Wikipedia:コメント依頼/編集一徹

利用者:編集一徹会話 / 投稿記録 / 記録さんの編集内容や主張が、本人の言うように方針に基づくものであるのか、それとも方針文章の誤解あるいは拡大解釈によるルールの悪用であるのかという点について、他の方の意見を求めたく思い、コメントを依頼します。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

これまでの経緯[編集]

コメント依頼に至る経緯[編集]

被依頼者の主張を端的に言えば、ウィキペディアにおける「検証可能な出典」とは書籍や新聞など文字媒体で記された「参考文献」に限られており、映画、アニメ、漫画、ゲームといった映像作品において作品そのものは「文献」の定義に含まれないのだから、そうしたものは作品記事において出典とは認められない、というものです[1][2]

被依頼者はこうした自身の解釈をウィキペディアの方針に則ったものであると主張しており[3]、作品のあらすじの紹介などについても、作品自体は出典にならない以上、紹介記事や批評記事といった二次情報を用いて書かなければならないとしています。

被依頼者はこうした主義主張に基づき、作品記事のストーリー紹介を丸ごと、新聞記事からの丸写しの内容に置き換えたため、引用の要件を満たさない引用として「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」にて版指定削除される、というトラブルを起こしています。また、こうした「引用」がウィキペディアで認められないと指摘されると、今度はとりたて長いわけでも独自解釈を含んでいるわけでもない映画記事のストーリー節に{{出典の明記}}タグを貼りつけ、差し戻されても執拗にリバートし続ける、という編集を繰り返しています[4][5][6][7][8][9][10][11]。また一連の編集における要約欄において、被依頼者は依頼者に対して「方針不遵守を容認している」とする非難を加えています。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

被依頼者の言動に関する参考リンク[編集]

被依頼者が{{出典の明記}}を貼っている記事。

今回のコメント依頼に関連する議論。

被依頼者は2008年に5度に渡るブロックを受けており、そのブロック依頼と解除に関する議論。

被依頼者の出典に対する考え方を示す一端として、その他の議論もご覧ください。

コメント依頼の依頼者からのコメント[編集]

これが仮に、自ら複数の作品評や制作者のインタビューなどを集めて、解釈に踏み込んだストーリー解説を自発的に出典を添えて書くというのでしたら結構なことだと思います。また、あらすじ節の各文節が、DVDのどのチャプターで描かれている内容であるのかを明示しているような記事も、検証作業の上での検索性の向上という意味では一つの理想であろうと考えます。かく言う依頼者こと私も、他の利用者から「あなたの編集は作品を見れば分かるような内容にも脚注を多用しすぎだ」などと苦言を呈されたことがありますが、結局その後も同様の編集を続けています。ですが被依頼者のような、検証可能であっても作品自体は資料にならないと主張して、{{出典の明記}}を要求することはやりすぎで、私には方針文書の誤読による誤った解釈、あるいは「文献」という一部の文章に用いられている字面を利用したルールの悪用であり、この主張に固執することは他の利用者を疲弊させる行為であるように思えます。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

コメント Hmanさんから指摘のあった、井戸端やプロジェクトのノートで提議しなかった理由ですが、このコメント依頼の「#映像作品を出典と見做すことに関する議論」をご覧のように、一時情報源を出典と見做せるか否かは既に過去に何度か議論がなされていること、また「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」において、作品のプロット自体は利用可能な一時情報源に含まれると定義するガイドラインが正規化されていることから、コミュニティでは一定の結論が出ていると考えたからです。また、「マスター・アンド・コマンダー#ストーリー」のような、一文しか書かれていない短いあらすじに{{出典の明記}}を貼る行為についても、他にはあまりそのようなタグ貼りを見たことがないことから、利用者個人についてのコメントを問う案件だと考えました。なお作品のプロット自体を出典と見做すことに異議がある、という意見が多いようでしたら、それはそれで現状のガイドラインやプロジェクトの方針を問い直すという意味で、この議題が終わった後で別の場所へ議論を持ちかける必要はあると考えています。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 03:18 (UTC)[返信]

コメント 被依頼者の会話ページにて、コメント依頼の依頼者である私宛のメッセージがありましたが、コメント依頼の内容に関連したことですので、こちらに返答を書かせて頂きます。

さて、何の編集も受けていない記録映像や、遊園地のアトラクションや舞台演劇といったものとは違いまして、フィクションの映画は脚本家、映画監督、編集者といった人々の手が入り、信頼できる配給会社による校閲を経て公開され、商品としてビデオソフト化されたものです。確かに観客は映画を通じて、あたかも自分自身がスクリーンの中の世界の出来事に居合わせ、出来事を目撃したかのような疑似体験を得ることになりますが、それは現実とフィクションを混同した錯覚なのです。ビデオソフト化された映画の観客は皆、映画制作者によって編集された画一的な内容の映像を目にすることになります。こうした作品では通常、作中の出来事は起承転結といった物語の約束事によって整理され、脚本は多くの人によって入念にチェックされ、俳優の台詞のミスなどはカットされて撮り直しされます。例えば映画の冒頭で「時は西暦30XX年、人類が太陽系の外に進出した時代のこと……」というナレーションから始まる映画があったとして、「この映画が30XXの未来を舞台にしていて、作中の人類は太陽系外に進出しているという設定になっている」ことが正しいことを保証するのは観客ではなく、映画の冒頭にナレーションを流すことを決めた映画の制作者です。

どうしても文章化されたものでなければダメだと言い張るのであれば、日本語字幕が用意されている洋画を想像してみてください。日本語字幕付きの洋画の字幕は「文献」だと言えるのではないでしょうか? もしかしたら編集一徹さんは、いやビデオデッキのような再生機器がなければ見られないようなものは出典として認められない、と考えるかもしれません。ですがあなたが今こうしてブラウザに表示させている文章もまた、パソコンという特殊な装置とインターネットの接続環境がなければ閲覧することができない内容であることを忘れないで下さい。パソコンのディスプレイに映し出された文字か、テレビのモニターに映し出された字幕かという違いでしかありません。これは字幕が用意されていない作品でも同様で、同じ台本が役者によって読み上げられたか、それを聞いた訳者によって記述されたかという違いなど些細なことです。

さて編集一徹さんの言い分は、あたかも文字媒体の二次資料を元に書かれたウィキペディアの記事は校閲が行われていて検証の必要性がないが、映像作品を元に書かれた記事は誰とも分からない人物が要約しているので検証が不可能である、というように聞こえます。ですがこれは間違いです。文献として出版された二次資料を元に書かれた記事もまた、編集者が膨大な文献を整理して記事の体裁に収まるよう要約する過程で、編集者による誤読や恣意的な取捨選択が行われたりする可能性があり、フィクションの要約と何ら変わりません。検証の必要性があるのはどちらも同じです。映画の内容を「映画の冒頭で主人公は海賊に妻子を殺され、中盤で教会の神父に復讐を誓い、終盤では海賊の首領を倒す」という要約へと編集するのも、書籍の内容を「本の著者は序文で理論の基礎について触れ、本文中でこのような根拠を述べ、最後にこのように結論付けた」といった要約にまとめる編集も変わりがなく、いずれにせよウィキペディアでは、そうした加筆内容がちゃんと出典に書いてあるかどうかを検証できなくてはなりません。そして映像ソフトが販売されている映画やドラマやアニメ、出版社から出版されている漫画などの場合は、文献資料と同様に、商品を購入したりレンタルしたりすることで、誰もが同じ内容を確認することができます。どの資料を選んだらいいのか迷う可能性はなく、例えば「ローマの休日」の記事の正しさを確認するために『ローマの休日』と『ブレードランナー』のどちらを見ればいいのか迷ったりする可能性がないので、検証可能性は十分であると言えます。まあ上映版とディレクターズカット版で大きく内容が異なることが知られている作品などでは、どちらの内容によるものであるのかを明記した方がよいとは思いますが。実際にその映画を検証したけれどそんな場面はどこにもなかったとか、あったけれど解釈が分かれる場面だったとかいった場合には、そのまま修正したり除去したりすれば良いのです。

もちろん前提として、映画に行った人が自身の見聞きした情報として「試写会が終わると一斉に観客から拍手が起こった」「私の席の前に座っていたカップルは映画の内容を罵倒し座席を蹴って立ち去った」などといった観客の反応を書き込むことは、ウィキペディアではルール違反です。「2ちゃんねるではアンチスレが立つほど不人気だった」のような内容がWP:V#SP違反であるのと同じですし、言うまでもなく「私はいい映画だと思った」などと個人の感想を書くのも同様です。こうした内容がダメなのは一次情報(現場で見聞きした、という意味では一次情報である)であるとか二次情報(映画に対する反応である、という意味では二次情報かも)といったこととは関係なく、そのような反応が信頼できる情報源で取り上げられておらず、特筆性や検証可能性を保証しないからです。文字媒体であるか否かという点とは無関係な問題です。出典に書かれていないことを書くのがダメなのは、用いた資料が文献であろうと映像作品であろうと同じことであり、逆に言えば映像作品だから特にダメ、という理由にはならないと考えます。--Kanohara 2011年10月15日 (土) 21:49 (UTC)[返信]

情報 コメント依頼提出後も、「利用者‐会話:編集一徹#お返事」にて被依頼者と依頼者(私)との間で議論が続いていることを報告しておきます。議論の場所が分散する結果になってしまっていることについては、コメントを頂いた皆様にお詫び申し上げます。--Kanohara 2011年10月24日 (月) 14:55 (UTC)[返信]

コメント 被依頼者の利用者ページにおける2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC) の発言ですが、要約すると被依頼者は、ウィキペディアは出典となる二次資料から誤字まで含めて一字一句忠実に引き写した引用句集でなければならず、音声を文字に書き起こすことすら独自研究であると主張しています。また、このような出典からの忠実な引き写しは、引用箇所が主、記事が従の関係でならなければならないとも述べています。[返信]

言うまでもなく、引用句集はウィキペディアではなくウィキソースやウィキクォートが扱う分野であり、更に被依頼者が主張する「引用箇所が主、記事が従」という形の引用は、著作権法上許容されている引用の要件とは逆であって、著作権侵害を助長する主張であるのは明らかです。被依頼者は「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」で指摘された問題点について、何ら反省していないように思えます。

被依頼者の主張は、本質的には「Wikipedia:原典のコピーはしない」「Wikipedia:著作権」「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」といった方針やガイドラインに対する無理解によるもの、あるいはウィキペディアを著作権が存する文献のコピー・アンド・ペーストで埋め尽くし、ウィキクォートの現代版へと改革しようという企てであり、ウィキペディアの基本方針と相容れないものであるように感じられます。--Kanohara 2011年11月8日 (火) 18:53 (UTC)[返信]

映像作品を出典と見做すことに関する議論[編集]

被依頼者の会話ページにも書いた内容を繰り返すことになりますが、映像作品を出典と見做すことに関する過去の議論やガイドラインも紹介しておきます。かつては「作品本編に基づいた情報はウィキペディアに載せるべきではない」という意見がウィキペディア全体を牽引していた時期もあり、映像作品を出典と見做すことが可能かどうかは何度か議論の争点になりました。

ですがこうした点については、その後に作品自体を一次資料であると位置づけるガイドラインが成立しているため、少なくとも今回の争点となっているDVD化済みの映画作品に関しては、過去の問題になっていると考えます。

公開されている一次資料から集めた情報を整理することが独自研究には当たらず、百科事典の執筆の基本である「情報源に基づいた調査」であることや、分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記述の出典として一次資料を用いることには何ら問題がないことは、被依頼者の主張の根拠となっている「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」にも明記されています。ここで言う一次資料には「映画・ビデオ」が含まれていることも方針文書でご確認ください。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

依頼者と被依頼者の関係について[編集]

コメント依頼の件とはあまり関係ありませんが、依頼内容に予断を与えている可能性のある、過去の依頼者と被依頼者の関係について自己申告しておきます。かつて被依頼者が5度目のブロックを解除された後の2009年7月に、「主人公」の記事に30か所以上の{{要出典}}を張り付けたことに対して、むきになって記事を出典だらけにしたのが依頼者である私で、その後自分の利用者ページ会話ページで、陰口のような形で被依頼者の編集に苦言を呈していることを伏せるのはフェアではなく、コメントを下さる方々の心証に影響する内容であると考え、ここに明かしておきます。

私のような予断やしがらみのない第三者の方からも、意見を伺いたく思います。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:25 (UTC)[返信]

被依頼者からのコメント[編集]

コメント 編集一徹です。まずはこのような発言の場を与えてくださったことに感謝します。さて、のっけからこう申し上げるのもヘンですが、なにゆえこのような場が必要でしょうか。当方はただ「わが命つきるとも」「マスター・アンド・コマンダー」のストーリー節に「出典明記」テンプレートを貼付、比和昇、Uaa両氏の会話ページに出典をお願いする旨を記して出典明記を求めたにすぎません。方針不遵守の行為をおこなう者への注意喚起をおこなっただけで、ウィキペディアンとしては当然のことをしたまでです。なのに、正当な行為者のほうがとがめられ、不正行為者のほうが居丈高なのは納得いきません。
出典の是非に関しては、これはもうはっきりしています。出典明記は当方の会話ページでも述べたとおり、皆がしたがわねばならないルールです。なので、明記は当然おこなわれるべきものです。私は上記のやりかたで比和昇、Uaaのお二方に出典を明記するよう求めました。あとは彼らが出典を示してくれれば話は終わるのです。
気になることがあと二つ。ひとつめは、依頼者が、一次情報と一次資料を混同していることです。前者は、事実を提示するデータ・情報、後者は、まだデータ・情報たりえない未加工の生の素材です。一次情報に対して二次情報もあります。こちらは、事情解説の書です。前者と二次情報はともに公刊物のようです。本来なら、前者と二次情報が合わさることでエンサイクロペディアの体(てい)をなすと考えられます。ところが、かの御仁は後者までもが、一次情報とおもいこみ、映画そのものも出典たりうると主張します。しかし、映画のように、刊行はおろかテキスト情報の形で文書化もされてないものが記事たりえるはずがありません。情報以前の未加工素材を出典とする理由はどこにあるのでしょうか。
ふたつめは、依頼者が、私が情報源は書物でなければならないと発言したことを二次情報のみで構成しなければいけないとうけとめていることです。ですが、当方はそのようなことは一言ももうしておりませんので、あしからず。--編集一徹 2011年10月13日 (木) 21:11 (UTC)[返信]

コメント[編集]

コメント経緯のすべて(もめるに至ったKanoharaさんの編集,編集一徹産の編集)は到底みきれませんが、編集一徹さんの主張[12][13]は正しいと思いますよ。1次情報はまったく使えないわけではありませんが使う際には極めて慎重な扱いが必要です。映画やテレビを見て、見たまんまを書き写す行為はダメです。貴方は映画やテレビを見て正確に書いたつもりでも、それを読む人が貴方を信じる理由がどこにありましょう。編集一徹さんの主張『作品自体は出典にならない以上、紹介記事や批評記事といった二次情報を用いて書かなければならないとしています。』はその通りだと思います。とはいえ、これ[14] はさすがにやりすぎだとは思います。--ぱたごん 2011年10月13日 (木) 02:22 (UTC)[返信]
追加コメント、 依頼者-Kanoharaさんのコメント会話ページを見ての感想ですが、要出典と言われてから出典を探すのは真逆の行為です。まずは出典ありきで、出典があることをwikipediaに書いてください。出典を探すのに苦労するなんてことが、そもそも方針無理解だと思います。Kanoharaさんはwikipedia:検証可能性をきちんと読んでください。テレビや映画を見て、見たまんまを書くことがダメな理由はX理論の例え話の後の但書『(注:要するに、査読に相当する機能はウィキペディアの外部に求めよということ)』と『分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。』という文言を見ればわかることでしょう。--ぱたごん 2011年10月13日 (木) 06:56 (UTC)[返信]
コメント 利用者の行為へのコメント依頼ではなく、井戸端やプロジェクトのノートで提議される問題と思いますが・・・。一次資料があまり好ましくないとされるのは、解釈が人によってぶれるからです。ウィキペディアでは二次資料と言う、権威有る他人の解釈・研究を「紹介」するのが基本であり、編集者が独自解釈を行なうべきではないと考えます。一次資料を好きに使ってしまっては独自研究と同じです。しかしながら、余りに単純なデータまたは事象であり、誰が見ても事実そのままであると強く推察できる時は、原典を出典とすることには問題はないですし、二次資料でどうしても見受けられない数値の補填なども問題は無いでしょう。「初登場時17歳」、「39巻3話で死亡」、「身長150cm」などです。ただしここで検証可能性に配慮して頂きたいものです。何故か物語関係、特にアニメ・マンガなどの場合、「原典を見ろ」で放り投げてある場合が多い印象があります。通常の出典にページ番号が求められる様に、マンガでしたら何版の何巻の何ページ、DVDでしたら何巻の何分ごろ、まで、しっかり示されるのが好ましいでしょう。検証のために将来の検証者全員が、DVD10本を頭から最後まで(早送りしながらにせよ)再生しないといけないなどと言うのは悪夢です。執筆者が記入しておけば、その1回で済むと言う理屈です。さて、映画のあらすじですが・・・やはり「編集者が映画をよく見て解釈して作りました」より、各種二次資料を参考に組み立てる方が遙かに好ましいでしょう。そのあらすじがもの凄くシンプルな、もうただ時系列に従って大体の流れをほんの2,3行書いたものや、「時は15世紀、イングランド」「貧民の少女とシャカ族の酋長のロマンス劇」など、他に解釈のしようのないものについては多くの場合は問題は無いでしょうが、それ以上は閲覧者側も、記述の正誤について不安が拭えません。従って、「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。」は、示されておいてもよいでしょう。注意と協力を求め、多くの編集者の手によってよりよい形に仕上げていくのがウィキペディアとしたものですし。--Hman 2011年10月13日 (木) 02:53 (UTC)語句の重複を除去。--Hman 2011年10月13日 (木) 03:07 (UTC)[返信]
コメント WP:PSTSには、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」等について「もっぱら一次資料に基づいていてもかまいません」とあります。あくまで例外なので濫用は避けるべきですが、この扱いには注目しておいて間違いはないと思います。しかし往々にして「専門知識がある者なら誰でも」検証可能な解説についても、この例外規定を根拠として投稿する利用者がいます。何が専門知識かという共通認識がないままにこの方針を運用することは、この辺りの線引きが利用者によって異なることになるため、出来うる限り二次資料を駆使して執筆した方が混乱を招かないためには有用かと思います。その視点で見る限り、被依頼者の行動は一部極端で適切と言い難いものも見受けられますが、総論としての意見は間違っているものではないと思います。--ろう(Law soma) D C 2011年10月13日 (木) 04:26 (UTC)[返信]
コメント なお、ストーリー節に{{要出典}}を貼られたら、SCREEN何年何月号何ページとか出典を書けばよいだけなのではないでしょうか? --ろう(Law soma) D C 2011年10月13日 (木) 06:03 (UTC)[返信]
コメントプロジェクト:映画/映画作品スタイルガイドでは、ストーリーは結末まで書くことで検討しているようです。僕はあまり映画雑誌を見ませんが、結末が書かれていることは少ないのではないでしょうか?作品本編の代替になる公刊された書籍が出揃うことは無いと思います。日本語版のストーリーをすべて予告編のような尻切れにするというわけにも、いかないでしょう。--118.15.146.1 2011年10月13日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
コメント 位置から見て私あてのご意見と思いますのでコメントしますと、被依頼者の意見のうち、文字媒体のみを出典とする考え方は違うと思います。しかしながら、映像を出典とする場合であっても、DVDのバージョンによりストーリーが異なる場合もあり、何が出典かを書き入れることは必要だと思います。少なくとも要求されたら前向きに対応すべきかと。--ろう(Law soma) D C 2011年10月14日 (金) 07:58 (UTC)[返信]
コメント情報源などの扱いについてだけ。実際の発言などは追っていません。このページの文章だけを参考にして書きます。
  • ウィキペディアにおける「検証可能な出典」が、文字媒体に限るとは思いません。方針が限るというように読めるならば、文面を修正するべきでしょう。
  • あらすじなどについては、二次情報を元にすることが「望ましい」です。作品自体は「出典になる」が、「慎重な扱いが必要」である。物語を概観する上で重要な点がどこにあるかというものは、一定の価値判断を含むものであり、執筆者の主張が入りこむことを避けるためです。ただし、紹介記事などでは、物語の核心を避けることも多く、また批評記事においても筆者は物語の概観を与えるために作品の筋を取り上げているのではなく、批評するべき点の提示や論拠として取りあげることが多いでしょう。このため、記述する上では、二次資料を用いる場合でも丁寧に資料を取り扱う必要があります。
  • 映像であれ音声であれ「放送媒体」を情報源とすることについては、これまでも議論がありました。これはアーカイブ的な機関がないことなどの事情により、事後的な検証が困難になるためです。
  • ストーリー紹介を丸ごと、新聞記事などからの丸写しの内容に置き換えるのはダメです。--Ks aka 98 2011年10月13日 (木) 07:12 (UTC)[返信]
コメントこれは昔Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ4#あらすじと出典の明記で議論しましたが、主観や解釈を含まない作品全体の要約の場合は作品そのもの(第1次資料)を出典にしてよいという結論になってますよ。時間がなかったのでその後プロジェクト:映画のガイドラインにリファクタリングしてませんが。--Afaz 2011年10月13日 (木) 08:02 (UTC)[返信]
コメント プロット(あらすじ)部分において(一次資料をもとにした)一次情報を用いることが問題ないのは、すでにKanoharaさんが提示されているWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)においても記載されていますし、その他のWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないなどにおいても(既に発表済みの)一次資料をそのまま用いることを禁止するような文言はありません(というかそのまま用いらずに執筆者の解釈などをはさめば独自研究になってしまうので当然なのですが)。
また被依頼者は一次情報と一次資料について、資料は文書でなければならないと独自の見解をお持ちのようですが、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#一次情報と二次情報において、「一次情報はフィクション世界に関する一次資料、すなわちフィクションの原書またはその系列作品(例えば同じシリーズの別のエピソード)から抜粋された情報です。」と明記されており、一次資料が文書か否かについては特に必要要件とはなっていません。
このことは日本語版のガイドラインのもととなったen:Wikipedia:Manual of Style/Writing about fictionにも記載されていますし、英語版のFA映画記事(en:Category:FA-Class film articles)であるen:300 (film)en:Alien vs. Predator (film)などにおけるプロット部分が、すべて一次資料に基づいた一次情報によって構成され、二次資料の出典が提示されていないことによっても明らかです(もちろん被依頼者が主張するような文書による一次資料の提示もされていません。映画記事なので当然ですが)。
ですのでプロット(あらすじ)部分においてある特定の箇所が一次資料に本当に記載されているものなのかを問う分には問題ないでしょうが(その際には問われた側は原典のどの場面で当該箇所があったかの回答が必要でしょう)、被依頼者が行ったようなプロット全体そのものに対して出典の明記タグを貼り付けて二次情報を要求する行為は乱暴であり不適切と言えるでしょう。--Web comic 2011年10月14日 (金) 01:02 (UTC)[返信]

コメント 何人かの方が二次資料を要求することは妥当である旨のコメントをしていますが、その方達は依頼者が提示したWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)や過去の合意事項について一切触れていませんね。依頼者の過去の発言を論う暇はあるのに「経緯のすべては到底みきれませんが」とか言って提示された事項を読まないでコメントするのは無責任でしょう。そこでこれらの方達に2点お伺いしたいのですが、(1)過去の議論による合意は全ては破棄し、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)には不備があるので改定するべきだとお考えなんでしょうか?(2)これまでにWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)等に基づいて作品に依拠して書かれた映画のストーリーは、方針不遵守の編集なので全て除去するべきだとお考えなんでしょうか?この二点についてお答え頂きたい。

これまで私が被依頼者と接して感じた問題点の第1は、会話のキャッチボールができないということですね。例えば、上記「被依頼者からのコメント」では「依頼者が、一次情報と一次資料を混同していることです」と発言していますが、依頼者が提示したWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#一次情報と二次情報を読んで理解していればそのようなトンチンカンなことは言えない筈ですよね。相手の主張への反論や問いかけへの回答が的確にできず、自分の方針解釈を延々と繰り返すだけで、自分が正しいと一方的に主張して編集を強行します。特に酷いのは、誤った方針理解により著作権を侵害する編集を繰り返した件ですね。「検証可能性の”検証”とは、校閲を指すのです」という発言を見ると、まだちゃんと理解されておらず、同様の編集を再びすることが懸念されます。私は、Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹20080415で指摘された問題は解消されておらず、Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 解除の判断は拙速だったと考えています。--uaa 2011年10月16日 (日) 19:09 (UTC)[返信]

コメント 私の意見としては、(1)改定する必要はない(2)除去する必要はない、です。ですが、前に書きましたとおり、少なくとも出典を付記するよう要求されたら前向きに対応すべきかと。--ろう(Law soma) D C 2011年10月17日 (月) 04:30 (UTC)[返信]

コメント 要出典を求めること自体は構わないが、今回、リバート合戦になっている2件に関しては、最低でも、どの部分が要出典なのか、要出典範囲のタグで明示することが必要だと思う。ところが、そういうことは、一切、なされていない。そこから、見えてくるのは、版削除になった、産経夕刊の記事を部分引用した自分の編集を戻したい、という意図だけのように思える。また、ノートの会話などででも、(笑)などを、多用して、真摯な対話を行おうという姿勢はみられない、と思う。--Kmk75s 2011年10月18日 (火) 02:04 (UTC)[返信]

コメント 提示されたやり取りをざっと流し読みしましたが、少なくとも現状のWikipediaの方針やガイドラインの文言と照らし合わせると、依頼者の言が「ほぼ正論」だと思えます。上でも指摘されていますが、これまでの議論経緯を知らない人間がルールを読めば「何が許されるのか」と言う観点で見る事が多いと思いますので、(uaa氏やWeb comic氏提示ルールも込みで)ルール上、許された事柄を「許すのは好ましくない」とするのは個人的に現在のWikipediaで嫌だなと思ってる文化です。Wikipediaのルールは柔軟性を持たせる為に曖昧に書かれている事が多いと思っていますので、その曖昧な範疇で問題が起こった場合は、ノートにて合意を計れば宜しいのでは無いでしょうか。もっとも、ルールの中には「何が許されるのか」「何が許されないのか」の片方しか明記されてない場合が有り、その様な場合には統括ルールか関連ルールを用いるのが普通だと思いますが、明記されていない方の基準を独自に設けてしまう人も見受けられます。よって私も、ルールで書かれていること以上の事を求めるならば、それに即したルール記述に改正すべきだと思いますし、現状のルールで束縛されない事柄は批判されるべきでは無いと考えます。結論を申せば今回の場合、被依頼者がルールを全く理解しておらず(と言うよりも、認める事を拒否してる?)、頑なに二次出典以外の使用を認めないと言ってる訳で、これではルールの意味が有りません。被依頼者にはルールを認めて頂き、更に依頼者もルールで許されているからだけに終わらせず、一次出典の利用の仕方は妥当性的に適切なのかどうかでノートで議論すべきです。ルールでは一次出典の利用と二次出典の利用はバランス良くと書かれていますし、また、本当に意見性が無いかとか中立性は担保されてるかなど、又は皆さんが指摘なさってる様に、検証可能性として読者の便が考えられているかなどでブラッシュアップ議論をすれば良いのでは無いかと思います。よって、被依頼者は、もし記述内容に誤りや不適切が有ると感じた場合、タグを貼るなら「要検証」程度にした上で、ノートに議題を立てるのが宜しかろうと思います。尚、個人的にノートで確認もせずに削除などの強行編集はもってのほかだと思っております。--Toshi999 2011年10月18日 (火) 06:09 (UTC) 追記:--Toshi999 2011年10月18日 (火) 06:25 (UTC)[返信]

利用者‐会話:編集一徹#お返事とか利用者‐会話:ぱたごん#批判を真摯に受け止めるには解せない部分もあり、質問させて頂きますで場外乱闘が繰り広げられてるようですが、意見があるならここできちんと述べられてはいかがでしょうか?--uaa 2011年10月25日 (火) 11:34 (UTC)[返信]

利用者‐会話:ぱたごん#批判を真摯に受け止めるには解せない部分もあり、質問させて頂きますに於いてぱたごん氏から、私の2011年10月16日 (日) 19:09 (UTC)の質問は「疑問の無駄な拡散」であり「回答する気もありません」と言われました。当該質問はKanoharaさんが以来当初に提示した過去の議論による合意やWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)ぱたごん氏らの意見との整合性を問うたものなんですが、それが何故「疑問の無駄な拡散」になるのでしょうか?言いっ放しというのは無責任じゃないですか?--uaa 2011年10月25日 (火) 12:09 (UTC)[返信]

上記uaaさんの二つのコメントについて、被依頼者にあまり関係のないことだったら、別の場所でやったほうがいいんじゃないでしょうか。その会話ページのほうは見てないですけど。利用者のコメント依頼で、依頼者へのコメントが多数投稿されたとき、「ノートでやるか、別途コメント依頼をしてください」とかいわれているのを見たことがあります。--Calvero 2011年10月27日 (木) 13:39 (UTC)[返信]

コメント 依頼者の主張に全面的に同意します。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)が参考になると思います。作品のあらすじ節は常に情報源としてオリジナルのフィクション自体を使用することを含んでいるのであり、二次情報がないからダメという主張には同意しかねます。出典を示すことは大事ですが、記事によってはその扱いがガラリと変わるということを理解してほしいなと思います。作品の要約は価値判断を含んでいるわけではない(どう要約するのかが価値判断というなら百科事典書けません)し、ウィキペディアで問題になるのは「素晴しい作品である」「歴史に残る名著となるだろう」みたいな記述です。--リネン 2011年10月29日 (土) 09:32 (UTC)[返信]

まとめ[編集]

報告 遅くなりましたが、賛否さまざまな意見をありがとうございます。その後被依頼者と対話を重ねてきましたが、被依頼者は「誤っているのは大多数のウィキペディアンの方である」という趣旨の態度を崩しておらず、このたび「Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 20120312」を提出させていただいたことを報告させて頂きます。--Kanohara会話2012年3月12日 (月) 01:48 (UTC)[返信]

報告 被依頼者が無期限の投稿ブロックとなったことをご報告すると同時に、これにてコメント依頼を閉じさせていただきます。皆様コメントをありがとうございました。--Kanohara会話2012年3月22日 (木) 04:27 (UTC)[返信]