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Wikipedia‐ノート:コメント依頼/寝ず見 20090316

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寝ず見さんの2009年3月30日02:09(UTC)の投稿への応答(1)[編集]

> 未だに被依頼者のコメントを被依頼者の望まない形に勝手に他人が変更しても許される根拠を教えてもらってないのだが?[1]

一般論としては、Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり#他人のコメント(WP:TALK)に、はっきりと書いてあります。「例外的に他人のコメントを編集してもよい場合もあります」[2]と。今回の除去されていたコメントの復帰が許される「例外」にあてはまるかどうかの問題が残るとはしても、これはたしかに「被依頼者のコメントを被依頼者の望まない形に勝手に他人が変更しても許される」場合があることを示しています。

さて、今回の除去されていたコメントの復帰が「許される」と、はっきりと書いたルールはないでしょう。しかし、はっきりと「禁止される」と書いてあるルールもないようです。

WP:TALKは、「決して他人の言葉を、その人が考えていない内容に書き換えたり、削除してはいけません」[2]としたあと、「例外的に他人のコメントを編集してもよい場合もあります」としてその例を挙げているのですから、「他人のコメントを編集」したとしても「その人が考えていない内容に書き換え」にならない場合があり、それは許される場合があると解釈しなくては、この方針が自己矛盾していることになってしまいます。

まず、ここでいう、その人が考えている「内容」とは、たんに発言者が最終的に確定しようとした文章表現一字一句そのものという意味にとることはできません。もしそういう意味にとれば、「他人のコメントを編集」したならば、かならず「その人が考えていない内容に書き換え」ることになり、この方針自体が前述の自己矛盾に陥るからです。

また、その人が考えている「内容」を投稿者の心理状態そのものという意味にとることもできません。なぜならば、私たちは他人の心理状態を推量することしかできませんから、もし「その人が考えている内容」を投稿者の心理状態そのものととらえたうえで、「決して他人の言葉を、その人が考えていない内容に書き換えたり、削除してはいけません」に厳格にしたがおうとすると、「その人が考えていない内容に書き換え」るのではない「他人のコメントを編集」を行うことが不可能になり、やはり前述の自己矛盾を引き起こすからです。

ここでいう、その人が考えている「内容」が文章表現一字一句そのものではなく、また投稿者の心理状態そのものではないのだとすれば、その「内容」とは、間主観的に読み取られた、ある程度は大筋のもとして抽象化されたその文章の趣旨・文意だということになるでしょう。

したがって、間主観的に読み取られる文意を変更しないならば、「他人のコメントを編集」したとしても、それは「その人が考えていない内容に書き換え」にならず、それは許される場合があるとするのが、もっとも自然でかつ矛盾のない解釈だろうと思います。少なくとも、これが合理的にありうる解釈のひとつであることは間違いないでしょうから、この解釈をとったとしても禁止されているといえるものだけが、明文で禁止されているといえるでしょう。そうでなくては、合理的にありうる解釈のひとつにおいては禁止されていないものを、明文で禁止されているとすることになってしまいます。

以上より、間主観的に受け取られる文意を変更したことの立証がない現在、Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり#他人のコメントを、今回の除去されていたコメントの復帰が禁止されているとする明文のルールとすることはできません。

結局のところ、今回の除去されていたコメントの復帰が、Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり#他人のコメントのいう「例外」にあたるかどうか、禁止されているのか、いないのか、許容されているのか、いないのかは、ルールの明文だけからは明らかではありません。もし、これ以上の話を進めたいのであれば、ルールの明文だけによらない常識や慣習、あるいはWikipedia:五本の柱のような抽象的な方針の趣旨を援用した議論をせざるをえません。

これくらいのことは皆分かっているだろうと思っていたのですが、「場合によっては邪魔なルールは破っても良い」[3]と自らおっしゃられているにも関わらず、寝ず見さんひとりが「ルール」「ルール」と騒いでいらっしゃいます。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 09:07 (UTC)[返信]

「個人的な意見」には興味がないのでざっとしか読んでいません。その上で以下の通り。
『一般論としては』:書いてありますね、確かに。もちろん知ってます。知ってる上で根拠を聞いているのですが。そもそも、本件コメントでの問題なのに『「例外」にあてはまるかどうかの問題が残るとはしても』という前提が間違っています。そういう問題を残したままで、「勝手に復帰してしまった事」を何で問題にしないんですか?→『被依頼者が一度入れたコメントを除去したことに対し意見が聞きたいなら、この節に上のコメントを入れるだけで済む(2009年3月28日(土)1225(UTC)』
『寝ず見さんひとりが「ルール」「ルール」と騒いで』:それも間違いですね。別に「ルールを守れ」なんて私は言ってません。私の意見が間違っているなら根拠を示せと言ってるんです。何の根拠もない意見でも、数が多い方が正しいんですか?
他人を批判するのにまともな根拠がないほうがオカシイ。私が他人の意見を自論でもって受け入れないのと、他人が私の意見を自論でもって受け入れないのの、どこが違うのか合理的かつ簡潔に説明して欲しい。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 10:25 (UTC)[返信]
> 『「例外」にあてはまるかどうかの問題が残るとはしても』という前提が間違っています。そういう問題を残したままで、「勝手に復帰してしまった事」を何で問題にしないんですか?
問題にしていますよ。だから、「改竄」であるのなら具体的な指摘をくださるように、なんども寝ず見さんに要請したではありませんか[1][2]
> 『寝ず見さんひとりが「ルール」「ルール」と騒いで』:それも間違いですね。別に「ルールを守れ」なんて私は言ってません。
「それも間違いですね」とそれ以降が、どうつながっているのか理解に苦しみますが、「ルール」「ルール」と騒いでいるのはたしかです[3][4][5][6][7]
> 何の根拠もない意見でも、数が多い方が正しいんですか?
数が多いほうが正しいということは断定できませんが、十分な説得の機会があったのに多数派の形成に失敗したということは、その意見がさしあたって採用されない根拠にはなります。
> 他人を批判するのにまともな根拠がないほうがオカシイ。
「フェアではない」というのも一つの根拠ではあり、非常識な人がいくらそれを否定しようとそれは変わりません。
そもそも、どのような論議において何が「根拠」となりえるのかは、どのような根拠によって決定すればよいのでしょうか? これを追求しようとすれば、無限後退に陥るか、循環論法に陥るか、最終的には何らかの形而上学を持ち出すか、常識なり合意なりによって決まるというか、たんに独断的に「決断」するほかありません(参照:ミュンヒハウゼンのトリレンマ)。このような哲学的探求は私にとっては興味深いものですが、ふつうは何が根拠となるかは常識でわかるというほかなく、それは常識に説得力の根拠を認めるしかないということでしょう。
分かりやすさのために端的に質問しますが、「他人を批判するのにまともな根拠がないほうがオカシイ」というご意見のその根拠は何でしょうか? また、なにか根拠があるとして、その根拠の根拠は何でしょうか?
> 私が他人の意見を自論でもって受け入れないのと、他人が私の意見を自論でもって受け入れないのの、どこが違うのか合理的かつ簡潔に説明して欲しい。
説明できません。そもそも、私は「違う」と考えていませんから(つまり、寝ず見さんがご自分の持論をもって他人の意見を受け入れないことと、他人が自分の持論をもって寝ず見さんの意見を受け入れないこととの間に、どちらを優先するかなどの差があるとは考えていませんから)。
寝ず見さんであろうと、他の誰であろうと、適切なかたちで十分な説得の機会を与えられたのに多数派を形成できなかった場合に、持論に固執して周囲を疲弊させつづけるのであれば批判に値します。
--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 12:43 (UTC)[返信]
『「改竄」であるのなら具体的な指摘を』→具体的にしているのにmizusumashiさんが、それを「改ざん」と認めなかっただけなんですが。というか、「改ざん」なら問題であって「改ざん」でなければ問題ではない、って言ってるんですか? 改ざんであろうとなかろうと、『「例外」にあてはまるかどうかの問題が残』ってる段階で、勝手に戻しているから問題視してるんですが? 私は「改ざんだから問題だ」って言ってるのではない(私が言っているのは「改ざんしたから問題だ」。)
『「ルール」「ルール」と騒いでいるのはたしかです』→あぁ、そういう意味ね。なるほど。で、私の解釈・主張が間違っているという意見の根拠を公式ルールに求めることに何か問題が?/そりゃあ、公式なルールに依らず私の意見を否定したつもりでいる側は、『「ルール」「ルール」と騒』ぐ必要はない罠。
『その意見がさしあたって採用されない根拠にはなります』→それはただの屁理屈。そんなもんは根拠にはなりえません。そもそも「説得」なんか、する必要がない。コメント依頼が出されたから、こちらのスタンスをコメントして、それが間違いだというなら根拠を示せ、と言ってるんだから、そちらが否定したければ、否定するだけの根拠は必ず必要。/相手の望む「根拠」が出せない時点で、そっちの負け。コメント依頼に勝ち負けがあるのか知らんが。
寝言は聞く耳を持たない。哲学的な疑問は自身で解決してくれ。私の知ったこっちゃない。
『「他人を批判するのにまともな根拠がないほうがオカシイ」というご意見のその根拠は何でしょうか?』→じゃあ、俺の意見や言動を、ナニを根拠に否定・批判してるの?
『説明できません。』→それではお話にならない。大多数の意見があるにも拘らず、たった一人を納得させることができない意見なんか、犬の糞ほどの価値もない。/そもそも、「議論」ではなく「コメント」なのに、多数派を形成できればOKという考えをすることが、俺には全く理解できない。/しっかりした根拠を持たないので私を説得することが出来ない、って事すら理解できないのであれば、後は好きなだけ語っていてくれ、としか言えない。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 13:58 (UTC)[返信]
追記:しっかりした根拠でもって私の意見・言動を否定・批判するのであれば、「(その根拠に)納得できれば」という条件付きで俺はいつでも異論を受け入れる(ウィキペディアであれば公式ルールの文言の根拠が必要。ただし、解釈の違いは認めない。)。だからこそ、俺は根拠を求めているのだ。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 14:14 (UTC)[返信]
> 『「改竄」であるのなら具体的な指摘を』→具体的にしているのにmizusumashiさんが、それを「改ざん」と認めなかっただけなんですが。
はい。私は、なんら具体的な指摘があったと認めませんでしたし、したがって「改竄」の具体的な指摘があったとも認めませんでした。
ところで、そういう「自分は十分説明したが、相手が納得しなかっただけ」というような言葉は、自分にも跳ね返ってくるということはお分かりでしょうか。
> というか、「改ざん」なら問題であって「改ざん」でなければ問題ではない、って言ってるんですか?
そうは言っていませんが、やはりコメント復帰の正当/不当の評価に大きく関わるでしょう。
> 私の解釈・主張が間違っているという意見の根拠を公式ルールに求めることに何か問題が?
そもそも寝ず見さんの意見が「間違っている」といっている人はほとんどいないのに、一人だけでそういうことにこだわられては、周囲の人が疲弊します。
> 『「他人を批判するのにまともな根拠がないほうがオカシイ」というご意見のその根拠は何でしょうか?』→じゃあ、俺の意見や言動を、ナニを根拠に否定・批判してるの?
「軟弱な精神」という指摘については、たいして文意が変えられたわけでもなさそうなのに、自分が除去したコメントを復帰されたくらいで過激に騒ぎ立てたという寝ず見さんの行動を根拠にです。
「貧相な自尊心」という指摘については、「軟弱な精神」と指摘したら意味不明な参照の仕方をした寝ず見さんの行動を根拠にです(その意味不明さについては、部分的には寝ず見さんの誤認にもとづくものだということのようですが)。
そのほかの点については、とくに批判というほどのことをしていないと思いますが、なにかあればご指摘ください。
> 『説明できません。』→それではお話にならない。大多数の意見があるにも拘らず、たった一人を納得させることができない意見なんか、犬の糞ほどの価値もない。
それはあまりにご無理な話です。私は「A」だと考えていないのに、「A」である根拠を説明しろといわれ、「A」だと考えていないので説明できませんと答えたら、説明できないのであれば「お話にならない」といわれては、どうすればよいのか皆目分かりません。
> しっかりした根拠でもって私の意見・言動を否定・批判するのであれば、「(その根拠に)納得できれば」という条件付きで俺はいつでも異論を受け入れる
お言葉は心強いのですが、そのようなことをわざわざ言葉に出して宣言しなければならないような方が、実際にそのように実践されたところを見たことがありませんので、お守り程度に考えておきます。
全てについて応答できていませんので、この点については応答するようにいう点があれば、お手数ですがご指示ください。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 14:34 (UTC)[返信]

寝ず見さんの2009年3月30日02:09(UTC)の投稿への応答(2)[編集]

> つか、俺がいつ「みんながこういっています」なんて言ったよ? 俺は「他の連中が俺の礼儀知らずを問題にしているところでわざわざ暴言を吐いた」事をあざ笑ってるんだよ。[1]

それが「みんながこういっています」ってことではないでしょうか。
もちろん、寝ず見さんがその自分に向けられた批判に同調されているのであれば、ご自分の見解にもとづいて私を嘲笑することも一貫してはいるでしょうが、「他の連中が俺の礼儀知らずを問題にしている」ことが嘲笑の根拠であって、ご自分はその批判に同調されていないのですから、それは「みんながこういっています」ということを嘲笑の根拠にしているとしかいえません。
寝ず見さんがご自分へのある批判を受け入れていないのですから、仮に私がその同じ批判を考慮しなくてはならないと寝ず見さんがお考えだとすれば、それは一貫しておらず、私がそれ考慮していないことが滑稽だとどうして寝ず見さんがおっしゃるのか、ほんとうに不思議です。

> 俺は礼儀が大切だなんて思ってないし、言ってない。重要なのは内容だ。何を言ってるんだお前は?[1]

「礼儀が大事だと思うんなら、まずおまえが、他の人の批判に耳を傾けろよ」と条件法で申し上げたつもりですが、もし、寝ず見さんが礼儀が大切だと主張されていると決め付けているような文意に読めたのであれば、お詫びいたします。

--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 09:07 (UTC)[返信]

「こういっている」側のはずの人が“暴言”を吐いたからこそ、あざ笑っているだけです。「こういっている」側でない人であれば、それはそれで別にいいんですが。もちろん「批判」なんかしてないし、するつもりもありません。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 10:25 (UTC)[返信]
??? 私は、寝ず見さんに礼儀を守れといったことはないと思いますが、あればご指摘ください。また、私は、「いつでも」礼儀を守れといったことは、寝ず見さんに限らず誰に対しても申し上げたことはないはずです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 12:43 (UTC)[返信]
『礼儀を守れといったことはないと思いますが』→おぉ、それは失礼。てっきり「こういってる」側にいるんだと思ってました。確かに確認したら「改ざん」だけにこだわってますな。ま、「改ざん」にこだわってること自体は失笑モノですが(おーた氏宛ての2009年3月30日(月)0246(UTC)の被依頼者のコメント参照)。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 13:58 (UTC)[返信]
そこを誤解されていたんですね。正直なところ「がっくり」ときましたが、了解いたしました。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年3月30日 (月) 14:34 (UTC)[返信]

脚注[編集]