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Wikipedia‐ノート:言葉を濁さない/過去ログ1

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特定の言葉を禁止する問題

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現状のままでは、ちょっと問題がありそうなので、この文章は全体的に書き直したいと思います。とりあえず、w:en:Wikipedia Talk:Avoid weasel terms で話し合われていることをザッと呼んだ限りでは、以下のような意見が目立ちました。

  • 特定の言葉を禁止するのは問題である。たとえば、「コペルニクスの時代には、太陽が地球の周りを回っていると信じられていた。」という文では、「信じられた」という事実の記載にすぎず、「信じられていた」という言葉を使うこと自体には問題はないはずである。
  • Wikipedia:中立的な観点に反しない限りは認めるべきではないか?。「ブラームスは、最も偉大な作曲家の一人である」のように多くの人が実際にそう思っている考えに対しては、ソースを提供するのは難しい。ソースを提供する必要があるのは、議論が分かれる主題のみでよいのではないか?

ご意見を伺いたいと思います。Ojigiri 16:43 2004年2月7日 (UTC)

1件目はそのままでも問題ないでしょう。2件目は問題ありです。ブラームスの評価が高いのは日本とドイツぐらいです。

それは2件目は、「日本では」と付ければ良いってことですか?それだけの問題であれば、Ojigiriさんの意見を支持しているのと大して変わらない認識です。 Kozawa 23:32 2004年2月7日 (UTC)

限定して言説するのと、無責任にただ「言われている」と記入するのは、天と地の差があります。 Kozawaさんはそんなことも分からずに、百科事典の記事作成に参加しているのですか?


たとえば、「うさぎとび」はどのように説明しますか?100年前にwikiがあれば「足腰を鍛える運動である」でいいと思いますが、30年くらい前だと「一般に足腰を鍛える運動であると信じられている」と書いたほうがよいと思いますHaguii 00:11 2004年2月8日 (UTC)

また、粘着がでてきましたね。 うさぎとび、ですか。 自分で書いて、考えてください。 間違っていれば、修正されるでしょう。

相手の言を皮肉ったり無用に攻撃的な態度をとるのは議論を本筋からそらすので避けたほうが良いでしょう。ノートページは記事の改善のためにあり、議論そのものを楽しむ場ではありませんので。
で、議論の本筋とは、「Ojigiriさんの紹介された英語版ノートページの意見二つの強調部分についてどう考えるか」であって、たまたまあげられた事例が適切かどうかにこだわっても仕方がないでしょう。
私はこの指針の述べていることにはあらためて共感はしましたが、これを根拠に一律・表面的な修正をするのではなく、それぞれの記事の事情に合わせて最適な加筆修正をすべきです。そのためには一方的な作業ではなく、ノートで注意を喚起するなどから始めたほうが良い結果を得られるように思います。また本記事も、指針の実現のための編集の手引きを追加記述するほうがよいと思いました。
記事の質を改善したいという最終的な目標を共有しておられると考えてはおりますが、それならそれで無駄な論争でエネルギーを浪費しないでもよいやり方で進めたいと思います。sphl 13:12 2004年2月8日 (UTC)

例えば 「日本では、バッハは最も偉大な作家の一人であると信じられている」 などと書けば、読者に、バッハが高く評価されているのは日本だけなのだ、という誤ったという印象を与えかねません。限定したところで必ずしも良い記事にはならないし、却って記事の質を損なう場合も多いと思います。

>「ブラームスは、最も偉大な作曲家の一人である」という日本において強い見解は、具体的な論者や根拠を挙げることは難しいかもしれません。しかし、少なくとも「日本やドイツでは、ブラームスは最も偉大な作曲家の一人として評価されている」と書くことはできます。
悪いけど、そもそも世界であろうと、日本であろうと「最も偉大な作曲家の一人」という表現自体、言葉としておかしいと日頃から感じている。「最も偉大な作曲家」なら誰が決めるのかは別として、言葉には揺らぎはないが、ベスト1なのか、ベスト10なのか、ベスト千なのか提示しないで「最も偉大な作曲家(人)」という母集団の一人であるという提示は、明確であるようで全然明確でない。「ブラームスは、最も偉大な作曲家である」と言い切ってしまうと、先ほど述べたように「誰が決めたんだ!?」と異論が出てくるのでそれを和らげるために「ブラームスは、偉大な作曲家ベスト10のうちの一人である」とした場合でも厳密に調査したら11番目かもしれない。それがめんどくさいから、ベスト(ごにょごにょ)のうちの一人であるとごまかしているようにしか見えない。まだ「ブラームスは、偉大な作曲家の一人である」としてくれた方が違和感無く受け取ることが出来る。(ってーと、偉大かどうかを、誰が決めるんだ?・・・と言い出すバカが涌くんだが)122.214.72.243 2008年12月25日 (木) 00:48 (UTC)
その「バカ」とやらに問いつめられて、答えに窮するような内容をわざわざ書く必要性は無いですね。--114.148.125.194 2013年1月24日 (木) 01:35 (UTC)

修正案

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「言葉を濁さない」それ自体は、曖昧な表現によって中立性が損なわれる可能性を主に危惧しているように読めました。その点を強調して、例えば次のような文面に直してはどうでしょうか。Yugui 07:42 2004年2月9日 (UTC) (修正案をコメントアウト)

10日ほど経ちましたが特に賛成も反対も挙がらないようですので、Wikipedia:言葉を濁さないに掲載して議論を待ちたいと思います。Yugui 10:48 2004年2月19日 (UTC)

曖昧な言い方の典型例

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日本語版では「〜という指摘もある」「〜という批判もある」といった表現が目立つように思われます。これは「〜である」と断言するよりは中立的な表現になっていますが、具体的に誰がそう指摘/批判しているかが不明です。その加筆者の個人的意見でしかなかったり、その対象を研究する分野では極一部の異端的な(或は「電波」な)人々にしか支持されない指摘/批判であるなら、単に「指摘/批判もある」という表現は誤った印象を与えることになります。こうした表現も指摘/批判している主体を極力明確にすべきであると思われます。Hermeneus (talk) 2005年11月17日 (木) 03:53 (UTC)

「~と言われている」というだけであたかも信憑性のある記述になる所が田舎民族丸出しだよね。言うだけなら小学生にもできるっての。--かびお 2006年11月4日 (土) 21:43 (UTC)

まぁなんだ、殆ど事実である研究や情報に対して「言われている」を使うのは信憑性を落とすので凄く失礼な気がしますね。書き手が事実でないと疑ってるからそういう表現になる訳で。--218.110.176.18 2006年12月17日 (日) 17:20 (UTC)

最新の英語版を元にした修正案

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最新の英語版(en:Wikipedia:Avoid weasel words22:38, 27 January 2006)を確認したところ、現在の日本版が作成された時点の英語版にかなりの変更・追加がなされているようです。そこで、最新の英語版を一部翻訳しつつ、参考にして以下のような修正案を作成してみました(ただし、現在の版の「基本的なガイドライン」は一部整形した以外は、そのままです)。皆さんのご意見を頂ければ幸いです。Sloop25 2006年1月28日 (土) 00:03 (UTC)


ご検討をよろしくお願い致します。Sloop25 2006年1月28日 (土) 00:03 (UTC)

(修正案をコメントアウト)

井戸端(告知)で意見を求めてから10日経ちましたが、賛成・反対ともにありませんでした。このため、本修正案をWikipedia:言葉を濁さないに掲載し、今後の議論を待つことといたします。Sloop25 2006年2月12日 (日) 05:02 (UTC)

「~との声もある」という記述で批判を載せる事について

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特にサブカル系の記事にこのような記述が目立つのですが、その解釈を提唱している著名人を記載しなければいくらでも捏造できてしまうような気がします。こういうのは問題ないんでしょうか?--Ryz 2006年6月13日 (火) 15:43 (UTC)

大きな問題です。 それが一般に受けられるものであれば、問題にはならないでしょう。一般に受け入れられるものではない場合、それは独自の研究であるばあいが多いため誰かが削除するか、あるいは修正を求めます。批判するために批判しているような記述もままありますが、その多くも修正される機会があります。しかしその中間にあるものや、閲覧者・識者が少ない場合は好ましくない状態で放置されることもあります。さて、その解釈をしている著名人がいればそれは参考にはなりますが、かといってそれがその解釈をそのままwikipediaに記載されることが許される理由ではありません。wikipediaは批判の場ではありませんから、誰でも編集することができるわけですし明らかな問題があると認められる場合は削除してみてはいかがでしょうか。-- wikipediaでの批判活動に批判的なJud 2006年6月13日 (火) 17:20 (UTC)

うーん、「明らかな問題」とする判断基準が人によってまちまちなので積極的には賛同しかねます。ただの誹謗中傷とか、Judさんの言う「批判のための批判」とかそういうのならともかく、批判を書きたい人とほどほどでとどめておきたい人の間で妥協点を探った結果の記述とかもあるわけで、その手のをばっさりやるとあちこちで火を吹きそうな気がします。ちょっと「あれ?」と思うようなものであれば、まずはどの方面からの批判なのか出典をノートで求めてみるとかした方が混乱しないのでは。--cpro 2006年6月13日 (火) 17:30 (UTC)
まぁバッサリやるのは軋轢の元だと思ったので、とりあえず交通整理と見てくれの整理はしてみたんだけど、見てくれの向上が逆に書きやすい環境になったのか結局ソフトの些細な間違いを揚げ罵る記事になったことがあって、今じゃ登場キャラクターの能力までもが勝手なPOVで間違いとされ批判され放題な状態。POVの固まりだし、もうバッサリと消してしまおうかな、と思ってるんです。実況パワフルプロ野球なんだけど。書く人は事実だから書かれてしかるべきだと思ってるらしいけど、それは百科事典のあるべき姿ではないよな、とは思うんです。--Jud 2006年6月13日 (火) 18:07 (UTC)

やつあたり気味なのは自覚しつつ、んでも書くんだけどさ。最近のテレビのワイドショー系時事ネタで「~~といいます」という表現が妙に耳障りなんですよ。伝聞形式で言えば裏づけを取っていないトバシであってもかまわない、という確固たる意思表示ですなあれは。断定するだけの苦労をせずに「~~といいます」でごまかそうとするテレビ屋なんか死んでしまえ(おれのナレ原には、そんなのなかったよなぁ・・・)。 さて、「という声もある」。まあ、たいていのことは誰かしらが言ってるわけで、「という声もある」という書き方をすれば、まあなんでも書けますわな。なんでも書けるということは何も言っていないも同然ということです。ついでなんだが、根拠があって書いたことについても、それを好ましいと思わないやつが「という声もある」をくっつけて無意味な記述にしやがるということも、ところによって頻発しています。こういうやつも首を絞めたくなるなあ。 まあなんだ。基本的に「~~といいます」というナレ原を書くテレビ屋だの、「という声もある」という表現で加筆をするウィキペディアンも、いずれもたいしたもんではないでしょう。Wikipediaの上のテキストならば直せるわけで、がしがし書き直しちゃっていいんじゃないでしょうか。 --Nekosuki600 2006年6月13日 (火) 17:36 (UTC)

Wikipedia:言葉を濁さない --Clinamen 2006年6月13日 (火) 17:39 (UTC)

共謀罪のNPOV化のときに、(アンチ反対派主張に関して)ソースがないときにそれに近い表現(「〜という主張もある」)をつけるというのはやってしまっているかな。ソースないと思って消す(ていうか法案提案者はそんな愚かなことは言わないよなぁ、という水準なんで消しちゃいたいんだが)と編集合戦になりそうなんで。そういう内容を書く方のほうは、こちらが外部リンクにソースを出しとくとそれを消してくれたりする(注意したら消さなくなった気はするが…)んでこれまた困るんですよねと。--崎山伸夫 2006年6月13日 (火) 17:59 (UTC)

賛成論は根拠となる著名人や著名団体がいくらでもあるのに対して、反対論は一般の声としては確かに存在するものの根拠となるものが存在しないということでウィキペディアで採り上げることができず、結果的に賛成論ばかりが載せられてしまう事態が起こりえます(その逆も考えられます)。こういった場合は一方的な記述しかできず、素人が見る限りではPOVにしか見えなくなるのですが、やむを得ないのでしょうか。--Muyo master 2006年6月14日 (水) 01:37 (UTC)
よくないと思います。それじゃただの大本営発表ですよ。もちろん節度ある批判意見ではあるべきで、それが守られないのであれば削除されても仕方が無いとは思いますが。--61.116.116.94 2006年6月14日 (水) 03:24 (UTC)
殆どの論には必ず反対論が存在します。よって大きな問題はありません。第一反対論が存在しないからと言って脳内捏造してよいわけがない。--Luilz 2006年11月6日 (月) 09:24 (UTC)
中立的ということはすなわち批判的意見も肯定的意見も必要ない。百科事典に大衆の意見を載せる事自体が間違っている。どうしても批判意見を書きたい人達が、あたかも他人の意見のように振舞っているだけ。 --Funbolt 2006年6月18日 (日) 19:30 (UTC)

例えばインターネットで見たというようなものだと、「~との声もある」みたいな書き方しかできない気がします。この場合、確かにそういう意見はあるので一律に無視するのは中立では無いと思うし、かといって著名人のソースは示せないし・・・ということになりかねないので、個人的には致し方ない表現かなぁと思います。(ある程度まとまっててくれれば、ソースとしても使えるんですがね。)--Honeplus 2006年6月14日 (水) 04:14 (UTC)

いやあ。「という声がある」という情報を一律全面的に否定するつもりもないんですけどねー。
まあそういうわけで「という声がある」という事実があれば書いてもいいんだということにすると、たいていのことが書けるわけです。ただ、(1) という声が有力であったのかそうではなかったのか、(2) という声はどういう質のものだったのか、というあたりを基準として取捨選択をしてくれないことには、と。
前者の場合、まあ、ある程度以上世論にそういう声があれば書いとく価値があるかもしれません。ごく少数のひとが主張してただけならば、書く必要はないでしょう。が、ごく少数のひとが主張していただけのことをわざわざ書こうとして「という声がある情報」にしたてあげているように見える事例がある。
後者ですが、世間様の常識がおかしいケースや、根拠もなんもない印象論が声高に語られているケースとかってのも、珍しくないわけです。そういうのを載せる場合、いちいちその誤謬について説明をすべきなのか。まあ、バランス考えて「誤謬+説明」を掲載しておいてかまわない場合もあるでしょうが、バランス考えたら「説明をしてもうざくなるだけだし、誤謬からして抹消すべき」と考えざるを得ない場合もあるでしょう。そのあたりをどうするかだな(この「誤謬に基づく批判」の場合、説明をしても、説明の部分が編集除去されて編集合戦突入という展開も珍しくないよなあ(苦笑))。
ある程度まとまっててくれりゃ「という声もある情報」もそれなりに使えるというのには同意します。また、アツくなっちゃってるひとを相手に編集合戦に突入するのはあほらしいことだとも思います。ただま基本線として「という声もある情報は、歓迎できない」というあたりは共通認識になるといいなあと思うのでありました。
--Nekosuki600 2006年6月14日 (水) 04:37 (UTC)

目立たなかったようなのでもう一度。Wikipedia:言葉を濁さないこの議論はやるならここのノートでしょう。このガイドラインの知名度が低いというのは確かに問題ですが。--Clinamen 2006年6月14日 (水) 07:56 (UTC)


マスコミが「~と言われている」「~との声もある」といった曖昧な表現を使うのは、その情報が信憑性に乏しいからであって、事実以外記載してはならないwikiでこの表現を使うことは、嘘情報、脳内情報であると告白しているようなものではなかろうか。--かびお 2006年10月30日 (月) 22:05 (UTC)
要は検証可能性がないとダメということ。「声もある」という表現を許せば単なる掲示板になってしまう。Album 2006年11月6日 (月) 09:47 (UTC)
「との声も在る」なんですが…小生は結構あちこちでつかってますね。例えば誰が書いたんだか知らないが、削るとやたら熱心に元に戻す人が現れる地雷ワードなんかを、削らずに残す時にそういう方向に置き換えたり(爆言)。明確な主張者が挙げられれば良いのですが、近年ではインターネットの普及にもよって、個人が無名のまんま発した言質も賛同者らによって増殖する傾向があるだけに、「大本が誰かは判らないが、一定の支持者が(個人がマルチポストしているとは考えがたい量で)見られる」動向に付いては、あっても良いと思いますけどね…それら言説の概ねの発生場所と時期・及び支持者層の方向さえおさえられていれば。削ればそりゃ記事がすっきりするけど、削っては書かれを繰り返していたら、早晩その手の記事は全部編集保護になっちまいそうです。--夜飛 2006年11月7日 (火) 10:37 (UTC)
百科事典ですから「声」も「意見」も不要です。検証可能な「事実」だけで良い。Album 2006年11月7日 (火) 13:09 (UTC)
社会的な現象を記述するなら、声も意見も大事ですよ。それらを起こすのは個々の人間の集団なんですから。くわえて観測問題に陥るおそれもありますので、特定方向で得られた「検証可能な事実」の列挙だけでは限界があります。ときに膨らませるコトも、必要かもしれません…判断は読者に委ねる方向で。--夜飛 2006年11月7日 (火) 17:04 (UTC)
出典元のある声ならいくらでも載せていいんだけどね。個々の人間の集団とか話が別の方向に向かってるよね。--かびお 2006年11月8日 (水) 11:57 (UTC)
Albumさんの意見に賛成ですね。百科事典という目的の元で進んでいるプロジェクトなので、声も意見も「主観」でしかなく、中立的な観点から反れる(POV)原因を含んでいるのではないでしょうか?できれば検証可能な事実に留めておいてもらいたいです。--Trilingual 2006年11月8日 (水) 00:25 (UTC)
「声」も「意見」も載せるべきだ、とお考えの方は、是非ともWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査をお読み下さい。この項目と大変関連性の高いウィキペディアの基準です。よろしくお願い申し上げます。公式な基準「検証可能性」を下に記します。
検証可能性
  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している題材だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい題材を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
いや、検証可能性を否定するつもりも無いけど。ただ、「~べきである」を「~でなければならない」と置き換えたかのような狭量な判断の元に片っ端から編集しまくったら、そこかしこで火の手があがる危険性があると言いたいだけなんですけどね。敢えて言うならWikipediaは「百科辞典コミュニティ」としての性格があるので、例え高潔な理念を持とうと、それの適用を全てに優先させると、下手すりゃ既存記事の破壊にもなりかねないと思います…程度問題ではあるんだが。--夜飛 2006年11月8日 (水) 03:34 (UTC)
なぜ出典及び詳細な調査を求めることが「~べきである」「~でなければならない」になるんだい?夜飛氏は断言できないような曖昧な知識しか持たないのか?--かびお 2006年11月8日 (水) 11:57 (UTC)
それではあえて近づけて書きますと、「意見」や「声」が「検証可能な事実化」していれば良いと思います。例えば、「女性専用車両」で編集合戦になりかけたときに(「反対の声もある」といった表現について)駅前探検倶楽部のアンケート結果にリンクしつつ、下記のように表現したら、一応の収束をみました。
しかし独自調査で、例えば「yahoo掲示板では批判が多い」という記述は、見つけ次第、削除します。「査読」されていない情報ですので。--Album 2006年11月8日 (水) 04:14 (UTC)
確かに「○○に××が多い」だと確かに語弊がありますね、純然たる統計ではなく、主観によって多くも少なくもなりますので(対象の問題を懸念する側からすれば、ピックアップするから多く見えるかも知れないし、その逆もありうるし)。ただそれが、「○○に××が存在する」だと純然たる事実にもなる(自作自演やマッチポンプなどの可能性はおくとして)だけに、扱いは慎重を要すると思われます…流石に匿名個人が発した単発の意見を引用されても「アレ」ではありますが。
この辺りは程度問題にも絡むのですが、過去に小生が踏んだり見掛けた地雷のケースでは「××という意見が多い」を「××という意見が○○に見られる」と出典元らしきコミュニティに関連付けて「多い/少ない」という量的な問題を抜きにして「存在する/存在しない」という置き換えをすることで、地雷による被害拡散もなく事実に沿った記述に書き換えをしたりしました。
独自調査の問題は他人が事実かどうか検証出来ないということと、それが特定視点から見た非中立的な記述に陥りやすいという問題がある点だと小生は考えます。このあたりは公開されているウェブサイト内における意見なら「存在するか、しないか」かは誰でも検証できるレベルであるため、公正だと思います。逆に一部の記事でまま見られるのですが、一部の編集者さんが特定視点から自分好みの資料だけを列挙して、特定の言説のみを主張するケースもあり、これのカウンター的に他の編集者さんがそれら資料に匹敵する資料が提供できず「~と言う意見もある」と記述している場合があります。大抵このようなケースでは該当記事に先に手を入れた側が「異様に熱心に自分好みの資料を発掘してくる」のに対し、後から手を入れた側はモチベーションの問題もあって不確かな情報ソースしか提供できていない部分もあります。
「まずは不確かな情報を提示すると、他の人がそれを補強できる資料を持っているために、どんどん記事が正確になっていく」という(小生はこれをこっそり「Wikipediaダイナミズム」と呼んでいる)現象もあり、先に挙げた「偏った資料のみによる自説開陳」の編集者が作成した記事に、不確かな情報ながら対抗意見が盛りこまれる事で、初期編集者の思惑による一元視点にならない多面的な記事の成長もあるのでは?と期待する部分でもあります。それだけに「一律削除」という対応は腰が引けますね…--夜飛 2006年11月8日 (水) 08:55 (UTC)
端から見ていると地雷は君の方だよ。他のノートでは問題ある記述を削除されてキレてるし、皮肉めいた暴言を吐きまくってるし。--かびお 2006年11月8日 (水) 11:57 (UTC)
ダイナミズムは面白い考え方ですが、その意味では「編集合戦」も結果的に良い記事を残すことがあります。だからといって編集合戦を奨励することはできませんよね? 「意見もある」は、しっかり消してあげる、それで消える意見ならそれだけのものですし、確かな意見なら出典付きで戻ってきますよ。それこそダイナミズムでしょう。Album 2006年11月8日 (水) 10:57 (UTC)
いや、その記述が消えてしまっていては、ダイナミズムも興りようが無いと思いますが。記事を見て編集履歴を一つずつ参照する人がどれほどいるかも疑問ですし。それと編集合戦は、良い記述の応酬なら良いのですが、保護されてしまうような「削除→差し戻し→削除…」というような性質のモノで、このような応酬に発展したら、記事内で双方の意見を盛り込もうとしている当事者同士が冷静にノートでの対話をするという事でも無い限り、それらの編集者に記事が私物化されたりといった(他の編集者にとっては迷惑でしか無い)事態も懸念されます…というより、保護された記事の大半はそんなんかと。--夜飛 2006年11月8日 (水) 11:12 (UTC)

誤解を生んでしまったようですね。そのダイナミズムは「不幸中の幸い」でしかありません。「意見は書くな」がここの本文の基本方針です。本文は「議論の場ではない」のです。本文はコミュニティでもない。「ウィキペディアが何でないか」もお読みください。Album 2006年11月8日 (水) 14:26 (UTC)

確かに次善策ではありますが、論争回避の点では有効な手段だと思います…本文に方向性を盛りこむ人がいるうちは。ところで各項の本文はコミュニティの生成物成果物ですよね。その記事を書いているコミュニティの混乱から、記事内容が編集保護されている状態をしばしば見受けます。Wikipediaは何では無いかの「論争の場では無い」の点で、編集合戦の状態を一端議論に差し戻す上で、双方の意見を両方とも消すかコメントアウトしてしまうか、両方とも併記して読者に判断を任せた状態にでもしないとなかなか議論が興らない部分もあります。消すかコメントアウトすると差し戻す人も居るし。機械的に消して回ると、その点で頻繁に見て回らないといつ何時、消したはずの記述が復古していないとも限りません。しかしてそんな対応を繰り返しても居られない…と言う面で、小生は「是が非でも消す」という方向には賛同しかねるのです。--夜飛 2006年11月8日 (水) 14:59 (UTC)
基本方針に「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。」と書いてあるくらいなんだから消すかどうかは個人の自由なんじゃないの?--かびお 2006年11月9日 (木) 02:09 (UTC)
答えはシンプルなんですよ。誰にとっても中立(と感じられること)なんてありえない。みんな立ち位置がちがうから。ではどうするか。「真実ではなく検証可能な事実だけを」ということです。誤解をおそれずに書けば「偏っていて良い」と各人が割り切るしかありません。「ただ検証可能な事実だけを」。偏りを感じること自体が偏った主観なのですから。常に完璧を目指すのがウィキの基本方針。「意見もある」のたぐいは自動削除するしくみが本当はベスト。保護もやむなし。出典の確認出来無い「意見」は百科事典に不要。それはゴミでしかありません。Album 2006年11月8日 (水) 15:29 (UTC)
シンプルというよりも、より物事を極小化して扱っているようにもお見受けしますが…それはさておき、万人における中立性を「ありえない」として頭からすっぽ抜かしてしまったら、Wikipediaの理念から言ったら拙いことにもなりそうです。その辺りは、可能な限り広範囲の意見を(編集者自身の主観はナシにして)列挙することも、ひとつの方法論ではありますね。
「意見はWikipediaに不要」…良い言葉です。記事中の編集者の意見は客観性の妨げにしかなりませんので。それだけに編集者の意向によって記事の内容が特定の方向のみ強調されたモノであるべきではないと考えます。その点は、公的に参照可能な「現象として採取されたあらゆる意見」は適正に扱われてしかるものともいえましょうね、ゴミとして取捨択一されるようなものでもなく。--夜飛 2006年11月9日 (木) 08:19 (UTC)
「現象として採取されたあらゆる意見」は査読制度のある「信頼おける情報源」に掲載されて初めて、ウィキの本文に載せる多少の資格が出来るのではないでしょうか。しかし何かに掲載されたからといって、だから載せていいんだ、とは思いません。例えば仮に「ブッダ」の項目に、
  • (架空例)【「ものみの塔の『目覚めよ!』(昭和38年4月1日)によれば、「ブッダはペテン師であり、油断ならない人物である」との批判の声があった。】
などという記述があれば当然、排除されるべきだと思いますが、いかがでしょうか?意味のある批判ならば何十年も前のマイナーな冊子(しかし、信頼おけない、と言い切ると問題がおきそうな)から持ってこなくとも、批判に関しての統計があるはずです。統計も無い(統計の需要が無い)ならば、「個人的に批判したいから、嫌がらせにどこかから批判の掲載を探してきた」と言われても仕方が無いでしょう。どうでしょうか?こうした記述でウィキペディアが満たされることを想像した時に。--Album 2006年11月9日 (木) 10:11 (UTC)
それらは個別に判断されるべき問題ではないのでしょうか、一律かつ同列に扱われる性格のものではなく。小生としては、それらは各々のケースで判断される問題であって、単に表現の類似性を持って判ずる問題ではないと思われます。「何処かから探してくる」というのは、それが公にされているものであるならば、誹謗中傷の類でもない限り併記しても問題なさそうです。誹謗中傷だったら、別の意味での問題も含むので不適だといえますが、その辺りは各々の言説の妥当性を検証すればいいのであって、「そのような状態のWikipedia」を想像するまでもないのでは?--夜飛 2006年11月9日 (木) 11:09 (UTC)
おっしゃるとおりです。つまり「たとえ出典があったにせよ・・・。出典が無いものなら、なおのこと」ということです。ウィキペディアの「公式な方針」の数々を日々、愛読しましょう。平行線ですので、私は、これにて。--Album 2006年11月9日 (木) 11:42 (UTC)

コメント依頼にも書きましたが、en:WP:WEASELに対応したインライン型お知らせテンプレートであるen:Template:WhoTemplate:誰として移入してみました。表示する文言やテンプレートの説明文について、Template‐ノート:誰で意見をください。 --Hatukanezumi 2007年8月26日 (日) 12:39 (UTC)

曖昧な言い方の典型例

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「……と思われる」、「……ようである」を追加したいのですがよろしいでしょうか。

  • 思われる

(1)他人にそのように認識される。この場合「れる」は受身の意味。 (2)自ずとそのような意見を持つ。この場合「れる」は自発の意味。 実用日本語表現辞典[1]より。

  • ようです〔ヤウです〕【様です】

1 ある事物の性質・状態が他の事物に似ている意を表す。 2 不確かな、または婉曲(えんきょく)な断定の意を表す。 Yahoo!辞書[2]より。--チンドレ・マンドレ 2011年6月3日 (金) 13:38 (UTC)

(追記)現在の記述[3]にはやや重複するものや、しばしば見られないものがあるため
  • 「……と言っている」/「……と言われている」/「……であると言われている」/「……であることは言うまでもない」/「……と言う人もいる」/「……との言い方もされている」
  • 「……は……であると広く考えられている」/「……は……であると広く見なされている」
  • 「……は……と呼ばれている」
  • 「……と信じられている」/「……であると信じている人もいる」
  • 「……というのが一般的である」/「一般的に……」
  • 「……という声・話もある」
  • 「……という可能性もある」
  • 「……という指摘・批判もある」
  • 「……と見る向きもある」
  • 「……で知られている」
  • 「……とされる」
  • 「なぜか……である」
  • 「言わずと知れた……である」
  • 「調査によれば……」
  • 「(主流の・多くの)専門家・評論家・学者・科学者・研究者・歴史家は……と論じている」
  • 「明らかに……」
  • 「伝えられるところでは……」
  • 「通常は……」
  • 「大体……」
  • 「一応……」

このようにまとめたいのですがどうでしょうか。--チンドレ・マンドレ 2011年6月12日 (日) 10:37 (UTC)

報告加筆修正しました。--チンドレ・マンドレ 2011年6月27日 (月) 18:57 (UTC)

他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼

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本ガイドラインに関連して他の方針やガイドラインとの関係という観点から、以下の点について確認するとともに意見をうかがえればと思いましてコメント依頼とさせていただきました。以下は2013年のコメント依頼時の内容を基準とするものです。

  1. 本ガイドライン冒頭の「意見を匿名の情報源(ソース)に基づくものとすることによって」というのは具体的にはどのような状態を指しているのでしょうか。Wikipedia:検証可能性との関係からみると、どのような関係になるのでしょうか。
  2. 本ガイドライン冒頭の「まだ情報が不足しています」から続く部分についてですが、出典がある記述を念頭に述べられているのでしょうか、出典がない記述を念頭に述べられているのでしょうか、出典の有無にかかわらず妥当するものとして述べられているのでしょうか。
  3. 本ガイドライン冒頭で述べられている「誰がこれを言っているのでしょうか。あなたでしょうか」の部分と「その意見を述べている主体の名前や姿をはっきりさせることが望ましい」という部分との関係についてですが、Wikipedia:独自研究は載せないとの関係ではどのような関係になりますか。
  4. 本ガイドラインの「曖昧な言い方の典型例」のうち、「……は……と呼ばれている」、「……というのが一般的である」、「一般的に……」、「……という指摘・批判もある」、「調査によれば……」、「通常は……」等についてですが、出典がない場合にのみ問題とされているのでしょうか、それとも出典がある場合にも問題とされているのでしょうか。
  5. 本ガイドラインの「基本的ガイドライン」のうち「その文章を裏付ける証拠を添えてください。」の部分についてですが、Wikipedia:検証可能性を確認する意味でしょうか、または、Wikipedia:検証可能性とは別のことを指しているのでしょうか。
  6. 本ガイドラインの「基本的ガイドライン」のうち「曖昧なことを断言してはいけません。」の部分は「言葉を濁さない」の例外とみてよいのでしょうか。
  7. 曖昧な言い方の改善例の「意見を具体的な事実に置き換える」での改善例の関連ですが、Wikipediaでは出典を示すことが基本原則と思うのですが、例えば、この改善例に従って「甲チームの優勝回数は100回である。これは乙チームの優勝回数の10倍である」と記述するとき、出典が必要な部分はどの部分になりますか。甲チームの優勝回数にのみ出典が必要なのでしょうか、甲チームと乙チームの優勝回数の両方にそれぞれ個別に出典が必要なのでしょうか、甲チームの優勝回数は乙チームの10倍であるという全体についての出典が必要なのでしょうか。また、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成との関係ではどのような関係になりますか。
  8. 本ガイドラインで述べられている「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言」と「特定の人々がそう言っているならば、代表的な人物を具体的に」との関係についてなのですが、Wikipedia:検証可能性の観点から、いずれの場合にも信頼できる情報源による出典が基本的には必要なはずですから、Wikipedia:出典を明記するに従った表示がとられる限り、どちらにしても著者名等は注などにおいて明らかにすべきということになるかと思います。したがって、この問題は各記事の特定の記述について、一定の事実の記述として注にその著者名が表示されるにとどまるのか、あるいは特定の人の意見として直接文中に名前(著者もしくは文献・資料内で意見が紹介されている特定の人物の名前)が表示された上でその人の意見として記述されるのかという問題になるかと思います。つまり、参照する出典中の一定の記述が本ガイドラインとの関係では「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言」(事実)として扱うべき記述か「特定の人々がそう言っているならば、代表的な人物を具体的に」(特定人の主張)として扱うべき記述なのかという問題になるかと思います。そこで、科学的な定理や公式については特定の人々の意見として記述しなくても事実として記述して問題ないかとは思いますが、記述する分野・学問領域によっては扱いが非常に難しい問題になるようにも思いますがどのように考えるべきでしょうか。特に難しいのは圧倒的多数の学者が支持していると考えられる見解についての扱いです。この場合、事実に準じて扱うのであれば端的に「AはBである」となり、あくまでも参照した出典に基づく特定人(甲)の主張として扱うのであれば「甲によればAはBである」となると思われます。後者は甲が主張・承認しているという点を事実として表現するものとなるため忠実ではありますが、圧倒的多数が承認していると思われる見解である場合に、特定人の意見として「甲によれば」とすると不自然な印象を生じる場合もあるかと思います。よい説明例を設定するのが難しいですが、例えると「世界で初めて固定翼機による動力飛行を行ったのはライト兄弟である〈甲氏の文献の注〉」とするのか「甲によれば世界で初めて固定翼機による動力飛行を行ったのはライト兄弟である〈甲氏の文献の注〉」とするかという問題です。なお、この点については多数派の見解であっても将来的に変化することがありうるという点や少数派の見解への配慮も必要かとも思いますので、この点についても見解をお願いします。
  9. 本ガイドラインの節の順序など全体的な構成についてもコメントがあればお寄せいただければと思います。

以上の9つの点についてコメント依頼としたいと思います。--Jizwf会話2013年1月18日 (金) 22:45 (UTC)

コメント 挙げられた9つの点についてのコメントと言うことですが、このガイドライン全体についてコメントさせて頂きます。私は、自分で記事を書く際には、このガイドラインは無視しています。結局は 「検証可能性」「独自研究は載せない」「中立的な観点」「信頼できる情報源」と、「常識的な日本語作文能力」に帰結する事柄だからです。余計なお世話って感じですかね(笑)。出典がそう言ってるなら「~言われている」ですし、史料でそうされているなら「~されている」です。ここに曖昧な部分などアリマセン。逆に出典の記述自体が曖昧な言い方になっていれば、当然、wikiでの記述も曖昧な言い方になります。
ただし、他人の書いた記事の粗探しの参考にはしています。出典無しの記事を片端から独自研究認定するのは現実的でないので、「独自研究」で良く使われる表現例としての参考としては重宝しています。--123.220.237.18 2013年1月19日 (土) 06:33 (UTC)
コメント 123.220.237.18さんコメントありがとうございます。2011年6月から私がコメントを依頼した2013年1月まで1年半ぐらいの期間にわたってこのノート上では全く議論が無かったようなので、今回のコメント依頼に対しても1か月間どなたからもコメントが頂けない状態になってしまうのではないかとも思っていましたのでうれしく思います。私も今のところ本ガイドラインWikipedia:言葉を濁さないで扱われている要素は、最終的にはWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:中立的な観点Wikipedia:信頼できる情報源に整理することができるのではないかと思っています。ただ、次の点について私と同じ意見をお持ちかどうかはわからないのですが、複合的な視点に立つガイドラインが存在すること自体は悪いことだとは思っていませんで、将来的にどなたかが整理を提案されるのは別問題として、現時点でWikipedia:言葉を濁さないというガイドラインが存在すること自体が直ちに問題だとは思っていません。あくまでも一般論となるのですが、複合的な視点に立つガイドラインである場合には方針はもちろん他のガイドラインとの関係でも整合的なものでなければならないという点はおそらく皆さん同意されるところなのではないかと思います。そこで、今回9つの点についてコメント依頼という形をとらせていただいたわけですが、コメント依頼を提案した時点で把握しきれていない部分もあるかと思いますので、ガイドライン全体についてもコメントをお寄せいただければうれしく思います。123.220.237.18さんは本ガイドラインを出典のない記事の独自研究で使われることの多い表現例の参考基準として利用されているようですね。私はその点については次のように理解できるのではないかと思います。つまり、方針であるWikipedia:検証可能性からいうとWikipediaでは信頼できる情報源に基づくことが基本原則のはずなのですが、現時点のWikipedia:言葉を濁さないのガイドラインの内容は出典が示されていない記述を念頭に設定されたようなところがあるため、出典のない独自研究で使われることの多い表現例の参考基準としてみたときによく妥当するということではないでしょうか。123.220.237.18さんのおっしゃるように現状のガイドラインを出典を明確に示している記述に適用していくと不適合を生じるように思います。この点については、出典がない記述が現に多く存在する以上はそれにも対処すべきという意見もあるかと思いますから、ちょっと考え方が難しいのですが、あくまでも方針であるWikipedia:検証可能性において記述の際には信頼できる情報源に基づくことを基本原則としている以上、その下位のガイドラインであるWikipedia:言葉を濁さないの設定においては方針に従って出典が示されている記述であることを前提に一次的な基準を設定した上で、それでも出典のない記述が現実には存在することへの対応という意味で二次的な基準を設定するという形をとるといった方策などもあるのかなとは思います。いずれにしてもWikipedia:検証可能性の基本方針に適合しない記述によく妥当するからといって、Wikipedia:検証可能性の基本方針に適合する記述に対しては不適合というようでは方針の下にあるガイドラインとしては問題があると思います。また、ガイドラインの設定においては、Wikipedia:検証可能性の基本方針に適合した記述をまず第一に説明すべきで、それを差し置いて基本方針に適合していない記述を第一に説明するのでは「Wikipedia:検証可能性の基本原則はどこに行ったのか」ということになりかねないように思います。--Jizwf会話2013年1月19日 (土) 16:41 (UTC)
コメント ちょっと私のコメントがミスリードになってしまわないように追記します。他の方針やガイドラインとの関係を確認するという意味でコメント依頼としたわけですが、未だ問題点が不明瞭なもので私のコメントも暗中模索といった状況になっており申し訳ありません。考えてみたのですが、現行のガイドラインでは出典のない表現を念頭に設定されたのかなと思うような点があるわけですが、それはそれとしてWikipedia:検証可能性との関係でいうと現行のガイドラインが「出典に基づく言葉を濁した表現というものは存在するのか」という点についてどのような態度をとっているのか不明確なような気がします。私は先のコメントで「方針に従って出典が示されている記述であることを前提に一次的な基準を設定した上で、それでも出典のない記述が現実には存在することへの対応という意味で二次的な基準を設定するという形をとるといった方策などもあるのかな」と述べました。しかし、確かに123.220.237.18さんがコメントされているように参照する資料の表現に忠実であれば「ここに曖昧な部分などアリマセン」とおっしゃっているのもその通りだと思います。例えば今後の研究課題となっている分野などで断定的な表現がとりえないのは当然で、現行のガイドラインの「曖昧なことを断言してはいけません」という部分もその点に配慮したものと思います。本来、このガイドラインは「出典がない次の例に挙げられるような言葉を濁した表現については、出典を明確にすることによって改善を図りましょう」といったアプローチが正しいように思います。英語版ではガイドライン上でも「出典を明確にする」という方向性が明瞭でWikipedia:検証可能性の基本原則と整合性がとられているようになっているように思います。現在の日本語版の本ガイドラインでは、Wikipedia:検証可能性の基本原則からみて最も考慮すべきはずである出典の有無への考慮や説明という点でガイドライン設定上極めて不十分なものとなっており、単に次のような例は「言葉を濁す表現」なので避けましょうという形で終わってしまっているために、本ガイドラインの上位にあるWikipedia:検証可能性の基本原則に従って出典を付して記述した場合について適用してみると不適合を生じるというような状態になっているようにも見受けられます。いずれにしてもガイドラインの内容を設定するに当たっては上位にある方針と整合性を図らねばなりませんから「Wikipedia:検証可能性の基本原則はどこに行ってしまったのか」といった状況に陥らないようにしなければならないと思います。--Jizwf会話2013年1月20日 (日) 02:01 (UTC)
コメントおおむね同意します。WP:VWP:NORに言及がないガイドラインというのは変ですね。ただ、Wikipedia:井戸端/subj/「であると言うことができる。」で終わる文を読む限りは、出典でサポートされる限りはこれら言葉を濁した表現も許容される、という意見が大半を占めているので、これらの表現をたとえ出典に書かれている通りに使用したとしても許されない、などと考えている人はいなさそうです。英語版は、確かに他の方針との関係が分かりやすかったです。(8)に関してはWP:INTEXTも参考にされるとよいと思います。ある主張の帰属(Attribution、誰がその主張を行ったのか)は明示すべきときもあれば、明示することによって誤解が生じる場合もあります。ライト兄弟の例で言うと、「甲によれば」と限定すると、あたかもこの事実が少数派の見解であるかのような印象を与えてしまいます。--Bugandhoney会話2013年1月23日 (水) 14:57 (UTC)
コメント Bugandhoneyさんコメントありがとうございます。当方も改善案を現段階では具体化できておらず暗中模索といった状態です。上でも述べさせていただいたのですが「出典に基づく言葉を濁した表現というものは存在するのか」という点についてですが、この点をどのように整理してガイドライン化するかによってガイドラインの構造は変わってくるのではないかなと思っています。出典の有無と曖昧な表現との関係についてなのですが、出典とする文献・資料での表現が断定を避けているのであれば、その要約においても断定は避けるべきであり、123.220.237.18さんがおっしゃているように曖昧な部分などないわけで、それを断定的な情報として提供することは明らかに誤っていると思いますし、この点では皆さんの同意を得ることができるのではないかと思います。Bugandhoneyさんのおっしゃるように、現段階では出典でサポートされる限り言葉を濁した表現も許容されるという意見が多数のようです。仮に各記事で既知の事実のみによって構成され多数意見・少数意見あるいは賛成意見・反対意見が正確・忠実・網羅的に反映されているというような状態が想定されるのであれば出典に基づくものでも曖昧な表現をとるべきではない(というより曖昧な表現をとる必要がない)と思われますが、実際にはそのような事例はほとんどないように思われます。本ガイドラインとしては一次的な判断要素として「出典があるか否か」をまず基準とし、出典がない場合について二次的な判断要素として「曖昧な表現か否か」を考慮するという形をとるべきように思われ、そのような場合について上で述べたように「出典がない次の例に挙げられるような言葉を濁した表現については、出典を明確にすることによって改善を図りましょう」といったアプローチをとることが良いように思います。この二つの判断要素を分離させること、つまり「曖昧な表現か否か」と「出典があるか否か」を完全に分離する考え方もあるとは思いますが、このような構成をとると「出典中で断定的な表現がとられていない場合にその著作者の意図を損なわないという条件の下でどのような表現で対応するのか」あるいは「(「……という可能性が指摘されている」などの表現について)出典がない場合には問題視されうるが出典がある場合には許容すべきではないかとみられる表現に対応するために複数の基準を設ける必要を生じるのではないか」といった極めて難解な問題を抱え込むことになってしまうと思います。したがって、「Wikipedia:言葉を濁さない」はWikipedia:検証可能性の向上という点について補助的な役割をするという観点から、このガイドラインで指摘されている問題は最終的には多数意見・少数意見あるいは賛成意見・反対意見が正確・忠実・網羅的に反映されるような方向になるように出典による補完を促すことで消化すべきように思います。また、主張の帰属の文中への明示についてですが、Bugandhoneyさんも指摘されているように端的に「AはBである〈甲氏の文献の注〉」としたほうが簡潔明瞭な場合も多く、常に「甲によればAはBである〈甲氏の文献の注〉」という形をとると誤解が生じる場合もあると思います。より厳密に言えば「自動車工学では一般的に……」や「2010年(平成22年)の国勢調査によれば……」というような客観的な表現をとっている文献・資料があれば望ましいとは思います(したがって、私の見解としては少なくとも出典がある場合にまで「一般的に……」や「調査によれば……」を妥当でないとすることは疑問です)。一般に社会科学でも自然科学でも甲氏の著書には〈甲氏による自説の展開〉としての記述のほかに〈甲氏自身による自説の展開というよりは一般的説明にあたるもの〉として記述されている場合があるという点についても配慮が必要だと思います。後者の例としては「1970年代までは学界では一般にX説と考えられてきた、しかし、1980年代に入るとY説が支配的になっている」といった記述です(甲氏はX説でもY説でもないZ説の論者である場合もあるわけです)。このような点にも配慮してガイドラインを設定すべきだと思います。ただ、現段階では冒頭に述べましたように改善案を具体化できておらず暗中模索といった状態になっているのが実情です。--Jizwf会話2013年1月24日 (木) 04:59 (UTC)
英語版ではもっぱら「言葉を濁す」とは「帰属を曖昧にすることである」というふうに説明してます。今出てきた例で言うと、「2010年(平成22年)の国勢調査によれば○○である」の場合、○○の帰属はある年の国勢調査という特定の文献に限定されているのに対して、「自動車工学では一般的に○○と考えられている」という場合には、○○の帰属は、誰とは特定しない自動車工学者達というふうに帰属が曖昧になっています。後者に関しては一つの解釈・分析ですから、ウィキペディア編集者が行ってはならず、出典の中でそのような解釈・分析が行われている必要があるということです。また、たとえ出典があったとしても、その出典の中では○○という主張は特定の自動車工学者の見解である場合もあるわけであって、そういうときに「自動車工学では一般的に...」などと帰属を曖昧にすることによって○○という主張の権威付けをしてはならないということでもあります。ただ、実際問題として、「自動車工学では一般的に...」などという表現が出てきたときにはまず出典は付いてないですね。ウィキペディア編集者がどこかで見かけた特定の主張であったり、ウィキペディア編集者自身の見解であったりする場合がほとんどだと思います。ガイドラインの改定案としては、導入部を英語版の翻訳で置き換えるのが手っ取り早いと思います。--Bugandhoney会話2013年1月24日 (木) 06:45 (UTC)
コメント Bugandhoneyさんのコメントに対して私の説明力不足・理解力不足の点があればお許しください。以下の2点についてコメントを頂けるとうれしいです。
第1はWikipedia:検証可能性との関係をどのように整理すべきかという点についてです。Bugandhoneyさんからみて本ガイドラインに相当する英語版のガイドライン(en:Wikipedia:Words_to_watch#Unsupported_attributions)は各方針や他のガイドラインとも整合的に位置づけられているという印象ですか、それとも未だ過渡的な段階にあるという印象でしょうか。上の例に関連して改めて確認しておきたい点なのですが、英語版をもとにした解釈基準において「自動車工学では一般的に……」といった記述が出典中に具体的に明示されている場合の扱いについてはどのように考えられているのでしょうか。実はこの点に関連して前回の私のコメントの最後に付け加えておこうかとも思ったのですが(実際には長くなるのでやめたわけですが)、例えば甲氏が一般論として著書で「自動車工学では一般的に○○と考えられている」という主旨をとっているときの考え方についてなのですが、確かに客観的にみて甲氏のそのような解釈・分析が的を得ていないという場合(つまり、そのような解釈・分析に対して現実には「自動車工学では一般的に○○と考えられている」というようなことはない)といった場合もあり得るかと思うのですが、一方でWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」という基本原則があるわけで両者の関係をどのように整理するべきか難しい問題かと思うのですがBugandhoneyさんはどのようにお考えでしょうか。
第2は具体的な改善の方向性についてです。私としては少なくとも日本語版の現行の本ガイドラインは出典のある記述に対してまで適合しなくなっているといった点でガイドラインとして不安定な印象を持っており、具体的な改善策としてはBugandhoneyさんのおっしゃるように導入部を英語版の翻訳で置き換えることも考えられるかと思います。日本語版での現行の本ガイドラインの内容は英語版よりもかなり肥大化しているような気がしますが、Bugandhoneyさんが方向性を示されているように導入部を英語版の翻訳で置き換えた場合に全体的な観点から改めて細部の修正が必要が出てくるでしょうか。また、上でも述べましたが日本語版の現行のガイドラインは出典を明確に示している記述に適用していくと不適合を生じる場合があるように思うのですが、ガイドラインの趣旨を明確化しておかないと将来的に再び同じような問題が発生するようにも思います。本ガイドラインの名称や構造についても検討が必要かもしれませんが、この点についてもコメントを頂けるとうれしいです。--Jizwf会話2013年1月24日 (木) 10:29 (UTC)
すいません。私の書き方も分かりにくかったです。『「自動車工学では一般的に……」といった記述が出典中に具体的に明示されている場合』は英語版ではもちろん許容されます。そういう解釈は専門家が信頼できる情報源で行ってますので。そういう解釈をウィキペディア編集者が独自に行って記事に書き込んだらだめということです。それで、そういう、専門家甲氏による解釈がなんだか的外れに見える場合ですけど、それはかなり別次元の問題であって、この「言葉を濁さない」というガイドラインのスコープには入ってこないと思います。それで、本ガイドラインを離れて、ある専門家による言説が的外れに見える際の一般論として述べますが、例に挙げられた『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』ですけど、ウィキペディア編集者はある言説に対して「真実かどうか」というような価値判断をすべきではなく、検証可能なのであれば何でも記事に取り込むべきだ、というふうに誤解している人がときどきいるのですが、ウィキペディアには検証可能性の他にも、中立的な観点という原則があることを忘れてしまっています。「中立的な観点」は、科学的知見に関して、支配的な「科学におけるコンセンサス」を記述することを求めていますWikipedia:独自研究は載せない#Wikipedia:中立的な観点も参照のこと)。甲氏による一般論が的外れに見えるという場合、他の概説書や総説にはそれと矛盾することが書いてあったりするのではないでしょうか。そういう場合は、複数の文献に当たることによって、そのトピックに関して「支配的なコンセンサス」とは何であるのかを検討したうえで、甲氏の主張を適切に位置づける必要があると思います。
二点目に関しては、英語版は確かにずっと簡潔ですね。まず「曖昧な言い方の典型例」節の内容を簡略にしたものが冒頭に囲みであって、その後、日本語版の導入部に当たる、なぜ避けるべきかの説明で終わります。「中立性を損なう危険性以外の問題点」節と「基本的ガイドライン」節はあまり重要とも思えず、特に後者は、たとえば「二酸化炭素説」の説明のように、ある言葉を濁した書き方を別の言葉を濁した書き方に書き換えることを奨励しているだけであって自己矛盾をはらんでますよね。なくても構わないかと思います。「曖昧な言い方の改善例」は役立つと思うので残しておくとよいでしょう。--Bugandhoney会話2013年1月24日 (木) 15:02 (UTC)
コメント コメントありがとうございます。上の説明を要約すると、信頼性の高い複数の出典を基礎とすることで各種の見解が正確・忠実・網羅的に反映されるような方向性をとり、特定の主張についてはそのプロセスで適切に位置づけていく必要があるという基本的な理解でよろしいでしょうか。前記一点目については最終的にはWikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点が相まって問題解決が図られるということになるということを確認できました。Wikipedia:信頼できる情報源Wikipedia:独自研究は載せないとの関係についてもBugandhoneyさんに説明していただいたことで併せてよりよく理解することができたと思います。
二点目の具体的な改善の方向性についてですが、ガイドラインの構造の点については上のコメント依頼でも述べているのですが、現状の日本語版の本ガイドラインで少し解りにくいと思ったのはガイドラインの要旨部分はいったいどの部分に位置づけられているのかという点です。主題に続く冒頭部分なのか、構造の点から見て一番最初に置かれている「曖昧な言い方の典型例」という節なのか、名称の点から見て「基本的ガイドライン」という節なのかという点です。このうち「基本的ガイドライン」の節は名称から見てガイドラインの要旨部分とすることを念頭に設定されたのではないかと思いますが、どういうわけか全体の3番目の節に設定されており、現状ではWikipedia:検証可能性との関係が明確にされていないためかガイドラインとしても不安定な印象があります。そして、Bugandhoneyさんが指摘されているような問題点があるということになると、この部分の存在意義は疑問とされても致し方ないかと思われます。ただ、難しい問題で申し訳ないのですが、「基本的ガイドライン」の節のうち「曖昧なことを断言してはいけません」という点については本節冒頭コメント依頼の6でも述べましたが現状では例外的な条項として入れられているようなのですが、Bugandhoneyさんからみて基本原則であるWikipedia:検証可能性との関係からこの部分を注意文言として取り入れる必要性はどの程度あると考えられますか。私の見解ですが「曖昧なことを断言してはいけません」は当然のこととはいえ注意文言としては取り入れる余地があるのかなとも思う一方で、この部分の説明の「執筆者の調査の結果、曖昧にしか判明しなかった場合」という説明方法は漠然としすぎているようにも思っており(判断基準として注意を払うべきは「執筆者の調査の結果」というよりは「信頼できる情報源における記述」のはずです)、この点について意見をうかがいたいと思いました。「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節についてですが多角的な視点を提供するという趣旨かと思うのですが、基本的にはガイドラインの各要素はガイドライン全体の趣旨や方向性をみて決すべきですから、これを含むことで結果的にガイドラインの趣旨が不明確になり散漫にさせる結果につながるのであれば、Bugandhoneyさんのおっしゃるように「なくても構わない」ということになると思います。「曖昧な言い方の典型例」については出典のある事例にこれを適用してみると不整合を生じる場合があるというようなことは避けなければなりませんからWikipedia:検証可能性との関係について明確にしておく必要があり、改善の方向性としてはWikipedia:検証可能性との関係から「曖昧な言い方の典型例」の例示をより限定するか、もしくは「出典がない次の例に挙げられるような言葉を濁した表現については、出典を明確にすることによって改善を図りましょう」といったアプローチに改める必要があると思います。「曖昧な言い方の改善例」については対処例として置かれているものであり、私もBugandhoneyさんと同じく役立つものと思うのですが、Bugandhoneyさんに確認しておきたいのはこの節で挙げられている改善例については本節冒頭コメント依頼の7で述べたような疑問に思う点もあるのですがどう考えるべきでしょうか。--Jizwf会話2013年1月25日 (金) 14:51 (UTC)

まず、このガイドラインは初版の訳出が9年前で、その後も内容は基本的には変わっていないようなので、今コミュニティに流布している考え方との乖離は大きいです。判断基準として注意を払うべきは「執筆者の調査の結果」というよりは「信頼できる情報源における記述」のはずというのは全くその通りです。その一方で、わりと無分別に書き足されている部分もあって、見出し名やその順序には確かに整合性がないですね。そういう観点でいうと、今ある文言にはあまりこだわらずに大幅に改定することを検討するのが建設的だと思います。私も「曖昧な言い方の典型例」の例示は減らしたほうがよいと思います。このガイドラインは言葉狩りを意図しているわけではないですし、ウィキペディアのガイドラインに共通しているのは、事細かにルールを制定することにあるのではなくて、その背後にある精神を理解して常識的に各記事に当てはめる、ということなので。このガイドラインの精神とは、言い回しによって出典では直接サポートされていないようなニュアンスを伝えてはいけない、というようなことになるかと思います。

(6)に関しては「言葉を濁さない」の例外という見方もできれば、出典に即して出典が意図することを記述するというウィキペディアの原則に照らせば、基本的なルールということもできるかと。

(7)は興味深い設問ですね。少し変更して、とあるスポーツの公式記録集という一次資料には「甲チームの優勝回数は100回である」と書いてあり、別のページには「乙チームの優勝回数は10回である」と書いてあるときに、ウィキペディア記事に「甲チームの優勝回数は乙チームのそれの10倍である」と書き込んでもよいのかだめなのか、としましょう。答えは多分人によってばらつくとは思いますが、私の答えは「書いたらだめ」です。関わってくるガイドラインは、WP:SYNWP:NORWP:PSTSです。WP:SYNにある「ゴリンナーゼ」の例との違いは、ゴリンナーゼは専門的な事柄で、結局合成された結論が間違っているのに対して、「スポーツ記録」の例は身近な話題で、合成された結論が正しいことは小学校の算数の知識さえあれば確認できる、ということです。WP:PSTSには専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説...のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいませんともあります。一方、Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料には、たとえ十分に出典が明記されていたとしても、その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合には、あなたは独自研究を行っていることになりますとあります。「スポーツ記録」の例では、出典は十分に明記されており、合成された結論が正しいことは誰にでも確認できますが、公式記録集には「甲チームの優勝回数は乙チームのそれの10倍である」などとは直接的かつ明示的には書いてありません。つまり、出典があり、結論としても正しいが、外部文献でまだ誰も指摘していないウィキペディア編集者自身による分析となっています。こういうときは私は、もしも信頼できる情報源で誰も「甲チームの優勝回数は乙チームのそれの10倍である」などということを指摘していないのであれば、たとえ事実として正しいとしても、ウィキペディアの記事でわざわざ取り上げるほどのことでもない、記事主題の理解に役立つわけでもない情報なのだろう、というふうに考えるようにしています。--Bugandhoney会話2013年1月25日 (金) 19:44 (UTC)

コメント 本ガイドラインの構造は、今のところ以下のようなものになっています。まず、「言葉を濁した」「あいまいな」表現は、WP:NPOV に照らして好ましくないことの解説。明示されていませんが WP:V、WP:NOR の見地からも不適切であると言おうとしているようです。次にどのような表現が該当するかの例示。そして文章の理解容易性からみた問題点の追加。そして、改善されるべき方向性の提示と、その具体例です。「基本的ガイドライン」節(改善されるべき方向性の提示)が3番目なのは、まず問題点を解説してからその解決法を提示する、という順番に並べてあるからだと思います。ともあれガイドラインとしては、何がいけなくてどうすればよいのか、なんとなく理解できるようになっていると思います。この「なんとなく」をより明瞭に、記事にありがちな三大方針に反した表現・文章の改善法として、位置づけを見直そうという方向性に賛成します。
お話の流れでは上記の 6、7 について触れられていますので、私もコメントしてみます。
6 については、「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言してください」に対し、このガイドラインを過剰に適用してなんでもかんでも、たとえば出典もないのに、断言しようとする編集者への抑止措置だとも思われます。「出典に即して出典が意図することを記述する」、言い換えると情報を出典の範囲内で明確にする、という原則を設定するならば、より自然な形で書くこともできると思います。なお「執筆者の調査の結果、曖昧にしか判明しなかった」とは正確に言うと「執筆者が(信頼できる)情報源を調査した結果、曖昧にしか判明しなかった場合」というのが本来意図するところでしょう。
7 については、Bugandhoney さんの予想の範囲内でありますが、私は「可」だと思います。理由は Bugandhoney さんが挙げられている通り、10 × 10 = 100 であることは、出典がなくても誰でもわかることで、WP:SYN にはあたらないからです。といっても「10倍」と書いてある出典が提示されるのが「優良」であるとも思います。しかしながら、本ガイドラインにおいては、この考え方だとあまり本質的な事項ではなくなるように思います。「10倍」というのは「言葉を濁した」「あいまいな」表現ではないからです。いま例示されている「約3倍」というのはあいまいであり、2.5倍なのか3.4倍なのかでだいぶ変わります。書くならもう少し進めて、具体的に「甲は27回、乙の8回の約3倍」というようなのを最善の例としたほうがよさそうです。
--Calvero会話2013年1月25日 (金) 22:14 (UTC)

コメント 見直しが必要であるという点では一致しているようなので、上記の論点も含めて改めて全体的な論点の整理と具体案に向けて議論の集約が必要かと思います。

第一点 - 現行の日本語版の本ガイドラインの各節の配置・名称・機能の見直し点(以下は現行のガイドライン各節です)

  1. 曖昧な言い方の典型例
    Wikipedia:検証可能性との関係から例示の範囲を決定する必要がありますが、例示の個数や範囲についてはどうすべきでしょうか。私が見るに少なくとも「調査によれば……」については出典がある場合には明らかに整合的ではないので除外すべきように思いますが、全体的にみると例示の個数や範囲はどの程度が良いでしょうか。
  2. 中立性を損なう危険性以外の問題点
    「中立性を損なう危険性以外の問題点」で挙げられている点については見直し後どのように扱うべきでしょうか。私としては本来であれば問題点についてはまとめて明確にされていた方がよいのかなと思う一方で、現状ではBugandhoneyさんが指摘されているように「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節で挙げられている諸点についてはどの程度の重要性あるいは妥当性を持っているのかなと思う点もあります。
  3. 基本的ガイドライン
    この節についてはCalveroさんはどのように扱うべきとお考えでしょうか。Bugandhoneyさんからは現行の「基本的ガイドライン」の節について自己矛盾とみられる点があるとの問題点を指摘されております。私の見解について短く述べますが、「基本的ガイドライン」の節に挙げられている各項目はいずれも最終的にはWikipedia:検証可能性に帰すべき問題のように思われ、現状では仮に残すとすれば「曖昧なことを断言してはいけません」という部分を端的に注意の意味で残す程度なのかなという意見です。
  4. 曖昧な言い方の改善例
    「曖昧な言い方の改善例」の節のうち「意見を具体的な事実に置き換える」で設定されている例について冒頭コメント依頼7としてお寄せいただいたわけですが、私が設例という形をとったためにちょっと皆さんの立場が分かりにくくなってしまったようにも見受けられますが、端的に現行ガイドラインに即した質問に置き換えますが、現行の本ガイドラインの「意見を具体的な事実に置き換える」で示されている改善例は改善例として適切なのでしょうか。仮に適切でないとすれば例を取り替えるか削るかということになるかと思いますが、どう考えるべきでしょうか。

第二点 - 具体的な見直し(構成)のあり方 見直し後の具体的な構成について皆さんの考えをお聞かせいただければと思います。Bugandhoneyさんの案についてですが、Bugandhoneyさんとしては全体的には、まず導入部を英語版の翻訳で置き換えた上で「曖昧な言い方の典型例」そして「曖昧な言い方の改善例」という流れをお考えでしょうか。--Jizwf会話2013年1月26日 (土) 14:49 (UTC)

はい。だいたいそんな感じです。「曖昧な言い方の典型例」は例示を減らせばいいと思います。「基本的ガイドライン」に関しては、「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言してください。百科事典では事実とそうでないものは明確に区別されるべきです。一方で、出典の中では曖昧にしか書かれていないことまで断言してはいけません。」くらいにして残せばよいのでは。--Bugandhoney会話2013年1月28日 (月) 23:06 (UTC)
現行の「基本的ガイドライン」の節をBugandhoneyさんの提示されている趣旨の文に端的に集約して宜しいのではないでしょうか。Bugandhoneyさんに道筋を示していただいてはいるのですが、他の方針・ガイドラインとの関係についてうかがっておきたい(コメント依頼)というスタンスから出発したもので、こういう場合の改善の具体化の手順について不慣れなものですみません。--Jizwf会話2013年1月29日 (火) 16:16 (UTC)
ウィキペディアは規則主義ではないので、手順はあんまり気にしなくていいのでは。プロジェクト関連文書にもリストしておきました[4]。--Bugandhoney会話2013年1月29日 (火) 19:02 (UTC)
早速対応していただきありがとうございます。--Jizwf会話2013年1月30日 (水) 15:20 (UTC)
第一点について。1 については、減らしたほうがよさそうな気はしますが、やはり記事を見て回って、頻出する語とか、あきらかに避けたほうがよい事例を選んでいくのがよいと思われます。実際にやるとなると手間がかかりますので、とりあえず想像で片付けてもよいかもしれません。2 について、本ガイドラインは方針遵守の志向性と共に、より良い文章の書き方指南としての性質もあると思います。出典があれば曖昧なままでもよいかというと、やはり具体的な記述のあったほうがもっといいと思います。ので、推敲や改善の余地はあるでしょうが、部分としては残してよいと思います。3 の「基本的ガイドライン」は「曖昧な言い方の改善例」に整理・統合するのがよいと思います。Bugandhoney さんご指摘の矛盾をはらませたままにしておくのは、すっきりしないです。「本当に事実なのであれば~」の文は、ガイドラインによくある {{文書の要旨}} でもいいかな、と思います。4、現行の例はあんまりよくない気がします。ブッシュの例はWP:BLPの範疇のように見え、このガイドラインの例としては微妙です。ヤンキースのほうは、悪くはないですがもっといいのが作れそうです。あと「基本的ガイドライン」にあるブラームスの例は、具体性がほとんど増していないと思います。「人々の何パーセントがその評価を支持しているのか」というアンケート調査のようなものは、人物評価としては何か変です。人物だったら受賞歴とか、競技成績とか、作品が何箇国語に翻訳されているとか、遺品がオークションでいくらで落札されたとか、そういうのがよいのではないでしょうか。第二点については、ちょっとわからないです。--Calvero会話2013年2月5日 (火) 13:14 (UTC)
問題が難しく考えがまとまっておらず申し訳ありません。まず、第一点について。「曖昧な言い方の典型例」の節の例示の範囲を限定する方向ではまとまっていると思うのですが、現段階では「調査によれば……」は出典がある場合に適合しないので除外すべきかと思いますが、個々の例示についての具体的な取捨選択については判断が非常に難しいです。「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節についてなのですが、私の現時点での意見としては中立性の問題も含めて「考慮すべき問題点」といった形で問題点を端的にまとめておいてもよいのかなとも思っているのですが、やはり中立性を軸にした方が良いのでしょうか。仮に全般的な問題点という形で整理して残すのであれば「曖昧な言い方の典型例」よりも前に掲示しておくべきかとも思いますし、また、仮に現行のように中立性以外の問題点といった形で残すのであれば後側に配置することになるかと思うのですが、考えがまとまっておらず申し訳ありません。いずれにしても最終的に残すのであれば「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節で挙げられている諸点については中立性と同等あるいはこれに準じる程度の水準のものになるよう整理しておくべきではないかと思っています。「基本的ガイドライン」の節についてですが、基本的には削除の方向でまとまっていると思われ、Calveroさんが提案されている{{文書の要旨}}として示すのがよいのではないかと思うのですが、その内容についてはこの節についてBugandhoneyさんが先に提示された「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言してください。百科事典では事実とそうでないものは明確に区別されるべきです。一方で、出典の中では曖昧にしか書かれていないことまで断言してはいけません。」という趣旨の文で示してはどうでしょうか。「曖昧な言い方の改善例」の節の例示については現段階では私のほうでは代案が浮かんでおらず申し訳ありません(この節についてのCalveroさんの指摘はもっともだと思います)。具体的な見直しについてなのですが、「基本的ガイドライン」の節の削除とそれによる{{文書の要旨}}の設置など全体的構造に関する改定を先行してはどうかと思うのですが認められないものでしょうか。また、英語版のガイドラインを導入する場合についてなのですが、その訳出は依頼あるいはどなたかに委託できますでしょうか、また、その場合なのですが本文に直接的に反映させることになるのでしょうか。少し手順などを把握しかねているところがありすみません。--Jizwf会話2013年2月7日 (木) 02:51 (UTC)

コメント 例を見なおすべきでは?

議論の内容と直接は関係ないのかもしれませんが、例として上げられている内容が逆に議論の妨げになっているように感じます。

1.ノートの中に「ブラームスの評価が高いのは日本とドイツぐらいです」とあり、それが事実のように議論が進んでいますが、ソースが示されていませんし「評価の高さ」という指標もあいまいです。適切な例に変えられませんか。ここを読んでそれが事実と受け取ってしまう人もいると思うので、配慮が必要ではないかと思います。

2.記事中、「曖昧な言い方の改善例」に「ジョージ・W・ブッシュは半文盲かもしれない~」のくだり、「半文盲」は、あきらかな中傷表現だと思います。例としてふさわしくないのでは? ほかの例に変えられないでしょうか。

3.記事中、「意見を具体的な事実に置き換える」で、ヤンキースが「偉大」であることを表現するのに、優勝回数を示すことを推奨していますが、これは、強いことは説明できても、偉大であることは表現できていないと思います。これも、別の例で説明できないでしょうか。--JasmineTea会話2013年2月20日 (水) 16:18 (UTC)

コメント JasmineTeaさんコメントありがとうございます。JasmineTeaさんのおっしゃる「ノートの中に・・・」というのは、本セクションではなくノートページ冒頭の「特定の言葉を禁止する問題」というセクションでのことを指しておられますでしょうか。JasmineTeaさんが問題点を指摘されています「曖昧な言い方の改善例」の節における現時点での設例についてですが、この節における設例についてはCalveroさんからも問題点が指摘されています。この「曖昧な言い方の改善例」という節についてはCalveroさんも改善の方向性について述べられ、JasmineTeaさんも他の例に変えられないかという方向でコメントされていますので、内容について改善が必要ではあるが「曖昧な言い方の改善例」という節を置くこと自体については異論はないかと思います。Bugandhoneyさんも「「曖昧な言い方の改善例」は役立つと思うので残しておくとよいでしょう」とおっしゃっています。そこで現行の設例にかわる具体的な設例の設定が問題となるわけですが、この点については私も未だ具体的な代案が浮かんでおらず申し訳ありません。本来であれば、この点も含めてパッケージとして改定することが望ましいのでしょうが、具体例の改善といっても少なくとも議論にはたたき台が必要となりますから、まずは全体的な構造についての問題(合意できる段階にあると思われる{{文書の要旨}}の設定、「曖昧な言い方の典型例」の一定の絞り込み、「基本的ガイドライン」の廃止)を先行して処理することも考えられるかなと思っています。もちろん「曖昧な言い方の改善例」についての改善案がある程度具体的に出てくれば全体としてパッケージで改定すべきかと思います。--Jizwf会話2013年2月21日 (木) 12:43 (UTC)
コメント Jizwfさん、お答えありがとうございます。では、代案については私の方で考えてみます。このページも量が膨大になっていますので記事の方を直接編集したいと思いますが、かまいませんか? それとも、いったんこちらで提示したほうがいいでしょうか?
まとめて改定したいとのことですが、履歴を見ると公開から9年以上が経過しているようですし、訪問者が目にするのはおもに記事の方でしょうから、少しずつでも手を入れたほうがいいかと思います。--JasmineTea会話2013年2月26日 (火) 16:54 (UTC)
コメント これまでの議論で改定の必要性については一致していると思われますが、なかなか具体的手順に入ることができずに皆さんにご迷惑をおかけしております。ノートページでの合意形成がコメントの積み重ねによって断続的に行われるという性質から考えてみたとき、ページの内容が大きい場合、細部にわたるまで各点の修正について事前に調整を図るとなると、改定の必要性については一致しているにもかかわらず改定までに時間がかかり現実に存在する問題点が改善されないままに長期にわたり放置されるという状況になりかねません。JasmineTeaさんのおっしゃるように、このページの内容は大きくなっていますので現実に段階的な修正を図っていくということでもよいかと思います。ここでの議論に参加され改定の方向性を示されているBugandhoneyさんとCalveroさんに御連絡差し上げておくべきかと思います。--Jizwf会話2013年2月27日 (水) 01:51 (UTC)
コメント 反対の意見はないようですが、具体的な形にしないと指摘しにくい面もあると思うので、記事の編集を行いました。
「BugandhoneyさんとCalveroさんに御連絡差し上げておくべき…」との御指摘ですが、このページの議論はここでオープンにやるべきだと思いますし、見てくださっていることと信じて特にメールなどはしませんでした。ご了承ください。--JasmineTea会話2013年3月3日 (日) 06:30 (UTC)
ウォッチリストに入っているので、大丈夫ですよ。編集された箇所は、以前のものと比べてよくなっていると思います。存命人物の個人名を使うのは、ちょっと気がかりではあります。--Calvero会話2013年3月3日 (日) 13:53 (UTC)
とりあえず「例」の部分に注目して編集してみましたが、「曖昧な言い方の改善例」の節は、まるごと削除してもいいかもしれません。--JasmineTea会話2013年3月4日 (月) 05:53 (UTC)

コメント 御返事が遅くなってしまいました。先日の私のコメントでは煮え切らないような表現になってしまい申し訳ありませんでした。JasmineTeaさんのおっしゃる「このページの議論はここでオープンにやるべき」という点について私も異論はありません。「BugandhoneyさんとCalveroさんに御連絡差し上げておくべき…」と申しましたのは、このページでの議論で一定の提案を示されていらっしゃることから念のためにお知らせしておくべきかという意味で、それ以上の意図はありません(実際には先月27日に私のほうから会話ページにお知らせ致しました)。もちろん特定の議論参加者のみで改定を進めるという立場に立っているわけではありません。
「曖昧な言い方の改善例」のうち「意見の持ち主を明示する」という点についてはコメント依頼時には想定していなかったもので、JasmineTeaさんが示されたような文言の具体化もできておりませんで、私のほうでは未だに考えがまとまりきれておりません。ただ、具体例の設定は以下のような点から難しい問題になるかと思います。つまり、Calveroさんが前におっしゃっている趣旨は例示において「存命人物の個人名」を引き合いに出すことについては可能な限り避けるべきということかと思います(この点については設例自体が論点(具体的にはガイドラインに何らかの例が示される場合にその示されている例そのものの適否を巡って論争となるような事態)となっても困るというような観点も含まれているかと思います)。一方で「意見の持ち主を明示する」場合についての「曖昧な言い方の改善例」の説明であるという性質上、例を具体的に示すのであれば「意見の持ち主」は必ず登場しなければ説明は困難です。これらについて考えると、存命人物の個人名ではない意見の持ち主を設例に持ってくることになるかと思うのですが、これらの問題をクリアでき、かつ、説得的な具体例を設定することが望ましいということになるかと思われますが、かなり難しい問題だと思います。
JasmineTeaさんのおっしゃる「「曖昧な言い方の改善例」の節は、まるごと削除」という点の検討についてですが、上のような観点から、やはり適例の設定が難しいということでしょうか。このガイドラインについては123.220.237.18さんから「結局は「検証可能性」「独自研究は載せない」「中立的な観点」「信頼できる情報源」と、「常識的な日本語作文能力」に帰結する事柄」とのコメントを頂いたのですが、私もこのガイドラインの要素は各方針・ガイドラインで示されている要素で割り切れるもので存在意義としては補助的な役割を持っているものと考えています。これまでの議論で「基本的ガイドライン」の節について見直し(廃止や他の節への統合)が検討されてきたことを併せて考えると、仮に(あくまでも仮にですが)残る部分が「曖昧な言い方の典型例」などの節のみで構成されることとなり問題点を指摘するだけでガイドラインとしての内容に乏しい状況となるようであれば格下げも検討すべきかと思います。ただ、現段階ではあくまでも方針やガイドラインの補助的な役割を果たすものとして各方針やガイドラインとの関係を整理した形で残せないかものかと考えております。
なお、私の提出しているコメント依頼なのですが、議論を通して論点は既に具体的な改定へと移っており、当初のコメント依頼(他の方針・ガイドラインとの関係の確認等)からかなり話が進んだ状態となり、論点についても冒頭に示した私のコメント依頼時のものに比べるとより全般的なものとなってWikipedia:コメント依頼における依頼理由からも離れつつあるので、一定の段階でコメント依頼から私も具体的な修正の提案等への切り替えを考えております。--Jizwf会話) 2013年3月5日 (火) 00:02 (UTC)(自らのこのコメントについての補足の付加など一部修正--Jizwf会話2013年3月5日 (火) 05:48 (UTC)

乱暴な印象を与えてしまったのでしたら申し訳ありません。適切な例がないか、もう少し考えてみます。--JasmineTea会話2013年3月5日 (火) 11:43 (UTC)
複数回にわたる修正になってしまい申し訳ありません。これでいかがでしょう。--JasmineTea会話2013年3月5日 (火) 12:18 (UTC)
コメント 適例を設定するために苦心されているのが分かります。例を具体的にどのようなものにすべきか難しい問題ではないかなと考えていたところ、早速、JasmineTeaさんから改めて例が示されたので驚いている次第です。私がコメント依頼の告知を行った時点での版と比較すると「曖昧な言い方の改善例」は格段に良くなったのではないでしょうか。--Jizwf会話2013年3月5日 (火) 14:52 (UTC)

コメント このコメント依頼については他の方針やガイドラインとの関係を確認する趣旨で始まったわけですが、他のガイドラインや方針との調整を図るために全体的に改善を図るという方向性と随時修正を図っていくべきという点では概ね一致し、既に「曖昧な言い方の改善例」の改定が図られるなど実際に改定が少しずつ進んでいることから、私の提出したコメント依頼については終了としたいと思います。「曖昧な言い方の典型例」など他の節を含めて全体的な点で、これまでの議論で論点となった点については、少しずつ改定案を示すことができればと考えています。--Jizwf会話2013年3月19日 (火) 03:35 (UTC)

Wikipedia:検証可能性の観点からの一部改定の提案

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本ガイドラインのうちWikipedia:検証可能性の観点から一部改定を提案したいと思います。前セクション#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼でも現行の設例の個数について範囲を限定すべきとの指摘がありました。Wikipediaでは検証可能性の観点から信頼できる情報源による出典が基本的には必要なはずであり、この方針に基づいて本ガイドラインの設例についても出典を示した記述についても適応するものでなければなりません。現時点の設例については出典がない場合にのみ問題とされているか、出典がある場合にも問題とされているのかわかりにくい点があります。「曖昧な言い方の典型例」については方針であるWikipedia:検証可能性と整合性がとれたものである必要があると思います。現行の例示のうち「……は……と呼ばれている」、「……というのが一般的である」「一般的に……」、「……という可能性もある」、「……という指摘・批判もある」、「……とされる」、「調査によれば……」、「通常は……」については、Wikipedia:検証可能性の観点からみると出典がある場合については不適応を生じる場合があると考えられ除外すべきと思います(例えば国勢調査を出典として示している場合に「調査によれば……」という表現を排除すべきではありません)。また、「曖昧な言い方の典型例」の例示のうち「……という指摘・批判もある」など主観的な表現をとる形態の設例についてはWikipedia:検証可能性の観点から出典が示されるよう「曖昧な言い方の改善例」で示されている「意見の持ち主を明示する」に移して説明してはどうでしょうか(例えば出典の有無にかかわらず「……と言っている」について単に避けるべき表現として扱ってしまうと、本ガイドラインの「曖昧な言い方の改善例」で示されている「意見の持ち主を明示する」の記述と自己矛盾に陥るように思われます)。なお、「曖昧な言い方の典型例」における設例の範囲の限定の議論については、前セクション#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼も御参照ください。いずれにしても方針であるWikipedia:検証可能性の観点に沿ったものにしなければならないと思います。--Jizwf会話) 2013年3月19日 (火) 05:04 (UTC) 提案内容修正のため一部取り消し--Jizwf会話2013年3月26日 (火) 15:46 (UTC)

(提案理由・提案内容の一部修正)上の通り一部の改定を提案しましたが、現状の「曖昧な言い方の典型例」の例示については、Wikipedia:検証可能性の観点から出典が無い場合には問題であるが出典がある以上は許容すべきと考えられるものがほとんどではないかと思われます。上の私の提案では主観的な表現をとる形態の設例について「曖昧な言い方の改善例」の「意見の持ち主を明示する」に移すことを提案しましたが、上でも述べたように結局のところ妥当性は出典の有無に大きく左右されるため、この基準だと「曖昧な言い方の典型例」に残すものがほとんど無くなってしまいます。そこで、現行のWikipedia:言葉を濁さないにある「曖昧な言い方の典型例」の節では「ウィキペディアでしばしば見られる曖昧な言い方には、以下のようなものがあります。」と単に列挙の説明文が置かれていますが、この部分をWikipedia:信頼できる情報源の要旨にも配慮した上で後半に記述されている曖昧な言い方の改善へ誘導する表現に改めるべきかと思います。そもそも現行のように単に避けるべき列挙のような体裁をとると、出典の有無にかかわらず問題視されることとなり、本ガイドラインの「曖昧な言い方の改善例」で示されている「意見の持ち主を明示する」の記述と自己矛盾に陥るように思われます。また、例えば、上でも述べましたが「調査によれば……」という表現は出典が無ければ問題ですが、国勢調査を出典として示している場合には排除すべきではありません。したがって、「曖昧な言い方の典型例」の例示の範囲については「……と言っている」など後半の「曖昧な言い方の改善例」で掲げられている「意見の持ち主を明示する」や「意見を具体的な事実に置き換える」との関係が直接的で明確にできる例示に限定して扱うべきかと思います。このほか「曖昧な言い方の典型例」の「……であることは言うまでもない」と「明らかに……」についてですが断定的表現であり、問題視されるのもある程度理解できますが、これらを「曖昧な言い方」として本ガイドラインにおいて扱うのは無理ではないかと思うので除外すべきと思います。--Jizwf会話) 2013年3月26日 (火) 15:46 (UTC) 細部の修正--Jizwf会話2013年3月26日 (火) 20:23 (UTC)

報告 告知後、一週間経過しましたが反対意見がありませんでしたので本文に反映させました。なお、議論の経過については先のセクション#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼も参照してください。--Jizwf会話2013年4月2日 (火) 22:12 (UTC)

ガイドラインの一部修正の提案

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先刻、ガイドラインWikipedia:言葉を濁さないの一部改定を行いましたが、追加的に本ガイドラインの一部修正を提案したいと思います。具体的には現行の本ガイドラインのうち冒頭部分及び「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節の要約化と「曖昧な言い方の典型例」での説明の追加です。「曖昧な言い方の典型例」についてですが、現時点では「中立性を損なう危険性以外の問題」で説明されている設例を含めた上で、何が曖昧とされ問題視される点なのかを明確にしてはどうでしょうか。つまり、例えば例示の中にある「……と言っている」という表現そのものは曖昧ではないと思うのですが、本ガイドラインの中にあるように意見を述べている主体が明らかでないことが問題視される理由として説明されており、この点を明らかにしないとセクションの名称との関係からも説明が不十分かと思われます。また、「中立性を損なう危険性以外の問題」の中にある「など」の多用として説明されている部分などは記述の対象が曖昧となっている場合かと思いますが、「曖昧な言い方の典型例」で類型化した上で併せて説明すべきかと思います。現行の本ガイドラインのうち冒頭部の要約化についてですが、例示において挙げられている問題についてはWikipedia:検証可能性の観点からは信頼できる情報源による出典を付すことが本来の方向性と考えられ、ここにあるような例示については現行の英語版には既に存在していません。現在のような構成をとると「曖昧な言い方の改善例」との関係で自己矛盾に陥るおそれがあります。さらに、「あなたでしょうか。」以降の部分はWikipedia:独自研究は載せないとの観点などから整合性に問題があり、現行の英語版ではこの部分は削られています。この部分については修正のうえで「曖昧な言い方の典型例」を整理して説明すべきかと思います。また、「中立性を損なう危険性以外の問題」については、入り組んだ文の例についてはあまり説得的でないように思われることや他の節との関係を整理すべきという観点から要約した上で先に修正した「曖昧な言い方の典型例」で併せて説明すべきかと思います。全体の構成や各節の名称についてはさらに検討すべきと思われる点もあり、#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼では一定の方向性が示されていますが、まず、現段階では上記一部修正を提案します。--Jizwf会話2013年4月3日 (水) 00:18 (UTC)

報告 上記提案告知後、一週間経過しましたが反対意見がありませんでしたので本文に反映させました。先のセクション#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼では「基本的ガイドライン」の節についても廃止あるいは「曖昧な言い方の改善例」での整理という方向性でコメントがありましたが、「曖昧な言い方の改善例」についてはWikipedia:大言壮語をしないとの関係も調整すべき点があるように思いますので予め整理できればと思います。--Jizwf会話2013年4月10日 (水) 02:53 (UTC)
コメント 前回の改定で「中立性を損なう危険性以外の問題点」を「曖昧な言い方の典型例」に取り込んで共に問題点を明らかにするための規定ではないかと考え「曖昧な言い方の問題点」としたのですが、本ガイドライン全体としてはWikipedia:中立的な観点 が軸になっており、先頃の#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼でも「曖昧な言い方の典型例」の変更については特に論点となっていなかったことから、Wikipedia:中立的な観点以外の観点についていったん冒頭に移した上で節の名称を「曖昧な言い方の典型例」に戻しました。本ガイドラインの目的については、その冒頭部分にあるように基本的にはWikipedia:中立的な観点から「意見を匿名の情報源とすること」を避けるという点にあるかと思います。この点については現行の英語版ではWikipedia:中立的な観点に一元的なものとなっているようですが、日本語版では旧来これとは別に「中立性を損なう危険性以外の問題点」という節があり多元的なものになっていました。そして、これまで記述の対象そのものが曖昧となっている場合についての説明も本ガイドラインの要素として含まれていたことから、前回の改定では「中立性を損なう危険性以外の問題点」の節を要約した上で問題点を明確にするためにひとまず「曖昧な言い方の典型例」とともに「曖昧な言い方の問題点」として取り込んで並列的な配置にしました。しかし、本ガイドライン全体としてはWikipedia:中立的な観点 が軸になっており、先頃の#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼でも「曖昧な言い方の典型例」の変更については特に問題となっていなかった点も考慮し、Wikipedia:中立的な観点以外の観点について冒頭に移した上で節の名称を「曖昧な言い方の典型例」に戻すことにしました。
このWikipedia:中立的な観点以外の観点についてですが、日本語版では今回の改定まで「中立性を損なう危険性以外の問題点」という節が設けられていたという点に配慮したものです。現行の英語版では意見の主体を曖昧としている場合の問題点に限定されているように思うのですが、現行の日本語版では記述の対象そのものが曖昧となっている場合の問題点についても加味されています。この点についてですが、英語版のようにWikipedia:中立的な観点から意見の主体が曖昧とされている場合のみを一元的に扱ったほうが良いのか、それとも記述の対象そのものが曖昧である場合も含めるべきか将来的には明確にすべきかもしれません(仮にWikipedia:中立的な観点に一元化する方向をとるのであれば、目的を明確にするために記述の対象そのものが曖昧となっている場合の説明については削るべきかと思います)。これに関連して「Wikipedia:言葉を濁さない」や「曖昧な言い方」という名称についてなのですが、日本語の語義から考えると記述対象そのものが曖昧であることが問題とされていると読むのが素直であり、中立的な観点から意見の持ち主が曖昧とされる場合などを問題としていることを言い表すものとしてはかなり独特な用語法のような気がしないでもありません(このことは「曖昧な言い方の典型例」という名称ではありながら語句そのものは曖昧ではないと思われる「……と言っている」などといった語句が含まれてきた点、「中立性を損なう危険性以外の問題点」として記述対象そのものが曖昧である場合の問題点が追加されてきた点などからも見て取れると思います)。現時点で日本語版のWikipedia:言葉を濁さないは英語版では”Unsupported attributions”として説明されている位置にリンクされていることを併せて考えると、内容がWikipedia:中立的な観点を軸としているものに対しての名称としてみたときに適切かどうか将来的に整理する必要も出てくるかもしれません。--Jizwf会話2013年4月19日 (金) 17:01 (UTC)
提案 前回のコメントとは別の点になるのですが、「基本的ガイドライン」の節についてですが、先の#他の方針・ガイドラインとの関係などについてのコメント依頼において基本的には削除の方向で具体化され、その中でも議論があったのですが、Bugandhoneyさんが2013年1月28日 (月) 23:06 (UTC)に示された「本当に事実なのであれば、曖昧に書かずに断言してください。百科事典では事実とそうでないものは明確に区別されるべきです。一方で、出典の中では曖昧にしか書かれていないことまで断言してはいけません。」という文面を{{文書の要旨}}の設置という形で置き換える案(「基本的ガイドライン」の節を冒頭の{{文書の要旨}}に置き換える案)を具体化すべきかと思い、先般、了解を得られましたので、この際、正式提案したいと思います。--Jizwf会話2013年5月3日 (金) 21:27 (UTC)
報告 告知後、異議が出されませんでしたので上記提案を実行致しました。--Jizwf会話2013年5月11日 (土) 01:49 (UTC)