コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia‐ノート:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

表の議論の続き

[編集]

2014年5月26日〜5月29日

[編集]

報告 所用があったついでに図書館で見てきたのですが、勉誠社が出している『夏目漱石事典』の凡例に

引用文献のうち単行本は『 』で、短編、単一の論文、エッセーなどは「 」でくくった。また、新聞や雑誌などの定期刊行物は『 』で示した。この点で厄介なのは夏目漱石の全集などでは短編作品なのに『 』を用いている場合が多いということであるが、すべて編集者の常識的判断に基づいてこのようになおした。

とありました。「引用文献」という言い方は文を引用しているという意味かタイトルを引用しているという意味か曖昧に見えますが、見出し語ですでに『吾輩は猫である』『三四郎』『明暗』に対して「倫敦塔」「幻影の盾」「二百十日」というふうに括弧が区別されています。(中編の扱いはやはり曖昧ですが、前述したようにそれはまた別の話です)

同じ出版社の『三島由紀夫事典』の凡例にも「書名は『 』、論文・短編作品等・誌紙会報等は「 」で表記するのを原則とし」とあります。実際には中をのぞいてみると作品や場所ごとに表記がばらばらでどちらの事典もあまり厳密に統一されているとは言いがたいようですが、多数の専門家が集まって作っている専科事典の凡例にこのように掲げられている例があるのですから、「日本文学では短編を括弧で区別することはない」というみしまるももさんの意見は根拠のない思い込みであったと判断してよろしいでしょう。またこの思い込みに拠って出された表記ガイドの提案・議論は議論内容の様相を見ても提案者の「暴走」とでも言いうるものであったと思います。以上とりあえず報告だけしておきます。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 04:12 (UTC)[返信]


(頭痛さんへ) その文献内では、三島由紀夫の『英霊の声』や『憂国』などの短編もすべて、「どんな時でも、一貫して「」表記」になって統一されているんですか? その説明の、短編や論文を「」表記にするというのは、書籍になっていないからという意味もあると思います。私が持っている三島論でも、短編を「」にしているようなものもありますが、短編でもものによっては『』表記にしていたり、長編でも「」になっていたりしているので、一貫性が見受けられるものはありませんでした。少なくとも、私が確認したものの中では、そのような「明確な表記分け」をしているものは見たことがないです。頭痛さんも、その文献の中身については、場所ごとに表記がばらばらと言ってますし、その事典は松本徹、井上隆史、佐藤秀明などが関わっていると思いますが、同じ彼らが編集した決定版全集その他の最新の本では、そのような表記の原則にはなってはいません。やはり短編も長編も同じ表記で統一されてます。なので、日本文学として、短編を一貫して「」表記することが一般的な原則になっているとは到底言えませんし、実際の中身でそのような規則性(頭痛さんが主張しているような厳格な)になっているのは見たことがありません。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 05:33 (UTC)[返信]

日本文学の事典の凡例に区別の指針として掲げられているものが存在する、という時点であなたの言う「日本文学では短編を括弧で区別することはない」という主張は真ではないことは明らかである、と言っているのです。実際に事典の中身がその指針に沿っているかどうかは重要ではありません。執筆者に指針がいきわたっていなかったか、校正不足だったか、その事情はわかりっこないんですから。
「その事典は松本徹、井上隆史、佐藤秀明などが関わっていると思いますが、同じ彼らが編集した決定版全集その他の最新の本では、そのような表記の原則にはなってはいません。やはり短編も長編も同じ表記で統一されてます。なので、日本文学として、短編を一貫して「」表記することが一般的な原則になっているとは到底言えませんし」
だそうですが、無茶苦茶な意見です。なにがどう「なので」なのでしょうか。同じ筆者でも媒体によって表記はまちまちである、というのはこの議論の最初のほうにも書きました。また論理の飛躍した同じ意見をくりかえし書き連ねて議論をうやむやにするおつもりですか。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 05:54 (UTC)[返信]
「日本文学として、短編を一貫して「」表記することが一般的な原則」であるなどという主張は一度もしておりません。執筆者や媒体によってばらばらで統一原則はない、ということはこの議論のはじめから何度か書いているはずです。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 05:57 (UTC)[返信]

実際の中身がどうなっているかは重要な問題ですよ。その説明文だけでは、短編や論文を「」表記にするというのは、書籍になっていないからという意味も含まれていると思いますので、実際の中身が、全部短編が「」表記になっていなければ、頭痛さんの基準と同じ見方の区別がされていることにはならないでしょう。それに私は、時と場合によって、短編が「」表記になることは否定してませんし、評論家によっては、そうしている感じ(一貫性はない)のも見たことはあります。私が言ったのは、「頭痛さんの主張するような、一貫して短編が「」表記基準になっているのは見たことがない」と言ったまでです。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 06:12 (UTC)[返信]

「書籍になっていないからという意味も含まれていると思います」というのはあなたの想像でしかありません。客観的に検証できない意見を議論の場に持ち出すのはいい加減やめてください。
私は「この事典類が私の表記ガイド解釈と同じ表記方法を採用している」などということはまったく述べていません。あなたにはこれまでに何度か述べていますが、人の意見は落ち着いてよく読み、何を言っているのか理解したうえでコメントしてください。慌てて反論のための反論をしないでください。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 06:19 (UTC)[返信]

だから、三島由紀夫の『英霊の声』や『憂国』などの短編もすべて、その事典で「どんな時でも、一貫して「」表記」になって統一されているんですか? と聞いたんですけど、はっきりとした回答はないようですね。これは重要なことですよ。もしも、これらの作品がその事典内で、いつも「」表記になっているなら、そういう事例があると認めてもいいですが、そうでないならば、短編イコール「」表記の基準ではないことになります。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 06:31 (UTC)[返信]

なりません。凡例の意味がわかりませんか。屁理屈はいい加減にしてください。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 06:34 (UTC)[返信]

屁理屈ではありません。短編の『英霊の声』や『憂国』が、「」表記になっていないのならば、短編の「」表記に一貫性がないということになります。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 06:51 (UTC)[返信]

ええ、なっていないなら本文には一貫性がないということになるでしょう。それは私が言ってることとは何も関係ありません。「凡例どおりには必ずしもなっていない」ことがわかるというだけです。凡例は凡例です。混乱した意見を続けないでください。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 10:23 (UTC)[返信]
第三者および門外漢として発言します。
  1. みしまるももさんの「書籍になっていないからという意味も含まれていると思います」ですが、頭痛さんも「『日本文学では短編を括弧で区別することはない』というみしまるももさんの意見は根拠のない思い込みであったと判断してよろしいでしょう」と断言されるぐらいなのですから、「想像であろう」と片付けるのではなく、「仮定」として、みしまるももさんも頭痛さんのどちらも、それが本当に書籍ではなく収蔵されていただけのものであるかどうかを調べる必要があると思いました。
  2. 念のため申し上げておきますが、上記の仮定をちゃんと調べた上で、頭痛さんの言う「あなたの言う『日本文学では短編を括弧で区別することはない』という主張は真ではないことは明らかである」と言えるのだと思います。
  3. とはいえ、Wikipediaの編集スタイルとして合意を得れば良いと思うので、一律出典は『』で括り、同文中に収蔵関係を書かなければいけない時に『』と「」の区別をつけるというのが良いと思いますが、そちらの方向では話合いはなされないのでしょうか。おそらく、みしまるももさん、頭痛さんのこれまで、現在までの議論の様子ですと、上記のようなコメントのやりとりばかりが続いて不毛だなぁと思いました。--MEGEVAND (会話) 2014年5月26日 (月) 07:32 (UTC)(加筆 --MEGEVAND (会話) 2014年5月26日 (月) 07:41 (UTC)[返信]
凡例の書き方を見れば指標は「収録関係の有無」ではないことはわかるでしょう。「本当に書籍ではなく収蔵されていただけのものであるかどうか」というのはちょっと意味が取れませんでした。
何でその点を問題にしているのかというと、事実性の確認という段階を踏まなければ正常な意見交換が成り立たないからです。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 10:03 (UTC)[返信]


MEGEVANDさんのおっしゃるように、その凡例の全体文章を自分の目で確認して、中身の表記をよく詳細に調べてから、コメントいたします。そうでないと、その「短編」が、書籍とならなかったもの限定なのか、どういう意図なのかを調べないと、単に短編が「」、長編が『』といったように、長さの基準をしている基準なのか、頭痛さんの抜粋だけでは判断できないからです。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 10:57 (UTC)[返信]

  • みしまるももさんと競合しましたが、先ほど書いていたコメントのまま投稿します。
  • 頭痛さんへ。「はぁ・・・」という要約欄のコメント[1]ですが、こういう何を仰りたいのか分からない「含み」をもったコメントが相手をおじけさせる要因となります。
  • 「本当に書籍ではなく収蔵されていただけのものであるかどうか」というのは、みしまるももさんが仰りたいことを私なりに解釈したつもりだったのですが、凡例から「収録関係の有無」が問題でないのなら頭痛さんの仰った「あなたの言う『日本文学では短編を括弧で区別することはない』という主張は真ではないことは明らかである」は十分に納得できます。ただ、その凡例中『』は単行本で、とあるので、次の括りにある短編、論文、エッセーは単行本以外、つまりなにかに収蔵されているということなのかなという解釈をしてしまいました。それが間違っているのであればすみません。ただ、みしまるももさんは、そういう意図で「書籍になっていないからという意味も含まれていると思います」と仰ったのではないのかなと思いました。みしまるももさん、どうでしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年5月26日 (月) 11:04 (UTC)[返信]
要約欄については御免なさい。コメント依頼のほうです。
「長さを基準にしているかどうか」とかいったいなんの話なんですか。今は「表記ガイドをどう解釈するのが自然かという私の意見」の話ではなく事実確認の段階(「日本文学では括弧で短編を区別することはない」は真ではない)を踏んでいるだけなんですが。なぜそうさまざまなものをごっちゃにしてしまうのですか。
書籍になっていない、というのは単行本に収録されなかったという意味ですか。その作品が単独で刊行されなかった(作品集のかたちでのみ刊行された)という意味ですか。前者の意味ならそうでないことは確認しています(「二百十日」や「倫敦塔」は生前作品集のかたちで刊行されました)。後者の意味なら今の議題には関わらないでしょう。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 11:22 (UTC)[返信]
  • 要約欄については了承いたしました。ご説明頂きありがとうございます。
  • 「長さ」については、私のコメントではないのですが、次のコメントにもあるように、みしまるももさんと同じことを考えていると思います。
  • 「書籍になっていない」というのは、私の解釈では、それ単独で刊行されておらず、他の作品と一緒に収録されているのではという意味です。要するに収録されているから「」なのではないでしょうかという仮定です。単独で刊行されていた場合、それでも「」で括られていたら、はじめて長編か短編かという基準が問題になるのかなと思うのですが(そういう意味でみしまるももさんと同じことを考えているのかもしれません)。ですが、もうこのあたりからは門外漢で分からないことが多く、これ以上は何も申せません。
  • ですが、最後にこれだけは一言言わせてください。私のように、もしかしたらみしまるももさんと同じことを考えていたとしても、「あぁ面倒くさいなぁ」といういつぞやのコメントみたいな発言だけはお控え下さい。もうその時点で、関わりたくない、関わらなければ良かったと思ってしまいます。それよりかは、同じことを考えている人間がいるということは、やはり「説明」は必要だということで受け取って頂きたく思います。--MEGEVAND (会話) 2014年5月26日 (月) 11:57 (UTC)[返信]
たびたびすいません。上のコメントはみしまるもも氏へのコメントを同時に書いただけです。
単独で刊行される短編、というのは稀ですし、漱石にはないと思います。凡例ではっきり「短編」と断っているにもかかわらず、「本文がどうなっているか」などで明記されていない意味を汲み取るのは無理筋です(実際の本文ではあまり厳密に統一されているわけではない、と書きました)。そういう議論運びをされるといつまでも事実性の確認の段階で議論が留まってしまう。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 12:43 (UTC)[返信]

単独で刊行される短編というのは稀ですが、その名で刊行される短編というのは多いですよ。その意味で、そういう短編が、各々どういう表記になっているのかを、三島由紀夫事典で後日確認したいと思います。それから、議論内で私が、「日本文学では短編を常に「」表記する基準は見たことがない」という意味のことを言いましたが、それは「日本文学では短編を括弧で区別することはない」という意味とは違います。ノート内でも触れましたが、評論家によっては短編を「」表記している人もいることはいますが、それを常にその基準で一貫して、長編との区別において行っているのは見たことがないと言ったので、そのような極論的な意味合いとはやや違いますので、誤解しないでください。たぶん三島由紀夫事典も、長編との区別でそうなっているわけではないと思いますので、よく確認させていただきます。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 13:05 (UTC)[返信]

みしまるもも氏の過去の発言を再掲。

  • (新続頭痛さんへ) あなたが例示した「青山学院の英文科」の例は、主に海外文学の話でしょう。海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく、最初からあくまで短編集の中の一作品としてだけ扱われることが多いので、そういう考え方もされてくるのでしょうが、日本文学では、短編小説も独自に個々に発表される一つの作品、一つの「小説」として扱われています。
    私はこれまでいろいろと、日本文学の文芸評論、作家論を読んでますが、その作家の作品を語る際に、長編小説は『』、短編小説は「」という理由の元に「表記を区別」しているものなど見たことがないです。(本ページ、2014年4月11日 (金) 02:51 (UTC))
  • 何か全集や作品集やアンソロジーや雑誌の中に収録されている個別作品として説明される際は、長編だろうが短編だろうが、「」となるのは分かりますが、それ以外の、単体でその文学作品が同等に語られて記述される時に、長編小説が『』で、短編小説が「」などと表記するなどという変な基準は、日本文学や日本の作家を語る際においてはまったく合わない基準ですし、とてもちぐはぐです。(同上)
  • 短編だろうが、映画や戯曲の原作にもなっている一つの作品ですし、芥川賞やその他の章の対象作品になっている立派な一つの小説です。短編と同じくらいの長さの台本の戯曲の方は『』の表記になるのに、短編小説だけが「」になるなんて、どう考えてもナンセンスです。(Wikipedia‐ノート:表記ガイド 2014年4月19日 (土) 13:08 (UTC))
  • 私は多くの文芸評論や解題などを読んでいますが、同じ独立した小説であるにもかかわらず、「長編小説と短編小説を区別するという理由」で表記を変えているものなど見たことがないです。(同上)
  • その時々の解説者が書く解説内の表記も、短編だから長編だからという理由で表記を区別しているものはまず見当たりませんでした。(Wikipedia‐ノート:表記ガイド 2014年4月20日 (日) 02:58 (UTC))
  • 全集の年譜や書誌でも長編も短編も同じ表記で統一されており、「」表記ならばそれで統一されてます。なので全体から見れば、「小説の長さ」基準で表記を変えているものはほとんどないと言っていいものです。(同上)

これが↓

「日本文学では短編を常に「」表記する基準は見たことがない」という意味のことを言いましたが、それは「日本文学では短編を括弧で区別することはない」という意味とは違います。」

今コメント依頼が出ていますが、他の方はこのような出鱈目さが本当にわからないんですか?

「その名で刊行される短編」というのは「その短編を表題作とする短編集」のことですか。短編集の表題作になったものとならなかったものを(どちらも短編を示しているにもかかわらず)括弧を分ける、というようなことがあるとは思えませんし、少なくとも漱石事典はそのようなものでないことは確認しています(「野分」「二百十日」「坑夫」は「二百十日」だけ一重鉤ですが、どれも別タイトルの作品集に収録されて刊行されたものです)。いずれにしても凡例に書いてあることが凡例のすべてなのですから、凡例に書いていないことを想像で補わないでください。--新続頭痛会話2014年5月27日 (火) 06:43 (UTC)[返信]

  • 「デタラメが分からないのですか」と、多くのユーザーに問いかけることは「なぜ貴方達は私の言っていることが分からない。情けない」と言われていることに等しいものがあります。それでは、他の方々もこの議論に入ってこれません。さて、私は私なりに、凡例を見ても、単独で刊行しているのが『』だから、短編や論文などは単独ではなく他と収蔵されている可能性があると思います、と言っており、おそらくみしまるももさんもそういう仮定の下で調べものをすると仰っていますから、今殊更「でたらめ、でたらめ」と叫ぶことは、頭痛さんにとっては御自身の主張の正当性を示すうえでは大切かもしれませんが、みしまるももさんや、間に入っていく第三者からすれば、「すみません。もう少し考えさせて下さい。時間を下さい。そして御自身の正当性ばかりを強調なさらないでください」と言いたくもなります。「仮定」を想像と仰るのは勝手ですが、その想像は根も葉もないことではないと思いますし、そうした思考作業は、分かる方、あるいはもう答えが決まっている方からすれば、無駄な作業のように思えるかもしれませんが、そうは思わない人間もいる、考えたい人間もいる、ということをご理解下さい。--MEGEVAND (会話) 2014年5月27日 (火) 08:46 (UTC)[返信]
出鱈目だといっているのはその上の部分です。本当に本当に分からないんですか。
単刊を『』と言っているのですから短編や論文はそれ以外、すなわち作品集や全集に収録されているものということに自然になるのですが、なにを調べるとおっしゃっているのかわかりません。作品集にも全集にも未収録のものは短編でも『』かもしれないとかそういうことですか? 漱石や三島にそんなものがあるでしょうか。--新続頭痛会話2014年5月27日 (火) 09:08 (UTC)[返信]
  • ご説明、ありがとうございます。「短編や論文はそれ以外、すなわち作品集や全集に収録されているものということに自然になる」ということを、私は良く分からせて頂きました。「作品集にも全集にも未収録のものは短編でも『』かもしれないとかそういうことですか」とのことですが、これはあり得る話でしょうか?また、短編が単独で出版されることはありますでしょうか?ありえるとすれば、今回の凡例の件を超えて、みしまるももさんが問題にされている「(小説の)長さ」というのが次の話題になるんだと思います。
  • 今回の凡例のように、作品集や全集に収録されているという前提があるから、短編が「」で括られるのだということは、実はこの井戸端でも皆さんがずっと仰っていることです。ですが、この井戸端や関連の議論でみしまるももさんが問題とされているのは、「頭痛さんは、もしかしたら、そのような作品集や全集に収録されていない短編でも、長い、短いという長さの基準だけで「」で括ってしまおうと言っておられる」ということだと、私は思うのです。このあたり、そういうこと、すなわち作品集や全集に収録されていない短編というものが実際にあるのか、という事実確認を頭痛さんに、そしてみしまるももさんには、上記の問題点に関する私の解釈が合っているのかという確認をしたいと思うのですが、、、、。--MEGEVAND (会話) 2014年5月27日 (火) 10:51 (UTC)[返信]
整理しますね。私の解釈が大いに入っているということは承知ですので、言わんとするところが合っているのか教えて下さい。そして誤りがあれば、それを追求するのではなく、端的にご指摘のみしてください。
  • およそ「短編」といわれるものは作品集や全集に収録される。そういうい収蔵関係があるから短編は「」で括る。、、、というのが頭痛さんの主張であり、現行のガイドラインが「短編は「」で括る」としている所以
  • いや、「短編」といっても、収蔵されていない、単独で刊行されたものもあって、そういうのは『』で括る場合もあるのではないか。単に「小説の長さ」だけをもって全ての短編は「」で括るというのは、ちょっと乱暴ではないか、、、、というのがみしまるももさんの主張。
  • ikedat76さんを始め幾人かの方々は、そういう収蔵関係を基準にWikipediaのガイドラインを作るのは無理があるから、その枠組みを取り払って考えてはどうか、とコメントした、、、、というのがここの井戸端のおおよその「まとめ」。
以上です。ご確認ください。--MEGEVAND (会話) 2014年5月27日 (火) 11:10 (UTC)[返信]

頭痛さんは少し落ち着いて私の言ったことを、よく把握していただけますか? 私が前に言ったことと、今回言っていることはどちらも同じで、「私は、長編を『』、短編を「」と常に一貫して区別するという表記を見たことがない」という主旨の意味です。これは「頭痛さん方式の基準」のことを指していっているんです。そして今回、頭痛さんが示した凡例は、以下のようなものです。

  • 書名は『 』、論文・短編作品等・誌紙会報等は「 」で表記するのを原則

これは「書籍は『』」となっており、「長編」とは書いていません。これが長編だけの書籍なのか、短編の書籍(英霊の声など)も含んでいるのかは、その凡例の前後の文章全体と、実際の中身をよく見てみないと分からないので、私は後日これを確認してからコメントします、ということです。

そうしないと、例えば、本当に短編『英霊の声』(書籍になった)が、短編だからといって常に「」表記になっているのか、長編『十日の菊』(単独で書籍になってない)はどんな表記になっているのかを、実際に見てみないことには、本当に常に短編が「」表記という基準なのか、書籍になってない短編のみ限定で「」表記なのかが不明だからです。

それと、短編『憂国』は、初刊では『スタア』という本の中の一収録作品で、単独書籍になってません。『憂国』は後に映画化された時に、映画シナリオなどと共に『映画版 憂国』として刊行されましたが、厳密には『憂国』の名で単独刊行されていないものです。なので、『憂国』が本当に常に「」表記なのかも気になるところです。なぜかというと、三島の評論などで、短編『憂国』を、他の長編との区別において「」表記にしているものを、私は見たことがないからです。そして頭痛さんの方式は、短編は常に「」表記基準でしたので、果たしてその凡例が、そのような基準を意味しているのか確認したいからです。これはMEGEVANDさんのおっしゃっている意味とほぼ同じ意味合いのことです。--みしまるもも会話2014年5月27日 (火) 11:25 (UTC)[返信]

  • みしまるももさん、申し訳ないのですが、いましばらくコメントを控えて頂けないでしょうか。これまで、おふたりで直接話されることで過熱するあまり、上手くいかなかったという経緯がありますので、いましばらくは、とりあえず上記の事実確認だけをさせて下さい。私もよく他の方とすることですが、何が問題になっていて、何を理解してもらっているのかが双方で噛み合ないと議論は上手くいきません。そういう意味で、言葉は悪いですが、たしかにみしまるももさんは、一度に色々なことをコメントに詰め込みすぎて相手を困憊させている、あるいは苛立たせている傾向があるように思います。コメントの内容の問題ではありません。順序良く整理しましょうということですので、ご理解下さい。--MEGEVAND (会話) 2014年5月27日 (火) 11:36 (UTC)[返信]

とりあえず、まとめられた点について以下コメントいたします。

>およそ「短編」といわれるものは作品集や全集に収録される。そういうい収蔵関係があるから短編は「」で括る。、、、というのが頭痛さんの主張であり、現行のガイドラインが「短編は「」で括る」としている所以

違います。私の主張は単純に、現状のガイドライン(Wikipedia:表記ガイド#著作物名)の文面について、「短編小説」というものは一般通念として「比較的長大な作品」ではなく「比較的短小な作品」と解するのが日本語として自然な理解であろう、大方の人はそう理解するだろう、ということに過ぎません(「短小な作品」の例にある「論文」と「短編小説」は似たところが多い、というのも理由のひとつです)。実質的にそれ以上のことはほぼ何も言ってません。ただ「短編というのは蓋然的になにかに収録されるかたちで受容されることが多いものだから、論文の書式と同じように「」で括ることには合理性があるだろう」というようなことはどこかに書いたと思います。

>いや、「短編」といっても、収蔵されていない、単独で刊行されたものもあって、そういうのは『』で括る場合もあるのではないか。単に「小説の長さ」だけをもって全ての短編は「」で括るというのは、ちょっと乱暴ではないか、、、、というのがみしまるももさんの主張。

短編と言いうる長さのものが単独で刊行されることがあることは否定していませんし、短編だけど単独で刊行されるのが通例になっているような作品なのであれば「書名」と見なして『』でくくれば良いと思います。それはガイドラインの可能な解釈の範囲でしょう。ただし「ある短編が表題となっている作品集」があるからといってその「短編」を特別視して『』でくくる、というのは錯誤です。「表題となっている短編作品(一短編作品)」と「その短編を表題にしている短編集(本)」はそれぞれ別の物だからです。
みしまるももさんの言っていることはむしろ、短編でも単独で刊行されることがあり、長編でも複数収録されるかたちで刊行されることもあるのだから、長編(比較的長大な作品→『』)と短編(比較的短小な作品→「」)という区別の仕方がそもそもできない、ということでしょう。

>ikedat76さんを始め幾人かの方々は、そういう収蔵関係を基準にWikipediaのガイドラインを作るのは無理があるから、その枠組みを取り払って考えてはどうか、とコメントした、、、、というのがここの井戸端のおおよその「まとめ」。

違うでしょう。上述したように「収録関係を基準にガイドラインを作る」ということは私は述べていません。むしろikedat76氏やねこぱんだ氏といった方々は「現状のガイドラインは収録関係を示す場合のみ(『○○』に収録されている「○○」)のことが書かれており、収録関係を離れた事柄については書かれていない」ということを述べられていたと思います(その上でikedat76氏は、収録関係を離れた部分については外部の資料を参照して別途考えるのがよいだろう、ということを述べられていたと思います)。それに対して私は「比較的長大」「比較的短小」というふうに書かれているのだから、ガイドラインの文面は収録関係以外の(蓋然的な)「長さ」の面にも及んでいる、ということを述べたのです。--新続頭痛会話2014年5月27日 (火) 13:25 (UTC)[返信]

門外漢ですが、一言。素人故、見当違いであれば黙殺下さい。仲裁に入ってもらっているMegevandBesanconさんは本当にお疲れ様です。ひとまずは不本意でもMegevandBesaconさんの進め方に、頭痛さんもみしまるさんも従っていただくのが良いのかなと思います。ただ、MegevandBesanconさんの進め方を見ていて気になるのは、果たしてみなさんがゴールをどこに設定し、どこを目指しているのかいないのか、どの分野にその統一性を適用していくかという事がまず明確になっているのかという疑問があります。それこそまずは議論の前に適用できる分野を限定の上で、『』「」の具体的用例や使用分布を丹念に抽出し、判断材料を同じテーブルの上に載せて、丹念に定量的にどの用法が適切であり、統一する必要があるのかと推し進めていくしかないという事ですよね。ikedatさんは官公庁等の統一的な規則が存在するかどうかを丹念に調査の上で、それを導入の指針とすることで見解の相違における無駄な議論や膨大な調査はさけられるのではないかと触れられていましたが、頭痛さんとみしまるさんは、まずそこに合意しているのかという事。そしてどれを収斂の指針とすれば合意できるのかというところでの話し合いはつく見込みはあるのでしょうか。議論の構造的には、使用例の具体的な数と質について丹念にすり合わせもマイルストーンの設定も行われておらず、またどれを一つのたたき台とするかすらも合意ができていません。(現在は夏目漱石辞典、あるいは三島由紀夫辞典のみでしょうか・・・)、また、それを導入した場合の執筆者、読者の各メリットや運用コストはいかがなものかという観点もあまり話されていないような気がします。頭痛さんの見解は結局素人目には解釈論を統一したいという目論見に関するところでしょうが、同様の論理構造や議論構造の参考例として[[Template‐ノート:See also]があげられます。特定の複数の用例をもって、汎用的に統一的な方針を固めるべきか、そうでないかという判断では、そういったいくつかの前提を抜きに議論が開始され、最終的に合意に至らず物別れになるケースは残念ながら存在しており、同じところに入らないように、ある程度の見切りをつけて議論の進め方を決めて行ったほうがいいです。仲裁に入る方もエントリーとエグジットラインの設定をしたほうがいいとは思います。でないと苦労の上で対価があがらないと参加している皆様も仲裁者も疲弊してしまいますので。そこまで見越して議論を進める方法もあるということはご留意頂くのもよろしいのではと思います。特に頭痛さんはそれらの経験を踏まえて、自分がどこに進みたいのか?またそのためにどういった進め方をするのか。コメント依頼で足場の構築を理解しているような事を仰っていたので、いい加減同じことを繰り返さずに自分だけでなく巻き込まれた方々の心情や理解のレベルを踏まえて議論のマイルストーンの設定や共通の足場の組める見込み、またゴール設定や議論後にすっきりとした後味を持たれるような進め方、あるいは終わり方に、きちんと配慮を持ってほしいです。--119.72.198.162 2014年5月27日 (火) 13:58 (UTC)[返信]
  • まず、119.72.198.162さん、こんにちは。私も門外漢ですので、どのスタイルに統一するとかという意見は個人的には分からないのですが、頭痛さんとみしまるももさんのお二人の言っておられることの、なんというかもつれみたいなものを解くことができれば良いのかなと思っています。119.72.198.162さんが、これからタイミングを見て、今度は仲裁ではなく、着地点を提示して頂くのも良いと思います。私も出来るだけ、門外漢なりに着地点を探ってみたいと思いますが、おかしければ遠慮せずに立ち入ってきて下さい。ただ注意すべきは、お二人には極めて中立的な立場でコメントするべきだということです。ここ最近、お二人を悪く思い、悪く言う人が多いですから、そういう気持ちでコメントするのであれば、火に油です。
  • 「ただ「短編というのは蓋然的になにかに収録されるかたちで受容されることが多いものだから、論文の書式と同じように「」で括ることには合理性があるだろう」」
  • 「短編だけど単独で刊行されるのが通例になっているような作品なのであれば「書名」と見なして『』でくくれば良いと思います。それはガイドラインの可能な解釈の範囲でしょう」
として、必ずしもみしまるももさんの主張をまっこう否定していないということを、私は確認しましたが、みしまるももさんはどのようにお考えでしょうか。しかし、その後ですぐに、
  • 「「ある短編が表題となっている作品集」があるからといってその「短編」を特別視して『』でくくる、というのは錯誤です」
と言っておられます。これは、門外漢の私ですので、はっきりと確信をもって分かったとは言えないのですが、AAAという短編集の中に、表題と同じAAAという短編と、その他BBB,CCC,DDD、...YYYが収録されていてるとします。ですが、AAAだけを『AAA』とするのではなく、他と一律に「AAA」とするべきでは、ということでしょうか。そうだとすれば、これについてはどうお考えでしょうか。私はこのあたりは意見を言うだけの知識がありませんので、コメントは控えます。
  • 頭痛さんのコメントの中に、「みしまるももさんの言っていることはむしろ、短編でも単独で刊行されることがあり、長編でも複数収録されるかたちで刊行されることもあるのだから、長編(比較的長大な作品→『』)と短編(比較的短小な作品→「」)という区別の仕方がそもそもできない、ということでしょう」と仰っていることは、私もその通りだと思います。みしまるももさんは如何でしょうか。認識に間違いがあれば、端的に間違いだけを指摘して下さい。
  • 最後に、ikedat76さんやねこぱんださんのコメントに関しても理解できました。ここまでで、ルールを改めて見直す上で考えるべきことは、
#収録関係の有る場合の表記の仕方
  1. 収録関係の離れた場合の表記の仕方
    1. その際に「比較的長大」「比較的短小」という蓋然的な長さで比較的長大なものを『』、比較的短小なものを「」とするのか(ただその場合、長さの基準は決めた方が良いと思います)
    2. 私の意見のように一律『』(あるいは「」)とするのか
ということだと思いますが如何でしょうか。まとまっていますでしょうか。間違いがあれば、指摘して下さい。--MEGEVAND (会話) 2014年5月27日 (火) 21:19 (UTC)[返信]
論点のまとめとしてはそれでよろしいかと思います。ありがとうございます。--新続頭痛会話2014年5月28日 (水) 02:37 (UTC)[返信]


MEGEVANDさん、119.72.198.162さんありがとうございます。解りやすく具体例で申し上げますと、川端康成の短編小説『伊豆の踊子』は、何度も様々な出版社から重版され、初刊本の時から常に何らかの他作品の収録を伴って刊行されていますが、頭痛さんのお考えでは、単独刊行ではないから「伊豆の踊子」にするべきだという基準です。これは坂口安吾の評論『堕落論』や短編『白痴』を頭痛さんが、坂口安吾記事内で「」表記に直したことからもお分かりになると思います。

その一方、私の主張は、『伊豆の踊子』は常にいつも表題作であり、同時収録される他作品はその度に変化しているものであり、たまたま出版社の都合で一緒に収録されているだけの関係性でしかないので、『伊豆の踊子』は『』表記で語れてしかるべきだという考えです。これは、出版社が本を刊行する際、短い作品をそれのみで書籍にすると非常に薄い本になるために、他の作品と抱き合わせで刊行するというだけの理由ですので、短編あるいは中編が他の作品と一緒に刊行されやすいという理由で、表記が変るのはおかしいのではないかという理由です。これは長編物でも単独収録でない場合もあるからというのもあります(『十日の菊』の例)。

そして、『伊豆の踊子』(新潮文庫)の巻末解説の「川端康成 人と作品」や「年譜」でも、短編も中編も長編も区別なく川端作品はすべて同じ『』表記になっています。これは三島由紀夫の『金閣寺』(新潮文庫)内の「三島由紀夫 人と作品」でも同様です。また、大江健三郎の作品集『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(講談社文芸文庫)の大江自身の解説や「作家案内」も、表題作も自身の長編も同じ『』表記で、渡辺広士の解説中に出てくる三島の『英霊の声』『憂国』も同表記でした。だいたい多くの解説文や全集を見ても、このように長編も中編も短編も区別なく、同じ場面や同じ条件下では同表記となっています。--みしまるもも会話2014年5月28日 (水) 03:39 (UTC)[返信]

  • 具体的な用例を示して頂きました。まずはありがとうございます。ですが、こういう例というのは参考になると思いますが、出版社によってもしかしたら別の表記方法があったりして(あくまでも仮定です)、Wikipediaとして運用するためには、やはり編集者間での合意と申しますか、擦り合わせが必要だと思いますが如何でしょうか。ここまで、頭痛さんも、みしまるももさんも、お互いの知識や考えの範囲内でコメントや具体例を示して、「私の言っていることは間違いがない」ということを証明しようとされていたと思います。しかし傍から見ていますと、門外漢故なのか、どちらも間違ったことを言っているようには思えませんでした。そして、そのことは直近の頭痛さんのコメントからも伺えます。どちらも正しいことを言っておられるのです。だがお互いの、というより、Wikipediaとしての合意を得るためには、妥協して頂かなければいけない、あるいは包括して認めて頂く必要もあるかと思いますので、「自分はこうだと思う」という部分は大事に持ちつつ、「他の人はこう言っている。どのように擦り合わせが出来るだろう」という姿勢で臨んで頂きたく思います。
  • さて、今回のまとめと頭痛さんからのコメントで、「「ある短編が表題となっている作品集」があるからといってその「短編」を特別視して『』でくくる、というのは錯誤です」というあたりに、お二人のもつれの原因があると確認することができました。どうでしょうか。みしまるももさんからは、「伊豆の踊り子」(私がつける括弧は今回の話合いのそれと一切関係ありません)の例をあげて頂きました。その他の例も、「伊豆の踊り子」と同様、作品の解説として小説名を挙げる場合のこととして、その中では収録関係に関わらず『』で出されていた、という理解でよろしいでしょうか。
  • では、ですが、上記の私と頭痛さんのやりとりは見て頂いているでしょうか?頭痛さんは、短編でも単独で刊行されれば『』で良いと仰っておられます。しかし「「ある短編が表題となっている作品集」があるからといってその「短編」を特別視して『』でくくる」のはダメであるとしておられます。このことについてのみしまるももさんのご意見と、作品としては収録関係にあっても解説内では収録関係にしてしまっては「絶対にだめ」(妥協として絶対受け入れられない)であることの理由があるのか、ご見解をお願いできますか。よろしくお願いします。--MEGEVAND (会話) 2014年5月28日 (水) 07:57 (UTC)[返信]

頭痛さんの考えでは、書籍と、その作品本体は別だから、短編の表題作も他の収録作品も、常に同じ「」表記にするべきだという意見だと思いますが、それならば、一個だけの収録の長編においても、書き下ろしでない限りは、刊行書籍と、作品本体は厳密に言えば別であることは同様だと思います。その作品自体を解説する場合において、その作品が刊行された時の収録数が2個以上だと「」表記になり、1個だと『』になるというは、ちょっと変な理屈だと思います。これは年譜などで、雑誌掲載時の作品を表わす時に、長編も短編も「」表記になっていることから見ても、書籍ではない「作品本体」を見る時は、長編も短編も同等になっており、同じ表記になっているからです。

また例えば、川端康成の代表作などを並べる時に、『浅草紅団』「伊豆の踊子」『雪国』『千羽鶴』『舞姫』「眠れる美女」「片腕」と表記するのには、違和感がありますし、そんなことまですることに何の意味があるのか不思議に思います。長編『千羽鶴』の初刊には、『山の音』が収録されてますので、「千羽鶴」にしなければいけないのかとか、長編『浅草紅団』も他の短編と同時収録なので、「浅草紅団」とするのかとか、三島の短編でも通常の収録本とは別途に単独の豪華本がある場合もあり、どの書籍を基準にするのかとか、様々な混乱も生まれます。そういう区別は、個人の評論本でやるのはいいとしても、多くの作品や作家を対象としているWikipedia上で、多くの人が執筆する所でそれをやるのは混乱の元になり、そこまでして区別する必要性も感じません。それは何故かというと、文学作品本体に対して、書籍というのは流動的であり、多種類あるので、単独で作品本体を語る時に、書籍のことを常に念頭に入れる必要がそんなにあるとは思わないからです。

それと、MEGEVANDさんの質問のお答えですが、『伊豆の踊子』以外でも、中編『眠れる美女』も収録に関係なく、『』表記です。新潮文庫の川端、三島、谷崎の解説文は、大体作品名は『』表記です。ちなみに『別冊太陽 三島由紀夫』(平凡社、2010年)では、いろんな人が寄稿してますが、作品名(長短かかわらず)は「」表記で、書籍を示す時は『』になってます。もしも短編を作品本体で示す時に「」表記になるなら、やはり、このように長編も同じように「」表記になるのが普通だと思われます。--みしまるもも会話2014年5月28日 (水) 12:14 (UTC)[返信]

  • ご説明ありがとうございました。それではですが、みしまるももさんとしては、小説の長短に関わらず『』か「」で統一するのが良いということを仰っているということでしょうか。しかし現行のガイドラインでは、小説の長短が判断の基準として挙げられています。ですから、現行のガイドラインに沿って、頭痛さんがこれまで長短を問題にされ、さらに大きな傾向として短編といわれるものは収録されることが多いということから、これまでの編集をされたと理解できると思いますが、如何でしょうか。
  • さて、ここからは私は具体的にどうしたら良いのか分かりませんが、とりあえず、頭痛さんにおかれましては、上記のみしまるももさんの説明、特に川端や三島の例に関してどうお考えでしょうか。私はこの説明を読みますと、たしかにどの書籍を基準にするかで収録関係が変わってくるのであれば、編集する側も確かにややこしいし、今回のようなたえず燻る論争の火種であると思います。なにはともあれ、頭痛さんのご意見を伺いたいと思います。できるだけ誰の目にも刺激の少ない表現、ズバリみしまるももさんを強く非難するような表現はご遠慮頂きたいと思います。ここまで、頭痛さんも、みしまるももさんも、問題の無いコメントをされてきておられますので、続けてお願いいたします。--MEGEVAND (会話) 2014年5月28日 (水) 22:36 (UTC)[返信]


(MEGEVANDさんへ) 私の意見は、同じ状況下で語る際には、小説の長短に関わらず『』か「」に表記するという理解でいいです。それとMEGEVANDは、「しかし現行のガイドラインでは、小説の長短が判断の基準として挙げられています」とおっしゃってますが、私がそうは思わないことは、これまでの井戸端のそもそもの問題提起を見てもお分かりになると思います。でも、そのことはここでは繰り返しません。それに関連し、私が以前に「長編と短編を区別するという理由」(作品の長短の理由)の元で、短編を常に「」表記にして区別するのを見たことがないといっていた意味を少し具体的にご説明したいと思います。

私は表記ガイドのノートでも、三島の初期短編を「」表記している評論家など少数いることなどに少し触れてますが、こういうふうに短編を「」表記にする書き方をしている人の基準をよく見ると、短編だけではなくて長編物の「十日の菊」(単独刊行なし)や「黒蜥蜴」(8年後に刊行)も「」表記になっており、長短を理由にしているのではなくて、書籍になっていないものを「」表記にしています。これは同じ長さの作品のものが、『サド侯爵夫人』「熱帯樹」「喜びの琴」となっていることや、短編的な長さの『鹿鳴館』が『』表記であることからも、短編長編を区別する理由ではなく、単独書籍になっているか否かの基準ということです。

なので、このような少数派的な区別の仕方において、短編は一見「」表記になってはいましたが、それは短編が単独刊行されることが少ないために、おのずからそうなっているという理由の元であり、「長編と短編を区別するという理由」の元での区別ではないために、私はそのことを指して、短編を長編との区別において、常に「」表記にしているのを見たことがない言っていたので、その根拠を、一応この機会に具体的に申し上げておきます。--みしまるもも会話2014年5月29日 (木) 01:14 (UTC)[返信]


(MEGEVAND氏へのお答え)「どの書籍を基準にするかで収録関係が変わってくるのであれば・・・」というところですが、「比較的短小」とか「比較的長大」というガイドラインの文言は「収録関係」ではない、という私の意見を確認したばかりであったと思います。「短編でも単独で出版されることが通例になっている作品であれば・・・」というのは、例えば単行本でも文庫でもずっとその短編単独で刊行され続けているような作品であれば、その短編名はすなわちその短編それ自体をそのままその内容とする一冊の書籍の名前でもあると蓋然的に解されるということですから、一書籍として『』で括るのが自然と思われるのであれば『』を使ってもガイドラインの可能な解釈の範囲だろう、ということです。「通例であれば」と書いているように、いくつかあるうちのどれか特定の書籍に拠って決める、ということを述べているのではありません。
みしまるももさんのコメントも付いているのでとりあえず短くここで切りますが、不足や疑問点があれば教えてください。--新続頭痛会話2014年5月29日 (木) 01:34 (UTC)[返信]
  • お二人とも説明ありがとうございます。
  • 頭痛さんのお考えでは、『』か「」は純粋に「小説の長短」によって判断する、と理解してよろしいでしょうか。個別の小説の例は、一般的に短編が作品集に所蔵されるケースが多いのだ、ということを示すに過ぎないということですね。では、みしまるももさんが例に挙げられた「十日の菊」、これは単独刊行されていない、長さとしては長編の部類に入る小説らしいですが、これは頭痛さんのご判断では、『』でくくるということでしょうか。それと、もしよろしければ、どこからどこまでの長さを「長編」とし「短編」とするのか、その判断の基準を教えて頂けますか。お願いします(中編はとりあえず脇に置いておきましょう)。
  • みしまるももさんは、個別の小説の例をみれば、「小説の長短」で『』や「」を決められるほど統一されているとは言いがたいので、漱石なら漱石の作品をざっと列挙して説明するページでは、すべてをどちらかに統一する方が良いということですね。さて、現行のガイドラインでは「比較的長大な作品あるいは作品群」また「比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品」という文言がありますが、これをもってしては、「小説の長短が判断の基準として挙げられている」とは言えないということでしょうか。「説明を繰り返さない」と言われてて、ご面倒かとは思いますが、簡潔になぜそう思われるのかを教えて頂けますか。お願いします。
  • 上記までの私の理解が正しければ、ですが、頭痛さんとみしまるももさんの間では、「小説の長短」を判断基準に含めるかどうかで紛糾しているということだと思いました。しかし、そこに収録関係の具体例が挙げられ、このことが傍から見て何が問題の焦点になっているのかが分かりづらいものがありました。具体例を挙げられたのは、それが頭痛さんにとっては、長短が収録関係に反映されやすいという「傾向」を示すためのものであり、かたや、みしまるももさんにとっては、長短でも収録関係にばらつぎがるという「傾向に対する反例」を示すためのものであったと思います。この点に関しても、頭痛さんの「傾向」を考慮するのか、しないのかで、その先の対処が変わってきます。「傾向を考慮する」のであれば、長短の基準を話し合って、長いものは『』、短いものは「」で統一すれば良いでしょう。「反例があるので傾向を考慮しない」のであれば、みしまるももさんに言われるように、長短に関わらず、『』か「」のどちらかで説明を統一すれば良いでしょう。、、、、、というこれまでのまとめになりますが、お二人のお考えていることに対する、私の勘違いがあったら指摘してください。--MEGEVAND (会話) 2014年5月29日 (木) 07:34 (UTC)[返信]
順番に説明します。もう一度Wikipedia:表記ガイド#著作物名に戻りますが、ここには
  • 比較的長大な作品あるいは作品群(例・・・)は、和文では『 』で囲み(後略)
  • 比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(例・・・)は、和文では「 」(後略)
とあります。何度も議論に挙がっている部分です。ここで、「比較的長大な作品」/「比較的短小な作品」という対と、「作品群」/「作品群に含まれる単一の作品」という対、二組の対が書かれていることは理解していただけると思います。「長大/短小」というのは(私の理解では)「作品の長さ」です。「作品群/作品群に含まれる作品」というのは「収録関係」です。従って表記ガイドには「長さ」と「収録関係」という二つの基準が書かれている、というのが私の理解です。
その上で、「長さ」と「収録関係」の間の優先度はガイドラインから読み取ることはできません。つまり、「明らかに長大な作品だけど、作品集の中で他の作品と一所に収録されている場合」や「明らかに短小だけれど、常に単独で本などのかたちで出版されている場合」などをどうすべきかはガイドライン上はわからない(つまり『』と「」のどちらを使っても間違いとはいえない)のです。これは現状のガイドラインの「曖昧な部分」です。
同じように、小説の長さについてどこからどこまでを「長編」「短編」とするか、ということもわかりません。それは研究者や評者によって感覚が違います。しかしガイドラインの「比較的長大な作品あるいは作品群」の例に「書名」とあることから考えれば、「本一冊分の長さ」は「比較的長大な作品」としてガイドライン上は扱われる、と考えることができると思います(もちろん、本の長さは本によって違いますが、それはガイドラインでは考慮されているようには見えません)。
従ってガイドライン上は、「単独で刊行された小説・単独刊行されるのが通例になっている小説」あるいは「刊行されなかったが、刊行されれば単独刊行されることが予想できる程度の長さの小説」は「比較的長大な作品」のカテゴリーに入り、「作品集のかたちで刊行された小説・されるのが通例になっている小説」あるいは「書籍刊行されなかったが、刊行されれば作品集に収録されることが予想できる程度の長さの小説」は「比較的短小な作品」のカテゴリーに入ると蓋然的に考えうる、というのが私の意見です。もちろん、このように考えても曖昧な部分・境界的な部分は存在します。--新続頭痛会話2014年5月29日 (木) 09:44 (UTC)[返信]

MEGEVANDさん要約ありがとうございます。私はそもそも、一見短編を「」表記にしているもの(長短で区別ではない)はあるものの、長編と短編の表記を使い分けしている事例は、いままで全集や文庫の解説文でも見たことがないため、各々同等の小説同士を、「作品の長短」で区別するという発想そのものがないのです。どちらも同じ「小説」だから、何故表記を変えなくてはいけないのか、というのが私の基本的考えです。「短編」とは便宜上名付けられてはいますが、中身も質も同じ小説で、一定の長さとブロットのある同じ文学作品だからです。同じく文学作品である戯曲はこのような名付けの区分けはなく、全部「戯曲」と呼ばれます。

表記ガイドの「比較的短小な作品」というのも、その()内の説明から自然に「章」「幕」「楽章」のことだと解釈でき、「比較的長大な作品」には()内に書名、戯曲、映画があるので、そこに小説も当然この中に入るものと私は思ってました。なので、独立した単一の個別作品(小説、戯曲、映画、交響曲)との比較においての、「章」「幕」「楽章」が「比較的短小」であり、そしてこれとの比較において「長大」と見なすのが、プロットや構成を持つ小説や戯曲や交響曲のことだというのが私の理解です。短編小説は数多く、映画や芝居の原作(一例、火垂るの墓伊豆の踊子橋づくし)になっていますので、同じカテゴリーに入り、同じ表記になるというのが解釈として自然だというのが私の考えです。

そして短編小説を「」で表記したいという時は、収録されている書籍との関係上で、そのような表記は許容されていると思いますので、それを記事内でそう表記するのは、その執筆者の裁量でやっても構わないことだと思っています。なので、頭痛さんが例えば、ポーの経歴の記述の中で、短編小説を「」表記にするのは特に問題のないことだと思います。--みしまるもも会話2014年5月29日 (木) 12:37 (UTC)[返信]

2014年6月7日〜

[編集]
  • 席を長らく外していました。その予告もなく何の返事もしなかったことをお詫びいたします。さて、上の2014年5月29日 (木) 09:44 (UTC)の頭痛さんのご説明ですが、大変分かりやすいと思いました。2つの基準が存在しているのですね。頭痛さんの説明を読んで、やはり「曖昧な部分」が紛糾する原因ではないかと思いますが、今までみしまるももさんとの間で、具体的に紛糾した例をあげて頂けますか?過去の議論を見ろと言われればそれまでですが、ちょっと膨大で全部を見返す勇気がありません。よろしくお願いします。
  • それと、2014年5月29日 (木) 12:37 (UTC)のみしまるももさんのご説明に対して、頭痛さんの考えることをお聞かせください。みしまるももさんは上記の頭痛さんの考えを「各々同等の小説同士を、「作品の長短」で区別するという発想そのものがない」から、「」と『』が混在するのはどうだろうか、というご意見だったと思います。私の意見としましては、当初からすべて「」か『』で括ったら良いという発想ですので、みしまるももさんのお考えも良く分かるのです。もし、みしまるももさんの方法で、「」と『』が「混在しなくてはならない」例があるとすれば、交響曲の例に挙げられたように構造(収録)的な関係を示す場合のみで良いのではないでしょうか。
  • 今のところ、両氏のお考えも良く理解できますが、曖昧さの不安要素を抱えている頭痛さんのお考えに、少し不安を覚えます。もちろん、頭痛さんはこの私に意見に対して反論したいことは色々あると思いますが、極力冷静にコメントをしてください。以上、念のためにお願いをしておきます。--MEGEVAND (会話) 2014年6月7日 (土) 08:06 (UTC)[返信]
ご負担をおかけしてすいません。順番にご質問に答えたいのですが、どうもどうしても長くなってしまいそうなので、まず最初の質問(「紛糾した具体例」)についてだけ答えさせてください。
具体例については、みしまるももさんから何度か坂口安吾の「二流の人」はどうするのか、といった話が出ています。これは中編小説ですが、作品集ではなく単独刊行されたという例です。これについて議論中論点が多数出すぎていたため具体的な返答はしていなかったのですが、以下書きます。
  • まず「単独刊行された」と言われている「二流の人」初刊本は1947年、九州書房から「中編小説新書」として出された99ページの薄い本です[2]。そのすぐ翌年に同じタイトルの作品集が思索社から出し直されており、表題作として収録されています[3]。最初の本が売れ続けていれば普通に考えて同じタイトルの作品集は出さないでしょうから、初刊本のほうはおそらくほぼ1年ほどの間流通していただけということになるでしょう。その後「二流の人」は角川文庫『道鏡・二流の人』・『白痴・二流の人』、講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』に収録される形で刊行されましたが、いずれも作品集のかたちで単独刊行ではありません。要するに刊行点数としても刊行期間としても作品集収録のかたちを取っていることが圧倒的に多いのです。
  • しかしそのような予備知識が一切なくとも、普通の文庫本で100ページ程、という量は単独刊行よりも作品集のかたちで刊行されることが圧倒的に多い分量であることは常識的にわかると思います。「単独刊行されることが多いならば『』でくくればいいのではないか」という私の意見をふまえたうえでなお、このケースをどうすればいいかわからない、という意見を出されることのほうが私にはよく理解できません。特に「初刊本」に対して言及する文章であるなら「書籍」として『』でくくってよいだろうし、単に作品としてなら普通は作品集にはいる長さのものとして「」でくくると考えることができると思います(無論私の考えに従えば、です)。
とりあえずよろしいでしょうか。疑問点などがなければ2番目のご質問の返答を行いたいので、なんらかの反応をお願いします(MEGEVANDさん)。--新続頭痛会話2014年6月7日 (土) 12:42 (UTC)[返信]

ありがとうございます。少し長くなりますが、次に「2014年5月29日 (木) 12:37 (UTC)のみしまるももさんのコメントについて考えるところ」を書きます。

  • まず誤解しないで欲しいのですが、私は「長短関わらず「」か『』でくくる」という方法にメリットがないとか、そのような意見が理解できないとか、そのような方法はありえないとか主張しているのではまったくありません。括弧をつける側から見ればそのほうが明らかに分かりやすいですし、Wikipedia内はともかく、Wikipediaの外部でどちらのほうが多いかといったら特に長短を区別せずにどちらかの括弧でくくるやり方のほうが多いでしょう。私はいくつかの理由(実際に書くときにメリットを感じる、類似のジャンル(学術的著作や漫画など)と足並みをそろえられる、英語版と合う、など)から、一利用者として「長短を区別するやり方」を推すと言っているだけであって、長短を区別しないほうがいいのではないか、という意見自体は十分理解できます。
  • しかし、みしまるももさんのコメントは理解できません。「「比較的短小な作品」というのも、その()内の説明から自然に「章」「幕」「楽章」のことだと解釈でき」というコメントですが、この解釈の不自然さは下に移動されたコメントでT6n8さんが指摘されています。みしまるももさんはこれに対して、「論文」は学術上の慣習が、「シングル」にはプロジェクトの決まりがあり、「短詩」は記事になるのは詩集だから、と返答されています。具体例に3つも例外があり、しかもそれぞれ例外の理由が異なるようなものが混じっているところでどうして上のように「自然に解釈」できるでしょうか。短詩も単独で特筆性を持つようなものはいくらでも思いつきますし、現に作られています。あまりにも不自然で、強引です。
  • またみしまるももさんは「長編と短編の表記を使い分けしている事例は、いままで全集や文庫の解説文でも見たことがない」「「作品の長短」で区別するという発想そのものが(自分には)ない」ということを表明されています。これもこれだけのことならば十分理解できるコメントです。見たことがない、というのは個人の経験ですし、そのような発想がなかった、というのも個人の事例であって、個人の事例という範囲ではむしろ参考になるコメントでしょう。しかし、なぜこのことを「頭痛のガイドライン解釈は間違っていて、自分のガイドライン解釈が正しい」という根拠とされているのか、その点がまったく理解できません。
  • 少なくとも、私は海外文学の分野で短編と長編を分けている事例を紹介しました。そのうえでみしまるももさんは「それは海外文学だからであって、日本文学にはそういった考え方はない」という意見をずっと表明されています。しかし仮にそれが正しいとしても(そんなことはないと考えていますが、今はおきます)それならば「日本文学のことはあまり考えずにガイドラインが書かれた」のかもしれないし、「そもそもガイドラインの文言はあまり深く考えずに作られている」のかもしれませんよね。ガイドラインだってあらゆる事象に精通している人が作っているわけではないんですから。要するにみしまるももさんは、自分の考え方や経験から見てガイドラインが不合理に出来ている、という可能性を一切考慮せず、一足とびに「自分は長短で使い分けている事例を見たことがない。だから頭痛の解釈が間違っている」ということを主張され、その上で上記のような私には極めて強引と思われる解釈を正当化されようとしているのです。しかしこの「だから」は論理の飛躍であり、私には理解できず、受け入れがたいと思われるわけです。
  • 短編小説も長編小説と同じようにたくさん映画化されている、だから両者は価値としては同等である、というような意見も、これだけならまあ理解できます。文学作品の価値は長さで決まるわけではありません。一編の短編小説が長大な大河小説よりも価値がある、というようなことはいくらでもあります。しかし、「短編小説も長編小説も価値としては同等である。だからガイドラインが長短を区別しているという解釈は間違っている」というような意見は理解できません。仮にガイドラインが長短を区別しているのだとすれば、それは要するにガイドラインは「作品の価値」とは一切関係なく、作品の価値とは別の指標(長さ)で鉤括弧を使うと言っているというだけのことです。「ガイドラインが作品の価値を考慮していない可能性」を一切考慮せずに一足とびに上のような意見を「頭痛の解釈は間違っている」ということの直接の論拠とされる、この点に同じ論理の飛躍があります。もちろんみしまるももさんから見れば、作品の価値の同等性を考慮しないガイドラインは不合理だということになるのでしょう。しかしそれなら「不合理だから変えよう」ということを主張されるべきことなのであって、「不合理だから頭痛はおかしい」には少なくともダイレクトには結びつかないはずなのです。
  • 他にも「日本文学で長短を区別している事例」に関する点があるのですが、これは上記のコメント(5月29日 (木) 12:37 (UTC))上には直接触れられていないので端折ります。MEGEVANDさんはおそらくこの議論を「鉤括弧の使い方に二通りの方法があり、そのどちらがよいかで折り合いがついていない」から紛糾しているのだ考えておられるのだと思いますが、それは違います。上に見られるような類のさまざまな論理的飛躍をめぐって堂々巡りしているだけなのです。みしまるももさんは上のような論法で「頭痛の解釈が間違っている」という前提の上でガイドライン改訂議論を進められていましたが、もし本当に私の解釈が間違っているのだとすれば私は単純に間違った主張をしているだけということになりますから、意見も議論も必然的にガイドラインの解釈の話にその都度いちいち立ち戻らざるを得なくなります。議論が極めて不毛な様相を呈しているのはそのためで、構造的に不毛な議論にならざるをえないのです。
    付言すれば、私がいまだにこの場で議論を続けようとしているのは上のような議論進行上の問題を第三者に理解していただきたかったからです。「二通りの鉤括弧の使い方のどちらが優れているか」ということを決したいために続けているのではありません。
  • なお、私の考え方が「曖昧さの不安要素を抱えている」という点ですが、自分で何度も述べているようにその点は否定していません。下のKojidoiさんとの議論などでも述べていますが、単に曖昧な点が問題なのであれば完全にではなくても、若干の文言の追加でかなり明確化が図れると思っています。(論点が増えるので、ここではさしあたり具体的には触れないでおきます)

なるべく短くしようとはしたのですが、噛み砕いて説明しようとするとどうしても長くなりました。私が問題視している点を理解してもらえればいいのですが。--新続頭痛会話2014年6月7日 (土) 22:56 (UTC)[返信]

  • では、今度はみしまるももさんに確認させて下さい。「自分は長短で使い分けている事例を見たことがない。だから頭痛の解釈が間違っている」ということを実際思っていたり、コメントされたりしましたでしょうか。ガイドライン上の不備や曖昧さが残るのは、「頭痛さんの解釈の間違い」だということにならず、ガイドラインを解釈する上での一つの意見にすぎないというのは私も理解できるのですが、どうでしょうか。
  • ちょっと、坂口安吾の文を見てみたのですが、これなどはこれまでのお二人の説明と併せて見てみれば、(小説の長さや収録関係の事実関係はさて置き)頭痛さんは、ガイドラインの解釈のひとつとしてこの様な差し戻しをされたのだと思いますし、みしまるももさんは「」のみで統一されようとしたのが良く理解できます。ですが、やはりあの時点で(今もそうですが)、表記を巡っては、現状のガイドラインに沿って編集されようとした頭痛さんの方が「ルール上」正しかったと思います。というのは、表の井戸端でも私は意見として述べています。
  • ガイドラインの不備や曖昧さを議論するはずのところが、お互いの解釈を「そういう可能性がある」ではなく「間違っている」と判断してコメントをするならば、それはこじれてしまう可能性は大きいと思います。そのような議論態度にも、おふたりの紛糾の原因があるのではないでしょうか。頭痛さんも、全くそのような形跡がないかどうかは、私は詮索しませんし問いかけたりはしませんが、御自身で少し振り返ってみるのも良いではないかと思います。--MEGEVAND (会話) 2014年6月8日 (日) 07:41 (UTC)[返信]
  • それと頭痛さんに確認させて下さい。表でみしまるももさんは冒頭で「頭痛さんは、私とは違った「表記ガイド」の捉え方をし、短編小説はあくまでも「」で表記しなければいけないという主張をなさり、ノート:坂口安吾、坂口安吾においても、長編小説は『』で表記するが、短編小説は絶対にどんな時でも「」で表記しなくてならないという姿勢を崩さず、それに固執しています」と言われていますが、これは事実でしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年6月8日 (日) 07:50 (UTC)(訂正 --MEGEVAND (会話) 2014年6月8日 (日) 07:52 (UTC)[返信]


私が、(作品の長短を基準にすること)に疑問を持っているのは、「長短の基準で表記を変えるのを解説文や全集で見たことがない」という観点からだけではなくて、Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名(これは漫画の表記におけるプロジェクト:漫画#記事作成の指針でも推奨されていますが)の観点からも、作品の「長短で常に表記を区別する」という意味にはなっていないと思っているからです。このことはきちんと、井戸端の冒頭でも私は説明しております。

そこでは、作品の「長短で常に表記を区別する」という意味の基準ではなくて、収録関係上のことを示しているだけだと私は思いますし、事例でも、

  • (例:夏目漱石「坊っちゃん」(春陽堂刊『鶉籠』収録))

とあり、長編小説でも「」表記になっています。このことの意味を普通に見れば、時と場合によっては、長編小説も「」表記になるのですから、「同じ小説同士が、長短の関係で常に表記を区別しなければいけない」という意味ではないことは自然に読み取れると思いますが。

それから私がT6n8さんにご説明したことも、頭痛さんは私の部分的な言葉だけ拾い上げて纏めるようなことはなさらずに、真の意味をご理解願いたいと思います。私が言ったことの真意は、そこの「論文名」が収録関係を伴っていること(Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名)と、「短い詩」は『詩集』の中の一編として言及されることが多く(まったくないとは言ってません)、それも収録関係上のことを表わしている面が強いことから、それら(論文名、短詩)は「作品群に含まれる単一の作品」の方に入るのではないか、という意味です。「CDシングル曲」に関しては「複数収録作品であるアルバム」との区別を常に明らかにするということが、音楽ジャンルの表記で決まっており、その事実を述べただけです。そしてこれも、「CDシングル曲」が、「短い楽曲」だから「」表記になっているわけではないことは、お分かりいただけることだと思います。

最初に、坂口安吾の表記を私が「一旦」、作品名を『』にした意味については、元の版があまりにも基準がバラバラだったことと、普通の言葉の「」と混同しないように、暫定的に一旦『』にして、その後に年譜の項目から、収録関係上の「」に直しています。経歴のところも、アルバム解説本と照らし合わせて、刊行書籍との区別を考えながら、一つ一つきちんと吟味し、普通の言葉の表記は、“”にするなどして、作品名と混同しないようにきちんと変えていこうと思ってました。そして、その後頭痛さんが、年譜などで「収録関係を表わすところ」を、長編は全て『』に変えてしまったのは、上の「坊ちゃん」の事例から考えても、ガイドラインに沿った基準ではないと思います。

あと、中編小説『二流の人』に関しては、頭痛さんが「単独刊行されることが多いならば『』でくくればいいのではないか」ということを今回おっしゃってますが、頭痛さんは今まで上の方では、「単独で刊行された小説・単独刊行されるのが通例になっている小説」と述べてます。これは一度初刊 などで単行本刊行されれば、それも含むという意味かと思ってました。

私が、小説そのものを語る時に、その都度変化する刊行本の収録のことまで念頭に入れる必要性はないと思っていることは、すでに言っているので多くは控えますが、長編小説でも、短めの長編は中編とあまり大差がなく境界線もあいまいであり、他の作品と同時収録されていることが多い作品もあることは一点触れておきます(『女神』、『浅草紅団』)。それと、私としては、『二流の人』はその中に「章」が三つある作品ですので、作品記事内で「二流の人」にするのはとても違和感があります。また、坂口安吾の経歴を時系列に言及する時に、書き下ろしで単行本刊行されたこの作品を、頭痛さんが「」表記にしている理由も、私にはやはりまだよく解りませんでした。--みしまるもも会話2014年6月8日 (日) 10:41 (UTC)[返信]


MEGEVANDさんが確認されている点についてお答えしますが、事実ではないですね。まず長編小説は「長大」と見なせば『』になるが、文脈上、雑誌との収録関係が示されている場合であれば「」にもなりうる。長さと収録との間の優先関係は示されていないので後者の場合でも『』になりうる、という考えは少し前に書きました。
「短編小説はあくまでも「」で表記しなければいけない」「短編小説は絶対にどんな時でも「」で表記しなくてならない」だそうですが、いずれの言い回しも用いていません。「短編小説は一般通念として「短小」である」から「短編小説には一貫して「」を用いると考えるのが自然である」ということを主張しました。要するに収録関係において従の場合であれそうでない場合であれ、「短小」な作品はどちらにしろ表記ガイドで示されている「」のケースに該当するから、「長大」な長編小説とは違って収録関係の有無で「」になったり『』になったりはしないのだ、ということを言っているだけです。
ここで「一貫して」と言っているのは、単にWikipedia:表記ガイドに例外が明示されていないからに過ぎません。なので誰の眼にも明らかに例外とわかるような場合(例えば引用文中でそのように使われている場合など)ならば無論従う必要はないだろう、ということを表記ガイドの議論中にも書きました。--新続頭痛会話2014年6月8日 (日) 14:52 (UTC)[返信]

「長さと収録との間の優先関係」が示されていないからといって、収録関係を示すべき場面でも、長編小説は『』になりうる、というのは独自見解だと思います。事例でも示されているように、長編の『坊ちゃん』でも、そのような場面では「坊ちゃん」にすることが推奨され明示されていますが。--みしまるもも会話2014年6月9日 (月) 01:05 (UTC)[返信]

  • 前回の質問で、お答え頂けたのかどうか良く分からなかったので、みしまるももさんにもう一度確認させて下さい。「自分は長短で使い分けている事例を見たことがない。だから頭痛の解釈が間違っている」ということを実際思っていたり、コメントされたりしましたでしょうか。ガイドライン上の不備や曖昧さが残るのは、「頭痛さんの解釈の間違い」だということにならず、ガイドラインを解釈する上での一つの意見にすぎないというのは私も理解できるのですが、どうでしょうか。
  • 頭痛さんに確認です。みしまるももさんの上のコメント、みしまるももさんの「坂口安吾の表記を私が「一旦」、作品名を『』にした意味については、元の版があまりにも基準がバラバラだったことと、普通の言葉の「」と混同しないように、暫定的に一旦『』にして、その後に年譜の項目から、収録関係上の「」に直しています。経歴のところも、アルバム解説本と照らし合わせて、刊行書籍との区別を考えながら、一つ一つきちんと吟味し、普通の言葉の表記は、“”にするなどして、作品名と混同しないようにきちんと変えていこうと思ってました。そして、その後頭痛さんが、年譜などで「収録関係を表わすところ」を、長編は全て『』に変えてしまったのは、上の「坊ちゃん」の事例から考えても、ガイドラインに沿った基準ではないと思います」というコメントに関して、冷静に思うところを述べて頂けないでしょうか。
  • そしてみしまるももさんに再度確認です。頭痛さんの「「短編小説はあくまでも「」で表記しなければいけない」「短編小説は絶対にどんな時でも「」で表記しなくてならない」だそうですが、いずれの言い回しも用いていません。「短編小説は一般通念として「短小」である」から「短編小説には一貫して「」を用いると考えるのが自然である」ということを主張しました。要するに収録関係において従の場合であれそうでない場合であれ、「短小」な作品はどちらにしろ表記ガイドで示されている「」のケースに該当するから、「長大」な長編小説とは違って収録関係の有無で「」になったり『』になったりはしないのだ、ということを言っているだけです。」というコメントに関して、冷静にコメントして頂けますでしょうか。
  • 以上、お願いしているところのみコメントをお願いします。--MEGEVAND (会話) 2014年6月9日 (月) 19:49 (UTC)[返信]


私が、頭痛さんのガイドライン解釈に対して、「長短の基準での表記を変えるのを解説文や全集で見たことがない」という観点からだけではなく、Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名(これは漫画の表記におけるプロジェクト:漫画#記事作成の指針でも推奨されていますが)の観点からも言及していたことは、すでに日曜日の冒頭で述べました。また、短編小説が戯曲や映画の原作に多くなっていることなどの観点からも、これまで表記ガイドのノートでも何度か言及しています。

頭痛さんが、短編小説を常に「」表記基準にする考えには、そういう解釈の経緯があるのは解っています。議論の途中でも、頭痛さんから「絶対」とは言っていないと言われたため、私もその後は、「一貫して」という言い回しに変えています。そしてその考えの経緯の結果、現に頭痛さんが表記を直したものを見ると、書籍になった短編や中編でも、「」表記にしていますので、やはり基本的には、短編も中編も常に「」表記になるのだと思います。今回の頭痛さんの言及の中でも、初刊で単行本となっていても、その後発の文庫などで複数収録になることが多ければ、100頁に満たないものは一冊で刊行しうるものとは見なさないという解釈をしています。これは要するに「100頁という長さ」を基準にしているということと同じことだと思います。中編以下のものは、いくら初刊で単行本になっていても、後発の文庫本などの安価な普及版では単行本となることはまずほとんどないからです。

でも私には、「小説そのもの」を語る時にも、なぜ短編(あるいは中編も)を、長編より短いからと言う理由で、「」表記にしなくてはいけないのかという根本的な疑問があります。頭痛さんが言う「短編小説は一般通念として「短小」である。」というのも、「小説」(長短含めて)というプロットやストーリーのある文学作品全般を「短小な作品」だとは思わない者から見れば、とても奇妙な感覚ですし、「一般通念」ということもないと思います。俳句や短歌や短詩ならば、まだそう言えるかもしれませんが、短編・中編とは付記されてはいても、中身は「同じ小説」ですし、その長さにも幅あり、ショートショートや掌小説から、普通の長めの短編小説(その中には「章」がある)までいろいろあります。また、短編小説と同じくらいの長さの戯曲も沢山ありますので、それらを何故、頭痛さんが同じく「短小」としないのかも私にはとても不思議です。

私が見た三島論の解説本の事例では、短編など初刊で一収録作となっているものを「」表記にしている評論家がいることは上でも触れましたが、その事例では、初刊で単行本刊行されているものは、長さにかかわらず『』となっており(『鹿鳴館』など)、なっていないものは長編でも「」表記となっていました(「十日の菊」)。なので、こういった一見短編を「」表記にしている事例でも、「一貫して」短編をすべて「」表記にはしていませんから、やはり、頭痛さんの方式は、最初から常に、長編は『』、短編は「」という考えを優先させているように思います。それはやはり、表記ガイドの「短小、長大」という文言がネックになっているのだと思います。--みしまるもも会話2014年6月10日 (火) 01:54 (UTC)[返信]

ご確認の点についてお答えします。みしまるももさんのコメントのうち、
坂口安吾の表記を私が「一旦」、作品名を『』にした意味については、元の版があまりにも基準がバラバラだったことと、普通の言葉の「」と混同しないように、暫定的に一旦『』にして、その後に年譜の項目から、収録関係上の「」に直しています。経歴のところも、アルバム解説本と照らし合わせて、刊行書籍との区別を考えながら、一つ一つきちんと吟味し、普通の言葉の表記は、“”にするなどして、作品名と混同しないようにきちんと変えていこうと思ってました。
というところまでに関しては、坂口安吾の2014年4月9日 (水) 07:33(UTC)時点の版におけるみしまるももさんの要約欄のコメント[4]、それに同時点のノート:坂口安吾への書き込み内容[5]を読んでいただければ、はっきり書かずとも私の言いたいことは伝わるのではないかと思います。もし伝わらなければ、追加でコメントしてください。
次に「そして、その後頭痛さんが、年譜などで「収録関係を表わすところ」を、長編は全て『』に変えてしまったのは、上の「坊ちゃん」の事例から考えても、ガイドラインに沿った基準ではないと思います」という点ですが、従前から書いているように、これは「長編の場合、収録関係において従である場合でも『』にしうる」という私の考えに基づくものであることはすでに理解していただけていると思います。『坊つちゃん』の例についてですが、
  • まず井戸端の議論のコメントで書いたように、Wikipedia:表記ガイド#著作物名Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名は、前者のページでは後者を{{Seealso}}で、後者のページでは前者を{{Main}}で結んでおり、主従関係は明白に見て取れます。「詳細に書いてある」のは「表記ガイド」のほうで、スタイルマニュアルのほうではありません。
  • その上で、「スタイルマニュアル」には「表記ガイド」と違って「長大」や「短小」といった長さに関する語句に直接言及はしていませんが、上記のように「スタイルマニュアル」が「従」なのですから、こちらのほうに言及がないことで表記ガイドの内容を打ち消せるものではないと思います(「スタイルマニュアルも参照」とありますから無論吟味の対象ではあるでしょう)。スタイルマニュアルの「坊つちゃん」『坊つちゃん』の例は収録関係で鉤括弧の使用が変わりうることをはっきりと示していますが、私が言っているのは「長編の場合は前者の場合でも『』をとりうる(し、もちろん「」もとりうる)」ということなのですから、この具体例は私の見解を否定する直接の根拠にはなりません、論理的に。「スタイルマニュアル」のみからは私の解釈は導けない、ということに留まると思います。ちなみに『坊つちゃん』は中編と言いうる長さの作品です。
  • 長編の場合には収録関係にある場合にも『』となりうる(「」にもなりうる)ですから、私も後者のやり方で統一されている記事をわざわざ前者に直すために編集するといったことはこれまでしておりません。坂口安吾については、まずみしまるももさんが表記ガイドに明白に反した表記への修正を行い、それを私がリバートしたところ、リバートした版の表記が不統一であることをみしまるももさんが言われ、「直すならば、きちんと一つ一つ、あなた自身が考えて直してください」ということを言われたので、編集合戦を避けるためにやむなく「私の考え」に従って直した、という一連の経緯はおそらくMEGEVANDさんもすでに把握されておられると思います。--新続頭痛会話2014年6月10日 (火) 17:45 (UTC)[返信]

Wikipedia:表記ガイド#著作物名Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名も、お互いにリンク付けされてますから、同じように両方を包括して表記ガイドの参考にすればいいんじゃないですか。そういった参考指針にまで「主従関係」とか言って優先順位をつけるのは何かとても奇妙な感じがしますし、優先順位を付けるほど、両者の中身がそう違ったものとも思いませんが。--みしまるもも会話2014年6月11日 (水) 00:48 (UTC)[返信]

  • ガイドライン上の決まりに従って頭痛さんが、みしまるももさんの坂口安吾の編集を直したというのは理解できます。あくまでもガイドラインの決まりにおいて、です。
  • 「年譜などで「収録関係を表わすところ」を、長編は全て『』に変えてしまったのは、上の「坊ちゃん」の事例から考えても、ガイドラインに沿った基準ではないと思います」という点」ですが、具体的に年譜などで収録関係を表す編集があったということでしょうか。よろしければ差分を教えてください。しかし、これまでの頭痛さんのコメントでは、長短の関係もそうだが、収録の関係も並列していることでしたから、年譜などでは収録関係が出てくるということで、その関係に基づく方が良いのではないかと思ったのですが違うでしょうか。どちらが優先という基準ではないのは分かっていますが、年譜などでは何かの作品集に収められて出たとか、単独で刊行されたとか、ということになってくるのではないのですか?そのあたり、はっきり良く分からないので、具体的な例があればそれを用いて説明して頂ければありがたいです。
  • ガイドラインの「主従関係」があるのか良く分かりませんが、双方で内容に不備があれば、小説の編集をめぐって言い争いをするのではなく、まずはガイドラインを修正する話合いをするべきではないでしょうか。
  • みしまるももさんに質問ですが、ガイドラインよりも、御自身が考える編集の仕方の方が優先されるべきとお考えでしょうか。ですが、それでは逆に混乱を引き起こす可能性もないでしょうか。実際の小説のページを編集をするなかでガイドラインの不備を見つけたら、ただちに自分の判断のみで編集をすれば、ガイドラインに従うを良しとする編集者さんとぶつかるのは至極自然なことだと思います。--MEGEVAND (会話) 2014年6月11日 (水) 04:11 (UTC)[返信]
長短/収録の並列という点ですが、収録関係にあっても長大なものであるなら『』とする、という方法を取るのであれば、「年譜」だけ別の方法で括弧を使うのではなく、その記事内では一貫して同じ方法を取るべきであると思っています。この点は表の議論でみっちさんからも同一記事内で場所ごとに使用基準を変えるべきでないという指摘もありました。坂口安吾については、今差分を見たところ私は年譜に関してはみしまるももさんの編集を差し戻して元の状態にしただけで修正は行っていなかったようです。
ガイドラインの基準が曖昧であることが困るのであればその点を修正するための議論をすべきことだろう、というのはこの議論が起こった時点から言い続けているつもりです。--新続頭痛会話2014年6月11日 (水) 05:07 (UTC)[返信]


みっちさんは、同じページ内の一貫性にも配慮が必要な点に触れていましたが、作品タイトルの表記自体については、収録関係や主従関係を述べながら、「統一した基準はなさそうですが、ウィキペディアでは基本二重カギカッコを使っています」という見解で、頭痛さんの長短での区分け基準に同意しているというわけではありませんでした。

私は坂口安吾の著作物表記がバラバラで、記事内で出てくる「カストリを飲む会」「堕ちきること」「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」等の文言と混同されやすくなっていたので、一旦、全体の著作物を『』にしました。これは経歴の時系列のところで「雑誌との収録関係を表わす部分」に限っては、ガイドラインの収録指針とは必ずしも沿ってはいませんが、一番大切で肝心なことは、文学に明るくない人にも「著作物と他の言葉が区別」されることですから、一旦そうしたことです。そしてこれは、私の基本的なガイドライン理解の中に、小説などの独立した著作物である「」名(文書、書き物、書籍)は「原則的」には『』表記であるという認識があるので、こういったケース(他の言葉と混同を避けるため)には著作物名は『』にしても許容されると思っていたからです(絶対にそうしてはいけないという人もいるかもしれませんが)。ただし私もその時点で、「カストリを飲む会」などの方を“”にして対処すればよかったと思いますが、私の説明に一切耳もかさずに巻き戻しだけする頭痛さんにも、もう少し私の話を聞いてほしかったと思います。

そして私は、「堕ちきること」といった文言と、著作物名の混同が生じない「年譜項目」の収録関係を表わすところでは、長短同じく「」表記にしています([6])。これについては何らガイドラインに違反したことではないのですが、頭痛さんはそれを、「該当部分だけ直させられるのは苦痛なのでまとめて戻します。ごめんなさい。」という「違反だという理由ではない理由」で巻き戻しました。その戻った元の版をご覧になるとお分かりになると思いますが、『新日本地理』や『復員殺人事件』などは収録関係を表わすところにもかかわらず「」になってはいません。その後、頭痛さんが全体を直した表記でも、収録関係も何も一切関係なく、一律に(短編は「」、長編は『』)という表記になり、他の冒頭部で代表作そのものに言及するような場合や、テンプレでも長短で表記分けしています。

このように収録関係内でも、長短を常に区別する表記方法は、ガイドラインの基本指針とはまた違った、頭痛さん独特のものだと私は思います。たとえ「長大」が長編を意味し、「短小」が短編だという解釈のガイドラインだという前提だとしても、収録関係内でもそれを優先させて、長編だけを『』にするというのは、「坊ちゃん」の事例から見てもおかしいことは、上の方でも私は述べました。そして、私がタッチしていない作家の記事をざっと見廻してみても、このような方式で代表作を並べるテンプレの書き方をしている利用者さんは見当たらないので、私は井戸端で第三者の意見を募ったという経緯があります。その結果は、やはり積極的に頭痛さんの解釈に賛同している方はなく、ガイドラインの基準が曖昧であるので修正をした方がいいという意見もありましたので、私やuaaさんが改訂案を具体的に出しましたが、頭痛さんがそれに反対していたというのが、これまでの経緯です。--みしまるもも会話2014年6月11日 (水) 07:27 (UTC)[返信]

それではですが、やはり問題の発端となっている、ガイドライン、それも頭痛さんがおっしゃる主従関係の双方も含め、記事をいじる前にそちらを議論して頂けないでしょうか。今のままで、みしまるももさんにせよ、頭痛さんにせよ、記事を編集されても、何も解決されないのはここまでのコメントを見ていて明かです。ここまででに挙げられた、どの作家のどのページのという具体例を参照にしながら、お互いに、時間を置きながら冷静に、話合いができないでしょうか。
基本的な編集の仕方や、例外の扱い方など、みしまるももさんも頭痛さんも考え方に違いはなく、Wikipediaの記事としてどう扱うかという部分で、ガイドラインを起点に意見が対立していると思います。これまでの経緯から、みしまるももさんは御自身のお考えをまずは脇においておき、ガイドラインとして問題があるという視点で取り組まれてはいかがでしょうか。頭痛さんにも、ガイドラインに問題があることを改めてこの場で共同で確認できましたので、今後そちらに議論を移していただきたいと思います。
そこで提案ですが、ここまでで明らかにというか、改て確認された現行ガイドラインの運用上の問題点を、もう一度点検してみてはいかがでしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年6月11日 (水) 08:24 (UTC)[返信]


次は節を改めてもいいでしょうか。ここもだいぶ長くなってますので、別の節にノートで出た具体案を書き添えておきます。--みしまるもも会話2014年6月11日 (水) 08:42 (UTC)[返信]

改定案の具体例

[編集]

ちなみに、uaaさんが出した改定案は以下のようなものでした。

* 作品及び作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)の名称は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
  • 作品中の小題(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は同様とします。
例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」

--みしまるもも会話2014年6月11日 (水) 08:46 (UTC)[返信]

  • 割り込み失礼いたします。上記で問題になった、同記事内の年譜の表記は別にするのかしないのか、ということにも触れてみて下さい。そのあたりも大事なことだと思います。--MEGEVAND (会話) 2014年6月11日 (水) 09:17 (UTC)[返信]


「年譜」では、私は表記ガイドの通りに「」に直しましたが、他の経歴のところ(収録関係が発生するところ)も、やはり同じようにするのがベストでしょうね。そのことは、私は先ほど、「カストリを飲む会」「堕ちきること」などの文言は、“”にすればよかったという反省点を言いました。ただし、冒頭部やテンプレ内までも、作品名を「」表記にすることはないと思います。「収録関係を示す必要性がないところ」では、作品名は『』でいいと私は思います。

それに関連してですが、「経歴の記述」や「年譜」の表記は、他の谷崎潤一郎では、作品名は全部『』で統一されてます(私はタッチしてません)。これは、表記ガイドの収録関係の指針とは異なるのかもしれませんが、新潮文庫の年譜や経歴の書き方は、この方法を採用しています。角川文庫の坂口安吾『白痴・二流の人』の年譜などは、作品名は全部「」になっており、Wikipediaの収録のガイドラインと同じ表記です。私は、ガイドラインはあくまでも「指針」ですので、新潮文庫方式も許容されてもいいと個人的には思います(絶対にだめだと言う人もいるかもしれませんが)。そして、新潮文庫方式も角川文庫方式も、作品の長短で区分けはしていないです。--みしまるもも会話2014年6月11日 (水) 11:47 (UTC)[返信]

コメント 年譜に関して少し。MEGEVANDさんはおそらくご存知ないのではないかと思いますが、プロジェクト:人物伝にあるように年譜(年表)というのは人物記事においてはあくまで補足的に用いられるもので、もともと記事に必須というものではないです。必須のものではないセクションでの用途をあまり過大視して考えるのは首肯できません。「年譜セクションは『収録媒体』「収録物」という使い分けができたほうがいい」ということにすぎないのであれば、このセクションではそのように鉤括弧を使うことにするとセクションの最初に一言断り書きを入れるだけで済む問題です。(もちろん、私のようにガイドラインを捉えた場合でも、ということですが)

和文では“”は使用しません(Wikipedia:表記ガイド#引用符)--新続頭痛会話2014年6月11日 (水) 17:53 (UTC)[返信]

コメント コメント2 ここで過去の改定案を再掲されたのはどういう流れでなのかちょっとよくわからなかったのですが、現行ガイドラインの運用上の問題点の点検、というのはこの節で行うということでいいのですか。以下私なりに「現行の問題点」をまとめますが、違うのでしたら改めて節を設定して頂ければと思います。

それで「現行ガイドラインの運用上の問題点」ということですが、はっきりいって私はあまり(自分が使う上では)実際上の問題は感じていません。「長大な作品と短小な作品」を蓋然的に区別して捉えた場合に関して言えば、とりあえず

  1. 短編/中編/長編というように、「長大」と「短小」の中間領域が必ずあり、括弧をつけるときに迷うケースが考えられる
  2. 小説が「短編/長編」で区別して使われるとして、それであれば同じ文学作品である「戯曲」に長短の区別なく一括して『』を使うのはおかしい(みしまるももさんのコメントより)
  3. 「比較的長大な作品あるいは作品群」というように「長さ」と「収録」という二つの基準が挙げられていると読めるが、その二つの基準の間の優先関係が明確でない。

くらいではないかと思います。その上で

  • 1については、私は「明白な短編は「」、明白な長編は『』、どっちつかずのものは刊行形態(単独刊行が主流かどうか)で判断することができる。それでも曖昧なものは残るが、その程度の曖昧さで実質上問題があるようには思われない」という意見であることは何度か書いたと思います。(つまり、改良が必要ならガイドラインにそのように明記すれば済む、と考えます)
  • 2については、これまで言うタイミングを逸していたのですが簡単な問題で、ガイドラインの記述者が「戯曲」(読物)を「舞台劇」(上演作品)の意味であると勘違いしているだけなんです。「戯曲」が「文学作品・読物」の意味で入っているなら「映画名」と「テレビの番組名」の間に挟まっているのはおかしいですよね。この「戯曲=舞台演劇」勘違いは私が参加する前はカテゴリの運用などにおいて広く見られました(かなり修正しましたが)。
    • ちなみに英語では戯曲も上演作品もどちらもplayで言葉の上では区別されません。こうした点からもわかりますが、現状の表記ガイドと英語版の表記ガイドを見比べてみると、『』(orイタリック体)と「」(orダブルクォーテーション)の使い分けの具体例については(英語版のほうが詳しくはありますが)ほぼ一致します。現行の表記ガイド#著作物が英語版を既定路線として書かれたものであることは明らかであると思います。(「長さ」と「収録関係」の両方を判断基準にしている点も同じです)
    • その上で、(小説が長短を分けているとして)それなら戯曲も長編戯曲と短編戯曲を分けるべきである、ということならそのように改訂すれば良いと思います。これは「短編映画」などの扱いも同じです。
  • 3については、少なくともこれまでの議論の中心的な争点ではなかったのではないでしょうか。私はこの点はさほど拘っているわけではないので、特定の記事で収録関係が書かれているところは長編でも「」にしたい、ということならそうして頂いても特に争うつもりはないのですが。ガイドラインでどちらかはっきり決めたほうがいい、ということならプロジェクト:漫画のように、文脈上明らかに収録関係が示されているところは「」にする、という形で統一してもいいと思いますが、「文脈上明らか」というのはどういう場合かはもう少しはっきりとさせたほうがいいと思っています。
しかしこれまでの議論でみしまるももさんが一番問題視されていたのは、現状の坂口安吾の冒頭テンプレート内の「代表作」のように、作品名が羅列されているところで「」と『』が混ざるのはおかしい、というところではないでしょうか。しかし、私はこのような点に「運用上の問題」をまったく感じません。非常に個人的な美意識の問題に過ぎないと思います。現に文章上でこのような表記を行う人もいます。蒸し返しになってしまいますが、みしまるももさんは以前、書籍テンプレートの冒頭タイトル部分の議論で、この部分の文学作品名に『』をつけて表記するのは「醜くて耐えられない」、というようなことを主張され(他にも映画タイトルで同じことを言った人が一人いはしましたが)、議論が進まなくなったことがありました。しかし絵画や音楽テンプレートでは普通に鉤括弧が使われているのですし、私にはこのような意見はまったく理解できませんでした。多数の人間が使う表記上の問題について、個人的な美意識・美的感覚をもとに強い主張を行うのはやめていただきたいです。それだけで議論がまったく進まなくなります。

上の書き込みについては、とりあえずMEGEVANDさんからのコメントをいただきたいです。みしまるももさんはその後でのコメントをお願いします。--新続頭痛会話2014年6月11日 (水) 19:46 (UTC)[返信]

過去の議論へのリンクを表の下部に掲載しましたので、ご覧ください。基本的には、書誌情報の書き方にならうべきという精神で解釈するべきで、長さについての言及は説明的にあるだけと思われます。雑誌連載の長編は「長編小説」『連載雑誌』の組で語られるべきで、連載中のものに言及するときに『長編小説』とするわけではないということになります。CDシングルは「」という社会的にそういう慣習があるためということです。なお、出版物を特定しない作品自体をどう表記するかという問題であったかと思われますが、実際には出版物を選ぶほかなく、通常想起される出版物に合わせるか、編集者がある理由で選択した出版物に合わせるか(初出、初刊)などの選択肢はいずれもありえて、それぞれの作品と記事で表現する内容の事情に合わせて議論するほかないでしょう。--T6n8会話2014年6月11日 (水) 23:32 (UTC)[返信]


ちょっと事実と違うことを頭痛さんが言われたので、MEGEVANDさんのコメントの前に、一点だけコメントします。

私が以前に美観が損なうと言ったのは、「テンプレ内の小説タイトル」にまで、必要急務でもないのに「記号」である『』や「」をつける意味もなく、『卍』のようなことになるから反対したわけです。そして、私以外にも多数の人が色付けの方に賛成し、「頭痛さん一人だけ」が鍵括弧を付けることを主張し続けたために、議論が停滞して頓挫してしまったことは、Template‐ノート:Infobox Film#英題の記載についてをご覧になると分かると思います。

今回の件で、作家の代表作を並べる時に、「」と『』が混じることは、私は美観の観点から言っているのではなく、そのような「長短で使い分け」をする「必要性も意味もない」と思うからです(このことは私は今までも、上の方でも詳細に述べています)。同じ小説という文学作品を、同等に語る時に、「作品の長短」で表記分けすること自体に何のメリットもなく、同じ作家の、同じ性質の著作物なのに、そのように並んでいると、一般の読み手の人にも何でそうなっているのか意味不明で混乱すると思うからです。

私は考えでは、著作物は基本的原則的には、『』であり、それが収録関係などを伴う時には、「」になるというふうに、シンプルに考えれば済む話だと思います。そして井戸場で私が募ったご意見でも、頭痛さんのように「長短基準」で表記分けを考えていた人はいなかったと思いますが。--みしまるもも会話) 2014年6月12日 (木) 00:03 (UTC) 加筆--みしまるもも会話2014年6月12日 (木) 00:15 (UTC)[返信]


(競合したようですが、T6n8さんのコメントに)過去の議論へのリンクを拝見しました。「長編小説」『連載(掲載)雑誌』の組はたしかにそのような意図で書き加えられたものであることがわかりますね。であれば論点3の部分はその点を迷いのないように調整する(「長大なものであっても、作品集に収録された者であることを示す場合には「」になる」など)で解決するということでしょうか。ガイドライン設定時のことにまで言及するのであれば過去ログくらいはちゃんと漁るべきでした。申し訳ない(さすがにちょっと疲れてきた)。
「実際には出版物を選ぶほかなく、通常想起される出版物に合わせるか、編集者がある理由で選択した出版物に合わせるか(初出、初刊)などの選択肢はいずれもありえて、それぞれの作品と記事で表現する内容の事情に合わせて議論するほかないでしょう」 なるほど。それは納得できます。そう考えれば「小説を長いか短いかで分けるべきかどうか」を議論する必要はなくなりますね。--新続頭痛会話2014年6月12日 (木) 00:19 (UTC)[返信]

大変お返事が遅くなり、申し訳ございません。

2014年6月12日 (木) 00:19 (UTC)の頭痛さんのコメントについて、長短にこだわらないということに関することを仰っていると思いますが、みしまるももさんはどうお考えでしょうか。このコメントを持って、頭痛さんとの紛糾の原因は解消されますでしょうか。

2014年6月11日 (水) 17:53の頭痛さんのコメントに関しまして。私は年譜のことについては知りませんでした。ですが、「断り書き」を入れることで、みしまるももさんの主張されていることは頭痛さんとしては「解消され得る」ということを仰ったのだと理解しましたが、それでよろしいでしょうか。

2014年6月11日 (水) 08:46のみしまるももさんの具体改定案、2014年6月11日 (水) 19:46の頭痛さんのコメントに関して。頭痛さんが問題点を良く整理して頂いたと思います。当初述べられていなかった「長短に関係なく」についてのみしまるももさんのご意見については、上記にも述べましたが、これをもってみしまるももさんとの紛糾が解消されるのか、確認したいと思います。

みしまるももさんがすでに「具体的な改定案」を提案されていますが、もし現時点で具体的な内容の話合いができるのでしたら、私の仲介の範囲を超えてしまうと思います。内容の精査はお二人や造詣のある他のユーザーさんを交えて実際の運用上の話合いをされた方が良いと思います。

がしかし、なおも紛糾の原因が解消されていないのでしたら、私ももう少し間に立たせて頂こうと思います。--MEGEVAND (会話) 2014年6月23日 (月) 11:48 (UTC)[返信]

(MEGEVANDさんへ) 頭痛さんが「小説の長短」で表記分けをすることに拘らずに、同じ条件下(収録関係を示す場合など)では、長編も中編も短編も同等表記であることがご理解いただけたのであれば、私としては、今のところはこれ以上多くは言及することはありません。--みしまるもも会話2014年6月24日 (火) 01:06 (UTC)[返信]
  • ご確認のコメント、ありがとうございました。みしまるももさん、新続頭痛さん、両名にお尋ねしますが、今後改定案なり修正案を議論していく前に、お互いのお考えや主張において、まだ理解しがたい部分がありますでしょうか。もしございましたら、ご披瀝願えますでしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年6月24日 (火) 18:33 (UTC)[返信]
この議論は終わりでよいと思います。また改定案なり修正案なりの議論は、すべきではないでしょう。
MEGEVANDさんも覚えておられると思いますが、私が「短編は一貫して「」を使うと考えるのが自然」と言ったのは、ガイドラインがそのように読める、ということに加えて、短編は「何かに収録される」という形になることが多いためそうすることに合理性がある、という理由もあるからです。例外的に単刊のかたちを取るような短編は『』でもいいだろう、とも書きました。従ってそれは「短編は(基本的に)一貫して「」を使う」と考えても、T6n8さんのように「いずれかの出版物によって決める」と考えても、事象としては同じなのです。短編の単刊は例外的なのですから。長編で収録関係にあるものも「」にできる、ということも何度も表明していました。長編小説が「長大」だから『』を取ると考えられる、という意見を述べていたのも「単刊」という出版形態から蓋然的にそのように考えられるからだ、ということも説明しました。要は「長短の区別」と言いながら実際には「収録関係の起こりやすさ」を踏まえていたのだということは、別に注意深く読んでいなくてもわかったはずです。
無論T6n8さんの見解のほうが執筆者の裁量部分は増えます。しかしその上で、さんざん問題にしていた「短編は一貫して「」を使うと考えるのが自然」という意見を、前者を後者と言い換えただけで「納得」されたのであれば、結局みしまるももさんは何を問題にされていたのでしょうか。「日本文学では長短を鉤括弧で分けることはしない」という、いまだに「自分の経験」以外に客観的な根拠を一切提示されていない「持論」をただ押し通したかった、というだけにしか見えませんし、事実としてそうでしょう。
MEGEVANDさん、これまで仲裁ありがとうございました。改めて表明しますが、この議論は「鉤括弧の問題」ではなく、本質的に「みしまるももさんの問題」です。T6n8さんの見解をはじめ鉤括弧についても得るところはあったと思いますが、みしまるももさんがこれまでの議論方法の問題をなんら自覚されていない以上、「鉤括弧の問題」についてさらなる議論に進めるべきではありません。後はコメント依頼に見解を書く予定です。--新続頭痛会話2014年6月27日 (金) 18:38 (UTC)[返信]


小説を「作品の長短の基準」で「表記分け」することが見受けられないことは、ほぼ「事実」であり、私はそれを客観的な根拠を出して、事例を示しながらこれまで説明してきました。「単独単行本になったか否かを表わす表記を使う場合」で、短編小説が「見かけ上」、「」になることが多くなることは当然ですが、それは「長短の基準ではない」ことも私は何度も説明しています。そしてこのように、どんな時でも書籍を常に念頭におく表記を、このWikipediaで採用するかどうかはまた別の問題です。その作品そのものを語る時まで、そのような、「いつでも書籍」を念頭に置くような表記基準にすることは、「章」との関係上で不都合も出てきます。

頭痛さんは収録関係を把握した上で議論していたと、「今になって」言っていますが、それはどうみても矛盾しています。頭痛さんは実際には、それをなかなか理解されようとせず、短絡的に、短編を「」、長編は『』と固執(あるいは勘違い)していたことは、上の方で、単独単行本になってもいない長編の「十日の菊」でも、一冊で「単行本になりうる長さ」だと、勝手に「想定して」、『』にすればいいなどと、「刊行上の歴史的事実を無視」した無責任なことを言っていたことからも明白です。また、坂口安吾の初出の経歴の事実経過を記述している文章内において、書き下ろしの単行本刊行された『二流の人』を「」表記にしていたことからも、頭痛さんの頭の中には、「長編小説以外は」、一貫して「」にしてしまおうという基準の考えだったことは明らかでした。

今回頭痛さんは、「長短の基準」で表記分けすることがないことを理解されたようなので一安心いたしましたが、いままでの勘違いや固執を今だに正当化しようとしている点は、とても残念です。それはこれまでの私の議論姿勢が、頭痛さんを頑なにしてしまったことにあるのかもしれませんし、頭痛さんの納得がなかなか得られずに、いらいらしてしまって、いろんなことをいっぺんに説明しようとしたことが原因だったと思いますので、私の説明の仕方も多いに反省するところです。その点は頭痛さんに謝罪します。

ただ、頭痛さんは今回になって、「要は「長短の区別」と言いながら実際には「収録関係の起こりやすさ」を踏まえていたのだと」と、今までの主張とは違うことを言い、すり替えているのは感心いたしません。頭痛さんは収録関係が伴うような、「長編小説」『連載(掲載)雑誌』でさえも、『長編小説』に固執していたことは、皆さんご存知だと思うので、やはりそのような言い訳じみたことを言うのは、ちょっと理解しかねました。もしも本当に頭痛さんがそれを踏まえて言っていたというのならば、表記ガイドで私とuaaさんが、「長短で区分けされるような誤解が生じないように提案した説明文」で納得し、「短小、長大」などという、表記基準と無関係な文言はすぐに消すことを同意したはずです。そして今回、その文言を消すことにも躊躇しないはずだと思いますが。--みしまるもも会話) 2014年6月28日 (土) 04:11 (UTC) 補足--みしまるもも会話2014年6月28日 (土) 07:16 (UTC)[返信]

改定案についてのご意見募集

[編集]

頭痛さんが「小説の長短」で表記分けをすることに拘らないことを納得されたようなので、「長短基準」で表記するという「誤解」が生じている現在の表記ガイドを、やはり以下のような説明に変えるのが、これから再び同じような紛糾が起こらないために必要だと思いますので、説明を改訂しておきたいと思います。頭痛さんは何故かまだ「長大、短小」を省くことを反対のようですが、他の方のお考えを伺いたいと思います。

多くの評論本や解説本、全集や事典でも、小説は長短基準ではなく、「同等の条件下では、同じ表記」になっていますので、以下のような簡素なもので基本は大丈夫だと思われます。作品名を収録書籍からの関係上表わす時は「」表記されうることも、以下の説明で許容されていますので、特に問題のないものと思われます。

* 作品及び作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)の名称は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
  • 作品中の小題(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は同様とします。
例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」

--みしまるもも会話2014年6月28日 (土) 05:47 (UTC)[返信]

議論移動(解決ずみ)

[編集]

(提案)議論の途中ですが、今出ているコメント依頼提出の経緯やそこでの第三者のコメントなどを見ると、どうも井戸端で特定の少数の人物が延々と議論を続けることは好まれていないようです。お二人に異存がないのであれば「続き」移行の議論をまるごとWikipedia‐ノート:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方についてに移して続きはそちらでやる、というふうにしたいと思うのですが、いかがですか。あまり実質的な意味はない気はしますが、表でつづけるより印象は和らぐかもしれません。(ノートへのリンクは残します)--新続頭痛会話2014年5月29日 (木) 16:24 (UTC)[返信]

  • 上記の提案に賛同します。あと、このぐらいあたりから、少し具体的な話になってきると感じますが、飲み込みに時間がかかります(説明が分からないのではなく)ので、お返事のコメントにはこれまでより時間がかかります。予めご了承下さい。その間に、お二人で今までと同様に「それは違う、あれは違う」のコメント攻防をなさらないようお願いいたします。それであっては、何のための議論だったのか分かりませんので、どうかお気をつけ下さい。--MEGEVAND (会話) 2014年5月29日 (木) 16:45 (UTC)[返信]

ノートへの移動に賛成します。「続き」の節を丸ごと移動でいいと思います。--みしまるもも会話2014年5月30日 (金) 00:30 (UTC)[返信]

移動しました。--新続頭痛会話2014年5月30日 (金) 02:54 (UTC)[返信]

もう、井戸端自身に読み込まれていないので、別にノートにまわす必用も無かったかと思いますが、皆さん合意の上のようなので別にかまわないでしょう。

並行コメント

[編集]

さて、みしまるももさんは

「比較的短小な作品」というのも、その()内の説明から自然に「章」「幕」「楽章」のことだと解釈でき」

と述べていますが、Wikipedia:表記ガイド#著作物名でその部分を確認すると「比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(論文名・書中の章名・短詩の名・交響曲などの楽章名・組曲中の曲名・CDなどのシングル名・シングルやアルバム中の曲名・テレビの企画名・話名など)」と書かれています。確かに、部分なものも含まれていますが、論文名・短詩の名・CDなどのシングル名などは短編小説同様独立した単一の個別作品のタイトルにあたるでしょう。()内の例示から独立した単一の個別作品は皆、「比較的長大な作品あるいは作品群」にあたるという解釈は困難だと思います。--T6n8会話2014年5月31日 (土) 10:45 (UTC)[返信]


(T6n8さんへ) 論文名の場合は、ikedat76さんも説明していたように、定期刊行物や共著のように複数の著作者が関わった著作物の中の一編のタイトルを指すために「」を使うという慣行があるので(社会学評論スタイルガイド)、そこに入っています。これはWikipedia:スタイルマニュアル#著作物名をご覧になれば分かるように、「雑誌等所収の記事・論文名」と明記されており、収録刊行物との関係性の意味から、そのカテゴリーに入れられているということです。でも論文でも著名性があって、多様な・物理的な出版形態で刊行され、それが出版形態との関係性から離れて独立して存立しているものは、『堕落論』『文化防衛論』のような表記になりえますので、評論や論文がそこだけに縛られている性質のものではないことはご理解いただけると思います。

CDシングルの場合も、歌手が定期的に発表する『アルバムという複数作品を所蔵している作品』との比較対象として常に区別をするために、「」表記することが、音楽分野で決めているからそうなっていると思います。CDシングルは常に「アルバム作品」との比較対象関係が伴っていて、その区別が必要なために決めているという例外的な面があるのでしょう。

詩の場合は、『詩集』の中の一編として言及される場合が多いので、原則的にそこに含めてあるのかなと思います。これは収録書籍との関係性を表わしている面が強く、立項記事にする際には、ボードレールの『悪の華』のように、その詩単体ではなくて、『詩集』が記事になる性質の文学作品ですので、自然とそうなる意味もあると思います。私としては、それ一個単体で言及対象になるような著名性のある詩ならば、小説と同じように『』表記になりうる許容性があっていいんじゃないかと思います(例えば、中原中也の「汚れっちまった悲しみに」など)。--みしまるもも会話2014年6月1日 (日) 01:41 (UTC)[返信]

オモテでやんなきゃ問題ないだろとか言ってる時点で何も理解してないのですが。自分に都合のいい例ばかり引き合いに出して「オレが正しい」と言い合うだけのために、こんなときだけ引き合いに出さないでくれませんか。客観的な基準を探してみたら?というサジェストなのに、都合よく役に立たないとか自分の言ったとおりだとか。これじゃいつまでたってもどうにもなりゃしません。ガイドラインとか記事を人質に喧嘩しないでください。いい加減電算機資源の無駄遣いもいいところ。--ikedat76会話2014年6月3日 (火) 13:25 (UTC)[返信]

T6n8さん、いまMEGEVANDさんのコメントを待っているところですが、まずご参加感謝します。

さてMEGEVANDさん、コメントに時間がかかっておられるようですが、単にお忙しいだけでしょうか。もし始めたもののやっぱり捌けそうにない、ということでしたら別様にしますので遠慮なくそのように表明してください。--新続頭痛会話2014年6月5日 (木) 09:39 (UTC)[返信]

ここで混乱の源となっているのは「比較的長大な作品」「比較的短小な作品」といった記述についてですが、その意味するところが明確でなく自明とも言いがたいという点で、少なくともこれらはガイドラインの文章としては既に失格といえるのではないでしょうか。これらがどのように解釈しうるかを議論するのではなく、「何を規定すべき(あるいはすべきではないか)」に議論を集中すべきではないでしょうか。どうやらここまでのところ「作品の長さ」を基準としてカッコを使い分けるという流儀に積極的に賛成している人は殆ど居ないようです。ずばりこれらは「削除」でよろしいのではないか。それでほとんど議論すべきことはなくなるのではないかという気がするのですが、いかがでしょうか--Kojidoi会話2014年6月6日 (金) 14:47 (UTC)[返信]

争点になってる部分があるからそこを消せば解決、というのは乱暴すぎです。意味が明確でもなく自明でもない、というのはまったくそのとおりだと思いますが、英語版のように細かく具体例を挙げる(決める)ことで明確化をはかることもできるはずです。それに主たる混乱の原因はそこではないと思います。--新続頭痛会話2014年6月6日 (金) 19:10 (UTC)[返信]
その争点は本当に長々しく議論して「明確化」する必要があるのか? というのも皆さんの疑問なのでは? どっちでもいい、とはいかなかったのかというコメントは複数出ているはずですね。そして頭痛さんともあるていどのブレは許容して良いというようなことを言っておられたように記憶していますが、勘違いでしょうか? もう一度考えていただきたいのです。「」と『』の使い分け、わけても「長さ」の基準について、そんなに苦労して明確化する価値がありますか? それは本当に編集の助けになるのですか? また読者の理解を助けることになるのですか? 私は極めて疑問に思います。--Kojidoi会話2014年6月7日 (土) 01:15 (UTC)[返信]
それから、私が削除を提案したのは「争点になっているから」ではなく、当該部分が規定している(と素直に読み下せば解釈できる)ルールが支持されているとはいえず、必要性が感じられないからです。意味不明で必要性もないなら、残しておくべきではないですね。--Kojidoi会話2014年6月7日 (土) 01:24 (UTC)[返信]
意味不明で必要性もない、などとは言っていませんが。漫画の分野では「使い分け」がそれなりに妥当に解釈されて運用されている、ということを議論の最初のほうで紹介しました。「ルールが支持されているとはいえず」とは言えません。
「明確化したほうがよい」にしろ「しないほうがよい」にしろ議論をある程度積み重ねて方向性を決めなければなりません。鉤括弧の使い方が非常に重要だから長い議論になっているのではまったくありません。議論が積み重ならないような議論のやり方をしているからであって、私が問題視しているのはその点です。Megevandさんのコメントを待っているところですので具体的な指摘は控えますが、議論が荒れているからガイドラインをリセットしよう、では「荒らしたもん勝ち」ですね。議題が重大であろうと些細であろうと、議論が起こっているときに議論のステップをはずして物事を決めてはなりません。--新続頭痛会話2014年6月7日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
どうでもいい仔細な議論をいちいち「積み重ね」るのは無駄ですよ。皆さんその点にうんざりしているのではありませんか? 本件が荒らしたもんがちになるとは思いませんが、仮にそう言えたとしても、結果が良い物ならいいのです。急がばまわれという言葉もあります。今は《何を規定すべき(あるいはすべきではないか)」に議論を集中すべき》であり「削除」はその中で有力なオプションと考えます。まあ今は提案にとどめ、他の方のコメントが集まるまで黙ることにします。--Kojidoi会話2014年6月7日 (土) 02:09 (UTC)[返信]
「方向性を決めるなら決めるなりに合意を経なければならない」と言っているのです。議題自体かどうでもいいかどうかがそこに含まれているのであって、結論を先取りして話をしてはいけません。
で、なんで「現状のガイドライン文言の解釈」の話を続けざるを得なくなっているかというと、議題の提案者が私(頭痛)の解釈が間違っていて、自分のように解釈するのが正しい、ということを自分の側の主張の強い根拠とされているためです。
「現状のガイドラインの文言・解釈はとりあえず置いておいて、どうするのが一番いいか議論して考えよう」という話の進め方であるなら理解できますし、そうしていればここまでのような混乱は起きなかったでしょう。今からでもそうしたいということであればそうしていただければいいと思いますが、今現在私がこの議論で明らかにしたいのは上のような提案者の議論方法における問題です。--新続頭痛会話2014年6月7日 (土) 02:24 (UTC)[返信]
>仮にそう言えたとしても、結果が良い物ならいいのです
この点はまったく同意できません。あなたがいま無視しようと言っているのは無駄な官僚的手続きのようなものではなく、WPの意思決定システムの根幹そのものです。--新続頭痛会話2014年6月7日 (土) 02:34 (UTC)[返信]