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Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive03

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ビデオゲーム関連の検証可能性について

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その1

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ビデオゲームはそれ自体が「情報源として信頼できるメディア」であり、それ自体が持つ固有の情報(事実)に関して出典文献(信頼できる情報源)を必要とするのはナンセンスだと思います。殆どの場合、それ自体の情報の方がそれに関して書かれた文献よりも正確なのは当然の事です。また、そのゲームが実際に有れば、読者はそれを検証する事が可能です。情報の内容によっては、多少の手間や技術が必要にはなりますが、それが極端な場合にだけ出典を明らかにすれば十分だと思います。

またビデオゲームの場合、「メーカーの圧力」、「実害」、「知識の優越性を欲する人間による隠蔽」等の理由により、有益な情報が文献として残っていない場合が多く、この場合も情報が事実であっても出典を明らかにするのが困難となります。--Lt.Kelly 2007年6月30日 (土) 06:31 (UTC)

少しでも論者の解釈が入れば、もはや検証可能性を満たさない記述になります。また、『隠された真実』をWikipediaに書きたいのであれば、諦めて下さい(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません、「事実の暴露や報道を行う場ではありません」参照)。 -- NiKe 2007年7月1日 (日) 06:30 (UTC)

「少しでも論者の解釈が入れば、もはや検証可能性を満たさない」というのは、むしろゲームに対する評価等の方がそれに抵触する可能性が高いでしょう。それは他のメディアと同様に、出典が必要となるのは当然です。

「『隠された真実』をWikipediaに書きたいのであれば、諦めて下さい」というのは、「事実の暴露や報道を行う場ではありません」を拡大解釈し過ぎです。当該の「事実の暴露や報道を行う場ではありません」の項には、「個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関して」と書かれています。「不謹慎とみなされる場合」等に関しては、各個もしくはカテゴリー毎に議論されるべきでしょう。

また、メーカーによって公開された/公開を承認された隠しコマンド等は、「隠された真実」にさえも当たらないと言えるでしょう。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 07:29 (UTC)

隠しコマンドが「メーカーによって公開されたor公開を承認された」に当たるかどうかは微妙なところです。「メーカーが公開を積極的に拒絶していない」ことは明らかですが、前者と後者は明らかに異なります。そこの所を間違えてはいけません。あと、Lt.Kellyさんは「『事実の暴露や報道を行う場ではありません』を拡大解釈し過ぎ」と述べられていますが、私は逆に「現在のウィキペディア日本語版では『事実の暴露や報道を行う場ではありません』を縮小解釈しすぎる傾向にある」と考えております。通名を使用している在日外国人が社長を務めているあるメーカーの記事に、公式サイトにも載っていない社長の本名が書かれたので私が削除依頼したところ、「公安委員会告示に本名が書かれているので『本人が積極的に公開している』と考える」などという主張が通ってしまい、私の反論もむなしく、それに賛同する人の意見が多数派になってしまい、私は反論を諦めざるを得なくなったことがありました。現在のウィキペディア日本語版ではこのような状態に陥っているのです。それでもLt.Kellyさんは「拡大解釈し過ぎだ」とお考えになりますか?--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月1日 (日) 08:37 (UTC)

春野秋葉さんは、「隠しコマンドの公開の承認」に関する仕組みをご存知でないようなので、一応書いておきます。

少なくとも(そして、比較的新しい世代の)ゲーム雑誌に載る記事というのは、メーカーチェックと呼ばれるメーカー側の記事検閲を通る事が前提とされます。また、多くのゲームの場合は報道側と協定を結び(多くの難解な隠しコマンド等は、実はこの時点で報道側に既に通知されています)、いつの時期までにどこまでの内容を公開して良いか等を取り決めます(勿論、過去にこうした協定を破り、干されたり謝罪を要求されたケースも存在します)。つまり、この協定や(暗黙を含む)取り決めに抵触する場合は、たとえそれがライターの調査によるものであろうが、読者からの投稿であろうが、誌面には掲載されない事になるのです。

よって、少なくともゲーム雑誌に掲載された情報というのは、(極めて特殊な例を除いて)メーカー側によって公開を承認されている物という事になるのです。

さて、後半の「本名が書かれた」件ですが、これは「事実の暴露や報道を行う場ではありません」の項に書かれた「個人のプライバシー」に関わる問題であり、ここで問題にしている拡大解釈の問題とは明らかに異なります。

「本名が書かれた」件の是非その物に関しては、この項の問題とは無関係なのでコメントしませんが、それ自体は「個人のプライバシー」に当たるかどうかの問題であり、「個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関して」自体の拡大解釈の問題とは異なります。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 09:59 (UTC)

『ビデオゲームはそれ自体が「情報源として信頼できるメディア」であり、』 との事ですが、その論法は購入可能・体験可能な物品の大半に流用できる気がします。例えば「CDは~」「パチスロは~」「東京ディズニーランドは~」で置き換えても通用する詭弁ではないでしょうか。
主張全体としては、WP:Vの概念、例えば
検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報を記載する事により、読者が検証可能にすることです。編集者が独自に検証できるからといってそれは検証可能な事にはなりません。
あたりを真っ向から否定する意見ですので、ウィキペディアで容易に受け入れられるものではないでしょう。- NEON 2007年7月1日 (日) 10:29 (UTC)

NEONさんの解釈は、WP:Vの概念を曲解しているとしか言えません。

まず、例に挙げられている「CDは~」、「パチスロは~」は、固有名詞(ゲームで考えれば、各タイトル)ではないので、今回の項の意義とは異なります。この項のタイトル自体が誤解を生じさせたのなら謝罪致します。これは「ビデオゲーム」というページに対してではなく、各個のゲーム(タイトル)について(例えば「スペースインベーダー」等)のページに対してです。

「東京ディズニーランドは~」に関してですが、これは固有名詞であるので、「東京ディズニーランドは千葉県浦安市にある」というのは読者によって検証可能であり、「『東京ディズニーランドは千葉県浦安市にある』とガイドブックに書かれている」(あくまで例なので不完全な記述ですが)とわざわざ出典を書く必要が無いという事です。

NEONさんの解釈を固有物に当てはめると、言うなれば、「『聖書』に書かれている記述を事実としてWikipediaに掲載するには『聖書について書かれた文献』を出典としなければならない」と言っているのと同じで、本末転倒であるという事です。

固有物はそれ自体が情報を持っているもので、その情報の出典として最も信頼性があるのはそれ自体に他なりません。しかも、ゲームはその同一の固有物が多数有り、検証できるのは編集者だけではなく、(ゲームをプレイできる)読者全員であるという点が重要です。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 12:10 (UTC)

ゲーム界にはそのような慣習が存在するのですか。できればその慣習の存在が確認できる情報源を、ウェブページでもいいですから紹介していただきたいと思います。というのは、ウィキペディア日本語版ではウェブページはWikipedia:検証可能性において「信頼できる情報源」とはされないものの、情報源が全く示されないのと、ウェブページのようなものでも情報源が存在するのでは相手の受け取り方が大きく変わってくるからです。特に、業界独自の慣習のようなものについては「信頼できる情報源」とされる論文や書物の記述が全くないこともよくあることですから、「信頼性に乏しい情報源」で代用せざるを得ないことも多々あるからです。類例としてノート:詰将棋で、業界独自の慣習に対して議論しています。
なお、後半の件に対しては同じ「事実の暴露や報道を行う場ではありません」という項目をめぐる方向性が、拡大解釈と縮小解釈という正反対の方向になっているという例として取り上げたものですので、直接関係なくても良いのですが、社長の本名の件はこの節の話題とは明らかに無関係ですのでこれ以上は述べないことにします。(編集競合しましたがそのまま転記しました)--Haruno Akiha loves blue. / Talk / History 2007年7月1日 (日) 10:36 (UTC)

おそらく、春野秋葉さんにもご理解戴けるとは思いますが、多くの場合こういった慣習は他の業界のそれと同じく「不文律」です。よって、それが公に文書化されるとかは有り得ない(むしろ、あったら困る)わけで、直接それの出典を明らかにするというのも無理だと思います。しかし、実際にゲーム関係雑誌等の現場で働いていたライターや編集者に直接聞けば、そういった証言を取る事は簡単だと思います。但しその場合でも、現役の方からの(特に、匿名でないならばさらに)証言を得るのは難しいかも知れません。

どうしてもそういった証言が欲しいなら、例えば署名を集める等は可能でしょうが、その場合でもそれ自体に信頼性があるかどうかは疑問になってしまうでしょうし、私としてもその行為自体に意味が有るとも思えませんので、行いたくも有りません。

信頼性に乏しい情報源でも代用したい、というなら、現時点では私自身の証言しか有りません。まぁ、ここで他に証言して戴ける方がいらっしゃれば、それも加わるのでしょうが。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 12:10 (UTC)

恐らく、裏技や隠しコマンドなどの情報を記載することを念頭に置いておられるのだと思いますが、もし、それを許容できるというのであれば、同じ理屈で例えば「Aという化合物と、Bという化合物を混ぜると、Cという化合物が出来る」という未発表の発見も、「それ自体を情報源としており、再現性もある。その化合物が実際にあれば、それを検証する事ができる」という理屈で許容されてしまうことになりかねません。サブカルチャー系とメインカルチャー系の違いはあれど、主張されていることはまったく同じです。
つまりビデオゲームをそのもの自体を情報源とする場合には、それは何らかの別のところにある「情報」を、受け取った人に伝える「情報源となるメディア=情報媒体」には当たらず、「記述の対象となるもの」そのもの(自然科学分野で、一次資料の元になるものとして0次情報と呼ばれることがあるもの)に当たる、という解釈の方が妥当だと私は感じます。さらに、隠しコマンドなどはそもそも「隠された」状態であるため、「アップルパイ」の例にあたるような、広く受け入れられるだけの自明性のあるものとも呼べないでしょう。
ウィキペディアにおいて、このように「記述の対象そのものについて、執筆者が独自に発見した事柄」は「独自の研究」として位置づけられており、検証可能性とは別の(ただし関連性の深い)規定であるWikipedia:独自研究は載せないに基づいて、「信頼性を損なう虞れがある」ものとして、排除の対象となっています。ビデオゲームの裏技やバグなど、「ユーザが実物で試さないと検証ができない」ものについても同様に「独自の研究」に該当する、という解釈が妥当だろうと思います。ですから「検証可能性を満たす」というだけでは、それを記述してよいという根拠には不十分であり、「独自研究ではない」ということについての根拠も必要になります。
つまり、もしその裏技が執筆者が独自に発見したものであれば、「独自研究」に該当するでしょうし、一方例えばインターネット上の裏技をまとめたサイトなどで報告されている情報を記述する場合には、「独自研究には当たらない」としても、そのサイトが「信頼できる情報源」と扱えるかどうか(通例は難しいだろうとおもいますが)を議論する必要があります。
この「Wikipedia:独自研究は載せない」と「Wikipedia:検証可能性」が、ビデオゲーム関連の記事において、何を要求してるかというと、要するに「裏技と称しながら、実はガセネタだった」というような情報を、いかに円滑に取り除き、またそれらがウィキペディアに載せられることによって、ウィキペディアのゲーム記事が「ウソばっかりで信用できない」と思われるような事態にならないようにしなければならない、と言う事です。例えばLt.Kellyさんが書いた記事に、どこの小学生とも判らない参加者が何人も現れて、一気に「裏技」と称した情報を100個近くも書きまくっていった、なんて状況を想像してみてください。そのすべてをLt.Kellyさんや、あるいは何人かの協力者が現れてくれたにしても、数人だけで実際に試してチェックしないと消すことができないルール、などというのが如何にナンセンスか、ということでご理解いただけないかと思います。--Y tambe 2007年7月1日 (日) 10:59 (UTC)

Y tambeさんのお話は、論点を大雑把というか一括りにし過ぎに見えます。

まず、春野秋葉さんとの話題に出ているのは、既にゲーム雑誌上等で公開されている隠しコマンドに関してです。先の記述を参照してください。これにはY tambeさんの主張は当てはまりません(勿論、ゲーム雑誌に載っている記事だからといって必ずしも正しい訳ではないのは、他の記事の検証可能性と同程度の問題ですが)。

それ以外の、いわゆるガセネタですが、これは勿論、ゲーム関連記事に限った事ではありません。事実、現在でもWikipedia上には多数のガセネタが存在します。但し、ゲームの裏技やバグに関しては、(再現性の問題を別とすれば)「事実」か「虚実」かというのははっきりしており、(編集合戦の元となる)主観の入る余地が無い分対処は楽だと思います。

そして、先の再現性の問題(確認が困難な場合)に関してですが、これも最初に書いた通りで、「情報の内容によっては、多少の手間や技術が必要にはなりますが、それが極端な場合にだけ出典を明らかにすれば十分だと思います」という事です。

あと、裏技や隠しコマンドのみを念頭に提案しているわけでもありません。多くのゲームの中には、プレイヤーやオペレーターが知っておかないと不利益を被るようなバグが多くある(そして、多くの場合、メーカーはこれを公表しない)ので、それを記事とするのには大きな意義があると思っています。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 12:10 (UTC)

えーと、上の私の意見は、そもそものLt.Kellyさんの主張が「ビデオゲームはそれ自体が『情報源として信頼できるメディア』であり、それ自体が持つ固有の情報(事実)に関して出典文献(信頼できる情報源)を必要とするのはナンセンスだと思います。」ということでしたので、それに対して反論を行ったものです。「既にゲーム雑誌上等で公開されている隠しコマンドに関して」であれば、そのゲーム雑誌を出典として明記してください、ということになります。そういった「出典が明記可能」なものについては、出典を書けばそれで穏便に済むだけの話であり、ことさらに「出典を書かなくても良い」ということを、ましてや一般則として適用すべき主張には関係のないことだと思います。
またガセネタに関しては、しばしばサブカルチャー系の方で、Lt.Kellyさんと同じような主張をされる方々に、検証可能性と独自研究排除の理念を理解していない方が散見されることから、念のためにその意義について噛み砕いて説明しておこうと考えたものです。ガセネタについては、もちろんゲーム関連記事に限った事ではありませんし、「事実」か「虚実」かはっきりしており主観の入る余地がない分野というのは、例えば自然科学系の分野でも全く同じです。それでもなお、他の分野では「検証可能性と独自研究排除」によって、記事の信頼性を確保しようとしています。「他の分野とゲームは同様」だからこそ、ゲーム関連記事だけがその例外、とはなりえません。
また「情報の内容によっては、多少の手間や技術が必要にはなりますが、それが極端な場合にだけ出典を明らかにすれば十分だと思います」について、その主張は「原則は出典不要で、一部の例外のみ出典を提示」ということですが、Wikipediaが採用している方針はその反対で「原則は出典必須で、一部の例外のみ(アップルパイの例など)が出典を書かないで済む」というものです。つまり、もしLt.Kellyさんが「ゲーム関連記事で、出典をわざわざ書く必要がない」という意見を通したいのであれば、「ゲーム記事は例外的存在である」ということを主張し、それで周囲を説得する以外の方法は存在しません。しかし、私は少なくとも、これまでに挙げられた特徴を見た限りでは、ゲーム分野に「出典を明記する」の例外を一般則として認めなければならないほどの例外的要素はない、と判断しています。もし上に挙げた以外で、ゲーム分野の特殊性を主張する判断材料になるものがありましたら、追加で提示していただければ幸いです。正直言うと、追加で出されるだろう判断材料についても、よほどのものでない限り、「ゲーム記事だけが例外だ」ということを、私を含めてここで異論を出している方々すべてを納得させることは難しいだろう、と思うのですが、そこを何とか、例外を認めさせようというのであれば「コミュニティ全体を一人残らず納得させる」くらいの意気込みでやってのけて欲しいと思います。「例外的措置を主張する者には、例外的な労力が要求される」ということでご理解いただければと思います。--Y tambe 2007年7月1日 (日) 13:49 (UTC)

まず、「『既にゲーム雑誌上等で公開されている隠しコマンドに関して』であれば、そのゲーム雑誌を出典として明記してください」というのは、先の春野秋葉さんとの話を読めば分ると思いますが、あまり意味の無い行為です。何故なら、雑誌上に公開されるような隠しコマンドの殆どは事実上メーカーが出典であり、複数の雑誌に(ほぼ同時に)掲載され(さらには、一般にあまねく広く正しい物として知られ、容易に検証も可能であり)、特定の誌名を出典として記述する事自体には(その雑誌を宣伝する以外に)意味が無いからです。まぁ、これ自体はこの項の趣旨とは違っているのですが……。

私は、「ゲーム関連記事で、出典をわざわざ書く必要がない」などという主張は全くしておりません。Y tambeさんは何に対して私が「ナンセンス」であると書いているのか、分っていないようにしか見えません。

まぁ、Y tambeさんの言い方に合わせるとすれば「一部の例外」、つまり、出自がそのまま出典であるというケースがビデオゲームには非常に多いという事です。それに対して出典を要求するのはナンセンスである、という事です。

NEONさんへの回答でも書いていますが、出自がそのまま出典であるというケースに対して、その記事の出典を要求するのは明らかにナンセンスです。そして、これはゲーム関連記事に限った事ではありません。この点に関しては、他の書物、書籍、レコード、ビデオと異なる物では有りません。

但し、ビデオゲーム(タイトル)においては、そうなるケースが非常に多いという事です。これは、ビデオゲームがメディアミックス(映像、音楽等)な存在であり、かつ、インタラクティブ(プレイヤーの行為によって反応する)な(言ってみれば、情報量の多い)存在であるためです。Y tambeさんの主張は、この視点が完全に欠落していると思います。

もし、そういった出自がそのまま出典であるというケースに対して全て出典を書くとすると、このようになります。

「ドンドコドン:デモ中にショットボタンを3回押すと熊が表示されます(出典:ドンドコドンのデモ中にショットボタンを3回押すと熊が表示されるため)」

これは、明らかにナンセンスだと思います。しかし、実際にこうしたナンセンスな出典要求をされる方がいらしたので、わざわざここに提起しただけです。私自身は、そもそもこの提起(出自がそのまま出典であるというケースにおける出典の省略)自体がナンセンスだと思っていますが。--Lt.Kelly 2007年7月1日 (日) 15:08 (UTC)

回答ありがとうございます。正直言うと、Lt.Kellyさんの考えを伺うために、上で敢えて指摘してなかったのですが、
但し、ビデオゲーム(タイトル)においては、そうなるケースが非常に多いという事です。これは、ビデオゲームがメディアミックス(映像、音楽等)な存在であり、かつ、インタラクティブ(プレイヤーの行為によって反応する)な(言ってみれば、情報量の多い)存在であるためです。Y tambeさんの主張は、この視点が完全に欠落していると思います。
おそらく、ここがビデオゲームの特殊性を主張するための、正しい争点になると思います。ちょうどこの上でも少し議論になっていたのですが、Wikipediaが出典として扱う場合に、それが一次情報源なのか、それとも記述の対象そのものなのかは、一次資料にもあるように分野によって違いがあります。例えば、上で述べた自然科学分野では、対象物を元に研究した成果を記述した学術論文などが一次情報源となりますが、文学などの分野では文学作品などの作品自体が一次情報源として扱われます。そして、こういう分野ごとの「一次」の違いというのは、実際問題として、Wikipediaで出典として扱う場合にも影響があるのではないか、ということを考えていました。例えば、自然科学分野では直接の研究対象となるものについては、一次情報未満のもの(0次)になりますが、文学の分野で研究対象とする「文学作品の原典」そのものは一次情報源となるということになる、と。
文学作品や映画などで、そのあらすじや登場人物についてWikipediaに記述しようとする場合には、その出自たる作品そのものを出典とすることは許容されるべきだと思います。ただし、その場合には「その出典を視聴したとき、誰もが共通見解として自明に引き出す事が可能な事実」として書かれるべきであり、そこに執筆者の意見を混入すべきではない、という前提がつきます。一方、自然科学の研究対象となる現象そのものについてWikipediaに記述しようとする場合には、これよりも少し厳しく捉える必要があると感じます。「アップルパイの例」と呼ばれるような普遍的な事柄についての単純な観測結果、単純な数値計算が許される内容についてなど、ごく一部のみを例外として、原則として当該分野での一次情報源、つまり科学雑誌などに掲載された論文などが出典として要求される、と。
で、ビデオゲームはどうなのか、というと、確かに過去にはその著作物性を巡って、映画と同等に扱われたことがあったと記憶してますが、Lt.Kellyさんが述べておられる「インタラクティブ」な要素のために、単純な文学・映像作品と同等に扱うことはできないケースが多いだろう、と私は考えています。誰もが、それを視聴をしただけで共通に引き出すことが出来る部分と、特定の介入(検証)操作がないと確認できない部分がビデオゲームには存在する。言い換えると、上で挙げた文学作品の要素と自然科学の対象そのものの要素の両方が、ビデオゲームには存在するということです。ビデオゲームを構成している要素のうち、シナリオやストーリーにあたるものについては(特にノベルゲームなど)文学作品的な要素が強いものだと思いますが、一方でゲームにインタラクティブ性を与えるゲームシステムそのものについては「記述対象そのもの」的な要素が強いのではないかと、私は思います。一つのゲーム内に両方の要素が混在しているというだけでなく、ゲームによってはシステムとシナリオが密接に関与しているため、白黒はっきりつけることのできない不可分な、グレーな領域も存在していると思います。つまり、Lt.Kellyさんの主張が、「ビデオゲームが(全体として)文学作品と同様に扱え、それ自身を出自とすることが可能」ということであるならば、私の主張は「ビデオゲームには、文学作品としての要素以外を含んでいるため、それ自身を出自としていい部分と、それでは不十分な部分が混在している」という主張です。システム周りについて、基本的な部分は家庭用ゲームのマニュアルや、業務用ゲームのインストを、また多少複雑な部分については、雑誌の攻略記事や攻略本などを出典として明記するべきだと思います。
また、Lt.Kellyさんが例として挙げた「ドンドコドン:デモ中にショットボタンを3回押すと熊が表示されます」というものは、まさにシステム的な部分であるため、ビデオゲーム自身を出典とするのは妥当でない例だと私は考えます。もし、その「デモ中にショットボタンを3回押すと〜」というのを見つけたのが執筆者自身であり、他の媒体に未発表なのであれば、それはまさに「独自の研究」そのものです。Wikipedia以外の雑誌に投稿して採用されるのを待つなど、他のメディアに情報が掲載されるのを待ってから書けばよいだけの話で、Wikipediaが急いで取り上げなければならないという理由はありません。むしろ、そういったものを安易に許容してしまうことでガセネタを混入させるリスクが大きくなるため、メリットとデメリットの両方を考えた場合、デメリットの方が大きいと考えます。メーカー等の圧力によって表に出て来ない情報を載せることが可能である、というメリットでは、それを許容することでWikipediaの信頼性を損なうリスクには、到底見合うものにならないだろう、ということです。上で指摘されてますが、私もWikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません、「事実の暴露や報道を行う場ではありません」にまさに抵触してしまうと思います。--Y tambe 2007年7月2日 (月) 03:21 (UTC)

やはりY tambeさんの視点は、ビデオゲームの特殊性を良く分られていないように思えます。そして、Wikipediaの方針を字面だけでしか捉えていないようにも見えます。

  • 普遍的な事柄についての単純な観測結果、単純な数値計算が許される内容についてなど、

先の隠しコマンドなど、まさにこれに当たると思うのですが。

  • ゲームによってはシステムとシナリオが密接に関与しているため、白黒はっきりつけることのできない不可分な、グレーな領域も存在していると思います。

ビデオゲーム自身は、そもそもシステムとシナリオと分割されているわけではなく、全てがプログラムとして存在しているだけです。そして、(熱暴走でもしない限りは)プログラム上で起こり得ない事は起こり得ないと、普遍的な面を持っているわけです。

  • 基本的な部分は家庭用ゲームのマニュアルや、業務用ゲームのインストを、また多少複雑な部分については、雑誌の攻略記事や攻略本などを出典として明記するべきだと思います。

多くのマニュアルやインストラクションカードにも、実に沢山の間違いが存在します。実際にプレイすれば、それが間違いだとすぐに判るにも関わらず、です(これは、開発中や発売直前の仕様変更が反映されていなかったため等のケースが少なからずあります)。雑誌に関しても言わずもがなですが、それは後に記します。

  • その「デモ中にショットボタンを3回押すと」というのを見つけたのが執筆者自身であり、他の媒体に未発表なのであれば、それはまさに「独自の研究」そのものです。

これを「独自の研究」というのは無理が有ります。その環境に遭遇すればほぼ100%で再現される物で、言わば(その環境においては)あまねく広く知られた事だからです。これは、「指を切れば血が出ます」レベルの話であって、それを記述した出典が必要かどうかという程度の問題であり、敢えて出典を書くとするなら、

出典:プログラム上の設定による(出典:~プログラムハンドブック(出典:~チップセットサマリー(出典:~チップ)))

等というような事になります。

また、「ショットボタンを3回押す」が「独自の研究」に当たるなら、ビデオの場合は「静止画にして見る」とかも(双方とも、そのメディアの使用法として妥当な範囲の行為であるという点として)「独自の研究」に当たると解釈できるのですが、いかがでしょうか?

  • Wikipedia以外の雑誌に投稿して採用されるのを待つなど、他のメディアに情報が掲載されるのを待ってから書けばよいだけの話で、

無理ですね。少なくとも現時点で非商業ベースのビデオゲームに研究に関する十分なデータベースは存在していませんし、商業ベースのメディアは自らの利益にならない事は基本的に行いません。事実、結果として、(古い情報は、たとえどんなに重要でも商業ベースには乗らないため)古い知識がどんどんと失われてしまっている現状があるわけです。

さらには、ゲーム雑誌の間違いの多さは恐らく他の業界と比べ物にならない程であり、正確性で言うなら、同人誌等の方がはるかに勝っている事が少なくないと言えます(にも関わらず、「出典の信頼性」という点で一般には商業誌より劣っているとされてしまう)。その点で、信頼できる出典などというものはビデオゲーム関連には存在しないといっても良いほどです(勿論、最も信頼できる出典は、そのゲーム自身なのですが)。

余談ですが、これはゲーム業界の構造に起因する物が多いです。ゲーム雑誌はメーカーから情報/許可/広告掲載を貰えないと仕事にならないので、基本的にメーカーのプロパガンダの一部に過ぎません。よって、メーカーに都合の悪い事は(メーカー側の製造物責任における瑕疵であっても)、プレイヤーにとって重要な事でも隠蔽される事が少なくありません。また、記事の検閲をするのはメーカー広報であり、広報としての知識や裁量でしか記事は検閲されませんし、開発とは大きな違いが有ります。そして、開発者も単独ではないために、全てを正しく知っているとも限りません。

  • 「事実の暴露や報道を行う場ではありません」にまさに抵触してしまうと思います。

これもNiKeさんへの回答で書いた通り、その項の拡大解釈に過ぎないと思います。当該の項には、「個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関して」と書かれており、これが意味する主なところは、「善意の個人、または、団体に不当な損害を与える記述に関して」と解釈するのが妥当に思われます。

Wikipedia全体の状況に比べても、ビデオゲーム関連の項目だけ(ゲームタイトルリストとして見た場合でさえも)スカスカと言って良いほどの状況なのの一因は、「出自がそのまま出典」であるケースにも必要以上にうるさく出典を求められているからかも知れません(まぁ、邪推ですが)。--Lt.Kelly 2007年7月2日 (月) 06:04 (UTC)

回答ありがとうございます
やはりY tambeさんの視点は、ビデオゲームの特殊性を良く分られていないように思えます。
そうですね。少なくともLt.Kellyさんが上でなされている主張から、「ビデオゲームの特殊性」、少なくとも自然科学や文学などWikipediaで扱う広範な他の分野と比べて、検証可能性や独自研究排除の例外を認めなければならないほどの例外性がある、という主張を、私は理解することはできませんでした。つまり、(1)私の理解力が不足しているか、(2)Lt.Kellyさんの説明不足なのか、(3)そもそもビデオゲームにそれほどの例外性はないのか、のいずれかなのだと思います。多分、このまま二人で議論しても水掛け論になりそうですので、他の方々がLt.Kellyさんの説明から、そういった特殊性を理解することができ、Lt.Kellyさんの主張を受け入れるべきだと考えたかどうか、意見を伺いたいです。
あと一点だけ。
  • 普遍的な事柄についての単純な観測結果、単純な数値計算が許される内容についてなど、
先の隠しコマンドなど、まさにこれに当たると思うのですが。
これは該当しません。隠しコマンドの例は、実際に「検証作業を行わない限り」その正しさが確認できないものです。ここで例外として扱われるものは、特別な検証作業(参考文献に挙げられた出典に対する内容確認作業もこれに含まれます)を全くと言っていいほど必要としないものにのみ限られます。--Y tambe 2007年7月3日 (火) 11:27 (UTC)
私にもさっぱり特殊性がわかりませんな。公式の方針というWPの根本を変えようと思われるのでしたら、「やはりY tambeさんの視点は、ビデオゲームの特殊性を良く分られていないように思えます。」ではなく、わからない人にもきっちりわかる様に解説して頂かなくては。
「ショットボタンを3回押す」のはゲームを手に入れれば検証可能と言うのは真でしょうが独自の研究です。例えば新種の猛毒○○が発見されたとしましょう。「○○と言う物質を5g服用すれば死ぬ」と言う事はだれでも「○○」を入手出来れば検証可能と言えますが、その事について書かれている文献を見つけない限り独自の研究です。同様にショットボタンをを3回押せば熊がでるのはゲームを入手出来れば検証可能でしょう。しかしそれについて書かれた文献がなければ独自の研究です。--疾如颯2 2007年7月3日 (火) 12:22 (UTC)

提起者に賛成の側として自分も意見を出してみます。

自分もLt.Kellyさんと同じく、前々からビデオゲームや映画、小説などのサブカルチャーの類(それが構成される定義などの構造は除く)は、現実にあるあらゆる事象よりも意味が狭められたものであり、またそれ自体が十分なソースに成り得ると感じていました。

ビデオゲームに限定すれば、それを動かすために仕込まれているプログラムコードは、小説や演劇などに設定されたあらすじ・脚本のようなものです。それをそれ自体を出典とせずに文芸雑誌などから求めることはナンセンスだと思います。もちろん、小説などにおいて登場人物の一挙一動からその人物の性格などを詳細に解析などには明確な出典を要します。公に言及されていないバグに対して「バグチェックをしなかったからこうなった」などと個人の推測を交えてのはウィキペディアに不適切です。しかし、明確に提示されている事象に対して、その通りになぞる(それ自体が出典であるのだから、それ以外の出典を要さない)ことに問題は無いのではないでしょうか。--Reminiscence 2007年7月3日 (火) 13:03 (UTC)

ご意見ありがとうございます。「現実にあるあらゆる事象よりも意味が狭められたもの」というReminiscenceさんの捉え方はとても興味深い切り口だと思いました。こういった考え方をまとめながら、ビデオゲームの特殊性についての意見を集めていくことは、この分野(および周辺分野)にとって有益な作業だろうと考えています。
少し上の方でも述べましたが、映画や小説(私は、サブカルチャーとは言えない「文学」などにも共通の事象だと考えてます)とビデオゲームとを比較した場合、それらを必ずしも同一に扱えない部分が出てくるのではないかな、と私は考えています。私は小説や映画の概要などをWikipediaに書く場合には(あらすじやネタバレなどの問題はここでは別として、「検証可能性」「独自研究の排除」にのみ留意した場合)、作品自体を出典とすることは認めて良いのではないか、と考えています。その一方で、ビデオゲームについては「それ自体が十分なソースになりうる」部分と「それ自体をソースとした記述が(出典なしでは)独自の研究になる」部分が混在している、という解釈が、いちばん無理がないんじゃないかな、と。文学作品のようなケースから援用できる部分、例えばノベルゲームのようなものや、あるいはコンピュータRPGの全体の「ストーリー」などを記述するときに、その作品自体を出典とすることは許容されるでしょう。しかしその一方、ビデオゲームにはこういった決まったストーリーがあるものだけではなく、プレイヤーの自由意思に従って、展開が自由に変化してしまう部分がある。ビデオゲームの「インタラクティブ性」というのは、この部分に係るものであって、こういった部分は「誰がどうやっても同じになる」とは言いきれない、と考えます。
下の方でも「プログラムコードに従って書かれている」という論拠が提示されていますが、おそらくこの部分が、小説>ビデオ(映像)>ビデオゲームの位置付けの違いにつながってくるのだと考えています。
  • まず小説の場合、我々はそこに込められている「(現実にあるあらゆる事象よりも狭い)意味(情報)」をその作品を直接「読んで」その内容を確認することが可能です。基本的には、込められた意味(ないし与えられる情報そのもの)のすべては読者に対して公開されており、そのすべてに読者が自分自身だけで到達することができます(下で、ろんさんが述べておられる回文…というよりさらに高度な暗号を組み込んだようなものについては、この範疇を超えた例外になるかもしれません)
  • ビデオ(映像)の場合、小説と同様に内包される「意味」を、その作品を「視聴して」その内容を確認することが可能です。ただし小説と違う点として、我々がビデオテープを「直接肉眼で読んで」も、その内容を確認することはできません。ビデオテープには、我々が「直接」解釈することができないかたちに変換された磁気情報という形で、その内容が記録されており、我々はそれを(1)ビデオデッキに入れ、(2)再生ボタンを押す、という操作でその内容のすべて(よほど特殊な仕掛けのあるものを除いて)にアプローチできます。我々は上記(1)(2)の作業だけで、ビデオテープに込められた「意味」(ないし与えられる情報そのもの)のすべてに到達することが可能であり、その点で小説と同様、視聴者に対して公開されている、と見なすことが可能でしょう。
  • そして問題のビデオゲームの場合ですが、その「込められた意味のすべて」はプログラムコード内に含まれています。ゲームのときに我々は(読んで解釈すれば、知識のある人ならば込められた意味が理解できるであろう)プログラムコードそのものを「読んで」るわけではありません。多くのビデオゲームでは、そもそもそのプログラムコードは公開されていないわけですから、我々は、中に込められた「(現実にあるあらゆる事象よりも狭い)意味」に直接アクセスすることはできません。また一方、ソースが公開されたオープンソースのゲームであったにせよ、我々はそのコードのどこになにが書かれているかを検証することはできますが、実際の出力がどうなるかを知るためには、そのプログラム言語の知識がある人を除いては(たいていは、知識があってもソースを読んだだけではすべての挙動を予測することのできない、大掛かりな演算でしょうが)、結局はゲームのインターフェイスを介して検証するしかない、と思います。ビデオゲームにおいて、そのプレイヤーは自分の行動を介して、「大きな情報のブラックボックス」の中から、その一部を引き出すという作業をしている、とでも言ったらよいでしょうか。我々は、それを(1)ゲーム機に入れ、(2)ゲームスタートし、(3)さまざまな操作、を行って、そこに込められた「意味」を引き出します。しかし、(3)においてプレイヤーが行う操作はさまざまであるため(この点が、小説やビデオと比較した場合の、ビデオゲームの特殊性:インタラクティブな要素、だと)、元に込められた「意味」のすべてを引き出したかどうかは「全く判らない」、通常は「全て」を引き出した、とは言えないことの方が多いでしょうが、それすら検証することが容易ではない、という状態になります。
長文になってしまいましたが、つまり、何が言いたいのか、というと「プログラムコードに全情報が仕込まれてる」というReminiscenceさんの切り口は非常に面白いものだと思いましたが、そこからもう一歩進めて「その全情報への到達が保証されているのか、誰にでも容易であるか、またすべてに到達できたかどうかが証明できるのか」という観点を加えると、ビデオゲームと小説や映画を同列に扱っていいという主張には無理があるんじゃないだろうか」というのが、私の考えです。ご一考いただければ幸いです。--Y tambe 2007年7月5日 (木) 03:11 (UTC)

こんばんはMiya.mです。私はY tambeさんに同感で、Lt.Kellyさんがおっしゃるビデオゲームの例外性を理解できません。ビデオゲームはそれ自体が「情報源として信頼できるメディア」でしょうか?「ビデオゲームには裏コマンドなど存在せず、一般人のアクセスに対して誰がやっても同じ結果を出す」のであれば検証可能性を満たすといえるかもしれませんが・・。そうでないことを書く場合には文献等の裏付けが必要でしょう。話を変えて説明すると、私が裏山で大量の「木の葉化石」を見つけて、隣に住む高校の生物教師も「木の葉化石に間違いない」と言ってもWikipediaには書けません。どこかの新聞社が報道した後で執筆可能になります。あなたが見つけた裏コマンドによる攻略方法も、「木の葉化石」と同じで、Wikipediaへの記載は「どこかで公表される/出版される」まで待つべきです。

ところで仄聞するにウィキアでは、ゲームの裏技やトリビアの話も歓迎されるそうです。そちらで積極的に執筆されるほうがよろしいのではないでしょうか?Miya.m 2007年7月3日 (火) 13:13 (UTC)

問題を正しく認識できていない人が多いので説明させてください。要するにこれは、物質世界と情報世界の違いに起因する問題です。例えば、物質世界(電車)において「上野駅で山手線外回りに乗れば秋葉原に行ける」という事実が出典なしに記述できるのであれば、情報世界(ゲーム)においても「ショットボタンをを3回押せば熊がでる」という事実も出典なしに記述していいのではないか、ということだと思います。これに対し私は、その事実を疑問に思う人が誰もいないという条件で、記述してもいい側に賛成します。というのは、まず今の時代、インターネットも含めて情報世界というものが誰にとっても身近なものになり、その存在性は極めて重要になっています。そのうえで、情報世界で明らかに真実であることを出典なしに記述することには特に問題はないと思われるからです。これは例えば、「ウィキペディアは誰もが編集できる百科事典である」とか「ウィキペディアにおいて編集タブをクリックすると編集画面が現れる」ことを出典なしに記述しても問題ないということと同様のことです。
ところで、存在性という言葉を出してしまいましたが、存在とは何かというのは哲学的な問題で、一昔前であれば存在とは(1)物質世界にあるもの、(2)精神世界にあるもの、でしたが、現代ではこれに加えて(3)情報世界にあるものと、いう見方があるということを申し添えておきます。--Kwsk 2007年7月3日 (火) 13:51 (UTC)

私は部屋にハードを7種類持っているような人間ですが、検証可能性においてゲームが例外的とは全く思いません。これを特別視する事に反対します。- NEON 2007年7月3日 (火) 14:07 (UTC)

その2

[編集]

取り敢えず、賛否は有れど、多くの方にご反応戴いた事に感謝申し上げます。

項が長くなってしまったので、ここで一旦、論点を整理しておきます。

  1. Wikipediaにおける検証可能性の重要性とは、「『事実である』>『検証可能である』>『検証可能な出典が有る』」、つまり、事実である事を重視するからではないのか?
  2. 裏技、隠しコマンド、バグ等は、「事実の暴露や報道を行う場ではありません」の項の、「個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述」に該当するのか?
  3. あまねく広く「事実である」事を知られている事象に対しても、「(その知られている事象よりも不正確であるかも知れない)出典」が必要となるのか?
  4. 特に極端に技術が必要ではない操作であり、既に多くの追試(ここの言い方では検証)が行われて正しいとされている事でも、「独自の研究」に当たるのか?

以下、具体的な回答です。

Y tambeさんの、

  • 隠しコマンドの例は、実際に「検証作業を行わない限り」その正しさが確認できないものです。

ですが、先の例にすれば「ボタンを3回押すと熊が表示されます」はプログラム上で言えば、Y tambeさんが言われるところの「単純な数値計算」に他なりません(プログラム上で単純な条件によって、かつ必然として導かれる結果である、という意味)。

言い換えれば、道案内において「●●の丁字路を右に曲れば××に到着します」というのと同じ事です。多くの人が●●に行った事が無くても(あるいは、一生行く事が無くても)、そこを右に曲れば××には到着するわけで、行く人によって行き先が変わる事は無いのです。

疾如颯2さんの、

  • 例えば新種の猛毒○○が発見されたとしましょう。「○○と言う物質を5g服用すれば死ぬ」と言う事はだれでも「○○」を入手出来れば検証可能と言えますが、その事について書かれている文献を見つけない限り独自の研究です。

ですが、これは既に論点が違いますね。単に検証者が検証結果を(この世で)認識出来ないために、それに対して記述した第三者の記述のみが参考となる文献であるという事ですね。

Miya.mさんの、

  • 「ビデオゲームには裏コマンドなど存在せず、一般人のアクセスに対して誰がやっても同じ結果を出す」のであれば検証可能性を満たすといえるかもしれませんが・・。そうでないことを書く場合には文献等の裏付けが必要でしょう。

ですが、隠しコマンドやバグを含め、それらはビデオゲームの一部をプログラムとして構成しているに過ぎません。つまり、誰が行っても同じ結果になるわけです。

但し、一部、技術的な問題(技術的、もしくは、時間的に難しい)で検証が極めて困難な場合にだけ、出典を明らかにすべきではないか、というのは、最初に書いた通りです。

また、

  • 私が裏山で大量の「木の葉化石」を見つけて、隣に住む高校の生物教師も「木の葉化石に間違いない」と言ってもWikipediaには書けません。どこかの新聞社が報道した後で執筆可能になります。

これもやはり、論点が違っていると思います。第一に、他の人が「裏山で大量の『木の葉化石と思われる物』を見つける」という直接の検証が難しいという事。第二に、「『木の葉化石』ではない」可能性がある事です。

NEONさん、

  • 私は部屋にハードを7種類持っているような人間ですが、

それ自体は全く反対意見の根拠とはならないと思います。少なくとも、前の私の回答に対する反論でもあれば、と思ったのですが……。

  • 検証可能性においてゲームが例外的とは全く思いません。これを特別視する事に反対します。

厳密には、ビデオゲームを特別視しようとしているわけではありません。その持つ情報を他のメディアと同様に一般化するべきだと主張しているだけです。

文末ですが、Reminiscenceさん、Kwskさん、私の言葉足らずな部分を補足していただき、有難う御座います。--Lt.Kelly 2007年7月3日 (火) 15:32 (UTC)

とりあえず、これは検証可能性と言うより独自の研究の問題で話す場所が違う様な気はするのですが。
1. については明らかにWPの理念に反しています。Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」。もちろん百科事典は正確である事が求められるのは当然ですが、WPは正確性を保証する事を放棄しています。その代わりに検証可能な出典を明示する事によって、内容の責任を全て出典に押し付けているわけです。極論すればWP上の記事は全て「(事実かどうかはわからないけど)○○によると××である。」という内容になっているはずです。出典の示せない物はたとえ事実であったとしても独自の研究であり削除の対象となります。
2. は該当するとは思いませんが、何かしらの出典がなければ独自の研究です。
3. あまねく広くとは言えないでしょう。ごく一部の人間のみが知っている情報です。1の通り出典は必ず必要です。
4. 自身で確認した内容ですから独自の研究です。
私へのご返答につきましては、どうも私の例示が悪かったようで申し訳ございません。私が言いたかった事にとって「死んで確認出来ない」と言う事は問題点でありません。毒薬ではなく「絶対やせる薬」でも同じ事です。
  • 誰でも飲むだけで確実にやせるダイエット薬が開発されたとします。手に入れた人は全てやせると言う事を検証出来ます。しかし飲めばやせると言う事について書いた出典を見つけられなければ独自の研究でありWPには掲載出来ません。
  • コウテイペンギンは空を飛ぶ事が出来ません。見に行けば誰でもその事実は確認出来ます。しかし出典を見つけられない限り独自の研究でありWPには掲載出来ません。
  • ショットボタンをを3回押せば熊がでるのはゲームを入手出来れば誰でもその事実は確認出来ます。しかし出典を見つけられない限り独自の研究でありWPには掲載出来ません。
--疾如颯2 2007年7月3日 (火) 16:52 (UTC)
1.違います。ウィキペディアの掲載基準は、「真実であるかどうか」ではなく、「検証可能かどうか」であり、「この事実関係を確認するという過程こそ、ウィキペディアが提供する立場にないものです」。
2.「事実の暴露や報道を行う場ではありません」で言えば、どっちかというと「もっぱら知られていない事実を公表することが目的ではありません。事実ならば何を書いてもよいわけではありません」かな?ゲーム業界の構造云々は、これに当たると思います。ここでも「真実であるかどうか」ではなく、「検証可能かどうか」というのがポイントになるでしょう。
3.あまねく広く「事実である」事を知られているならば、容易に出典が見つかるでしょう。
4.追試の結果が信頼できる情報源として公表されていなければ、「独自の研究」に当たります。「一次資料を直接ウィキペディアで公表すること、たとえば投稿者自身の体験の記述や、投稿者が行ったアンケートやインタビューなどを掲載する事は独自研究にあたり許されません。ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません」
まずは、Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性を、じっくり読んでみてください。わかりやすいのはWikipedia:Attributionかもしれない。これらは英語版からの翻訳で、もともと重要な方針として扱われているので、あんまり簡単にはローカルな変更ができないと思っておいてもらうのがいいと思います。変更するなら、英語版で議論する方が、たぶん可能性があるし、wikiaなど、他のプロジェクトに持ち出すのが早いんじゃないかな。
いわゆるサブカル系全般にとって、これらの方針を満たすのは、かなり難しいですが、検証可能性をちゃんと読むと、それなりにルーズなところもありますし、日本語版では既にかなり甘い運用がされていることもご理解頂けると思うのです。裏コマンドやバグや業界内の事情などは、たとえ検証可能性を満たすとしても、検証可能であれば掲載が保証されるわけではないので、また別の話として掲載の是非を議論する方がよいかもしれない、という気もしています。
ぼくが思うのは、学術系の項目と並列に、ゲームやミュージシャンの記事が並ぶ、というのは、既存の百科事典では、なかなか実現できないことですが、ウィキペディアでは一応可能になっている。それは、同時に学術系の項目と同じ水準の記述が求められると言うことだと思うんですね。もちろん、学術系の記事を書く上でも、これらの方針は、けっこう厳しいものがあったりします。学術分野では、専門家によって、たくさんの資料をあたり、検証し、という地道な研究が積み重ねられていて、ウィキペディアの編集者はそれを使うことができる。サブカル系の編集者は、そういう蓄積がないから、資料を探し、整理して、検証して、まとめるという作業が必要になってしまう。文化研究としては、たとえば対象にインタビューしちゃうとか、あるいは分析手法といったほうに向かうケースも多いですが、ウィキペディアでは、そういうことじゃなくて、時間と手間と幾ばくかの出費と、常識的な判断力があれば誰でもできる、地味な情報の整理をする、というか。GARNET CROWや、手前みそですがチンドン屋などを見てみていただければ、どういう作業をするのがよいか、多少わかってもらえると思います。--Ks aka 98 2007年7月3日 (火) 17:37 (UTC)

疾如颯2さんも、Ks aka 98さんもなのですが……、どうも、ビデオゲーム自体を出典とする記事の掲載に関して否定的な意見を述べられる方の殆どは、「検証可能性」に関する項目を熟読しておらず、見出しのイメージのみで捉えられているのではないかと思えるようなフシが見られるように思えます。

まず、検証可能性の項の冒頭の文章です。

広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです。

「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」というのの最たる例は、対象となる物、もしくは、事象、そしてそれ自身が持つ固有の情報に他なりません。

Reminiscenceさんもすでに書かれている通り、ある事象が持つ固有の情報よりも、それに関して記述された(主観、検証不足、間違い等の可能性によってより不正確である疑いのある)文献の方を出典とせねばならないというのは、明らかにナンセンスでしょう。……であるなら、出自が出典となる場合には、出典の記述を省略すべきなのはむしろ当然とは言えないでしょうか?

独自研究を掲載してはならない理由には、

ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから

と書かれています。しかし、ビデオゲームの場合、それは容易に検証する事が可能で、また殆どの場合、既に多くの読者がそれを検証済み、もしくは、正しいと認識しており、否定する根拠もありません。その点で独自研究とは言えないと思われます。

仮にもし、こういったものが疾如颯2さんの言われるように「あまねく広くは知られていない」と判断されるなら、多くのビデオゲーム関連記事に掲載されている「ステージ紹介」等さえも削除対象となるか、要出典となる事となります(そのビデオゲームが持っている固有の情報であるにも関わらず、です)。

Ks aka 98さんは、ちょっと勘違いされているかも知れません。

学術分野では、専門家によって、たくさんの資料をあたり、検証し、という地道な研究が積み重ねられていて、ウィキペディアの編集者はそれを使うことができる。サブカル系の編集者は、そういう蓄積がないから、資料を探し、整理して、検証して、まとめるという作業が必要になってしまう。

それは、今回の論点とは異なります。サブカルチャー系が主に問題として抱えているのは、多くの場合、第三者的(主観)評価が各個で異なり、その統一見解が存在しない、という点です。今回のビデオゲームに関する議論は、出自がそのまま出典である事実に対して、何故それよりも不正確な文献を出典とする必要があるのか、という点です。--Lt.Kelly 2007年7月3日 (火) 18:27 (UTC)

正直、私は他の方々ほど議論慣れしておらず筆が立つ人間でもないので、本題に対して諦め気味ではあります。しかしながらLt.Kelly氏の誠意ある返答に対し、私も意見を述べておこうと思います。
  1. 『検証可能である』=『検証可能な出典が有る』>『事実である』
  2. 該当しません。
  3. ゲームに関する内容は「あまねく広く「事実である」事を知られている」に該当しないので、出典が必要です。
  4. 独自の研究に該当します。
まとめていただいた4点に関する見解はこんな感じです。それを踏まえて以下をお読み下さい。
「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」というのの最たる例は、対象となる物、もしくは、事象、そしてそれ自身が持つ固有の情報に他なりません。
ある事象が持つ固有の情報よりも、それに関して記述された(主観、検証不足、間違い等の可能性によってより不正確である疑いのある)文献の方を出典とせねばならないというのは、明らかにナンセンスでしょう。
ナンセンスではなくて、まさにそれが求められている事です。これをナンセンスと考える限りはどうしようもありません。ゲームに限らず、全ての事象はそれ自体が自身に関する最も正確で最大の情報量を持ちます。にも関わらず、それを直接参照する事はWP:NORで禁じられており、理由も書いてあります。WP:Vよりもまずこちらとの整合性を確保しなければ、あなたの主張は成立しません。Ks aka 98氏が触れている通り、おそらくここの議論で変更できる範疇を超えているので、英語版への持込をお勧めします。
ビデオゲームの場合、それは容易に検証する事が可能で、また殆どの場合、既に多くの読者がそれを検証済み、もしくは、正しいと認識しており、否定する根拠もありません。その点で独自研究とは言えないと思われます。
自身がゲームをプレイしてそこから情報を得る事はWP:NORに謳われている一次資料の作成であり、独自研究に該当します。容易さその他の要因で決まるものではありません。これを独自研究でないと主張するのは、前述の通り場違いです。
当然ステージ紹介も要出典で、それが示されなければ削除です。ステージの特徴をいかなる表現で文字にするかは執筆者の主観そのものですし、ステージの数ですら「ちょっと違う二周目」のカウント方法や「隠しステージ」の存在を巡って意見の対立が起こるでしょう。(ステージ紹介ではありませんが)例えばMOTHER3を見れば、いかに一つのゲームの捉え方・文章への反映のさせ方が千差万別であり、無出典の編集が混沌を生むかが分かると思います。「第三者的(主観)評価が各個で異なり、その統一見解が存在しない」のはゲームも同じです。- NEON 2007年7月4日 (水) 04:29 (UTC)

なるほど、NEONさんのおっしゃっている事はよくわかります。ただ、残念ながら、やはり「独自研究は載せない」の項を熟読されていないように思えます。

当該の項には、

なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。

と書かれています。ビデオゲームのバグや隠しコマンド等の場合が、まさにそのいずれにも相当します。 「簡単に検証出来」、「単純に導き出せる事実であり、分析、総合、解釈、評価のいずれも行っていない」という点においてです。NEONさんが例として出されたMOTHER3の件とは、この点で大きく違う事がわかるでしょう。

当然ステージ紹介も要出典で、それが示されなければ削除です。ステージの特徴をいかなる表現で文字にするかは執筆者の主観そのものですし、ステージの数ですら「ちょっと違う二周目」のカウント方法や「隠しステージ」の存在を巡って意見の対立が起こるでしょう。

これは確かにその通りです。実際に、グラディウスIIに関するステージ数でノート上で話題になった事もあります。中には参考となる文献等が時期により解釈を違えていたりするので、その中でより新しく、公式であるものを採用すべきでは? という観点もあったりします。

また、多くの場合は、ステージ紹介に関しては出典を省略されています。これは、例えばステージ紹介をしている雑誌自体が「一次資料」に当たり、出典とするのは不適当であるのではないかという点や、ステージ紹介における基本的な部分はそもそもゲーム自体の構造を踏まえた上で、極めて多くの編集者の合意の上に形作られている(=否定的意見が無い)という前提において、出典を省略されているとも考えられます。

ゲームプログラム自体は飽くまでそのプログラムにしたがって動作するだけで、そのステージが何であるかという情報は(その中で特記されていない限りは)提供しません。また、開発者の思惑と実際プログラム、広報の立場、報道向け資料、そして、それを元にした雑誌等、全ての解釈がお互いに異なっている場合もあります。この場合、どれがn次資料であり、検証可能かという事自体があまり意味の無い事になっています。しかしながら、唯一事実しか提供しないのがゲーム自体であるので、ゲーム自体の提供する情報を元に、各種資料と多くの編集者の合意の元にステージ紹介などがされている(故に、出典が省略されている=「独自研究は載せない」の項の(1)の例外)と考えるべきでしょう。

まぁ、この事自体はここでの議論の本質とは異なりますが、一応、参考までに、という事で……。--Lt.Kelly 2007年7月4日 (水) 06:08 (UTC)

ビデオゲーム自体が「これはバグです」とか「これは隠しコマンドです」と表示するわけではないでしょうから、「バグである」「隠しコマンド」であるという評価をしたのがWikipedianでしかないなら(出典がないなら)、「独自研究」と言わざるを得ないでしょう。もっと言えば、無数にあるコマンド(と言うのかな?)のなかから「ボタンを3回押すと熊が表示されます」を選んで、記事に書くだけの価値・重要性があると評価したこと自体が(重要性を認めてその事項に言及した「信頼できる情報源」がないのに、記事執筆者自身の判断としそういう評価をしたのなら)「独自研究」であるいう主張も十分可能です。--Dwy 2007年7月4日 (水) 06:33 (UTC) 一部加筆--Dwy 2007年7月4日 (水) 08:06 (UTC)

なんか、否定的意見の方が段々と些末主義に走っているような気がしているのですが……。

ビデオゲーム自体が「これはバグです」とか「これは隠しコマンドです」と表示するわけではないでしょうから、「バグである」「隠しコマンド」であるという評価をしたのがWikipedianでしかないなら(出典がないなら)、「独自研究」と言わざるを得ないでしょう。

もしそういう理由で「独自研究」に該当すると言われるなら、「バグ」とか「隠しコマンド」と記述せずに、「仕様」の一部として掲載すれば良い、という話になりますね。

重要なのは、それがビデオゲーム自体が持っている仕様の一部であり、それは一般的に(「独自研究は載せない」の項の言い方に従えば「分別のある大人であれば」)「バグ」とか「隠しコマンド」と言われる物に該当すると判断するのが適当である、という事です。

もっと言えば、無数にあるコマンド(と言うのかな?)のなかから「ボタンを3回押すと熊が表示されます」を選んで、記事に書くだけの価値・重要性があると評価したこと自体が「独自研究」であるいう主張も十分可能です。

そうした(「記事に書くだけの価値・重要性があると評価した」こと自体が「独自研究」であるという)主張が可能なら、Wikipediaに新規にページを追加する事、もしくは、既にあるページに加筆をする事の殆ど自体を「独自研究」と言っているのと同じ事になります。

それが問題であるというのなら、殆どのページが無くなってしまうか、殆どの記事が些末主義で埋まってしまい、真に掲載に値する情報を探す事さえ困難となるでしょう。--Lt.Kelly 2007年7月4日 (水) 07:22 (UTC)

ちょっと議論に横入りしてすみませんが、一言。皆さん例えが適切でないように思えるのですが。例えば小説に例えると、某小説は、各章名が回文になっています。それ自体は書評などで言及されるわけですが、書評を参考文献に挙げるまでもなく各人が検証可能な訳ですよね?その事実を執筆するのは独自研究になるのでしょうか?また、小説の内容について、書評に取り上げられていない要素を含む概要でも執筆可能ですよね?そういうことではないでしょうか?--ろう(Law soma) D C 2007年7月4日 (水) 07:47 (UTC)
コメントありがとうございます。えーと、実はその点について、私も上の方で少し触れていました。というか、まさに上で「正しい争点」だと言っていた部分だったりするんで、私もそのろうさんの指摘は鋭いと思います。結論から先に言うと「喩えが適切でない」という、ろうさんの指摘も正しいと思うのですが、その一方で、ろうさんの喩えもまた同様に「適切でない」、というか。つまりビデオゲームには確かに文学作品と通じるところもあるし、むしろ自然科学で扱うような「対象そのもの」に通じるところもある、と私は考えてまして、そのどちらかだけにあたるような既存の事例を喩えとして挙げると、どうしても片面だけからの見方に偏ってしまうのだと。
ただ、ここでの議論の流れは、もともとが「文学作品と同様に看做してよい」という解釈をLt.Kellyさんが出したのに対して、それに対する反論として「そういう部分だけではない」という反論材料を挙げている、という議論の流れなので、その反論となる側の例示だけが目に付いてしまい、偏った例しか挙がってないように見えるのは仕方のないことだと思ってます。そのようにご理解いただければ幸いです。
私の理想から言いますと、その両方の案を提示しあいながら、ビデオゲームの特性をどのように捉え、どのようなケースで外部の出典を必須とし、どのようなケースで(文学作品の概要などと同様に)それ自身を出典とすることが許容されるかについての意見を出し合う(最終的な結論を今ここで出してしまう、という意味ではなく)議論が出来れば、と思ってはいます。ただ今はその前の段階、つまり「文学作品と(原則として、一部例外を除き)同じメディアとして扱える」「文学作品と(原則として、一部例外を除き)同様な扱いは許容されない」「一つのビデオゲーム内に、文学作品と同じ要素と違う要素があるため、その要素によって扱いを考慮する余地がある」という部分について、意見がわかれている段階なのだと。「文学作品と違う要素がある」という論拠については、上のReminiscenceさんへの返信に含めさせていただきたいと思いますので、よろしければそちらも参照していただければ幸いです。--Y tambe 2007年7月5日 (木) 03:19 (UTC)
  • 記事に書くだけの価値・重要性があるかどうかを判断する基準については、Wikipedia:著名性もご参照ください。基本的な考え方は、ある事項が重要なら、独立した立場の「信頼できる情報源」がその事項について言及しているはずであり、もしそういう情報源が無いなら、その事項はWikipediaで取り上げるべきではない…ということになると思います。
  • 「信頼できる情報源」によって確認されていない「回文」の発見をWikipediaで発表するのは、当然「独自の研究」に該当します。書評などで言及されているなら、それを出典として書くことになります。--Dwy 2007年7月4日 (水) 08:06 (UTC)

その3

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まず、Law somaさんの意見に関して。

某小説は、各章名が回文になっています。それ自体は書評などで言及されるわけですが、書評を参考文献に挙げるまでもなく各人が検証可能な訳ですよね?その事実を執筆するのは独自研究になるのでしょうか?

これに関しては、「独自研究は載せない」の項にある例外の

(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。

に該当するので、記述する事は問題無いと思われます。

また、小説の内容について、書評に取り上げられていない要素を含む概要でも執筆可能ですよね?

概要という時点で(主観の入った要約である可能性が高いので)、若干難しい問題があると思います。個人的には、書かれている事実のみを対象とし、事象の解釈さえ独自に行っていたりしなければ、概要の執筆は問題無いと思いますが、どこを概要として取り上げるのかという問題も存在すると思われるので、(必要があるならば)その線引きは各個のノートで行われるべき事ではないでしょうか。

逆に言うと、書評というのは明らかに主観の入った物で、この場合はその小説に対する「評価」としては一次資料としての側面が大きいので、むしろそちらを出典とする事の方が問題があるかも知れません。

Dwyさんの言われているWikipedia:著名性に関してですが、ここまで書かれた事(「検証可能」であり「独自研究」には該当しない)と当該項目に書かれている事をまとめると、単に「『あるビデオゲームの隠しコマンドやバグ等』を独立したページとして扱う事は不適当だが、そのゲームのページ内に記述する事は『統合』であって、問題無い」という事になるはずです(場合によっては、「●●する隠しコマンド」という複数ゲームの話題に渡っていながら独立したページが作成されるのもおかしくありませんが)。

さて、Wikipediaの方針に基いた、「隠しコマンド、バグ等の掲載」に関する正当性も整理しておきます。

  • ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません」の「事実の暴露や報道を行う場ではありません」の項に書かれている、
    個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関して
    には該当しない。もしくは、何らかの形で「不謹慎」に該当する可能性がある場合は、各個ノートで議論して解決すべきである。
  • Wikipedia:検証可能性」の冒頭において書かれている、
    広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです
    の内の「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」に該当する。
    また、
    ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから
    という拒絶理由にも該当しない。
  • Wikipedia:独自研究は載せない」において、一次資料を出典とする事が許される例外である、
    (1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。
    の双方に該当する。

これらに対する反対意見は、現時点では無いようですが、いかがでしょうか?--Lt.Kelly 2007年7月4日 (水) 09:42 (UTC)

「反対意見が無い」というのは違うと思いますよ。多くの方が既に反対意見を表明していますし、Lt.Kellyさんがそれに対して反論しているからといって、それで反対意見が全て論破されたことになるわけでもありません。--Dwy 2007年7月4日 (水) 10:23 (UTC)
  • 「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」に該当しません。
  • 「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」 に該当します。
  • 「(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。 」の何れにも該当しません。
勝手に納得されても困るので反対の意思だけ伝えておきます。今までの議論をどう読んだら「反対意見なし」と結論できるのか全く分かりません。これ以上の議論は無駄だと思いますので、多数決でも取ってみてはどうでしょう。- NEON 2007年7月4日 (水) 10:31 (UTC)
以前も指摘があったような気がしますが、この手の「議論」を提起なさるかたというのは、なぜWikipedia‐ノート:独自研究は載せないではなく、こちらのWikipedia‐ノート:検証可能性でばかり提起なさるのでしょうね。あ、わたしも2項と3項に反対です。 --Hatukanezumi 2007年7月4日 (水) 10:58 (UTC)

ここは単なる希望を書く場所ではなく、理論だった議論を行う場所だと思いますので。

Dwyさん、論拠を示さなければ、それは単なる嗜好による「反対希望」でしかなく、理論だった「反対意見」にさえなってないと思いますが……。私はDwyさんが示した「Wikipedia:独自研究は載せない」、「Wikipedia:著名性」に関して、その当該項内の文章を引用して反論しているのですが、Dwyさんが「反対意見」があると言われるのなら、それらが無効であるという論拠をご提示ください。

NEONさんや、Hatukanezumiさんも同様です。「該当しません」、「該当します」、「反対です」だけでは、何を根拠にそう判断しているのかが分りません。

勝手に納得されても困るので反対の意思だけ伝えておきます。

確かに、意思は判りますが、意見としては論拠が無いので受け取りかねます。

今までの議論をどう読んだら「反対意見なし」と結論できるのか全く分かりません。

論拠がはっきりしない以上は、嗜好による単なる「反対希望」であって、理論だった「反対意見」とは見えません。

私はNEONさんが示した「Wikipedia:検証可能性」、「Wikipedia:独自研究は載せない」についても、その当該項内の文章を引用して反論しているので、NEONさんも「反対意見」があると言われるのなら、それらが無効であるという論拠をご提示ください。

単なる(狭い範囲での)多数決で決めるだけなら、それでも構わないと思いますが、現時点で反対の論拠が明確ではありませんので、その段階に至るには不十分だと思います。--Lt.Kelly 2007年7月4日 (水) 11:31 (UTC)

Miya.mです。反対意見がないとおっしゃったので、反対します。「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」に該当しません。例えば隠しコマンドは公開されていないから隠しでしょう。そのような情報を含むシロモノを「すでに公開されている」と言うのは無理です。同じ意味で「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」にも該当します。
「(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。 」は、「一次資料と二次資料」にある文言ですね。これにも賛成できません。数十年大人をやっている私として、ビデオゲームの詳細な内容が分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説であり百科事典に記載すべき内容とは思えません。「誰が見てもわかる木の葉化石」についても慎重を期すのが分別ある大人でしょう。どうしても書きたいのであればそれに適したサイト(上に提示)があるのでそちらに執筆されることをおすすめしますMiya.m
隠しコマンドでも、それについて触れた文献があれば良し、なければダメという単純な話。個人の観察記録ではダメですよ。論外。--Album 2007年7月4日 (水) 12:41 (UTC)
Lt.Kelly氏と全く同じように引用して反対しているのが見えませんかね。これを単なる嗜好と呼ぶならあなたの主張も同様です。- NEON 2007年7月4日 (水) 14:07 (UTC)
Albumさんに補足すると、「隠しコマンド」について触れた文献を元にしていても、ウィキペディアで記述できるのは「××によれば、これは隠しコマンドである」ということだけです。
ゲーム供給者が公式に認めていない機能があるとして、それがゲーム製造・供給者によって意図的に作り込まれた「仕様」なのか、意図せず生じてしまった「バグ」なのかは、不明です。「仕様」であるとすればたしかに「隠しコマンド」でしょうけれども、「バグ」が残っているために起こる予期しない動作は意図的に「隠し」てあるわけではないでしょう。そして、そのどちらなのかは、ゲーム製造者自身にしかわからないことです。こういう例は、ビデオゲームの黎明期からすでに存在しますよね。
Lt.Kellyさんはどうやって、その公式には認められていない動作を「隠しコマンドである」と判断できるのですか。
それはともかく、多くのかたがすでにさまざまに言われていることですが、記述の対象そのものを調査して記述を行うことは、独自の研究にあたります。それは、ウィキペディアでは認められていないやりかたです。そしてわたしには、Lt.Kellyさんがやっていることは、検証可能性の方針に独特の解釈を与えることによって独自研究は載せないの方針を無効化しようとする試みにしか見えません。
Lt.Kellyさんが望みの結果を得たいのでしたら、これ以上当ノートで節を増やすより、Wikipedia‐ノート:独自研究は載せないへ行って、そちらで方針を変える努力をなさるべきだとおもいます。 --Hatukanezumi 2007年7月4日 (水) 14:49 (UTC)

Miya.mさん。

例えば隠しコマンドは公開されていないから隠しでしょう。そのような情報を含むシロモノを「すでに公開されている」と言うのは無理です。

Miya.mさんの主張では、ビデオゲームが本来含有している情報の一部を「『隠し』であるから公開されていない」とおっしゃるわけですね? となると、ビデオゲームが持つ情報のどこまでが「公開されている」とお考えでしょうか? ちなみに、ビデオゲーム自体はその「隠しコマンド」を「隠しコマンド」として含有しているわけではなく、そのプログラムの一部に過ぎないわけです。

同じ意味で「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」にも該当します。

これは何故でしょう? 当該ゲームを手にすれば、平易に検証する事が可能と思いますが?

ビデオゲームの詳細な内容が分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説であり百科事典に記載すべき内容とは思えません。

「ビデオゲームの詳細な内容」とは、何を指されているのでしょうか? 例えば、先の例にも出した「ボタンを3回押すと熊が表示されます」は「分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる」事象ではないのでしょうか?

Albumさん。

隠しコマンドでも、それについて触れた文献があれば良し、なければダメという単純な話。

Wikipedia:独自研究は載せない」において、一次資料を出典とする事が許される例外であるという論点からずれています。何度も同じ事を書くのも馬鹿馬鹿しいので、ちゃんと項を読んでからにしてください。

NEONさん。

Lt.Kelly氏と全く同じように引用して反対しているのが見えませんかね。

「何故」該当する、該当しないと言えるのか、その論拠が無いので、単なる嗜好としか言えないという話です。

Hatukanezumiさん。

Lt.Kellyさんはどうやって、その公式には認められていない動作を「隠しコマンドである」と判断できるのですか。

Hatukanezumiさんのこの話は、Miya.mさんと全く逆の話ですが……。それはともかく、「隠しコマンド」云々というのは、話の具体例として出てきただけで、私が提起した問題ではありません。Y tambeさんが言われた事ですので、項の最初の方を参照してください。言い方は別に「隠しコマンド」でも「仕様」でも「バグ」でも「操作法」でも「余談」でも何でも良いのです。ただ、多くの場合(そういった場合の「分別のある大人」の)常識的には、「隠しコマンド」か「バグ」に分類されるであろうというだけです。

私の主張は、

「ビデオゲーム自体が持つ固有の情報(事実)に関して記載する場合、『Wikipedia:検証可能性』、『Wikipedia:独自研究は載せない』、『Wikipedia:著名性』のいずれに鑑みても、必ずしも出典文献が要るとは言えない」

という点です。

それはともかく、多くのかたがすでにさまざまに言われていることですが、記述の対象そのものを調査して記述を行うことは、独自の研究にあたります。それは、ウィキペディアでは認められていないやりかたです。

もう何度も書いていますが、「Wikipedia:独自研究は載せない」において、

(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。

と、はっきりと書かれています。それをご存知の上で言われているなら、該当しないという理由を述べられてください。

Lt.Kellyさんが望みの結果を得たいのでしたら、これ以上当ノートで節を増やすより、Wikipedia‐ノート:独自研究は載せないへ行って、そちらで方針を変える努力をなさるべきだとおもいます。

その必要は無いと思います。既に書いたように、現在のWikipediaの方針に反する事を主張しているわけではありませんので。問題なのは、その方針の解釈が異なっているという点であり、むしろ、ビデオゲームに関するそういう記述を禁止したいという方がおられるなら、それを明文化するべきではないでしょうか?--Lt.Kelly 2007年7月4日 (水) 18:16 (UTC)

論の立て方からダメ。Wikipedia:出典を明記するもあわせて読むこと。--Album 2007年7月4日 (水) 19:27 (UTC)
そうですか。では「隠しコマンドかどうか」はおいておきましょう。で、「ボタンを3回押すと熊が表示されます」ですが、
  • それは常に起こることなのでしょうか。それとも、ある特定の状況 (特定の順序であるステージに入った、そのときのポイントが特定の値であった、等々) で「ボタンを3回押す」と「熊が表示される」のでしょうか。また、状況を特定できたとして、ほかの状況では起こらないと言えるのですか。
  • また、そのゲームソフトウェアの全てのロットで起こるのですか、それとも、特定ロットでなのですか、あるいは、ロット中のLt.Kellyさんが購入した特定のソフトウェアだけでですか。
  • さらに、ゲーム機本体の部品の品質のばらつきなどによってハードウェアの動作に変化が生じるために、ある実機ではおこってほかの実機では起こらなかったり、実機の置かれた環境 (気圧、気温、湿度、周囲の電磁的ノイズのレベルなど) によって起こったり起こらなかったりする、といったことはないですか (なお、このような動作の予測不能性が機器の不良であるとは限らず、設計者の意図したものであることもありえます)。
そういったことを確認できなければ、「ボタンを3回押すと熊が表示されます」という記述が正確だとは言えないのです。こういったことを確認しつつあくまでも実物の動作をもとに検証できることを書きたければ、上に例示したような考えられる条件をすべて述べたうえで、「ボタンを3回押すと熊が表示されます」と書くことになります。が、このような記述が検証可能性を満たさないことは明らかです。
このようにして書けるのは、「自分にはこう認識された」という主観的な判断だけです。このような記述は、検証可能性を満たさないのはもちろん、中立的な観点にも立っていませんし、独自の研究でしかありません。
上述したように、ある事物について書くときに、事物そのものを観察して書いても、正確さを検証できる記述にならないのです。 --Hatukanezumi 2007年7月4日 (水) 23:04 (UTC)
  • (お知らせ)いつまでも「自分の解釈は妥当」「他人の解釈は誤っている」と主張されても埒が明かないので、この節のコメント依頼を出しました。- NEON 2007年7月5日 (木) 00:48 (UTC)

Albumさんは、何故、論点と異なる引用を次々と出されて、論点をずらそうとしているのでしょう?

Hatukanezumiさんの例ですが、あまりに些末主義に走り過ぎに思えます。例えば、ビデオゲームではなく小説だとすると、「私の手にした同書は、(落丁や乱丁があって)そのような記述は無いので、Wikipediaに掲載されている事は嘘だ」と言っているのと同じ事ではないのでしょうか?

特定の状況でのみ起こる、もしくは、他の状況では起きない、というのは、それを含めて記述される問題であり、各個の検証可能性とは無関係でしょう。念のため、例として上げられた「デモ中にショットボタンを3回押すと熊が表示されます」の項は、それだけで完結しています(勿論、他に情報を付加しようと思えば可能ですが)。

なお、既にあるビデオゲーム関連記事をご覧になれば判ると思いますが、バージョンの違いは(出版物等に比べると)ビデオゲームにとって極めて重要度が高く、多くのタイトルでその差異などが記載されています。

Y tambeさんの、

「その全情報への到達が保証されているのか、誰にでも容易であるか、またすべてに到達できたかどうかが証明できるのか」

という話ですが、全ての情報を記述する必要自体が無いので、全てに到達する必要性はありません。また、項の冒頭にも、

「情報の内容によっては、多少の手間や技術が必要にはなりますが、それが極端な場合にだけ出典を明らかにすれば十分だと思います」

と書いた通り、容易ではないと判断、ないし、議論になった時だけ、出典を書くなり、ノートで議論するなりすれば良いだろうという話です(当然、公開が「不謹慎」に当たるかどうかに対する議論も行われる可能性もありますが)。--Lt.Kelly 2007年7月5日 (木) 05:49 (UTC)

本来議論する内容はズレていますが。
この議論の争点はビデオゲーム(作品)が一次資料であるか否かだと思うのですが。否定側は「ビデオゲーム自体は一次資料にはならない」ことを示せば良いのではないでしょうか。
一つの例を出してみます。
「ボタンを押すとAから弾が発射される。その弾をBに当てるとBは消滅し、100ポイントが入る。」
この事についてどのようにお考えでしょうか?
  • ビデオゲームという空間上における独立した一つの試行である。
  • ビデオゲームという一次資料から容易に検証可能な信頼できる情報である。
否定側は前者、Lt.Kellyさんは後者のように考えているのではないかなと思います。どちらが正しいかはさておき、私自身は後者が正しいと考えます。一連の操作による結果はプログラムによって確定された情報であり、それ以外の因果は存在しません(ごくごく一部の例を除いて)。また、もしビデオゲームそのものが一次資料に値しないなら、ビデオゲーム、ひいてはサブカルチャー系の信頼できる一次資料とは一体何なのかも疑問に残ります。
ビデオゲームの特殊性という言葉がありましたが、私は「読み取るだけでなく、それを踏まえた直接の操作による介入によってのみ情報を引き出せること」だとしています。操作をしなければならないことが、現実における試行との混同や誤解を招いているのかもしれません。--Reminiscence 2007年7月5日 (木) 12:22 (UTC)
「一連の操作による結果はプログラムによって確定された情報であり、それ以外の因果は存在しません」を本当に検証するのは、相当困難です。何回か試してみて「ボタンを押すとAから弾が発射される。その弾をBに当てるとBは消滅し、100ポイントが入る。」という結果を得たとしても、別の時に違う条件で試してみたら違う結果になる可能性は否定できません(主人公の登録名、日付や時間、ストーリーの分岐等々、考えられる条件はいくらでもあります)。--Dwy 2007年7月5日 (木) 13:33 (UTC)
なるほど、確かに「時間以外全く同じ条件でザコ敵を破壊したら昨日は100点だったのに今日は200点だった」なんて仕様もあり得ないことはないですからね。中身が不透明な分、常に変化する可能性を孕んでいるかもしれません。その点では文献と並べるのは困難でしたか。--Reminiscence 2007年7月5日 (木) 13:51 (UTC)
まぁ、それ自体は、アインシュタイン物理学に対するニュートン物理学のように、「間違ってはいないが、(条件の不足によって結果として)含有(統合)されてしまった」というケースと似ていますね。それは所謂「不存在の証明」等とも関係するので、また別の議論が必要かも知れませんが。--Lt.Kelly 2007年7月5日 (木) 14:12 (UTC)

そもそも「ビデオゲーム」は私企業の「商品」であり、百科事典の項目としてふさわしくない。しかも、その商品の中から特定の事実を抜き出すのは「独自の調査」に過ぎない。「百科事典の編纂」をしていることを忘れてはいけない。ビデオゲーム関連項目は全削除すべきだ。--Album 2007年7月6日 (金) 16:13 (UTC)

それ(「商品」の除外)は、サブカルチャー系ほぼ全て(もしくは、大多数)に該当するという事を認識した上での発言なんでしょうか?--Lt.Kelly 2007年7月6日 (金) 16:30 (UTC)
ここは「検証可能性」のノートです。そのような暴論は然るべき場所を選び、ご自分で節を設けて展開して下さい。- NEON 2007年7月6日 (金) 16:49 (UTC)
私企業の商品ではない物なんて存在しないと思うけど。本もビデオもパソコンも絆創膏もそうだし。ddd 2007年7月7日 (土) 08:39 (UTC)

なんか漠然とした話になっているのでもうちょっと具体的な議論でも。

攻略本の中には酷い間違いがあるものもありますが、全てのキャラクター、アイテム、シナリオについて解説してあります。裏技も大辞林なり、広技苑なりに載っています。よって、大抵のビデオゲームにおける事実は二次資料からも記述可能です。

マニアの中にはそれこそ攻略本にも載っていないようなマニアックなやりこみ解析をやっている方もいらっしゃいますが、そこまでの記述がWikipediaに必要だとは思えません。独自研究に頼らずとも大抵のゲームの項目は書けます。

バグについても本当に酷いものであれば公式サイトに公開・時にはメーカーも謝罪しますし、誰も知らないようなバグなら載せる価値は無いでしょう。

この辺については問題ないでしょう。

Wikipedia的に議論が分かれそうな事例をいくつか挙げてみます。

  • 酷いバグがあり、多くのユーザーがその事実を認識しているにも関わらず、メーカーが沈黙を決め込むような事態。
  • 攻略本も出ないような、あるいはゲーム雑誌にも載らないようなマイナーなゲーム。(簡単に検証可能であるにもかからわず二次資料が存在しない)
    例えば「パロディウス ポータブル」のステージBGMはアーケード版から変更されているにも関わらずこれに言及した二次資料は公式サイトを含めて皆無です。しかし、これはゲーム所持者であればミュージックギャラリーにて起動後10秒で確認可能な事実です。この事実はWikipediaには載っていますが、削除すべきでしょうか?
  • 簡単に検証可能であるにも関わらず、メーカーの情報規制によって公開されない事実。
    例えば、全10ステージのゲームだが、7/6発売のゲーム雑誌にはステージ2までしか公開されていない。7/13発売のゲーム雑誌でステージ4まで公開されて、7/20にステージ6まで公開される。最終ステージまで公開された完全攻略本は9月に発売される。こうした場合7/6の時点で最終ステージまで書くことは問題が無いか?
    また、中には「永久規制」と言って絶対に公開されない事実もある(エンディング、ゲームの面白さを大きく損なう可能性のある裏技)。これについては書いてはならないのか?

といったところですかね。--以上の署名のないコメントは、MIK会話投稿記録)さんが 2007年7月7日 (土) 21:14(JST) に投稿したものです。

前半部分はほぼ同意です。「議論が分かれそうな事例」ですが、WP:NOTを読む限りどれもダメだと考えます。
  • 酷いバグ → ウィキペディアは事実の暴露や報道を行う場ではありません。
  • 二次資料が存在しない → ウィキペディアは独自の調査結果の発表の場ではありません。
    公式な方針ではありませんがWikipedia‐ノート:削除の方針/non-notableという議論もあり、マイナーゲームの記事が削除依頼に諮られた場合には分が悪いと思います。
  • 情報規制 → ウィキペディアはニュース・ニュース速報の場所ではありません(関連:Wikipedia:性急な編集をしない)。
「永久規制」も、そもそも規制がかかっている以上は信頼できる二次資料が存在しないはずですが、規制をかけているメーカーの意図を尊重すれば記述しない・記述しようとしない方が好ましいでしょう。- NEON 2007年7月7日 (土) 14:43 (UTC)
MIKさんの挙げられた「議論が分かれそうな事例」について、繰り返しになりますが、一応。
酷いバグがあり、多くのユーザーがその事実を認識しているにも関わらず、メーカーが沈黙を決め込むような事態。
掲載反対の意見の方は、「Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません」の「事実の暴露や報道を行う場ではありません」を根拠としているようですが、その「事実の暴露や報道」の具体的に意味する事である(同項に書かれている)個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述には該当しないので、掲載は可能と思います(そもそも、多くのユーザが認識している時点で、「暴露」にさえも当たらないのですが)。
攻略本も出ないような、あるいはゲーム雑誌にも載らないようなマイナーなゲーム。(簡単に検証可能であるにもかからわず二次資料が存在しない)
たとえその単独タイトルがマイナーであっても、「Wikipedia:著名性」によれば、独立したページとしては不適当であるにしても、他のページ(例えば、メーカーのページや、シリーズゲームのページ)に掲載(当該項の言い方に沿えば「統合」)するのは問題無い(むしろ、価値がある)と思います。
また、二次資料が存在しなくても、「Wikipedia:独自研究は載せない」内の(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。という例外に該当するので、その記載も問題無いと思います。
簡単に検証可能であるにも関わらず、メーカーの情報規制によって公開されない事実。
これに関しては、Wikipediaがニュースではなく百科事典であるという観点から、掲載を急ぐ必要は無いと思われますが、あまりにも時間が経過した場合等に掲載の要望があるなら、各個のノートで議論されるべきではないでしょうか。そもそも、一般ユーザは規制自体を知らないはずですけどね。--Lt.Kelly 2007年7月7日 (土) 18:22 (UTC)
Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説場所ではありません」の「事実の暴露や報道を行う場ではありません」は最重要である具体例の1つとして個人のプライバシーを上げているにすぎません。プライバシーに限定されるのであれば直後の「もっぱら知られていない事実を公表することが目的ではありません。」の前にプライバシーについて述べるのが普通でしょうね。どのみちプライバシーであろうとなかろうと独自の研究なので不可ですが。
Wikipedia:独自研究は載せない」内の指摘箇所(1)では具体例としてアップルパイを上げていますが、これが日本語版としてはいまいち分かりにく例なんでしょうな。英語からの翻訳でアップルパイとなっている理由は、アップルパイの記事見てもらえばわかると思うんですが、「(アメリカ人なら)当たり前に知っていて、何の資料もなく誰でも書ける」具体例です。たとえドラクエでもアップルパイと同格には扱うのは無理があるでしょう。さらに言えば、ゲームの専門知識がある程度ないと検証そのものが出来ないですよね。私を含めゲームに慣れ親しんだ人間からは想像し難い事ですが「ショットボタンを3回押す」って言うのは実は結構技術の要することですよ。分別のある大人の代表例であろうご年配の方々にはどのボタンを押していいか分からず検証作業自体が困難な方も多いでしょう。というと「アップルパイも料理の知識がないと」と言う反論が来そうですが前述の通りアメリカ人なら誰でも知ってる事の具体例ですので日本では少し不適格な例である事は念頭に置いて頂ければと(まぁそれでも個人的には、ゲームの検証出来る人よりはずっと多い気はしますが。)。
(2)については明らかに分析が入ってますね。何度もでて来てる例で言いますが「ショットボタンを3回押せば熊がでて来る」と言う結論は「ショットボタンを2回押しても熊がでない」事など様々な情報を分析した結果です。--疾如颯2 2007年7月7日 (土) 19:32 (UTC)
さすがにこの長さになってくると、みんながみんな全文読んで書き込んでるとも思えませんが……。
プライバシーに限定されるのであれば直後の「もっぱら知られていない事実を公表することが目的ではありません。」の前にプライバシーについて述べるのが普通でしょうね。
それは勝手な解釈が過ぎますね(気になるなら、英文を読んでください)。それに文意をちゃんと汲み取っていません。「もっぱら」です。「知られていない事実を公表することが全ての目的ではありません」という意味です。知られていない事実を公表する事を否定しているわけでもありません(別に推奨もされていませんが)。
「ショットボタンを3回押す」って言うのは実は結構技術の要することですよ。
疾如颯2さんが言われている「分別のある大人の代表例であろうご年配の方々」にとって「ショットボタンを3回押す」事が困難なら、恐らく、ビデオを再生したり、一時停止したりなども、とてつもなく困難でしょうね。
そこで言われている「分別ある」とは、「分別のある大人であるならば理解できる程度の説明書や内容を理解し、平易な作業を行える」という意味だと思うのですけど。
アメリカ人なら誰でも知ってる事の具体例ですので
つまり、アメリカ人には当たり前でも、他の人には異なる場合もある、という事。「分別ある大人」と言っても、一元的なものではない、という事でもあるわけです。
「ショットボタンを3回押せば熊がでて来る」と言う結論は「ショットボタンを2回押しても熊がでない」事など様々な情報を分析した結果です。
前にも書いてありますが、これはすでに分析とかいう次元の問題と異なってきています。「不存在の証明」は別の話です。「不存在の証明」を記述に盛り込もうとするなら、殆ど全ての記事は「分析された物」になるわけです。--Lt.Kelly 2007年7月7日 (土) 22:45 (UTC)

なぜ長くなるのかわかりませんか。あなたの独自解釈を何度も繰り返し書かなければならないから、長くなっているのではないですか。なぜ繰り返し書くことになるかといえば、あなたのいささか風変わりな主張を、複数のひとが「おかしい」と思うからではないですか。

主張というものは、何度も書けば説得力が増すというものではありません。むしろ逆で、「このひとは、他人の批判を聞いて自分の意見を吟味するということができない人なのだろう」と思われるだけです。

そういうわけでLt.Kellyさん、今回はあなたのほうが分が悪いです。「ビデオゲーム関連の検証可能性について」なる話題についてはいったん終了として、もうすこし説得力のある論理展開ができるようになってから (つまり、こんなにノートの可読性を損なわなくても議論できるようになってから)、あらためて問題提起してくださいませんか。

どうしても、いま議論を続けたいというのなら、井戸端にでも行ってもらえませんかね。 --Hatukanezumi 2007年7月7日 (土) 23:23 (UTC)

では、若干手短に。不必要に長くならないように議論と関係無い事を書かないでください。リンクを辿らないでも分るようにわざわざ長くなっても要点を引用しているのですから、せめて反論する気があるなら、少しはそれに沿ってください。あと、まるで自分が本流のように書かれていますが、少しはサブカルチャー系のページでも見て回って、自分の主張とどれぐらい乖離しているか目にしてください。まぁ、現時点で終了となる分には何も変わらないでしょうから、別に私は構わないんですが。--Lt.Kelly 2007年7月7日 (土) 23:57 (UTC)
別に本流だとおもっていませんし、サブカルを軽視するつもりもありません。
とにかく、同意いただけたようなので、この件はいったん終了ということで。 --Hatukanezumi 2007年7月8日 (日) 00:07 (UTC)