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Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive05

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信頼性に乏しい情報源への付け加え

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端的に述べたいのだが、このウィキペディアでは、夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙などからの出典は信頼性に乏しい媒体としてあまり歓迎されていない。そこで、私が意見を申したいのは、週刊誌やまた週刊誌的な内容を含む月刊誌についての信頼性はどうかということだ。ウィキペディアを編集するみなさんならわかると思うが、週刊誌は公共性のあるウィキペディアに信頼できる媒体として使用するのはあまり適していないのではないかと思うのです。そこでみなさんの意見を聞きたいと思い、以上の意見を述べさせていただいた。

このことをウィキペディアを編集する皆さんで議論してもらえないだろうか。--以上の署名のないコメントは、Shinseiki会話投稿記録)さんが 2007年10月5日 (金) 09:52(UTC) に投稿したものです。

検証可能であれば記載可能というスタンスではなかったでしょうか?但し政治や経済の話題を扱う記事に、三流紙の記事を出典に主張するのは好まれないでしょう。それは中立性を保証する意味や、その記事の内容に関する正確性の疑義から出るものだと考えます。「○○誌(の△△記者)によると××だ」と記述される分にはWikipediaで議論は発生しないでしょうが、三流紙の記者の主張にそった論旨でWikipediaの記事を作成すると議論が発生するのでしょう。このあたりはWikipediaの編集手法に関わる問題だと考えます。--121.112.179.28 2007年10月15日 (月) 04:18 (UTC)
私はインターネット新聞JANJANの記事を書いています。もちろん自分の記事を出典にすることはありませんが、自分と関係ない人が書いた記事を出典として引用することは許されるのでしょうか?本文に書かれていない媒体であるインターネット新聞について記述も議論もないことが気になります。インターネット新聞は登録すれば誰でも文章がかけますが、新聞社の校正を経ないと記事は公になりません。--クッキングボス 2008年2月16日 (土) 01:15 (UTC)

「検証可能性」における「検証」とは

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wikiで「検証可能性」というときの「検証」は、いわゆる印刷物の「出典」の有無ではなく、もっと論理的、原理的な問題だ。出典は、記入者に直接検証ができないもの、もしくは、再検証のための、二次的情報である。

この概念は、もともと20世紀からの哲学(論理実証主義)において、宗教のような疑似知識と知識(サイエンス)とを区別するために議論された。その元は、カントの『純粋理性批判』における理性の限界問題にある。たとえば、中世以来、神が存在するか、という神の存在証明問題が、多様に論じられてきたが、カントは、たしかに神という概念は存在するにしても、それは、他の概念を統制するために使えるのみであって、他の概念と構成するためには使えない、つまり、概念ではなく理念である、したがって、知識の対象ではなく、信仰の対象であるとした。

そして、論理実証主義も、たとえば、すべてのカラスは黒い、問題に対し、当初、原 理 的 に、すべてのカラスを調べ挙げて検証することができない以上、疑似知識ではないか、と、問題提起した。しかし、これは、たった一羽でも白いカラスがいれば、事実によって否定的に検証されうる、つまり反証されうる、反証可能性があるがゆえに、経験知識としての位置を留保されることになった。かくして、原理的に検証も反証もされえないものが、疑似知識として、信仰ないし盲信の領域に切り離された。

欧米ではこういう哲学の初歩の問題を高校で教えているので、wikiでもひどい問題にはならないのだろうが、どういうわけか日本では、かってに独善的な「出典主義」を言い出すシロウトたちが大勢出てきた。出典、つまり伝達可能な文章記録は、知識としては、むしろ直接経験に劣る、というのが、原則だ。というのも、文章記録としてある、ということは、文章記録の内容が真であることを保証しないからである。それゆえ、学問のプロの研究者の世界では、出典主義ではなく、再検証主義を採っている。すなわち、ある知識が提起されたとしても、他の研究者は、これを鵜呑みにすることなく、自分たちもまた同じ方法によって再検証し、その結果を持ち寄って、確かな知識を確立していく。

ここにおいてふたたび問題になるのが、検証可能性だ。他の研究者によって原理的に再検証できないのでは、知識としての立場を確立できない。Wikiも、他者にも再検証可能な個々のオーサーの直接経験を第一としている。

「出典」というと、日本の輸入学問の悪しき伝統のせいもあって、あたかも他の出版物の文言を指すかのようだが、wikiの原語は、ソースないしレファレンス、つまり源泉ないし参照であり、知識の出所としての再検証の対象ないし方法のことだ。これほど誤解が多い以上、訳語を早急に正すべきだろう。

むしろ、自分自身が直接に検証した身近な知識ではなく、どこぞの本に書いてあった、という引用や孫引の集積になると、たとえ書いてあったということ自体は事実であっても、書いてある内容の事実性から遊離する危険性が高まっている。それどころか、日本版では、おかしな連中が、勝手な「出典主義」をもって、多くの人々から寄せられるべき直接経験の情報(事実かどうかはともかく)をやたら削除したがる、という奇妙なことが起こっている。

繰り返すが、検証可能、ということは、誰にでも検証可能、などという実際的な話ではない。高度な専門知識の分野は、シロウトには近づき得ないに決まっている。それどころか、プロの研究者であっても、現在はだれも実際の具体的な検証方法を持っていないが、原理的には検証可能である知識(したがって信仰や盲信の対象ではない)というものもある。たとえば、数学の未解決問題などがそうである。Wikiの原則は、あくまで、すべての人をもってしても絶対原理的に検証不能な疑似知識(つまり信仰や盲信)のみを排除する、ということであって、真実であることが検証され確立されているもののみを掲載するということではない。自分が検証方法が思いつかないからと言って、やたら「検証不可能」「独自研究」などという専門用語を振り回して、「検閲」すべきではない。むしろ、他者の記述の削除においては、削除する者の方が、検証不可能であることの立証責任(証明不能証明というやつ)を負う。

この検証可能性問題の議論には、下記の書籍が、よくまとまっており、日本では一般の人にも理解しやすく、参考になるだろう。

村上陽一郎『科学のダイナミックス――理論転換の新しいモデル』(サイエンス社, 1980年)

結論として、日本版wikiの「出典」という訳語は、あまりに誤解が多いので、早急に全面的に修正すべきである。意見を請う。純丘曜彰 2007年10月13日 (土) 02:12 (UTC)

  • Wikipediaは学術情報などの公表の場ではないですよ。出典主義はWikipediaの掲載ルールです。学術的に正統であっても、未公表の情報はそれを採用しないというのが運営の基本ルールです。Wikipediaのこの基本方針は、運営者からの要請です。そしてこのサイトは我々のモノではなく運営者のものです。--121.112.179.28 2007年10月15日 (月) 03:44 (UTC)出典の提示がない投稿は即時に削除すべきかどうか、についてはWikipedia:出典を明記するのノートで議論がありました。そこでの(とりあえずの)合意のようなものは「編集合戦が発生した場合は出典を示すことがリバートを阻止する唯一の盾である」といった所だと理解します。出典が提示されていない記事はWikipediaに大量にあり、そのいくつかは内容が怪しいです。出典の要求は「その記載内容を攻撃するための有効な武器」といった所ではないでしょうか。--121.112.179.28 2007年10月15日 (月) 03:56 (UTC)
  • 純丘曜彰さんにおうかがいします:上記コメントは、en:Wikipedia:Verifiabilityをお読みになったうえでのご意見でしょうか?--miya 2007年10月16日 (火) 08:23 (UTC)
  • こんにちは。言葉遣い(検証という語の意味)と、方針の内容(文献などに書いてあることだけを書き、直接的な経験を書くな、という内容)と、両方について問題があるという指摘だと理解しました。ウィキペディアには、「アインシュタインの相対性理論を論破しました、これを是非世に広めたい」、というような人の投稿もあります。そういうものを審査するにはウィキペディアという場は不向きなので、それは専門家が集う学会や学術誌でやってもらうことにし、ウィキペディアはそうした専門家集団の間である程度の意義を認められた説などを記述する、言わば二次文献的な立場に立とうというのがこの方針の意図だと思います。科学哲学を知っている人から見たらそれを「検証可能性」とか"Verifiability"という風に呼ぶのは違和感があると思いますが、これは、一般人の言葉遣いだと思って頂けばいいかと思います。ウィキの使い方としては、当然、専門家が議論を戦わせたり、最新の実験について報告したりする場に使うという可能性も当然考えられるところですが、ウィキペディアではそういう使い方はしないことにしよう、という合意なのだと思います。どうしてかというと、匿名性が高く、執筆・編集者に占める専門家の割合が低いので、書き手の主張や判断力や立場によって何かを解説しても読者に信頼してもらえないのではないか、むしろ既存の権威である専門家の知見、学術論文や出版物などに頼ってそれを咀嚼したり集約したりするような立場に立つことで、読者にも信頼してもらいやすくなるのではないか、ということだと思います。また、ウィキペディアはインターネット上では目立つサイトですから、いろいろな利害関係者が投稿・編集を行い、自分の立場に都合のいいような、利益をもたらすような記述に変えようとするような動きも増えてきているところです。これについても、書き手が直接見聞したと主張する(けれども他の人にはそれを確認できない)内容の投稿を禁止し、ある程度の査読などを経た文献によって裏付けられるものだけを投稿するようにという方針を採用することで、ある程度は対処できます。また、このように二次文献だと自らを位置づけることは、百科事典のあり方としても、それなりに合理的な形だと思います。他の方向性が考えられないわけではないですが、今のウィキペディアの状況を見てみると、まあ現行の方針が適当かな、という風には思います。例えば、学会が、会員の書き込みを想定してウィキを運営するような場合にはまた大きく違った使い方があると思いますが。Tomos 2007年10月16日 (火) 10:39 (UTC)
  • だから、「出典」という言葉の意味が、wikiの本来の原語とずれてる、文献のことじゃない、ってんのに。この「出典」という術語に絞って話そうよ。英語版のどこに出版物とか、文献とかという規定があるのか、私も知りたいぞ。教えてくれ。(べつに英語版に従う必要がない、みたいなヘリクツは後にしてくれ。)純丘曜彰 2007年10月17日 (水) 09:32 (UTC)
  • 関連する議論が、「ノート:ロスト・ユニバース#ヤシガニ問題が独自研究に当たるかについて」にありますので、リンクを残しておきます。Abacus 2007年10月17日 (水) 10:00 (UTC)
  • Wikipedia:出典を明記するあるいはen:Wikipedia:Citing sourcesは該当しませんか?典拠とすべきsourcesの適格性についてはWikipedia:出典を明記するのノートでも一部議論があります。出典や引用元が仮に明示されていても、それが正しく引用されているかどうか、についてはおそらくWikipediaでは合意が得られていないと思います。また「素人」に理解不能な記事については、その出典が適格なものかどうか、誰も判定できないような状況であれば原則放置されているのがWikipediaの現状と考えられます。--121.112.179.28 2007年10月17日 (水) 10:20 (UTC)
  • あ~。確認しましたが。純丘曜彰さんはヤシガニ問題の議論をされているのですか?これは「ヤシガニ問題」という術語がそもそも世間一般に実在しているのか、それが検証可能で信頼できる出典で、その実在を検証できるのか?という問題では?アニメーション作品の出来がいくら酷いものであったとして、その現状が確認できたとしても、それを独自に「ヤシガニ問題」と呼称すれば、それは新規の定義づけになり独自研究ですね。--121.112.179.28 2007年10月17日 (水) 10:39 (UTC)
  • 英語版でのverifiabilityという言葉自体も日本語版の「検証可能性」という言葉も本当に適切かどうかはちょっと怪しいところがあるかなとは私も感じています。英語版で、独自研究の禁止の方針とを統合してAttributionという形で指針を作り直そうという動きがあったのも、学問でいわれている意味での「検証可能性」とWikipediaで使われている意味との間で齟齬が生じているというご指摘があることを踏まえてなのかなと思います。もっとも、その議論は英語版でも日本語版でもたなざらし状態になっていますが。まあ、科学哲学だけでなく、学問全体で捉えられているものとは、異なった意味が付与されているので、ある種のWikipedia独自用語的な色彩もないわけではないなということで、誤解を招くおそれもなきにしもあらずの表現だとは思いますが。--マルシー 2007年10月18日 (木) 16:23 (UTC)
  • まずは純丘曜彰のコメントへのお返事ですが、「出典」が原則として印刷物に限られないことについては多くの人の合意が得られるように思います。映像資料の類が印刷物ほどの編集・チェックの過程を経ていないので信用に値しないといった話はありますし、信頼性の点で印刷物に比肩する出典は何があるかというと、実際には限られてくるかも知れませんが、例えばアメリカなら学会発表がビデオや音声ファイルの形で提供されているものもありますから、原理的に印刷物でなければないとだめということはないと思います。次に、121.112.179.28のヤシガニ問題についてのコメントですが、見落としがあるかも知れませんが僕には問題の所在は別のところにもあるように見えました。ヤシガニ問題という語自体は一定の普及を見ているものの、それが信頼できる情報源に一度でも掲載されたことがあるのかどうかはわからない、という語・呼称の問題がひとつあるかも知れません(=僕なりに解釈した121.112.179.28さんの指摘)が、それ以外に、ヤシガニ問題が何であるかを記事中で説明する際に、どのような場面がその問題に含まれるのかを具体的にいくつも挙げています。ここで、どのような場面が含まれるかの取捨選択が、書き手の判断に拠り過ぎていて、それを裏付ける信頼できる出典などが何もないのではないか、ということが問題であるように思います。これは、ノート:ロスト・ユニバースでMetronomeさんによる指摘があったように、一次資料の扱いに関する問題だと思います。
    • 出典があるのかどうかはわかりませんが、国立国会図書館の雑誌記事検索や、CiNiiではそれらしい記事は出てきませんでした。
    • 厳密・厳格な考え方を採用するとしたら、具体的にどの場面がヤシガニ問題の例とされるのかを複数の信頼できる出典によって確認・紹介することが必要になると思います。(文献がひとつしかない場合には、該当する場面の取捨選択をそのまま記述することが著作権法上の問題になるのかどうかがわかりづらいので、どうするのがいいかはわかりません。)もう少し寛容な考え方を採用するなら、説明の仕方として、「ヤシガニ問題は…という問題である。」と出典がつくような、あるいは少なくとも異論がないような定義・解説を提示した上で、実際に個別の場面がその問題に該当するかどうか断言することなく、「実際この回の放送内容には…というような場面が見られる」と定義に該当するものを紹介するという程度に留めるのがよいと思います。そのような形であれば許容されるかというと、それは人によって意見が分かれるところだと思います。一般に、多少の直接的観察に基づく記述が含まれることは、それが第三者によって容易に確認でき、かつ、解釈の余地が少ないのであれば問題がないように僕は思いますが、プロジェクト全体の合意事項とまでは言えないかと思います。Tomos 2007年10月19日 (金) 10:37 (UTC)
  • いろいろ議論と教示ありがとう。思うに、「検証可能性」とか、「出典」とかの基本概念の方にこれだけ問題がある以上、「検証可能性が無い」とか、「出典が無い」とか、「独自研究だ」とか独善的に決めつけて、せっかくだれかが手間をかけて書き込んでくれた貴重な情報を、個人が勝手に削除しまくるのは、あまりに不遜なんじゃないだろうか。もし、議論の余地があると思われるような問題記述があったら、勝手に独断ですぐ削除するのではなく、せいぜい、例の「出典求む」テンプレートの小さいの(いまのは大きすぎて、文章の流れを妨げる)をつけて、原理原則の方の議論がクリアに片付くまで、とりあえずは温存しておくべきなのじゃないだろうか。長くなって悪いが、この問題に対する、当座の解決方法として、この提案はどうか?純丘曜彰 2007年10月19日 (金) 14:43 (UTC)
    • 何か大きな勘違いをしているのではないか。もう一度WP:VWP:NORWP:NPOVWP:NOTなどを熟読してほしい(日本語版が嫌なら英語版でも)。
    • ある事柄について執筆者の意見や評価を記事に記述することは禁じられている。記述を残すためには、第三者の意見であること明示しなければならない。(Wikipedia:ウィキペディアは何でないかを参照。)そのため、本当にそのような意見・評価を主張する人がいるのかどうかを検証できる情報源(source)を、当該記述を望む側が示さなければならない。情報源として認められているものは"In general, the most reliable sources are peer-reviewed journals and books published in university presses; university-level textbooks; magazines, journals, and books published by respected publishing houses; and mainstream newspapers. "(en:WP:SOURCES情報源が示されない場合、当該記述の削除は免れない。所論は認容できない。--野良猫 2007年10月19日 (金) 15:46 (UTC)
  • 現行の方針がどのくらい厳格なものであるかについては、少し上の規制緩和案についての2節で議論している通り、人によって理解にひらきがあるように思います。また、方針はどの程度厳格なものであるべきか、(現行方針を改正する必要があるかどうかも含め)についてもまた意見がいろいろあるようです。僕は方針をやや柔軟に解釈していますが(というのもあまり正確な言い方ではないですが)、もう少し方針文書も書き換えた方がよいのではないかと思っていますが、それについて多くの人が合意できるかどうかはまだよくわかりません。Tomos 2007年10月19日 (金) 20:43 (UTC)
    • 人によって方針解釈に開きがあるのは事実であろう。ただし、あちこちで同じような議論をしても混乱するだけだ。議論がうやむやのうちに、「今回の提案について合意された」とならないように、あえて強い調子で反対を表明した。
    • 加えて言うならば、質問や意見が出ているにもかかわらず、それに答えないで自分の考えだけをひたすら主張し続けるのは、投稿ブロックの方針8.1「ノートページや各種依頼ページにおける議論の拒否や妨害 」とも思える。--野良猫 2007年10月20日 (土) 00:57 (UTC)
  • 純丘氏の提案は、彼の投稿履歴を見る限りは「俺の編集を差し戻すな」と言っているようにしか見えません。「出典の訳語が原語と違うから日本語版は出典主義に陥っている」などという意見も、英語版と日本語版の方針を見比べれば持つはずのない誤った意見でしょう。なお利用者‐会話:純丘曜彰でも彼の言動に対し苦情が来ています。野良猫氏の言われるように方針文書もろくに読まず自説を繰り返すようならブロック依頼も考えた方がよいと思われます。--Metronome 2007年10月20日 (土) 11:32 (UTC)

議論のサブページ化の提案

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ページの文量多くなってきたので、例えば井戸端みたいに節ごとにサブページ化しては、と思うのですが。ご意見いただきたく思います。--野良猫 2007年10月19日 (金) 15:53 (UTC)

純丘曜彰氏のWikipediaに対する個人的な誤解の問題だと思うので、ここで決着つけておいて良いのでは?「典拠主義」とか「出典主義」という表現にアレルギーを感じるのはWikipedianになるため誰もが通る儀礼のようなもんですよ。Wikipediaには何の権威も信憑性も真実も含まれて居ない、という前提に立って、そこに記載されていることが本当だと確認するのはユーザー(読者)本人だということをもう一度確認してはどうか。Wikipedia創設のきわめて初期、米国でも「典拠主義」に関する論争が起きて、Wikipedia創設者の一部が離脱するという事件があったそうです。どうしても気に入らないなら、その創設者の一部の人とおなじくWikipediaプロジェクトから離脱するしかないというところ。--121.112.179.28 2007年10月20日 (土) 00:21 (UTC)

出典無き記述の除去について

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/出典無き記述の除去に分割されています。

出典が信頼性があるかの判断

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何かと書込に[要出典]を貼り付けたり書いた直後にrevertする行為が私方で話題になっていますが、そこでの争点は結局「情報の信頼性の判断」です。この検証可能性の頁では信頼性の乏しい情報源として数行ほど指示がありますが、ここでいう「評判がよくない」の判断基準はどのようにしたらよいのでしょうか。結局これを判断するのは主観でしょうが、この点において私方で問題となっています。何が信頼できて出来ないのか、それはその判断する人物の経験や知識によるものです。これは主観ではないのでしょうか。何か内容的に具体的な指針を求めます。

例えば、音楽アーティストなどでは雑誌のような媒体でしか取り上げられませんが、そこでの論評や評価は信頼に値するものでしょうか。発行部数が極端に少ない発刊物もありますし、出版が多様化している今reviewerが必ずしも信頼性のある情報を提供するとは限りません。そこでの判断は基準はどうしたらよいのか、問題となっています。某氏は雑誌やメディアで取り上げられば一応掲載されたという事実を汲んで「信頼に値する典拠」として掲載を認める?そうですが、私はそれでは信頼性の検討が十分でないと考えます。結局、言ってしまえば信頼性があるかどうかの判断も主観なのです。某氏はその事実を譲らず、「検証可能性」や「独自研究は載せない」といった方針を引き合いに出し、私の提起する問題の本質を考えようとしません。

どこまで突き詰めて「信頼性がある」と判断すればよいのか、皆さんはどのようにお考え解釈しているのでしょうか。具体的に語らず一方的に執筆を恣意的に削除する某氏に非難の声が寄せられています。エンターテイメント関係は情報自体主観的に語られることが多く、こういった「信頼性」の基準が更に難しくなります。この頁においてもっと詳しく定義する必要があります。現在の記述では充分でありません。

検証可能性としても、検証にあたる人物や内容の検証手段も重要になるかと思います。例えば「ラジオでo時o秒に発言した」と典拠として書かれたとしても、現実それを検証することは困難かもしれません。録音されてなければ発言本人たちの記憶を辿るしかありません。しかしもし本人たちが「忘れた」としたら検証可能性は認められないのでしょうか。或は、典拠を記してもそれが「嘘」かもしれません。しかし実際に検証するのは現実的に稀であり、出典があったとしても内容は虚偽ということにもなりえます。現在の「検証可能性」の定義ではこういった側面が無視されているような気がします。しかしそういった局面が問題になってきています。「どれだけ突き詰めれば出典がある、信頼性のある情報源、根拠があるといったことになるのか?」この点を更に充実させる必要があります。--Yesterdayforthem 2007年10月29日 (月) 18:34 (UTC)

すくなくとも存在が確認できないものは一旦コメントアウトしておく(削除・リバートではなく)というのは、編集方針として妥協点になりませんか。--隠者 2007年10月30日 (火) 00:38 (UTC)
Wikipedia:信頼できる情報源というのがあります。Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源で議論なさってはいかがでしょうか。 --Hatukanezumi 2007年10月30日 (火) 04:54 (UTC)
議論というかこの点について皆さんがどう解釈しているのか伺いたかったのです。或はどう合意がなされているのか。Wikipedia:信頼できる情報源は未だ草案であり、進行もあまり活発ではないようなのでこちらに書きました。--Yesterdayforthem 2007年10月30日 (火) 05:21 (UTC)
ラジオ放送を出典とすることが検証可能性を満たすかどうかについてのひとつの解釈が、このノートの上の方にある「非文献資料の検証可能性」という項目の中にありますので参照ください。合意された見解ではありませんが、そういう解釈もあるということで。活躍中のアーチストなどの評価をめぐる記述はたいへん難しいですね。逆に言えば、評価の定まっていない事柄については百科事典への記述は控えた方がよいかと思います。なお「信頼できるreviewer」の目安として、まとまった著作が(自費でなく)出版されているかどうかを考えるのもよろしいかと。それはそのReviewerの書くことが出版に値するものとして資本投下しても良いという程度には編集者と出版社によって評価されたことを意味するからです。雑誌やメディアに取上げられた程度ではちと弱いと思いますが、渋谷陽一あたりの論評を出典として出すなら誰も文句は言わないと思います。--おーた 2007年10月30日 (火) 13:40 (UTC)
信頼性について、雑誌などのほうが少なくとも執筆を依頼され編集者の目を通している分だけ、執筆者の判断や論評よりは信頼される、という程度で捉えて頂くのがよいと思います。雑誌などの評と比較して、自分の判断に自信があり、十分受け入れられるだけの力があるなら、編集部に入るか評論家になるかすれば、自分の意見を検証可能なものとして投稿することができる、ということで。複数の雑誌や評論家/ライターが同じ意見を述べているようなことならば、信頼の程度は多少上がるでしょうし、雑誌の傾向や経営母体や規模、評論家/ライターの主な執筆の場や、執筆傾向、専門とされる分野などは、信頼度の判断となり得るでしょう。--Ks aka 98 2007年10月30日 (火) 15:30 (UTC)

当事者でないことを理由に、信頼できる情報源でないと言えるのか

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/打ち切りに分割されています。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:41 (UTC)

出典の信頼性は出版社か記事を書いた個人か?

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検証可能性の信頼性について下記の内容が記されています。

  • 広く信頼されている発行元からすでに公開されている…についてのみ言及すべきです。

また、記事の内容及び記者についての言及・調査は下記のように記されています。

  • 実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。

上記より、現状のルールでは出版社の信頼性を問うことは可能ですが記者や記載された特定の記事への言及・調査は行わないよう強く求められている状況です。 (もし、信頼性のおけない記者や記事ばかり載せている出版社であれば、出版社自体が信頼の置けないこととなり出版社への信頼性の低下ということで話し合えばよい物と思います。)

もし、記者個人や特定記事に対して信頼性を問うのであれば、上記ルールの変更が必要と思うのですが。--Wingman11 2007年11月5日 (月) 00:44 (UTC)

Wikipedia:信頼できる情報源が草案なので悩ましいところですね。Wikipedia:検証可能性の求める要件は「検証可能である事」で、その検証すべき材料が「信頼できる出版物」であれば、その内容は原則として踏み込まない、という点です。ですから「信頼できる出版物」とされているものに「信頼できない内容」が記載されていても原則としてWikipediaに記載して良いという事ですね。この端的な例としては大手新聞のニュースをWikipediaの記事に採用して、結果としてそれが誤報であったと確認されたような場合です。むろん誤報が確認された時点でWikipediaの記事も修正するのが望ましいわけですが。
重要なことは「信頼できる出典」が1つしかなく、その内容が「どうも信用できない」場合、それをどうWikipediaに引用するかですよね。1.「事件や現象を観測した」事実の記載がなされている場合、それを引用してもWikipediaコミュニティで議論が紛糾することは無いと思います。2.その事実に関する評価がloaded languageにより方向付けられたものであればWikipedia:中立的な観点により、引用に慎重な姿勢が求められるかもしれません。
なお、「~実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます」の箇所ですが、その一文は「記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません」からつながるのであって、記者の信頼性を問う事は含んでいませんね。--125.205.188.24 2007年11月5日 (月) 02:37 (UTC)
Wikipedia:検証可能性の要点は、Wikipedia上に投稿された記事は「世の中にほんとうに実在しているのか」誰でも検証できなければならない、という点でしょう。Wikipediaを読んで、それを出典情報に従って取り寄せてみて「あぁなるほど、たしかに書いてあるな」と確認できる事が「検証可能性」なわけですから、書かれている内容が信用ならないモノであっても原則OKだと思われます(ノストラダムスの大予言のような記事。祥伝社は信頼できても五島勉は・・・)--125.205.188.24 2007年11月5日 (月) 02:50 (UTC)
そうですね。まず信頼性のある出典ありきですね。現状確定ルールはそれしかないので、それに従うということしかできない。”記者の信頼性を問う事”ですが記事の中身が問えなければその記事を書いた記者本人を問えないのではないかと思います。もしくは記者に問題があるとしても、その記者が書いた記事が問えなければ同様になるように思います。
それと懸念点が1つ。もし記者個人の信頼性を問う場合
  • 記者は数多いる
  • 記者の信頼性を問うためには、やはり自己の主観ではなく何か客観的な尺度が必要になる
そうするととてもとても手が足りません。そう言ったこともふまえて”出版社”の信頼性としているのかもしれません。--Wingman11 2007年11月5日 (月) 03:07 (UTC)

現在放映中のTV番組で出典無しに評価や原作との差分を書けるのか?

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医龍-Team Medical Dragon- ノート:医龍-Team Medical Dragon-#出典明記についてにて、議論がありましたがこちらの方が良いと思い書かせて頂きます。

まず、医龍の評価と原作との相違の記事があり、何人かの方が出典不明や独自研究に抵触するため出典の提示や削除を申し出ました。しかし、Ziel氏は、”その検証可能性の解釈の仕方が誤りだと再三言っているのだが、読解力がないのだろうか?「1日は24時間」、「1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下された」という、社会通念上の常識にまでいちいち出典など要求されない。なぜなら、これらは誰もが常識として知っており、出典がなくとも事実であると万人が認識できるからだ。「広島原爆の記事も出典無くしては書き込めません」との発言には本当に開いた口がふさがらない”として、出典無しの掲載を続けています。

もとより、Wikipediaは事実かどうか、嘘か本当か、ではなく出典を持って記事とする旨を伝えてきましたが聞く耳を持ちません。

そこでおたずねしたいのが、評価に関しては出典がなければ削除でいいと思います。原作との差分についてはどうでしょうか?独自研究の1次情報で下記のような文面があります。

  1. 専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説
  2. 分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事

TV番組自体検証可能性を満たしていないので1.は除かれると思います。2.ですがこれは編集を一切加えてはならないと読み取れます(著作権の関係上完全なコピペはダメですが)。また、差分を取るという行為も分析に入ると考えられます。もちろん、原作との相違をわざわざファンブックでない百科事典に書くべきなのかという議論もあるかと思います。つきましては広く皆さまの意見をお聞き致したく--Wingman11 2007年11月22日 (木) 03:42 (UTC)

そもそも利用者:Wingman11会話 / 投稿記録 / 記録利用者:浄三入道会話 / 投稿記録 / 記録と同一人物であることが強く疑われる。この二者が同一人物である場合、自分の意見に対する支持がたくさんあるように見せかけて他のユーザーを欺く行為であり、Wikipedia:多重アカウントの「多重アカウントの使用が禁止されている行為」に該当する。あなたは上で、「医龍の評価と原作との相違の記事があり、何人かの方が出典不明や独自研究に抵触するため出典の提示や削除を申し出ました」と言った。あなたの言う「何人かの方」とは、利用者:Wingman11会話 / 投稿記録 / 記録利用者:浄三入道会話 / 投稿記録 / 記録しかいない。「何人かの方」ではなく、「自分1人」があたかも2人いるように見せかけたカモフラージュではないのか。医龍-Team Medical Dragon-では、利用者:Wingman11会話 / 投稿記録 / 記録利用者:浄三入道会話 / 投稿記録 / 記録以外、この2アカウントに同意するユーザーは誰一人いないのが実情だ。多重アカウントを使って他のユーザーを欺く真似をするような者は、検証可能性を議論する資格すらない。--Ziel 2007年11月22日 (木) 13:59 (UTC)

ここは公式な方針のノートです。特定記事の問題、あるいは特定のユーザーに関する意見を募りたいのであればコメント依頼を提出して下さい。同一人物の疑いがあるのならCU依頼を出して下さい。- NEON 2007年11月22日 (木) 14:49 (UTC)
単純に「出典無くして記事を書けない」という自明の理が出るのが恐いのでしょう。--浄三入道 2007年11月22日 (木) 22:58 (UTC)

出典のない作品評価や原作との相違を載せることが出来るのでしょうか

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再度私が立て直しました(上は荒らしに有ってしまったため)。事の真偽より検証可能性を重んじるウィキペディアで、信頼できる情報無しに作品の評価や原作との相違を書ける物なのでしょうか?(もちろん出典はありません)--浄三入道 2007年11月22日 (木) 23:03 (UTC)

そもそも多重アカウントを使って他のユーザーを欺くような真似をする者が、検証可能性を議論する資格などない。あなたが利用者:Wingman11会話 / 投稿記録 / 記録であることは明らかである。1日は24時間だとか、広島への原爆投下のような明らかな事実であり、かつ誰でも知っているような一般常識にまで出典を求め、削除する行為は荒らしだと何回言わせるのだろうか。ルールの発展性を無視し、表面上の文面のみを見てそれのみを絶対的なものとし、直面する現実の諸問題に対応しようともせずにルールを機械的に解釈するのはやめよ。そのような愚かな行為をすればWikipediaの行く末はどうなるかも想像できないのか。--Ziel 2007年11月23日 (金) 12:29 (UTC)
自身の会話ページで他者の都合の悪い文書の改変、削除を行うような輩にルールを語って欲しくないですね。CUでも好きに行えばいいのに。それと出典を持って記事とするのはウィキペディアの基本方針です。それすら分からずに邪魔ばかりするあなたの態度には開いた口がふさがりません。--浄三入道 2007年11月24日 (土) 00:05 (UTC)

国際単位系広島市への原子爆弾投下の記事を見る限り、信頼できる出典は明示されており、Zielさんの批判は当たりませんね。また浄三入道さんのアカウントに関する疑念をもって本旨を全面否定するのは対人論証(ad hominem abusive)といい、典型的な詭弁法です。--60.47.105.84 2007年11月24日 (土) 04:42 (UTC)

事例研究1 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/「存命人物の伝記」の問題とのすり替わりに分割されています。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:41 (UTC)

事例研究2 「秀逸」記事への「要出典」タグ

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/秀逸な記事への要出典タグに分割されています。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:41 (UTC)

確認:「出典不明示は削除」は、オールマイティな規定ではない

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こちらでの議論はWikipedia‐ノート:検証可能性/「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認に分割されています。--Miraburu会話 / 投稿記録 2022年7月3日 (日) 12:41 (UTC)