Wikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרו

利用者:ימח שמו וזכרו会話 / 投稿記録 / 記録であるわたし自身の行為とユーザー名についてコメントを依頼します。--ימח שמו וזכרו 2011年4月23日 (土) 05:51 (UTC)[返信]

経緯[編集]

被依頼者(依頼者)が4月16日に行ったこの編集について、合意が無効だという理由でイザヤさんによって差し戻されました[1]イザヤさんからは統合を行う以前にも抗議を受けており[2]、他の場所でも喧伝されているのを知っていたのですが[3][4]、「非キリスト教的な項目をキリスト教の神学用語、聖書の語句に無理に統合しようとする」とおっしゃるなど、明らかに今回の統合の意図を理解されていないこと、およびこちらの呼びかけに全く応じないこともあり、上記の編集を強行いたしました。ただ、統合提案のテンプレートを貼ってから最低1週間様子を見るという条文に従わず、5日目に編集を行いました。この行為についてイザヤさんはまたもや各所で喧伝されており[5][6][7]、統合そのものに妥当性がないこと、さらにはわたしのユーザー名がキリストに対する冒涜だとして大変憤慨されておられます。

被依頼者(依頼者)のコメント[編集]

イザヤさんの崇高な思想にわたしのお頭がついて行けないこともあり完全には把握できていないのですが、抗議内容は(1)ユーザー名、(2)統合の妥当性、(3)統合作業の強行、の3点に絞られるかと思われます。

  • ユーザー名についてですが、イザヤさんがこれをキリストに対する冒涜だとおっしゃられるのは、とある場所でのわたし自身による発言をご覧になったからだと思われます。ただ、この理屈だとわたしが言っていることは全て正しいということになるので、わたしが一言、「あれは冗談で、本当はキリストを賛美する言葉なのです」と言えば済む話なので取り合うつもりは毛頭ございません。
  • 統合の妥当性についてですが、わたしがこの編集を行ったのは、当時「ヘーレム」に書かれていた内容が紛れもなく聖絶そのものだったからであります。それも当然で、「ヘーレム」の項目は2011年2月16日に改名されたばかりであり[8]、2006年11月6日に立項されてから4年余りの間、「聖絶」の項目名で編集されてきた経緯があるからです。なぜ改名されたかについては割愛しますが、改名作業に当たられた利用者にとってはまことに不運なことに、一か月も経たないうちに「ヘーレム」の項目において聖絶のことが書かれていることの妥当性についての疑問が呈され[9]、その後複数の利用者からも賛同を得た次第です[10]。要するにわたしの行ったこの編集により2月16日以前の正常な状態に戻ったということであり、それまでの2か月間が異常だったのです。それは「聖絶」の項目をイザヤさんが独占的に編集していたことも含めてです。ちなみに現在の「ヘーレム」の項目において書かれているのがこの項目名にとって妥当な内容かと思われます。わたしが行いたかったのはこの編集であり、統合作業については代行したにすぎないのです。
  • 編集を強行したことなのですが、統合についての提案を「ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」にて行ったのは4月3日(2日)のことで、これは編集を行うちょうど2週間前のことになります。なぜこの時点で統合提案のテンプレートを貼らなかったのかと言えば、どうしてもとある利用者に配慮する必要があり、できることならこの方の意向を汲み取りたいと思っていたからであります。具体的に申しますと、「聖絶」に統合するのか「アナテマ」に統合するのかの判断をお任せしたかったのです。そして、その方が統合作業を行うべきであるとも考えておりました。なぜならその方こそが例の改名作業を行った張本人だからであります。その後の経緯は割愛しますが、「アナテマ」への統合が無理だという判断に達したことで「聖絶」一択に絞られ、その利用者は本件から手を引かれました。そこでわたしが統合作業を代行することになったのですが、統合提案のテンプレートを貼ったのは4月12日であります[11]。ではなぜ19日まで待てなかったのかと言えば、実質2週間の議論が行われたこと、休日にまとめて作業に当たりたかったこと、そして正直なところ19日まで待ちきれなかったというのがあります。これがウィキペディアのルール上どうしても許されない行為であるというのなら、「聖絶」と「ヘーレム」の両項目を4月12日(16日)以前の状態に差し戻されても何も文句を言うつもりはございません。

以上なのですが、ここで皆様にお願いがあります。わたし自身の行為について抗議を受け、それについての裁定を願いたくこうしてコメント依頼を提出したのですが、できることなら今回の一件に限らず、わたしイザヤさんそれぞれの経歴等を含めた総合的な善悪を判断してほしいのです。どちらが善で、どちらが悪なのかをはっきりと断じていただきたく存じております。玉虫色の決着は望みません。どちらとも悪でも結構です。そして、悪と断じられた利用者に対しては無期限のブロックを科してほしいのです。イザヤさんもそれを望んでおられるようなので[12]、ここは受けて立つほうが後腐れがないと思われるのです。些細な問題から穏やかでない話が飛び出しているようにも思われましょうが、わたしとしてはそれなりの覚悟をもってこのコメント依頼を提出したことを理解していただきたく、このようなことを申し上げているのです。皆様方の良心に期待しております。--ימח שמו וזכרו 2011年4月23日 (土) 05:51 (UTC)[返信]

(追記)「ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」という提案を行った日付を間違えていたので訂正しました。その他日付についての訂正がもう1か所あります。それから統合の意思表示については「合意形成のためのコメント依頼」のほうにはその旨をちゃんと報告していたので[13]、公正な判断材料にしていただきたく存じております。--ימח שמו וזכרו 2011年4月26日 (火) 13:29 (UTC)[返信]

イザヤさんによるコメント[編集]

経緯[編集]

「明らかに今回の統合の意図を理解されていない」から統合を「強行」したと述べられていますが、統合提案に反対した理由について理解しておられません。私は統合に反対する理由を出典付きで明記してありますが、それに対して答えずに統合を強行しています。反対理由について理解していないということになります。またそれが「強行」だという認識をご自分でお持ちであったということになります。

ユーザー名[編集]

「この理屈だとわたしが言っていることは全て正しいということになるので」と言っていますが、「言っていることは全て正しい」などと人間に無謬性があるかのごとき地位を与えることはありません。飛躍です。この語は歴史的にキリストを冒涜し、否定する語として使われています。一個人が語の意味を変えてしまえるというのでしょうか。この語についてはメシアニック関係の雑誌に説明があり、「冗談」で済まされる語ではありません。ユダヤ教徒からメシアニックが迫害されているという報告が多く入って来ています。

宗教グループにねらわれた兵士たちによれば、メシアニック・ジューはユダヤ教徒から「イェシュ(訳注:ユダヤ教でのイエスの軽蔑した呼び方)の伝道者と悪魔に従う人にはほとんど違いがない。」と呼ばれています。イエスという名に迫る-02によれば、 「そして「イェシュ」がイエスだけを指す、ネガティブな単語に変化した後に新しいイェシュと言う名前の解釈がユダヤ教の中で生まれました。それはイェシュ(ישו)が、「יימח שמו וזכרו」=彼の名と記憶が消し去られるように。という文の頭文字だというものです。「יימשח (忘れ去られる/ように)」の「י」、「שמו(彼の名)」の「ש」、そして「ושכרו(と彼の記憶)」の「ו」。この解釈は歴史的には全く根拠がないことがグネザからの発見で証明されたのですが、未だに多くの宗教的なユダヤ人はこの解釈を信じています。」 

イエシュと呼ぶだけでも、「ユダヤ教でのイエスの軽蔑した呼び方」であり、さらにこの呪いの文がイエス・キリストと結び付けられています。「ではイスラエルの人口の大半を占める、世俗的なユダヤ人はどうでしょうか。確かに彼らもイエスの事をイェシュアではなくイェシュと呼んでいますが、彼らはイェシュという1語にラビ・ユダヤ教が作り上げた軽蔑・嫌忌の意がある事を知らない人間が多いです。イェシュがもともとの名前だと思っている人間も意外と多いのです。」「ユダヤ人はイエス様についてほんの少しの知識もない。」と話しておられました。ヘブル語でイエスはイェシュアですが、それさえも知らず罵る言葉「イエシュ」しか知らないそうです。というレベルであれば、単に知らないということになるかも知れませんが、ヘブライ語に精通した人物が、「彼の名と記憶が消し去られるように」の語をユーザー名に使う事で「ラビ・ユダヤ教が作り上げた軽蔑・嫌忌の意」になることを知らないわけがありません。「消し去られるように」という呪詛の対象となっているのは、イエス・キリストです。

【ハーベストメールマガジン】2005/10/15(土)「法王の訪問に先だって、イスラエル人の日刊紙が、約1週間にわたって「教育的な解説記事」を連載した。それは、イスラエル人たちがあまりにもキリスト教に無知だからである。その連載記事では、キリスト教とは何か、何を信じているのか、法王とは誰か、なぜイスラエルを訪問するのかといった内容が取り扱われた。当然、イエス・キリストとは誰か、という内容も出てきた。伝統的にユダヤ人たちは、イエスのことを、「イェシュ」と呼んできた。これは、軽蔑の意味をこめた呼称である。しかし、その時の記事では、メシアニック・ジューたちが使っている、「イェシュア」という呼称が用いられた。これだけでも、大きな進歩であった。」 『ウェスレアン聖書注解』によれば、ヨシュアは「旧約聖書のイエス」ですが、ラビ・ユダヤ教徒はヨシュア記のキリストを否定して、救いを意味するイェシュアを、「軽蔑の意味をこめた呼称」にしてしまうのです。ただし、ユダヤ教徒もクリスチャンに敬意を払いたい時には、メシアニックの使う、そして聖書通りの「イェシュア」を使う事もまれにあります。

「タルムードの中のイエス」試訳によれば「タルムードはイエスの名前を、イェシュアから「イェシュ」に縮め、その意味を主は救いから「彼の名は消し去られるように」という言葉の頭文字へ変えてしまっています。」

いろいろと調べてくださってご苦労様です。ただし、それが事実なのかどうかをご自身で検証してください。イエスという名に迫る-02からコピペ引用されていますが、右書き言語と左書き言語の折り合いの悪さから作者のテルさんは正しく表示させるためにわざと文章の一部を入れ替えているみたいなので、コピペするのならちゃんと修正を施しましょう。内容を理解していないのがばれてしまいますよ。それはともかく、テルさんによる「יש"ו」(イェシュ)の解説は以下のようになります。
  • 「 יימשח (忘れ去られる/ように)」の「י」
  • 「 שמו (彼の名)」の「ש」
  • 「 ושכרו (と彼の記憶)」の「ו」
これがテルさんのブログにある記述です。しかしテルさんは2か所で間違っておられます。「 יימשח 」は「油を注がれる」という意味です[14]。これは言うまでもなく「メシアと認められる」という意味になります。「 ושכרו 」は「と彼の報酬」という意味です[15]。つまりテルさんのいう「 יש"ו 」(イェシュ)というのは「彼の名と彼の報酬は油を注がれメシアと認められる」という意味になり、わたしの言ったとおり「キリストを賛美する言葉」になるのです。冗談みたいな話なので言及せざるを得なかったのですが、不審に思われるのならテルさんに問い合わせてみてください。意図してやっているのなら大した人物です。とにかくこういう反論がひとつあるだけで、その他の反論がいかに正しくとも信憑性がなくなってしまうのです。事実かどうかを検証もできずにただ盲目的に信じているというだけでウィキペディアの編集をされるのは金輪際おやめください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月24日 (日) 03:33 (UTC)[返信]
(追記)出典の明示を忘れていたのでリンクを貼ってあります。--ימח שמו וזכרו 2011年4月26日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
(追記)わかり易いように上記のコメントの位置を移動しました。--ימח שמו וזכרו 2011年4月28日 (木) 18:05 (UTC)[返信]

統合先について[編集]

「統合の妥当性についてですが、わたしがこの編集を行ったのは、当時「ヘーレム」に書かれていた内容が紛れもなく聖絶そのものだったからであります。」と言っておられますが、福音主義神学の聖絶について、ご存じないということです。彼は旧約聖書の出来事、とくにカナン地方入植時を中心に行われた宗教的行為については「聖絶」をご覧ください。宗教的迫害(2)についての詳細は「聖絶」を参照のこと。宗教的迫害を意味するヘーレムと書いています。キリスト教の聖絶にこのような意味を与えるのはヘブライ語名氏であって、キリスト教の神学用語である聖絶にはそのような意味はありません。

「その後複数の利用者からも賛同を得た次第です」と言われていますが、Bokemiann氏はここで本記事の統合先はアナテマがよいと言っています。Sillago氏はヘーレムというヘブライ語の中でのみ論じており、キリスト教神学の聖絶について理解していません。ジャムリン氏の発言はヘブライ語ユーザー氏の「解説や主張」がわかりやすいというもので賛同内容が不明です。そもそもこの項目名は皆様からのご意見を募集しますであって、聖絶との統合提案ではありませんでした。ヘブライ語ユーザー氏はそれを聖絶との統合提案への賛同であると主張しています。しかし、Bokemiann氏は現「ヘーレム」を「聖戦(古代ユダヤ教)」或は「聖戦(ヘブライ語聖書)」へ改名するのもよいのではないかと思うようになりました。と述べています。Bokemiann氏はまずは「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を提案します。その場合は「アナテマ」ではなく「聖絶」を残すことを提案します(両方残すのもOK)。のどこが、聖絶への統合への賛同と読めるのでしょうか。

Bokemiann氏のこの議論における最後のコメントは[[16]]ですが、「ימח שמו וזכרוさんとはどうも対話にならないようです。淡々と作業だけしていればよいかと思いましたが、無理なようです。本来は今週早々作業に入れるかと思っていたのですが、こんなやりとりを続けている限り、また直ぐに月末になってしまいます。私も仕事がありますから、その期間はウィキブレイクをしなければなりませんが、そんな個人の事情も理解できず、対話拒否だの何だのと個人のノートで延々と個人攻撃をしてくるような方とやりとりをして記事を作ってゆくような余裕は私にはありません。」と言っておられます。Bokemiann氏のこの発言は、賛同でしょうか。そうは見えません。

Bokemiann氏は、ヘーレムの記事をユダヤ教とキリスト教に共通の項目として作成したのであり、キリスト教神学の用語である聖絶に統合するのは誤りです。出典からもこれは明らかです。[17]のBokemiann氏の説明によれば、今回の加筆で利用したのはマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』上巻(岩波文庫)の聖戦の箇所です。他に参考にしたものは、岩波書店訳の旧約聖書のヨシュア記とサムエル記の解説、そして補注(こちらは合本版)です。という事です。[[18]]2011年3月31日 (木) 11:20 (UTC)〕--Bokemiann 2011年3月30日 (水) 18:49 (UTC)のBokemiann氏の発言によると、「(私がクリスチャンになり損なったJesusファンとして、聖絶がイエスの福音とは完全に違背する思想であるという考えが私の基本にあるからに他なりません)。その時は我ながらすごいなと思いましたが、改めて今になって考えると当たり前の話で、別段自慢にもなりません。」と述べています。イエスの福音と違うというのはヘーレムを宗教的迫害と理解しているからでしょう。しかし、福音主義神学用語である聖絶では「イエスの福音と異なる」どころか、まさしくイエス・キリストを教えているものです。また、執筆者のBokemiann氏自身、岩波訳の解説が聖戦について述べている所を出典として書いたことを、明らかにしています。『聖書思想事典』ではアナテマの項目にヘーレムの説明があり、聖絶については書かれていません。『聖書思想事典』の「呪い」は別項目です。古代ユダヤ教、聖戦、アナテマを出典として書かれたヘーレムは、出典に従い古代ユダヤ教、聖戦に統合されるべきです。あるいは別概念としてふさわしい名称のものに改名するのでもよいでしょう。キリスト教神学の聖絶はキリストの救い、神の愛、神の聖さ、神の臨在の語であり、全くの別概念です。単なるヘーレムであれば、ウィクショナリーがあり、ウィキペディアにヘブライ語ヘーレムの項目もあります。聖絶は福音主義神学用語としてこそ特筆性があります。--イザヤ 2011年4月23日 (土) 16:29 (UTC)[返信]

統合提案の合意は成立しておりません。

Bokemiann氏はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』上巻(岩波文庫)の聖戦の個所、岩波のヨシュア記とサムエルの聖戦の解説を参考に記述したと述べています。また、『聖書思想事典』でも戦いとアナテマの項目でヨシュア記のヘーレムを扱っています。Bokemiann氏のヘーレムの記述は本人が言う通り、聖戦です。

[19]で、Bokemiann氏はここで本記事の統合先にアナテマを候補にあげており、Bokemiann氏は現「ヘーレム」を「聖戦(古代ユダヤ教)」或は「聖戦(ヘブライ語聖書)」へ改名するのもよいのではないかと思うようになりました。と述べています。Bokemiann氏はまずは「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を提案します。 しかし、ヘブライ語ユーザー氏とSillago氏はこれをあくまで「聖絶」への統合であると言い張り、編集を強行しています。ヘブライ語ユーザー氏は4月22日 (金) 15:33 (UTC)[20]で、 Bokemiann氏が「何を血迷ったか「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を主張し」たと述べており、Bokemiann氏とご自分が異なる見解を持っており、合意が成立していないことを認識していたわけです。しかし、彼はあくまで「統合」の合意があると言い張り、これを強行しました。「本来ならBokemiannさんがすべきことを仕方なく代行したという認識しかありません。」と述べていますが、Bokemiann氏の代行であれば、聖戦へと改名しなければならなかったはずです。そしてそれが執筆者のBokemiann氏自身が提示した出典に沿っています。

もし、そこで合意が成立していると主張するなら、出典とBokemiann氏の意見(ヘブライ語ユーザー氏が「血迷った」と呼ぶもの)に従って、聖戦に統合、あるいは改名してください。--イザヤ 2011年4月27日 (水) 21:56 (UTC) ノート:ヘーレム#改名先についてからイザヤさんのコメントを転記。--ימח שמו וזכרו 2011年4月28日 (木) 17:01 (UTC)[返信]

この件に関してはやや態度を軟化させているようですね。その点は大いに評価しますが、Bokemiannさんの書いた記事を「聖戦(古代ユダヤ教)」や「聖戦(ヘブライ語聖書)」に改名するには無理がありすぎます。記事の冒頭でどのように聖戦を定義するのでしょうか? まさか「聖戦(ヘブライ語:חרם)とは…」とでもするつもりなのですか? これでは完全な独自研究でしかありません。残念ながらヘブライ語の חרם を holy war や crusade などと訳出している翻訳聖書や辞書はどこにもないでしょう。マックス・ヴェーバーひとりの主張でヘーレムの3000年の歴史が覆るわけではないのです。
それでも「聖戦」に拘るのであれば、ヘーレムというヘブライ語を完全に忘れてください。要するにBokemiannさんの書いた記事はなかったことにして新規で立項すればいいのです。この方は自分が何を主題に記事を編集しているのかを完全に把握できてないのです。だからこそ4年以上も「聖絶」だった項目を安易に「ヘーレム」に改名し、それに疑問が呈されると「ヘーレム」から「アナテマ」への統合を主張し、それが無理なら「聖戦(古代ユダヤ教)」への改名を主張するといった具合に、意見が二転三転するのです。こんな人物が書いた記事を誰が信用しましょうか? すでに申し上げた通り[21]、わたしはイザヤさんが行ったこの編集を咎めるつもりなど毛頭ないのです。わたしがここでコメント依頼を提出したのは自分自身のためではなく、わたしの編集のために協力してくださった方々に恩返しがしたかったからに他なりません。いうなれば、このコメント依頼ですら代行しているにすぎないのです。
ヘーレム」の編集を終えた以上、わたしはすでに目的を達成しております。かつて「ヘーレム」とは別に「ヘレム」を立項されたイザヤさんであれば、削除されたBokemiannさんによる記事を現在の「ヘーレム」に統合することなどできないでしょう。それが全く別のものであることは誰よりもイザヤさん自身がよく理解しているはずなのです。つまり、わたしの編集した記事はイザヤさんが他でどれだけ問題を起こされようとも安泰なわけで、わたし自身は今日にでもウィキブレイクに入っても何ら差し障りはないのです。ですから話し合いをされたいのであればわたしではなく他に適当な方を見つけてなさってください。その方々が決然たる態度をとれないのであれば、今後もイザヤさんとお付き合いをしたいという意思表示だと思えばいいのです。ウィキペディアが公正中立な百科事典であることを放棄したと思えばいいのです。そうなれば、イザヤさんはこれまで通り福音派の立場からご自由に編集をなさればいいのです。最後にわたしの決然たる態度を示しておきます。イザヤさんを無期限ブロックにすべきだと考えております。ウィキペディアがその態度すら保留するようなのであれば今後はイザヤさんの独壇場でしょう。--ימח שמו וזכרו 2011年4月28日 (木) 18:05 (UTC)[返信]

第3者によるコメント依頼の追加[編集]

上記見出しにおいて、ユーザー名についてのコメントに関するものがありますが、以下のものに関しては、イザヤ氏との対話の中で発覚した問題です。内容も違いますので別見出しにしてコメント依頼を追加いたします。

不適切な利用者名[編集]

ימח שמו וזכרוさんの会話ページにおいて不適切な利用者名をご指摘させていただき、対応をお願いしましたがご理解いただけませんでした。氏の利用者名はヘブル語表示のためわかり難いのですが、ימח שמו וזכרוさんご本人がその意味を解説しているのでそのログを見ていただきたいと思います。

上記のログにより、日本語の意味は「彼の名と記憶は抹消されよう」であることがわかります。

  • 「ユダヤ教徒にとって「彼」とはナザレのイエスのことを指します。しかしわたしはユダヤ教徒ではありません。世俗の人間にとっての「ימח שמו וזכרו」は単なる悪口でしかありません。」

とご説明いただきました。この点に関しては、キリスト教関係者への不適切な利用者名と考えられもしますが、そのことが問題とは考えません。ימח שמו וזכרוさんは、続けて

  • 「わたしにとっての「彼」とは、聖絶関連の記事を混乱させた挙句あまつさえ居直って結果的にわたしを「ヘーレム」の編集に引っ張り出した○○○○さん(利用者名は伏せさせていただきます。Pauro 2003記)に他なりません。」と言っています。

さらに、続けて

  • 「IPアドレスの頃から対話を重ね、アカウントを取得するまでにはこの方の本性をだいたい理解していたのです。統合提案にてこの方に配慮していたのはあくまでも形式的なものにすぎません。本当に消えてほしいと願っていたところで逃亡されたので、このアカウント名もなかなかのものだと感心していた次第であります。」

ここで「彼」を個別の利用者であることを表明し、その利用者の方を愚弄しています。更に不適切な利用者名が効力があったかのように自画自賛もしているのです。

利用者名を不適切な意図を持って作られたのはご本人の表明を持って明らかになりました。ご本人の意見表明がなければ判らなかったことではありますが、これは不適切な利用者名であると判断されます。披依頼者には、不適切な利用者名であると指摘させて頂いたのですが、なんら意に介せないご様子です。

コメント依頼を追加した者として利用者‐会話:ימח שמו וזכרו#お願い利用者‐会話:ימח שמו וזכרו#コメント依頼の件において対話させていただきましたが、被依頼者は「不適切なのかどうかかわからない」という意見表明をされていることを附記いたします。--Pauro 2003 2011年5月21日 (土) 16:19 (UTC)[返信]

第3者によるコメント[編集]

イザヤさんと、ימח שמו וזכרוさんのメッセージがきっかけになり、キリスト教関連の記事を執筆している者としては、重い腰をあげて自分の意見を述べます。いままで、沈黙をしていてたことをお詫びします。実は、いま実生活が大変なのでじっくり考えている時間がなかなか取れないのですが、私は、福音派で福音宣教を仕事にしている者ですが、伝道はもちろん命を掛けてしていますが、それとは別に学問的な探求を重んじている者です。ですから、自分の考えが偏っているならば、遠慮なく指摘して欲しいです。「福音主義神学のため」というのは単なる盲信ではなく、地道な研究を重ねてきた福音主義神学者たちの研究を正しく評価して欲しいということです。

私の意見では、現在の「聖絶」の項目は、新改訳の翻訳者と編集者が「聖絶」を造った当初の趣旨に比べると、福音主義神学のプラスアルファーがあるように感じます。イザヤさんの福音主義的解釈に信仰者としての私個人は大変その通りだと思いますし、私もそのように信じていますし、そのような視点から伝道しています。しかし、ウィキペディアは百科事典で公共的で中立的な立場が必要なのは言うまでもないと思います。ですので、わたしならば、ウィキペディアにおいては「福音主義神学からの解釈」というないようで執筆するでしょうし、もしくは、自分のホームページやブログで、イザヤさんと同じような意見を述べるだろうと思います。

ימח שמו וזכרוさんのご意見にも頷ける点があります。両者を棲み分けされようとしている配慮は正しいと思います。現在の「聖絶」項目との「へーレム」項目の内容は、共通面もありますが、全くイコールではないのですから、両者を互いに、区別して棲み分けをする必要があると思います。そして、すべての解釈を列挙することが学問的な良心であると思っています。

さらに、「聖絶」について弁護しますと、もともと、「聖絶」はへーレムにふさわしい統一された訳語が日本語に存在していなかったために造られた造語です。第一人者の国語学者に意見を求めて妥当と判断を受けた上で、慎重に造語に踏み切ったのです。つまり、新改訳聖書はその意図を汲み取って自ら聖書研究を行える読者を想定して、原語の状態が日本語訳になっても分かるように配慮がなされている訳です。「聖絶」は「ヘーレム」の訳語であることが一目瞭然なることが本来の目的です。さらに、その造語が新改訳聖書が刊行されて40年あまりで福音主義神学のみならず、一般にも認知されるようになってきた事実は百科事典で取り扱ってほしいことだと思います。その上で、「聖絶」と密接に結びついている、福音主義神学からの聖絶の意見、他の意見と併記しながら載せることも、関連性があっていいと思います。

いま、新改訳第三版でも、二版まで「らい病」と訳されていた「ツァラアト」を、原語表記で「ツァラアト」としてしまったことに対しては慎重さを評価すると同時に、「聖絶」を造った時のように、造語まで踏み込んでほしかったという思いもあります。「ツァラアト」という言葉は「らい病」の概念を含んでいても、両者がまったく同じ概念ではないのですから、「ツァラアト」という概念を明らかにしつつ、日本語として定着させるためには、新しい造語を作る勇気も必要かと思います。それが、できなければ、すでに存在する「らい病」「ハンセン病」「レプラ」などの、日本語として定着している用語をもっと広い意味で使うことも選択支だと思います。

結論としては、造語として一般にも認知され浸透しつつある新改訳の造語である「聖絶」という視点に絞って行くことが、客観的な立場だと思います。そして、なぜ「聖絶」という造語が必要であったかということを書けば公平だと思います。そして、「へーレム」とは区別したほうがいいと思います。その上で「福音主義神学における聖絶の解釈」という形で後半の部分を付加されたらどうでしょうか。できれば、「他の立場からの聖絶の解釈」も併記されればなおいいと思います。--More blessing 2011年4月23日 (土) 16:12 (UTC)[返信]

忙しいなかコメントをいただき大変感謝しております。今回4月17日以前の「ヘーレム」の内容を「聖絶」に統合したことについてですが、これはあくまでも福音派による「聖絶」という造語を尊重したからこその結果であることだけは理解していただきたく存じております。わたし自身は新共同訳聖書の読者ということもあり、この問題にかかわった当初は聖絶という造語にかなりの違和感がありました。しかし半月後には好意的に聖絶という言葉を使うようになっておりました。というのも、ご存知のように新共同訳ではヘブライ語のヘーレムを言い表す固有の訳語はありません。この問題について語るにおいては「聖絶」という言葉を使わざるを得ず、ある特定の概念を指し示す言葉が存在することの重要性に改めて気付かされた次第です。「はじめに言葉ありき」とはまさにこのことでしょう。この考えについては議論の過程において既に表明しており[22]、おそらく他の利用者の方にも異論はなかったはずです。聖絶という言葉が作られてから40年だそうですが、それまでは福音派の方々によって独占的に使われていた用語であったのかもしれません。しかし今やすべての日本語話者と共有すべき時代に入っているのではないでしょうか? わたしとしてはこの状況を大変名誉なことだと思ってほしいのです。これについては福音派の方々で話し合いをもたれてほしいところなのですが、今回のコメント依頼はそこまで長期的な展望を持っているわけではないので、今後の課題としてぜひ心に留めてほしいと存じております。貴重なご意見をいただき本当にありがとうございました。--ימח שמו וזכרו 2011年4月24日 (日) 04:27 (UTC)[返信]

コメントします。ימח שמו וזכרוさん(以後複数の理由により「ヘブル文字さん」と呼びます。)聖絶関係は合意がとれていると思います。「合意」を「自分の主張が通ること」と勘違いしている人がいますが、お話し合いを経た上でのことです。「聖絶」という造語の経緯ですが、以前いのちのことば社に問い合わせましたが、現在検証可能な資料の存在は明確になりませんでした。『聖書翻訳を考える』にも載っていませんでした。知人が持っている新改訳聖書第1版ではすでに聖絶が使われています。次にへブル文字さんの名前についてです。キリスト教を冒涜しているのか。確かに当初、これに「YESHU」を重ねたユダヤ教徒達はその目的があったのでしょう。重ねて確認しますが、ヘブル文字さんはキリスト教を冒涜、誹謗、中傷、その他ネガティブなイメージを与える意図はありましたか。私はヘブル文字さんからこの意味を教えてもらったときから何となくぼんやりしていました。昨日長老派の牧師など何人かにどう思うかを聞いてみました。「キリスト教を冒涜」とは少し大人げない。キリスト者だったらイエス様の栄光に傷一つつかないことくらい分かるだろうに、という感じです。伝道活動をなさっているMore Blessingさんはこの件に関してコメントされていませんが、どのようにお考えなのか教えて頂けませんか。--Sillago 2011年4月25日 (月) 13:26 (UTC)[返信]

わたしのユーザー名についてお答えします。わたしが聖絶関連の項目の混乱を知ったのは3月の初旬のことで、当時はIPユーザーとして議論に参加しておりました。しかしアカウントを取得してまで「ヘーレム」の編集に携わる決意に至ったのは某利用者との対話が不調に終わったからであります。当時使用したIPアドレスは「利用者:ימח שמו וזכרו」に並べてありますので、駄文長文はご容赦のうえでご覧になってください。
そこで結論を述べますが、「ヘーレム」というたった1つの項目の編集のためにアカウントを取得するにあたり、わたしが当初ユーザー名としたかったのは「ימח שמו וזכרו של בוקימיאנן」あるいは「בוקימיאנן ימח שמו וזכרו」でありました。ようするに「 בוקימיאנן の名前と記憶は消え去るように」という意味になるのですが、これではあまりにも露骨だと思い「ימח שמו וזכרו」(彼の名前と記憶は消え去るように)にした次第であります。さて、この慣用句を略せば「יש"ו」となることから「彼」とは「ナザレのイエス」を指すというのは有名な話です。しかしこれは有名だというだけの話で、「ナザレのイエス」に限定して使用されているわけではありません。ユダヤ人やユダヤ教徒の敵であれば誰であれ「彼」に当てはまるのです。「"ימח שמו וזכרו"」と任意の人名を組み合わせてグーグル検索すればよくわかります。「אחמד יאסין」(アフマド・ヤースィーン)も然り、「יאסר ערפאת」(ヤーセル・アラファート)も然り、「מחמוד אחמדינג'אד」(マフムード・アフマディーネジャード)は意外と少なかったのですが、「היטלר」(ヒトラー)が多いのはいうまでもありません。検索数では「ישו」(イェシュ)とほぼ互角です。個人名に限らず「נאצי」(ナチス)や「אנטישמיות」(反ユダヤ主義)もあれば、「מחבל」(テロリスト)や「רוצח」(人殺し)や「גנב」(泥棒)などでもヒットします。もちろん「יגאל עמיר」(イガール・アミル)や「ברוך גולדשטיין」(バールーフ・ゴールドシュテイン)というユダヤ人でさえ例に漏れません。こういった類の輩に対するのと同じぐらい当時のわたしは「בוקימיאנן」という利用者に対して憤りを覚えていたのです。この方はキリスト教徒を自称されなくとも、イエスの信者であることは自称していたので、Sillagoさんのいわれる「キリスト教を冒涜、誹謗、中傷、その他ネガティブなイメージを与える意図はありましたか」という問いを否定すれば自分自身に嘘をついていることになります。「ヘーレム」の編集を終えた今となっては当時ほどの憤りはなく、他のキリスト教徒の利用者に対する配慮が欠けていたことは認めざるを得ませんので、謝罪が必要なのであればするつもりでおります。むしろこれを機に、なぜイエスがユダヤ人から「ימח שמו וזכרו」などと呼ばれるようになったのかを、キリスト教徒の方々に歴史を振り返りながら考えてもらえるのなら、わたしの謝罪も無駄にはならないでしょう。福音派も長老派も同じプロテスタントであると存じております。プロテスタントと言えばすぐさまマルティン・ルターの名が思い浮かぶところなのですが、この人物が反ユダヤ主義に与えた影響は当然存じ上げているはずです。わたしがウィキペディアで「ימח שמו וזכרו」と名乗ることが許されないのであれば、福音派や長老派を名乗ることも許されないことだと思うのですが、少々脱線気味なのでここまでにします。
それに、わたしのユーザー名などそもそも議論のすり替えでしかありません。わたしが謝罪したところで聖絶関連の項目の混乱を収束させることはできないのです。この混乱はキリストの信奉者であるイザヤさんと某利用者との間で起きた確執に由来するもので、すでに3か月以上は過ぎているかと思われます。それ以前は「聖絶」と「アナテマ」の2項目しかなかったはずです。その内容も質量ともどもお世辞にも立派なものであったとは言えません。それが「ヘーレム」「ヘレム」と増殖し、ひらがなの「へーレム」まで誕生し、放っておけば「聖戦(古代ユダヤ教)」まで出現しかねないまで泥沼化していたのです。わたしはひらがなの「へーレム」の削除と表記揺れの「ヘレム」の整理を3週間で行いました。キリスト教徒の方々はいつまで知らず存ぜぬで通されるのでしょうか? わたしはユダヤ人ではなくユダヤ教徒でもありませんが、今回の騒動は、過去の歴史においてキリスト教世界で混乱が起き、そのフラストレーションの捌け口にユダヤ人をスケープゴートに選んで被害に遭わせてきたことの縮図に思えてなりません。わたしもブロック覚悟でコメント依頼を出している以上、厳しい態度で臨むつもりでおります。もちろんわたしが期待しているのは皆様方の敵意ではなく良心であります。それだけはご理解ください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月25日 (月) 17:18 (UTC)[返信]
じゃあ書かせていただきます。臆病な江本亨進と申します。
私がいいたい事は既に出ているので、見ておられるクリスチャンの方が居られる様なので、岩波委員会訳聖書信仰の徒といたしましては、「岩波委員会訳聖書では、旧約で「ツァーラアト」、新約で「重い皮膚病」が使われている」と、「聖絶(名詞は聖絶物)も使われている」とこの場をお借りして申しておきます。
本題ですが、別に「聖絶を使う者でひとくくり」の編集をしても、特に問題はないと思います。むしろ、「福音派とやらだけで、変なジャーゴン使ってるらしい」と言う印象を与えると、よくないことになる危惧と、岩波訳聖書は(私は図書館の本を利用しておりますが)アマゾンでもブックオフでも書店でも売ってますから、wikipediaの信頼性が落ちる危険があるのと、イザヤ様の方針(客観性とか中立性とかがー)でいくと、返って福音派の印象が悪くなると思われますので、福音派の為にリバートさせていただきました。

--江本亨進 2011年5月3日 (火) 04:49 (UTC)--江本亨進 2011年5月4日 (水) 11:59 (UTC)御指摘を受けちょっと編集 なんか戻ってるー もうあすこにはかかんー[返信]

ええと、どこに書くかは迷いましたが・・・私としては、ノート:聖絶で再三真摯に対応するように呼びかけましたが、あくまでどこに問題があるか理解されないようで、議論の内容以前にイザヤさんの姿勢には多大な問題があるように考えています。ブロック依頼には反対しませんし、改善が見られないようなら賛成すると思います。--Koon16000 2011年5月4日 (水) 04:16 (UTC)[返信]

まとめ[編集]

コメント依頼を提出してから間もなく2週間になろうとしております。皆様もご存じのように、「聖絶」の項目は4月29日にいったん編集保護が解除されたものの、昨日再びリバート合戦が発生したことでまたもや編集保護の状態に置かれてしまいました。前回は1週間だったものが、今回は3か月だそうです。このままではイザヤさんの思惑通りに事が運んでしまいます。幸い今回のリバート合戦を機に新たに2名の利用者様からコメントをいただくことができました。残念ながらイザヤさんの処遇について明確な意思表示をされている方は、わたしの他にKoon16000さんしかおられません。しかし、イザヤさんが行った編集を肯定的に捉えている方はひとりもおられないようです。また、ここだけでなくWikipedia:コメント依頼/イザヤのほうでのコメントを鑑みましても、イザヤさんの編集姿勢が今後改善される見込みがないことは誰の目にも明らかだと思われます。しかも、問題が起きるたびに自らの正当性を訴えるべく各所で喧伝されているようで、不幸にも集中砲火を食らっているユーザー様もおられる有様です。今回の騒動のきっかけを作ったわたしとしては見ていて慙愧に堪えません。「確信犯」という言葉はしばしば誤用されているみたいなのですが、イザヤさんは正真正銘の確信犯なのでしょう。つまり、コミュニティにとって危険な人物であることに疑いようがありません。よって、近日中にイザヤさんの処遇をWikipedia:投稿ブロック依頼のほうで審議してもらえるよう手配する所存であります。今回のコメント依頼に協力してくださった皆様には、あらためて感謝の意を表します。本当にありがとうございました。最後に、わたしのユーザー名が一部のキリスト教関係者に不愉快な思いをさせてしまったことについて改めてお詫び申し上げます。イザヤさんの問題が解決し次第わたしもウィキブレイクに入り、金輪際皆様の前に現れないことお約束します。--ימח שמו וזכרו 2011年5月5日 (木) 04:53 (UTC)[返信]

イザヤさんに対する下記の呼びかけを行ってから10日が過ぎました。残念ながら回答が得られませんでしたので、予告通りWikipedia:投稿ブロック依頼/イザヤを提出したことをここに報告しておきます。--ימח שמו וזכרו 2011年5月15日 (日) 16:36 (UTC)[返信]

イザヤさんへ[編集]

コメント依頼では異例かもしれませんが、投稿ブロック依頼を提出するか否かの判断をイザヤさん自身に下してもらおうかと思っております。すでにご覧になっているかもしれませんが、先ほどイザヤさんと同じ福音派に属されておられるMore blessingさんに「聖絶」という造語についての福音派の統一見解について質問し、その答えをいただきました。そこで、わたしの質問もあわせて転記しておきます。

(以下、利用者‐会話:More blessing#聖絶に関する私の意見より転記)

ご無沙汰しております。以前より気になっていながら聞きそびれていたことがあるのでここで質問いたします。聖絶という言葉が福音派の方々によって造られたことは一連の議論においてたびたび言及されているのですが、この造語が岩波委員会訳聖書でも使用されるにおいて、福音派や日本聖書刊行会のほうに使用許可を申し出たというような話はなかったのでしょうか? さすがに「聖絶」という造語を商標登録しているようなことはないのでしょうが、やはり福音派や日本聖書刊行会に無断で同じ言葉を使うには後ろめたいものがあったはずです。つまり、使用許可をもらえたからこそ岩波委員会訳聖書でも聖絶が使われていると考えられるのですが、実際のところはどうなのでしょうか? なぜこのような質問をするのかと言えば、聖絶という言葉についてのイザヤさんの排他的な姿勢が、福音派の方々に共通したものなのか、それともイザヤさん特有のものなのか、という点で判断しあぐねているからであります。もし後者であるのなら、あたかも福音派の意見を代弁しているかのごときイザヤさんの態度は、明らかに福音派の印象を悪くしており、福音派に不利益をもたらしていると思われるのです。もし前者であるのなら、岩波委員会訳聖書で聖絶という言葉が使用されていることについて訴訟のひとつでも起きているでしょう。しかし、そういった話がまったく聞かれない以上、前者であるとは考えられません。要約しますと、聖絶という造語についての福音派による統一見解のようなものがあれば、イザヤさんもそれに従うと思われるのです。イザヤさんの処遇についてはいよいよ決断が迫られております。最悪の事態を回避できるものなら回避したいので、ご助言をいただければ幸いです。なお、回答を頂けた場合はWikipedia:コメント依頼/ימח שמו וזכרוのほうに転記するつもりでおりますので、その旨をご了承ください。--ימח שמו וזכרו 2011年5月5日 (木) 09:30 (UTC)[返信]
ご質問ありがとうございます。「聖絶」について、岩波委員改訳聖書が日本聖刊行会に使用許可を申し出たという話は聞いたことがありません。もっとも、私の刊行会のメンバーではありませんので、メンバーだけが知るような、裏でそういう話があったかもしれません。また、商標登録も多分ありえないと思います。「聖絶」は商売のために造られた道具ではなく、誰でも、使えるようなパブリック・ドメインとして「聖絶」は造られたと理解してます。聖絶がへーレムを現すための新しい日本語として普及することが造語を作った人の願いであると私は思っています。だから、意見の違いを超えて、これからも「聖絶」が普及することを願います。--More blessing 2011年5月5日 (木) 12:50 (UTC)[返信]

(転記終わり)

More blessingさんは必ずしもこれが福音派による公式の見解であるとは申しておりませんが、代表的な意見であることは間違いないかと思われます。この意見に対してイザヤさんがどのように答えるかによって、今後の道を占ってみたい所存であります。福音派の信者として、「意見の違いを超えて、これからも「聖絶」が普及することを願います」という崇高な思想を共有されるのか、それともあくまでも排他的であり続けるのか、ぜひ答えてもらいたいところです。震災を理由にウィキブレイクに入られたイザヤさんが現在どのような環境におられるのかは存じておりません。即答が不可能である場合も考えられるので10日間だけ待ちますので、それまでに回答を寄せてください。ただし、イザヤさんは聖絶以外の項目でも多々問題を起こされているようなので、わたし以外の利用者の方がブロック依頼を提出するかもしれません。ですから態度を改める意思があるのならば、回答はできるだけ早いに越したことはありません。イザヤさんに良心があることを期待しております。--ימח שמו וזכרו 2011年5月5日 (木) 14:36 (UTC)[返信]

終了提案[編集]

反対 無期限というのは期間を定めないというだけです。不適切な利用者名に関する問題は解決されていません。--Pauro 2003 2011年5月26日 (木) 09:48 (UTC)[返信]

「無期限というのは期間を定めない……」というのは投稿ブロックのことでしょう。これはウィキブレイクですから、ご本人に復帰する意思がない限り、二度と戻ってこられないはずです。まあ前述の通り自分は通りすがりであって、対象不在のコメント依頼が放置されるのではないかと懸念しただけですから、これ以上積極的に踏み込むつもりはありません。どうぞご随意に。--禁樹なずな 2011年5月26日 (木) 16:23 (UTC)[返信]