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Wikipedia‐ノート:削除依頼/二階堂主膳助

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ご本人に対しては同じことの繰り返しとなり、もはや説明をご理解いただける余地はない(ご理解される意志はない)ものと考えていますが、それとは別に第三者が読むことを前提として、念のために書いておきます。

たとえば市販済みの『徳川実紀』や『国史大系』などに載せられた記述も一次資料であるのでWikipedia記事の出典としては認められないとおっしゃられることになります。

→その通りです。認められません。ただし「『徳川実紀』にはこう書かれている」という記述は可能です。書かれている内容をそのまま確定事実として記述することはできません。

この概念ですとWikipedia上で歴史記事を書ける投稿者は誰一人いなくなるように思えますね。

→ぜんぜんそんなことはありません。【その『徳川実紀』や『国史大系』を元に多数の史料の記述をつき合わせて研究考察を行って書かれた研究者の論文や著書】を出典とすることで、いくらでもだれでも記事が書けます。たとえば以下のような例があります。

研究書を出典とした例=直訴#脚注の1.

要するに、「何某がいつ何をした」という記述のある古文書(一次史料)や、それを採録・現代語訳・概説した程度の資料は「何某がいつ何をした」と記事に記述する場合の出典になりませんが、それらの史資料に基づいた研究の成果を記述した出版物は出典になります(というより、まさにそのようなものこそ、Wikipediaに出典が必要とされる要件を満たすものです)。--Horlicks 2009年6月20日 (土) 02:49 (UTC)[返信]

・・どうも、Dwy さんは一次資料に関する考えを誤解されているようです。

→誤解されているのは(喜連川一色家氏と同一と疑われている)IP氏のほうです。

歴史学的には古文書(草書体で常人には読めないもの)は一次資料でこれが公的な解析ツール(古文書辞書)にて読み下し文に変えたり、概説や現代語訳を付けたりしたものは二次資料です。

→すでに上記しておりますように、その理解は誤りです。

なぜWikipediaでは記事の執筆にあたって出典が求められ、またその出典には信頼できる二次資料が求められているのか、その理由をよく考えてください。 一次史料では出典にならないのに、それを読み下し文にした出版物が出典になる、というのは、目的論から見て明らかに矛盾します。 二次資料の出典が求められるのは、一次史料に対して考察研究が加えられ、かつそれが不特定多数の査読を経ていることを担保するためです。 その目的から、単なる一次史料の読み下し文は、Wikipediaの出典になり得る二次資料とは認められません。 もうこれ以上我説を押し通すのはやめて、Wikipediaのルールを正しく理解するよう努めていただくか、それがいやなら(自分の解釈、理解をあくまでも押し通したいのであれば)、Wikipediaへのご参加はご遠慮ください(もし喜連川一色家氏本人であれば、すでにそのような処置がなされているわけですが)。--Horlicks 2009年6月23日 (火) 11:35 (UTC)[返信]

  • wikipediaのいう一次資料・二次資料が歴史学で使う通常の一次資料・二次資料とは異なるものであることを短的にいっていただければ解かり安かったですよ。w また、Wikipediaでは「~による」ではなく、「~には~と書かれている」という表現が望ましいということですね。どっと疲れを感じました。しかし、このような表現はwikipediaではあまり目にしませんがね。叔父から聞いてはいましたが、これほどとは思っていませんでした。まあ、勝手にやってください。というのが感想ですね。私の場合、別の登録IPを持っていますがwikipediaの歴史関連がいかに偏った記事を特定の編集者により記述され、特定の編集者達により都合の悪い記事にたいしてはwikipediaのルールを過剰に利用して弾圧するかが良くわかりました。善意の管理者の方々のご苦労も伺いしれますが、正に現状のwikipediaの記事を信用してはならないことを身をもって体験した数ヶ月でした。多くの方がwikipediaの記事に参加してこのことを知ることも必要ではないのか?ともです。一方、喜連川においては最後の町史『喜連川町史』(平成19年発刊)と全国書店販売の『日本一小さな大大名』(平成20年発刊)の売れ行きは絶大で、喜連川騒動の真実(尊信派逆臣説)はすでに十分広報されています。Wikipediaの関係記事がこれに遅れることなく正しく編集されることを期待していますよ。--220.4.250.227 2009年6月23日 (火) 16:13 (UTC)[返信]
「ルールを過剰に利用して弾圧」のような言い方は220.4.250.227さんがルールを全く理解していないことを露呈するものでしかありません。また、根気よく丁寧にルールを説明してくださっているHorlicksさんに対して大変失礼でもあります。Wikipediaは誰でも編集に参加できるプロジェクトですが、それには「基本方針に賛同していただけるなら」という条件がついていることを、しっかり認識していただきたいと思います。--Dwy 2009年6月23日 (火) 17:22 (UTC)[返信]
  • 嘲笑のwですが、一般の使われかたは知りませんが、当家内のメール交換では普通に使われるものです。句点の後で使います。句読点なしで使うと相手を笑う意味になります。ですからそれはあまり使わないパターンですね。電話でのやりとりと同じで、メールではその意見について適正な感情が相手通じませんのでよく使いますよ。たとえばwが連続するほど相手の意見に否定的である意味で使います。一つの場合は相鎚の意味もありますね。余談ですが--Doripoke さんの投稿履歴を確認してみました。本人によるご自分の投稿履歴の削除作業ですか?大変そうですね。さぞかし見られたくない履歴なんでしょうねw。--220.4.250.227 2009年6月24日 (水) 06:34 (UTC)[返信]

削除依頼と関係のない雑談等はここで行わないでください。--Horlicks 2009年6月24日 (水) 12:58 (UTC)[返信]

「喜連川騒動の真実(尊信派逆臣説)はすでに十分広報されています」とのことで、心よりお慶びを申し上げます。ただ、ウィキペディアでの対応の方は、必ずしもご期待には添えないかもしれません。『日本一小さな大大名』は所詮「歴史読み物」「小説」の類のようですから、そのまま百科事典の記事の出典に持ってくるのは無理がありそうです。また、「喜連川町史」の方も、資料編だと使いにくいのはHorlicksさんが説明されているとおりです。(ひょっとして平成20年度発行だという「第六巻 通史編1」なら[1]、もう少し使いやすい記述があるかもしれないと思ったりもします。でも、叔父さんのサイトにも何も言及がないようですから、期待薄ですね)--Dwy 2009年6月26日 (金) 20:27 (UTC)[返信]

ついつい220.4.250.227さんに語りかける口調で書いてしまいましたが、「私はWikipediaの編集からは手を引き」とのことですので[2]、お返事は不要であることを、念のため申し添えます。--Dwy 2009年6月26日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • Horlicksさんのご忠告もあり控えていたのですが、Dwyさんのコメントですが、先走った発言で誤解があるようです。「『日本一小さな大大名』は所詮「歴史読み物」「小説」の類のようですから、・・」のコメントですが、直接この本を読まれたコメントとは思えません。『日本一小さな大大名』の執筆にあたっては、旧喜連川町史編さん専門委員の新井氏、栃木県立古文書館職員の皆様の力添え(資料提供など)があったことが書かれています。その通りで、現さくら市の喜連川町史編さん委員会でさえ、現在の『喜連川町史 第六巻 通史編』の近世の記述から尊信公事件(喜連川騒動事件)の事件関係記述を控えることで、旧誌『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」記事を肯定してはいません。現在では当時の一部の関係者により都合よく書かれた記事であったことを認めています。つまり、。『日本一小さな大大名』は、Dwyさんのコメントのようなものではないことを申し添えます。--220.4.250.227 2009年6月27日 (土) 08:04 (UTC)[返信]