー、イラーがいた。

    nandopananda-kṛtaka-śūrādyā madirātmajāḥ
    難陀跋難陀、クリタカ、シューラをはじめ、マディラーには子供が何人かいた。

    このプラーナではナンダがクリシュナの父なので、ヴァスデーヴァとマディラーはクリシュナの祖父母にあたる。
  9. ^ おそらく、インド象もガンジスで水浴びする。
  10. ^ 訳註:二柱あるいは、二天と言うべきだが、ややこしいので、「人」で統一する。
  11. ^ a b 訳註:ナラクーヴァラとマニグリーヴァの二人のこと。グヒヤカ/グフヤカ(guhyaka)はインドの神族の一つ。一般にクベーラの眷属は夜叉族(ヤクシャ・ヤクシニー)とされているが、説話によっては、羅刹族(ラクシャーサ)とグヒヤカ族その他が加わっている場合がある。そして、これらの種族は時に混用される。各説話を最大公約数的にみると、guhyakaは、ヒマラヤ~カイラス系の民族であり、クベーラの領国には多数住んでいるものと思われる。

    ただ、バーガヴァタ・プラーナにおいては、「夜叉・羅刹(yakṣa-rakṣasā)」という併称と、「グヒヤカ・羅刹(guhyaka-rakṣasā)」という併称があるのに、「夜叉・グヒヤカ」という併称はない。従って、作者や読者は「guhyaka」を単に夜叉の別名として使っている可能性がある。また、用例を見ると、普通の夜叉よりは幾分か上等な雰囲気がある。
    • 1巻
      • BhP_01.09.003/3 sa tairvyarocata nṛpaḥ kuvera iva guhyakaiḥ
        • 彼は彼らにとても恭まわれた王だった。まるで、グヒヤカ達に傅かれたクベーラのように。
        • 訳註:実は、この長大なプラーナで、クベーラの名前(kuvera)に言及している箇所はこの1巻9章と4巻22章だけである。残りは全て固有名詞を出さずに、「財宝神(dhanada)」や「~の王、~の長」といった呼ばれ方をしている。
    • 4巻
      • BhP_04.04.034/1 tair alātāyudhaiḥ sarve pramathāḥ saha-guhyakāḥ
      • BhP_04.05.026/2 tad-deva-yajanaṃ dagdhvā prātiṣṭhad guhyakālayam(guhyakaの阿頼耶/住処)
      • BhP_04.06.034/2 upāsyamānaṃ sakhyā ca bhartrā guhyaka-rakṣasām(guhyakaと羅刹の主人)
      • BhP_04.10.005/2 dadarśa himavad-droṇyāṃ purīṃ guhyaka-saṅkulām
        • 見ると、ヒマラヤの谷には、guhyaka族の住む都があった
      • BhP_04.11.001/1 sandhīyamāna etasmin māyā guhyaka-nirmitāḥ(グヒヤカが作り出したマーヤー)
      • BhP_04.11.001/1 tān hanyamānān abhivīkṣya guhyakān anāgasaś citra-rathena bhūriśaḥ
        • 見ていると、「美しい戦車」は、無抵抗のグヒヤカ族をたくさん殺した
      • BhP_04.19.005/1 siddhā vidyādharā daityā dānavā guhyakādayaḥ
    • 10巻(10.10以外)
      • BhP_10.09.022/3 adrākṣīd arjunau pūrvaṃ guhyakau dhanadātmajau(guhyakaの二人、dhanadāの息子二人)
      • BhP_10.34.028/3 āsedatus taṃ tarasā tvaritaṃ guhyakādhamam
        • (クリシュナたちは)素早く動き回る最低のグヒヤカ(Śańkhacūḍa)を追いかけた。
      • BhP_10.43.025/3 arjunau guhyakaḥ(一対のguhyakaのarjuna) keśī dhenuko 'nye ca tad-vidhāḥ
    • 11巻
      • BhP_11.06.003/1 gandharvāpsaraso nāgāḥ siddha-cāraṇa-guhyakāḥ
      • BhP_11.12.003/3 gandharvāpsaraso nāgāḥ siddhāś cāraṇa-guhyakāḥ
        • 乾闥婆、アプララス、ナーガ、悉曇、カーラナ、guhyaka
      • BhP_11.14.005/1 tebhyaḥ pitṛbhyas tat-putrā deva-dānava-guhyakāḥ
        • (ブラフマーの)子孫には、デーヴァ(天部)、ダーナヴァ、guhyaka

    上の用例ではいくつかが種族リストになっている。例えば、11.6を例にとると という具合で、人名、種族名が入り乱れているが、guhyakaとyakṣaが同時に言及されることはない。 一方で、『マハーバーラタ』では、種族列挙の際にyakṣa族とguhyaka族は別にカウントされている。en:wikisource:The_Mahabharata/Book_1:_Adi_Parva/Section_I参照。

    さて、ここから先は、さらにマニアックな話題だが、仏教におけるグヒヤカ族である密迹について。例えば、陀羅尼の中にはずばりの記述がある。『楞厳経』(en:Shurangama_Sutra)では、

    vajra pāṇi guhya guhyaka adhipati
    跋阇啰波你-具酰夜-具酰夜迦-地般帝

    とある。このadhipatiは「王」という意味なので、guhyaka-adhipatiは「グヒヤカ族の王」、すなわちクベーラ(あるいはルドラ、インドラ)である。そうすると、guhyakaの漢訳は具酰夜迦(グキヤカ)ということになる。ところが、adhipatiの最初の音aは共有しているので、adhipatiをベースに考えると「迦地般帝」ということになる。実際にネットで検索してみると、多くの場合、

    跋阇啰波你-具酰夜-具酰夜-迦地般帝

    という風に区切っており、跋阇啰波你=金剛手(en:Vajrapani)、具酰夜-具酰夜-迦地般帝=秘密密主という風に註を入れられている。すなわち、密迹金剛力士金剛薩埵である。私はこの混同が金剛薩埵重視の理由ではないかと考えている。「guhya」は秘密という意味なので、密教にとってはとても重要な語である。しかるに、仏典にはえらく位の高いguhyakaの王が出てくる。この人はマハーバーラタやバーガヴァタ・プラーナ経由で考えるとクベーラ=毘沙門天のことなのだが、どこかで誤解、乃至は拡大解釈があったものと見える。結局のところ、密教でのguhyakaは、guhyaとyakshaの語義を重ね合わせたような扱いである。そもそも、密迹という言葉からして、密がguhyaの意訳であり、迹はyakの意訳+音訳のようだ。空海が持ち帰った『大毗卢遮那成佛经疏』の1巻(T39p582)には、

    十九:
    金剛手祕密主者。梵云播尼。即是手掌。掌持金剛與手執義同。故經中二名互出也。西方謂夜叉為祕密。以其身口意。速疾隱祕難可了知故。舊翻或云密迹。若淺略明義。祕密主。即是夜叉王也。執金剛杵常侍衛佛。故曰金剛手。然是中深義。言夜叉者。即是如來身語意密。唯佛與佛乃能知之。乃至彌勒菩薩等。猶於如是祕密神通。力所不及。祕中最祕。所謂心密之主。故曰祕密主。能持此印。故云執金剛也。

    19:
    金剛手秘密主は、サンスクリットの播尼(pāṇi)が「てのひら」の意味なので、執金剛と同じ意味(金剛を持つもの)である。それゆえ経典は、この二つの名前(金剛手と執金剛)が入り混じっている。
    • 分かり易くした浅い解釈:インドでは、夜叉の行動が素早すぎてよくわからないので「秘密」と言う。昔の翻訳では、密迹とも言った。
    • 中ぐらいの深い解釈:秘密主は夜叉の王である。金剛手というのは、金剛杵をもって常に仏に付き従っているからである。
    • 本当の解釈:夜叉とは、如来の通信が秘密であるということである。この通信は仏同士にしか通じない。弥勒菩薩たちですら、この神通には力が及ばず、内容は秘密となっている。この秘中の秘「心密」が通じる者たちの主が秘密主である。同様に、この印を持つ事が出来るものを執金剛という。(訳註:弥勒菩薩はほぼ如来とみなせるが、あくまで人間側にあるバックドアである。仮に、弥勒菩薩が心密を解するなら、弥勒菩薩はそれを人間に伝えられるので、内容は漏れてしまう。逆に言うと、「そのような特権昇格(en:Privilege_escalation)が起こりえない世界観」を構築しようとすると、弥勒菩薩は心密を解さないことが、論理的に決まってしまう。)

    とあるので、「金剛手祕密主=夜叉王=毘沙門天」というアイデア自体は、日本の密教にも伝わっているはずなのだが、中深義、つまり、あまり重視されなかったようである。というよりも、夜叉が再定義されているのだから、この時点で「夜叉王=毘沙門天」が成り立つかどうかが危うい。先に密教の拡大解釈といったが、密教からみるとプラーナやマハーバーラタの夜叉の捉え方が浅いだけなので、結局は立場の違いに過ぎないと言えそうである。

    少し長くなってしまったが、バーガヴァタ・プラーナでは
    • ナラクーヴァラ(ナラクーバラ)とマニグリーヴァのことをguhyakauと3度も呼んでいる。然るに、yakṣauと表現している箇所はない。
      • 漢字で言うと、哪吒は密迹と言われているが、夜叉とは言われていない。
    • このプラーナでは、共同体としてのguhyakaが何度か言及されている。
      • この共同体に確実に属する人物は、ナラクーヴァラ、マニグリーヴァ、Śańkhacūḍaの3名しか紹介されていない。クヴェーラを入れても4人である。
        • Śańkhacūḍaは、このプラーナでこそやられ役だが、元は主神級の人物である。ちなみに、彼は10巻34章でクリシュナに頭をもぎ取られて死亡する。バーガヴァタ・プラーナに限らず、彼はヴィシュヌ陣営とは確執があり、例えば、en:Srimati Tulasi Nilayamでは、ヴィシュヌが彼の妻であるen:Tulasi(カミボウキ)を寝取る過程であっさりと殺される。
  12. ^ おそらく、幻覚を見ている。
  13. ^ 訳註:不明。詳しくはen:Abhi参照。「~の中にある」とでも訳すべきか。
  14. ^ 天部(deva)である二人は、老衰で死ななくても、殺されると死ぬ。
  15. ^ このプラーナでナタ太子っぽい箇所はクベーラの話以外ほとんどないのだが、ここは稀有な例外だと言える。つまり、「肉体が父母のもの」というテーゼはまさにナタ太子が「父母に骨肉を返還する」という逸話に相当するわけだから、これを偶然と考えたくはない。禅の公案を考えた人がこの逸話を知っていたか、あるいはプラーナの作者が骨肉返還の逸話を知っていてナーラダに語らせたのかのどちらかだと思う。
  16. ^ 死んだら、荼毘に付されるか、野犬に食われるということ。
  17. ^ ヴァスデーヴァではなく、ヴァースデーヴァ
  18. ^ 訳註:つまり100年。ただし、インドの神話では「天界の○日は人間界の×年に相当する」などという話がよくある。しかも、ここはではわざわざdivyaという修飾語をつけている。どれくらいなのか、私にはちょっと見当が付かないが、おそらく100年よりは長いと思う。
  19. ^ 訳註:再び神として信仰の対象になる、ということだと思う。
  20. ^ nala: 、kūbara : 轅。つまり「葦の轅」と考えると、まあまあ意味がある。なぜなら、轅は軛に繋ぐ道具であり、は二頭立てを前提とするわけだから、双子が並ぶ様子を示すことになる。
  21. ^ マニグリーヴァ(maṇigrīva)はナラクーヴァラの兄弟。そもそも、サンスクリット語のmaṇiは「宝石」、grīvaは「首」を意味する(例えば、馬頭観音は、hayagrīva)。つまり、「宝石の首飾り」を指す言葉であり、一般名詞(形容詞)としては、リグ・ヴェーダの1巻122歌14聯にも出てる。oldwikisource:ऋग्वेद:_सूक्तं_१.१२२のデーヴァナガリーをIAST表記にすると、次のようになる。

    हिरण्यकर्णं मणिग्रीवमर्णस्तन नो विश्वे वरिवस्यन्तु देवाः
    अर्यो गिरः सद्य आ जग्मुषीरोस्राश्चाकन्तूभयेष्वस्मे

    híraṇyakarṇam maṇigrīvam árṇas tán no víṣve varivasyantu devāḥ
    aryó gíraḥ sadyá ā jagmúṣīr ósrāṣ caakantuubháyeṣv asmé

    意味については、en:wikisource:The_Rig_Veda/Mandala_1/Hymn_122参照。私見だと、マニグリーヴァはクリシュナの首飾りになった疑惑が拭えない。
  22. ^ 訳註:おそらく、ターミナリア・アルジュナ。en:Terminalia_arjuna参照。アーユルヴェーダに出てくる薬用の木。見た目は普通だが、和名が付いていないほどマイナー。ただし、本当にこの木で合っているのかという確証はない。
  23. ^ 訳註:en:Hari参照。「取り去るもの」。ヴィシュヌ、あるいはクリシュナの別名。
  24. ^ この聯は、クリシュナのセリフであると考えるしかない。
  25. ^ 大いなる魂。マハトマ・ガンディーの尊称としても有名。ここではナーラダのこと。
  26. ^ 訳註:仏教用語の畜生が梵語のtiryakの訳であることは確かだが、ここではアルジュナの木のことを言っているので、普通に漢字を解釈したのでは追いつかない。ここの畜生は「人間以下の下等生物」という意味であり、植物も含まれる。
  27. ^ en:siddha参照。完璧な人。ここでは、ナラクーヴァラとマニグリーヴァのこと。
  28. ^ jata-vedahは、木々をこすり合わせて火を起こす、というヴェーダの知識。つまり、何もないところから生じた、ということ。
  29. ^ この聯は、クリシュナがヴィシュヌのアヴァターラであることを暗示しているのだが、プルシャ(puruṣa)や梵(brāhma)を持ち出す展開は、ウパニシャッド哲学の梵我一如の話である。