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Wikipedia‐ノート:削除依頼/ショーン・オチンコ

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(コメント)『特筆性その他については、野球に興味がないのでまったくわからないのでその部分については判断してませんのでその意味から削除との意見が多い場合には、この票は無いものとして取り扱ってください。』と言いつつ、それに対して異議を唱えられると『本案件の削除依頼の理由はいたずら』とはどうゆうこと???ほとんどの人は特筆性のあるなしを話しているのにさ、しかも書き方が悪いと来た。矛盾してるねVigorous actionさんは。まあ本人がいうように無効票って事だねこれは。

NPBと層の厚いMLBを一緒くたにしては考えられない。NPBの2軍選手とマイナー選手は全く違う。マイナーリーガー=特筆性があるという考えの根拠もないし、他にも特筆性が無い記事があるんだから削除できないという考え方もおかしい。珍しい名前が特筆性にはならないという事例はTiyoringさんが示している。

結局面白い名前だからと記事にしただけなんだよ。そして幼稚園児のような思考でオチンコだからマンコビッチとマンコを入れたのはやり過ぎたすまんかったとミスターカープさんも認めてるじゃないか。

でさ、記事にするほどの選手なのか?と言われたから色々理由付けてるけどさ、結局後付けだから全く説得力無いんだよね。2ちゃんのノリで記事作るからダメなんだよ。--以上の署名のないコメントは、220.100.21.57会話/Whois)さんが 2009年7月16日 (木) 11:52(UTC) に投稿したものです(ミスターカープによる付記)。

依頼者さんねえ。なんか根本的な勘違いがあるような気がするの。
Wikipediaでは、書かれた記述は基本的に「残す」方向で考えるので、存続意見に説得力はいらないんです。必要なのは「削除を依頼する側による『それがあってはいけない』ことについての説得力のある説明」です。とりあえずWikipediaの基本文書を読み直すあたりからはじめてみてはどうだろう?--Nekosuki600 2009年7月16日 (木) 13:55 (UTC)[返信]
削除依頼人はそもそも何故、当該記事が「悪戯」で「単独ページとして相応しくない」と思われたんでしょうか? 「十分な」説明(若しくは反論)をしていると言えるんでしょうか。 関連項目の件も含めて、合理的積極的な説明が見当たりません。独り善がりにしか見えないんですよ。--Whatever321 2009年7月17日 (金) 21:54 (UTC)[返信]

特筆性を理由とした削除に関する疑問[編集]

本節はWikipedia‐ノート:削除依頼/ショーン・オチンコ下のサブページとして作成しましたが、あとで関連するページ(Wikipedia:特筆性のノートあたり)に展開する可能性もこめて、サブページを作った上で話題を立ち上げます。また、この議論のきっかけとなった削除依頼は「特筆性」を理由とするものではなく「悪戯」を理由とするものであり、当該削除依頼そのものは筋が違います。ただ、その後の展開で「悪戯」では削除依頼が通らないと思った削除したい方々が「特筆性」にシフトしつつあるようで、それを契機としてこのサブページを起こそうと思いました。(この段落にはこのタイムスタンプでの追記があります。--Nekosuki600 2009年7月20日 (月) 15:15 (UTC)[返信]

最初に確認。現在、Wikipedia:特筆性という項目はありますが、それは草案であり、「現時点ではまだ拘束力はありません」と宣言されています。特筆性を理由として削除依頼を出すことには十分な慎重さが求められるということを強く指摘しておきたい。さて。

このWikipedia:特筆性による項目新設に関する制限だけれども、これってどういう性格のものなのだろうか。特筆性について争いがあるようなものについて特筆性を理由として削除することを可能とするものなのだろうか。それとも、明らかに特筆性に疑問が持たれるようなものについては削除するという主旨のものなのだろうか。おれは、後者じゃないだろうかと思うんですよね。

まあ確かに「明らかに特筆性に疑問を持たれるような項目」というのはあると思うんですよ。Wikipediaを自己紹介ページのかわりに使われたらかないませんし、無名なものごとのための宣伝ページとして機能するような使い方は目的外だろうと思う。「○○は2004年度に△△中学校の児童会長に立候補した候補」の「○○」とか、「□□は☆☆商店街に存在する豆腐屋」とかをのべつまくなし作られたら、それは削除すべきだろう。そういう意味で項目を立てるためには特筆性は必要だ。しかし特筆性って「お掃除をする(すべきだとそいつが思う項目を削除する)ための口実」として使える道具ではないだろうと。

具体的な人数のような明確な基準を置くことはできませんが、「ある程度以上のひとが探すであろう情報は、置いておいてかまわない」ような気がするんですよね(質が低いとか間違ってるとか検証可能性を満たしていないとかいう話は別論)。

そうね。おれが立てた記事の中でいうと、たとえば廿世紀浴場三信ビルディング九段下ビルなんかは一日平均で10人くらいしか閲覧者がいません。尾小屋鉄道はもうちょい上、八総鉱山はだいぶ下って感じ。んでも一年通して数えれば2000~10000人くらいは閲覧してくれるわけで、そういうのって十分に特筆性があるんじゃないかという気がする。

紙の百科事典だと紙幅の制限(というか値段や置き場所の問題)があるから、確かになんでもかんでも入れておけってわけにはいかない。取捨選択のレベル選択は、それぞれの百科事典の性格を定める重要な基準になります。でもWikipediaは紙製の百科事典ではなく値段や置き場所の問題もないわけなんだから、「ある程度以上、その情報を求めるひとがいるのなら、(質とか正確性とか検証可能性とかの問題はさておき)置いといてもいい」んじゃないの? 置いておいても誰も困らないでしょ(削除依頼をするひとが具体的にどう困っているのか、一度じっくり聞いてみたいと思うくらいだ)。

特筆性は、「(ごく一部の利害関係者とか以外の)誰もが特筆性がないと思うくらいに特筆性がないもの」についてのみ考慮すればいいんじゃないんだろうか。(ごく一部の利害関係者とか以外の)誰かが特筆性があると思うようなもの、言い換えれば特筆性をめぐって議論になるようなものは、すでにその段階で特筆性があるんじゃないんだろうか。

特筆性を理由として削除依頼を出し議論を引き起こしてしまった経験がある方には、「なんで特筆性を理由として削除をすることが正しいと思ったのか」についての説明をしてもらえるとうれしいなあと思います(あ、おれももしかすっとそういう黒歴史を持っているかもしれないんですが、今はこういうスタンスにいますので、黒歴史時代のことはよくわかりません。ごめんなさい(=^_^;=))。

もうそろそろ、「特筆性をめぐって議論になっちゃうような削除依頼」については終止符を打ちませんか。デジャ・ヴュな議論が繰り返されるのって単純に無駄で消耗だし。--Nekosuki600 2009年7月19日 (日) 13:40 (UTC)[返信]

まず、特筆性を理由として削除依頼をすることには自分としても疑問があります。その点ではNekosuki600さんに同意いたします。しかしながら、『「特筆性をめぐって議論になっちゃうような削除依頼」については終止符を打ち』たいと思うならばいい方法が1つあると言わざるを得ません。それは特筆性を厳格に決めてしまうことです。文句が出にくいようにするには実績面を中心にして抑制的に決めたほうが良いでしょう。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは単なる知識ベースではありませんの6番、『家系図や人名録ではありません。ウィキペディアの伝記は大きな業績を残した人物についてのみ取り上げられるべきです。』とあるようにです。現状のWikipedia:特筆性 (人物)#スポーツ選手はやや曖昧すぎると感じます。1つ目の『スポーツを行なうことで経済的見返りその他の便益を受けている選手やそのコーチ』を文字通り援用してしまうと、スポーツ推薦で入学した学生選手まで特筆性があると判断できることになってしまいます。これでは特筆性に関する議論は無くならないでしょうし、それに伴う削除依頼も減らすことはできないのではないでしょうか。ただし、これは『スポーツ選手』という余りにも大きすぎる分野であることによって最大公約数的な文章とならざるを得ないであろうことは理解できます。そうなるとより細かくプロジェクトごとに記事の作成基準を決めることが理想的とも言えます。
少なくとも自分は『ごく一部の利害関係者』とそうでは無い人の区別は難しいと考えます。実際問題として、すでにjawpにおいて本人かそれに近い人物らしき人が何らかの理由を持って記事の編集削除を行う例が散見されています。しかし、ほとんどの場合どんな関係の方かは想像しかできず、判断が難しいところです。これは主に存命人物の中でも(元)芸能人の例が多く、Nekosuki600さんが想定しておられるスポーツ選手の分野では少ないだろうとは思います。しかし、多少有名だからと無軌道に増やしてしまうと将来的には十分にありうることだとも思われます。このような論争は当事者間で解決させる手段が少なく、コミュニティに重大な疲弊を起こすばかりです。以上のことから、存命人物の記事とそうでない記事の特筆性はある程度分けて考える必要があるのではないでしょうか?
最後に蛇足的なことになりますが、検索エンジンの存在があるため、アクセス数が全て実質的な閲覧者じゃないように思えるのですがどうでしょう・・・--Addicks 2009年7月31日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
Addicksさんどうも。さて。「特筆性を厳格に決めてしまう」だけど、それ、どうかなぁ。無理だと思うなあ(=^_^;=)。
まず「特筆性を厳密に決めることが可能なのか」という問題があります。非常に狭い分野に限定したらある程度決め込むことができる可能性を否定するものではありませんが、その基準は他分野にはおそらく適用し得ないものとなるでしょうし、結果として分野際やクロスオーバーする部分でいつものような衝突が繰り返されることにもなるでしょう(個人的には分野限定のよくわからないローカルルールには増殖してほしくないっす)。
それに、がんばって規定したとしても、どうせ「次々にはみ出してくるものがみつかるだろう」という予測があります。たとえばスポーツ選手について「それで食えてるやつのみ」と規定したとして(あくまで例)、一方で「じゃあゴルフのレッスンプロははいるのか」とか、もう一方で「アマチュア選手ははいんないのか」とか、「高校野球の選手はどこから特筆性が出てきたといえるのか」とかいう話になってくる(ていうかこういう話はすでにずいぶんあったような)。そういうのをひとつひとつ詳細に決めたとしても、絶対にさらにはみ出す事例が出てくるものです。
で、もちろん「ごく一部の利害関係者」とかいうのも、厳密な判断基準にはなり得ないです。誰かが該当するのかどうか、誰にもわかんないからね。ただ、真っ白でも真っ黒でもない間のグレーゾーンというのはたいへん幅が広いわけですが、そのまんなかへんで争う必要はないんじゃないか、というのがおれの今回の主張。争うんだったら「ほとんど真っ黒に近いグレー」のあたりでやるようにすれば、「まんなかへんのグレー」でせめぎあうよりはだいぶわかりやすいんじゃないかということです。現状、「ほとんど真っ白なグレー」で戦いを挑むひとまでいるわけだけど、それはおかしいだろうと。
なお、今回はスポーツ選手をめぐっての議論でしたが、おれはごく狭い特定分野を除くとスポーツにはあまり興味がなく、特筆性論も一般論として考えてます。個人的に興味がある分野としては、たとえば建築物とかですねえ。上の方に事例をいくつか並べてありますけれども、廿世紀浴場三信ビルディング九段下ビルあたりはいずれも、ブリタニカとかには載ることがなさそうな物件です。しかしそれなりにニーズはあるのだし、あって迷惑なもんではないだろうと。で、閲覧数ですけど、そもそもこんなもんをサーチエンジンで探すやつは多くないでしょうし、探してきたひとにとっては十分参考になるレベルの記述は存在していると思いますよ(念のためですが、今ほど出典明記がうるさくなかった時期に書いたものなので、現状から見返すと不満があることは否めません)。
現時点では検証可能性が満たせるだけの手持ち資料がないんで書いていませんが、たとえば中澤時計店とか、水和橋沈下橋には言及あり。てきとーに書いておいたら誰かがリファレンスつけてくれたんじゃなかったか)とか、金成ハリストス正教会とか、あってもいいと思うんだよな。誰か書いてくれないかな。でもこのクラスのものを誰かが立項してくれたとして、十中六七は「特筆性論争」に巻き込まれることになり、存続票を投じにいかなくちゃならない羽目に陥ることだろうと予想しています。そういうのはもういいかげんやめにしませんか、とか思ってるわけです。--Nekosuki600 2009年8月1日 (土) 00:52 (UTC)[返信]
まず、当方に勘違いがあったことをお詫びいたします。こちらとしても存命人物以外の分野での特筆性論としてはNekosuki600さんのご意見を概ね肯定しています。その点においては議論になることは限定されているように思います。ただ、限定されているところを挙げるとするなら、『真っ白でも真っ黒でもない間のグレーゾーンというのはたいへん幅が広いわけですが、そのまんなかへんで争う必要はないんじゃないか』と言われるのですが、現状においてグレーゾーンがどのあたりにあるかという認識の幅がそれぞれにおいて違うのではないでしょうか?つまり、仮にNekosuki600さんがほとんど白、もしくは白と黒の中間あたりだと考えていても、別の方にはほとんど黒だろうと思われることがありうるのではないか?ということです。
この点は、Wikipedia上に限らず通常よく起こり得る認識のすれ違いです。どちらかに勘違いがあったというのもよくある例ですが、曖昧になっていたが故に起こったことというのもまたよくありえます。この議論も現在時点で特筆性論に興味がある方はご覧になることも多いでしょうが、そうでないなら見ることは無い可能性が高いと思います。そして、この先において特筆性について厳しく考える方が現れて、その人が削除依頼を出すということはほぼ確定的にあり得るのでは無いかと考えます。
「特筆性を完璧に決めてしまう」という行為が無理であろうことは自分も同意します。しかしながら、特筆性を踏まえた作成基準を決めることである程度グレーゾーンを減らし、認識の違いも減らすことが可能かもしれないと思っています。ただし、実際には徒労に終わり、執筆者に足かせにしかならないという可能性もあるのですが・・・。削除依頼における議論は将来的に作成基準となる議論の集積とも言えるのですが、現状において削除依頼の議論はその依頼の対症的議論に終わり、その議論が他にフォローされることは多くはありません。その議論を集積する、場合によっては否定するためにある程度細かい作成基準の制定が必要なのではないでしょうか?これはNekosuki600さんが懸念されている『「特筆性論争」に巻き込まれることになり、存続票を投じにいかなくちゃならない羽目に陥ること』の減少につながるかもしれません。
最後に議論の摺り合わせとして1つ質問させて頂くのですが、Nekosuki600さんにとって特筆性は需要と言い換えることが可能なのでしょうか?--Addicks 2009年8月3日 (月) 14:58 (UTC)[返信]
確かにまあ、「グレーゾーンのどのあたりで争っているか」について当事者間に合意がないケースというのは存在すると思います。典型的な例としては「一部分野では著名だがそこを出たら無名なな事物に関する記事についての削除依頼」などが挙げられますでしょうか。「削除」を黒で「存続」を白とした場合、削除依頼者は「ほとんど真っ黒」だと思っており、記述対象に詳しいひとは「・・・白だろ」と思っている、みたいなケースです(典型的事例のひとつ)。ただ、こういうケースは、少なくはないものの決して深刻ではないように思います。「『自分が知らないこと=特筆性がない』ではない」のひとことで終わりにできちゃうのが普通だし。また、そういう「ものさしがずれているケース」が顕在化しちゃったらそのズレについてはその都度調整しすり合わせをするしか解法はないでしょう。あまりにズレていたら説教するしかないだろうなー。
で、「多少なりとも特筆性があればそれでいいじゃん」について。
先に、議論のすり合わせのための質問として出された「Nekosuki600さんにとって特筆性は需要と言い換えることが可能なのでしょうか?」に回答いたします。「イコールではありませんが、需要は特筆性のひとつの要素として考えるべき」ということになるでしょうか(今回の議論を通じての短期的な目標のひとつに「需要という指標を付け加えること」があることは否定しません)。
たとえば野球選手項目に関して「プロの一軍に参加した履歴のある者の記事は、作ってもいい」というルールを作ったとします(あくまで例です)。「プロの一軍に参加した経験のない者の記事は造ってはならない」という表現も可能です。実はこの2つは意味が違うんですが、このあたりの意味の違いがおかしな議論につながる原因のひとつになっているような気がするんですよ。
いずれの表現を使ったとしても、当該ルールは現実的には「一軍参加履歴がない選手の記事の削除理由」として使われることになるでしょう。しかしですね、「当該選手がプロ野球の一軍で試合をしたことがない」として、それはプロ野球選手としての評価にすぎず、他の切り口からの特筆性については何の評価にもつながらないのですね。ま、特筆性を理由とする削除依頼について「いかなる分野においても特筆性がないことを証明せよ」と要求するのは悪魔の証明を求めることになりますからムチャなんですが、逆に「特定分野での特筆性の低さのみを理由として削除依頼を出す」のだって控えめに言って同じ程度にムチャだろうという気がします。また、たったひとつでも特筆性がある分野がみつかれば、それは存続の理由となるということにもなります。
今回のケースについては過去事例との整合性などをめぐっていろいろ微妙な部分があるのは確かなんですが、「需要がある(情報を求めているひとがいる)」という一点で「特筆性がある」、すなわち「Wikipediaに置いておく価値がある」と判断して良いのじゃないだろうかという気がする。
現状では、「なにかひとつでも特筆性に疑いをいだかせる理由があれば削除すべき」というような主張がけっこう見受けられます(削除理由が点々とする事例なんかはこういった理由に基づくものでしょう)。そうじゃなくて、特筆性を理由として削除を求めるのならば「いかなる視点から見てもWikipedia上にその記事が存在する意味が見出せない」ことを説明・主張する必要があるのじゃないだろうか。前述の理由から「証明しろ」とは言わないけれども、「特定の側面から特筆性がないことを力説し、削除を主張する」のは方法論が間違っているということくらいは確認が可能なんじゃないんだろうか。
この点を確認するだけでも、しょーもない堂々巡りのかなりの部分を抑制できるんじゃなかろうかと、おれは思ってます。いかがでしょうか。
これでも事態が改善されなければ、作成基準を煮詰めるというのは次のステップとしてありだと思います。--Nekosuki600 2009年8月4日 (火) 09:44 (UTC)[返信]
返事が遅れまして申し訳ありません。具体例の件はなんというか凄まじいものがありますね・・・。これは自分としても予想を超えるものでした。
質問にお答えありがとうございます。需要は可変的なものというのが自分の考えでしたので、需要が全てだと言われると困ったのですが、要素の1つとするなら自分としてもそれほど問題は無いように思います。また、その次の段落についてもなるほどと頷けるものがあります。ものすごく極端な可能性例を挙げればマイケル・ジョーダンでしょうか。Nekosuki600さんの懸念は確かにありえそうな気がします。
『「特定の側面から特筆性がないことを力説し、削除を主張する」のは方法論が間違っているということくらいは確認が可能』という点について、Wikipedia:特筆性を改めて読み返してみると、定義部分で『各分野での特筆性の基準を満たすならば、記事主題は十分に特筆性があると推定されます。』とあるのですが、その後はこの文章の説明がまったくないということに気づきました。Nekosuki600さんが言われる『確認』を行うとするならば、この部分の詳しい説明をWikipedia:特筆性に付け足すべきではないかと思うのですがどうでしょうか?自分としては積極的に反対する理由はありません。どの方面で特筆性があるかという方向性の認識を新規記事執筆者に示すという意味でも悪くは無いように思えます。--Addicks 2009年8月7日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

本来、「特筆性」とは誰の目から見ても明らかに「特筆性」がないとされる事象に適用されるルールであると思います。例えば、「近所の八百屋の得価セール」とか「○○学校3年1組」とか百科事典に掲載するにあたらないものの執筆を規制しようとする意図のものと考えます。しかし、翻って現状をみると、客観的な判断基準がなく、クリアーなガイドラインでない為、様々なところで本ガイドラインを援用する側とその相対者によって議論が発生しています。私が観るところ、Wikipedia上には様々な意見があり、様々な議論が発生しているのですが、大体の議論では検証可能性やPOVなど比較的クリアーな判断基準を基に秩序ある議論が行われているように感じます。しかし、本ガイドラインに関するものだけは別です。極論しますと主観的な掲載削除の温床となりうる、もしくは、なっているのが本ガイドラインのように感じます。上で提示されている改善策はこのような事態の防止に寄与するものと思いますので大いに賛成いたします。--220.220.114.212 2009年9月21日 (月) 16:01 (UTC)[返信]

"特筆性"は悪質な削除主義者(自分にとって必要無い、自分にとって特筆するようなものではないものは削除したがる、つまり明らかに問題のあるもの以外を除去したがる人々)が都合良く削除を仕掛けて回る道具と化しているように見えますね。 例えば香港で上位に入った映画の主役を演じた日本人俳優がそれを記事内で示してあるにも関わらず特筆性の名の下に除去されようとしていたり、数十本のDVDから映画・TVまで出演している芸能人が特筆性を貼られているとか。

notability(特筆性)においてdeletion(削除)は"For articles of unclear notability, deletion should be a last resort."、他のあらゆる手段を講じた上での最終手段であり、私はNekosuki600さんが言われた「(ごく一部の利害関係者とか以外の)誰もが特筆性がないと思うくらいに特筆性がないもの」という次元の特筆性のなさにおいてのみ削除を認めます。

どうも日本のWikipediaには何々に適合しなければ存在してはならない、即座に削除されるべきと思い込んでいる人が多すぎますね。本当に問題のあるものを取り除くためのruleや質の良い記事にするためのguidelineが都合良く削除するための方便として乱用されている。 必要なのはむしろこういったものを振り回して削除を仕掛けるuserに"削除の乱用"であるとか"特筆性の乱用"とかを貼り付けて警告できるようにすることじゃないですか。--射丸蔵 2011年2月18日 (金) 09:26 (UTC)[返信]