Wikipedia:井戸端/subj/「そんな暇があったら記事のひとつでも書け!」の論拠?
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「そんな暇があったら記事のひとつでも書け!」の論拠?
[編集]とある利用者のブロック依頼に関連して、ふと思った雑談です。結論は出ないでしょうけども。
それほど少なくない古参利用者さんたちの発言で割りと頻繁に表題の主旨を目にする機会が多く感じられるのですが。これはWikipedia:雑草とりに従事する利用者を「劣化管理者ごっこ」として記事執筆活動者よりも下位に見るような文脈で多く見受けられるように感じています。が。このような発言の「論拠」は何から来ているのでしょう?
Wikipedia:雑草とりはウィキペディアの根幹である「ウィキペディアを質・量ともに世界最大の百科事典にする」の質を維持する作業に必要不可欠な作業であり、量を増やす記事執筆活動と双璧を成すもので、これはWikipedia:管理者の管理業務だけでは全体の質の維持は成し得ないものであって(特に極端に管理者が少ない日本語版なら尚更)、記事執筆活動ができる・記事執筆活動しかできない利用者を一方的に上位・格上と考える主旨の発言は論拠が不明確ではないかな? と常々思っている次第で。
WP:FAに該当する記事を執筆した執筆編集者を指しているのだとしても、初版一発でWP:FAを取れない利用者は何か能力的に劣っているのかと言えばそうではなく、ウィキペディア貢献に使える時間は個々で違っていて当然なのだからそれぞれがそれぞれの使える時間の中でそれぞれでできる範囲のことを行えば良いだけのことであって、常に記事執筆者こそが上位であるとする考え方は少々納得しがたいんですよね。
なので「特定利用者グループが信仰するウィキペディア教のような私論であり信念」であろう、と思いますし、そのような信念による活動であってもウィキペディアの方針に従ってさえいれば我々は同格で同じ目的に向かって邁進するウィキペディアコミュニティの一員であり同志なので、個々で心中に持っていて構わないものだと思っています。
しかし、複数古参利用者が同様の主旨の発言を行うのを10年ほど過去から現在まで見てきているので、古参利用者の経験してきた何らかの共通経験なり発生事象なりが下敷きとなってそのような共通認識・慣例・信念が生まれるに至ったのだと推測するのですが、「それ」は一体何なのでしょう?--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月13日 (日) 12:37 (UTC)
- Wikipedia:雑草とりそのものを、例えばバカにしていたり、見下していたりする人は、あんまりいないと思います。「見下されている」とするならば、その「作業」が、「雑草とりにすら達していない」とみなされている場合が多いのかなと。もっと言うと、「ある特定の行動」が、そういう評価に結びついてるのではないかな、と思います。個人的には、
- 投稿履歴のバイト数に赤が多い
- バイト数が些少であることがほとんどだ
- 大きく動かした場合、そのバイト数は赤で、かつその編集が論議のタネになったことがある
- 言動がどこか尊大である(他者を萎縮させるような発言をおこなったことがある)
- 管理系議論によく参加しており、かつ余計なことをよく言う
- あたりの条件に丸印がつき始めると、そういう評価を得がちだと思います。
- で、Wikipedia編集者は基本個人プレー(であるべき)と思っていますので、こういうのは「特定利用者グループが信仰するウィキペディア教のような私論であり信念」ではないと思います(というか、そういうものは、削除主義や包摂主義を含めたとしても実際には存在しないと思っている)。たまたま、「そういう諸条件に合致する人」に嫌な思いをしたことがある人が複数いて、その人たちが似たような考えをもつにいたっているだけだと思いますよ。
- 余談ですが、ここであげた「条件」は、割と個人的なものでもありますし、ということはこの条件に丸がついている人たちを、私自身がある種苦く思っているということでもある、ということです。その意味では、私は「特定利用者グループが信仰するウィキペディア教のような私論であり信念」に取り込まれた人、ということになるのかも分かりません。で、私の他にも何人か、同じようなことを考えているだろう人と、Wikipedia外で交流したりもしますが、しかし、彼らの個々の考えには同意できないこともしばしばあります。ですから、結局のところ「ある部分ではある種の同感や共感が生まれる」だけであって、やっぱり宗教などないんだと思います。以上、余談。 --いすか (話/歴) 2015年12月14日 (月) 01:23 (UTC)
- コメント古参と呼ばれる方々は、明らかに記事が足りていない時代を知っていますから、あれこれ議論をしたりするよりも記事を増やすことを重視しようという傾向を持つかもしれません。それは別にしても、百科事典の発展には記事の充実は最優先されるもの、直接寄与する作業です。草取りは執筆作業のフォローであり、管理作業もまた執筆環境を整える意味合いが大きいです。ですから、草取りや管理作業もまた重要な立場ではありますが、書き手よりも偉いってこともないと思うのですね。優秀でない執筆者に対して、(執筆をしていないが)居丈高に振舞う利用者も目にしますし、しばしばその指摘が的を外していたりすることもあります。いわゆる草取りをきちんと行なう上では、情報収集や情報の評価、その用語や分野、日本語についての知識、その周辺についての状況把握も必要です。もちろん、方針やガイドラインなどを案内するには、文書そのものの理解も必要です。校正者、編集者、監修者といった役割が仕事として成立しているのは、執筆そのもの以外のそうした知識や経験、作業といったものに専門性があるから、ですよね。
- もちろん、優秀な草取り作業を行っている利用者もいます(校正の会社に勤めているウィキペディアンとお会いしたこともあります)。しかし、そうした能力を持たないままでも、不慣れな執筆者の不慣れな部分を指摘したり、依頼を出したりしてのはできてしまいますし、そのうちに自分が偉い、よくわかっているのだと誤解してしまう「草取り」や「管理系」「運営系」の利用者は度々現れますし、そこで、ある程度の記事を書けるだけの調査能力や執筆能力があれば明らかに間違いということが共有されていることを、声高に主張したりされることもあります。質の低い草取りは、ひとつひとつの作業に時間をかけずに行なわれてしまいますから、被害は広範になってしまうこともあるし、いちおう方針などの文言を根拠にしているから、なかなか間違いを理解してくれなかったりもします。たとえば書誌情報の書式に文句は言うけれども、ハーバードやシカゴのことを知るわけでもなく、自分で手を動かして修正するわけでもない、みたいな。「何らかの共通経験なり発生事象なり」というのは、そこらへんだと思います。--Ks aka 98(会話) 2015年12月14日 (月) 07:13 (UTC)
- 「記事を書け!」というと相手視点となり、その先には暴言などの諸々の問題が待ち構えていて考え込むのも辛くなってしまうので、最近は、本人視点に着目して(電子蚊取りのマットのように効果が薄くなったら記事を書くみたいな感じで)専守防衛の姿勢で記事を書くことをトラブルに遭遇した方々へお勧めしています。--Triglav(会話) 2015年12月14日 (月) 20:23 (UTC)
- どうも、雑草とりを評価する基準が異なるような気がしています。優秀な草取りとは「Wikipedia:雑草とりを適切にこなす草取り」ではなく「執筆者と衝突しない草取り」と考えると諸所の問題に説明が付くのではないですかね? 問題なのは一番は問題を起こしている人なのは当然なのですが、そこを対応するよりも、執筆者を理解するために記事つくりを体験してみましょう的なアクションで草取りの方々に呼びかけて、衝突の危険性を未然に摘み取ってしまうことができれば、全員が幸せになれそうな気がします。--Triglav(会話) 2015年12月15日 (火) 11:12 (UTC)
- 記事を執筆する能力が長けた方の適切な草取りは歓迎されます。しかしながら、記事を書く能力が無く、
- その記事について詳しく知らないが口を出したい
- ちょっと調べれば加筆できそうなのにそのような努力を一切しない
- 削除と要出典や特筆性、出典の明記タグ等を貼って放置する
- 自分の行為は方針に則った行為であると高圧的に述べるが執筆の協力はしない
- 加筆はせず、複数の記事を自分の好きなレイアウトにして回る
- このような草取りは草取りではなく破壊行為だと思います。たとえば、登山家が航海士に文句を言う(またはその逆)ような草取りは歓迎されないということではないかと考えます。--コヨコヨ(会話) 2015年12月15日 (火) 13:14 (UTC)
- 返信 そこをつつくのでしたら、記事執筆にも{{字引}}からWP:FAまで千差万別であり、志を同じくする同志が互助して質を高めていく協調作業こそを重視するウィキペディアで「(現時点で)記事を書く能力がない」ことのみを以て歓迎されないと判断するのは編集者としての成長の否定であり拙速かと思います。それが破壊的編集であれば即座に行動の停止を促すべきでしょうが、その個々の事例を以て全体を断じるのは極論ではないでしょうか。そして、ここではそこをつついてはおりませんので続けるなら別所に移しましょう。経験の違う編集者間での見解の相違点ですから「雑談から派生した雑談」以上の話にならないと思います。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月17日 (木) 12:49 (UTC)
- 返信 編集者として成長する可能性があるということは、記事を書く能力があるということです。過去のブロック依頼を見ますと、私が挙げたことを何年も繰り返している方が所謂「疲弊ユーザー」として長期ブロックされているような印象を受けました。--coyo^2(会話) 2015年12月18日 (金) 08:02 (UTC)
- 返信 そこをつつくのでしたら、記事執筆にも{{字引}}からWP:FAまで千差万別であり、志を同じくする同志が互助して質を高めていく協調作業こそを重視するウィキペディアで「(現時点で)記事を書く能力がない」ことのみを以て歓迎されないと判断するのは編集者としての成長の否定であり拙速かと思います。それが破壊的編集であれば即座に行動の停止を促すべきでしょうが、その個々の事例を以て全体を断じるのは極論ではないでしょうか。そして、ここではそこをつついてはおりませんので続けるなら別所に移しましょう。経験の違う編集者間での見解の相違点ですから「雑談から派生した雑談」以上の話にならないと思います。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月17日 (木) 12:49 (UTC)
- コメント へのいちと申します。確かに「そんな暇があったら記事のひとつでも書け!」というような発言はときどき目にしますね。(このウィキペディアでのことだったか、外部の掲示板だったか、後者のほうが多いかな。)
- それで、「そんな暇」という言葉が指しているのがいわゆる「雑草とり」のことかというと、どうもそうではないような気がします。これまで見聞きしてきた印象ですが、「雑草とりをしている暇があったら」という趣旨の発言はほとんど見かけなくて、たいていの場合は「こんな論争している暇があったら」という趣旨で言われていたと思います。(例えば いすかさんのコメントの最初の文を読んでも、私と同じような印象を持たれているのだと思います。) この二つ、よく似ている言葉のようにも思えますが、実のところは結構無視できない差異があるように思います。なので、この場でそのあと進んでいる 雑草とりと記事執筆とをどう評価するかというような話は、「そんな暇があったら...」というような発言の論拠はなにかということから、少しばかりずれてしまっているのではないかと思います。
- と、私などもまさに、「こんなところにコメントを書き込む暇があったら...」といわれる部類の者かと思いますが。--へのいち(会話) 2015年12月16日 (水) 09:55 (UTC)
- コメント井戸端なので感想文的なことを言います。誤字の修正とかエラーの修正というような「草取り」はとてもありがたいものです。記事の修正にもなるし、誤字を書いた側にとっても勉強になります。「それだけ」の方もいらっしゃるでしょうけれど、立派な貢献だと思います。
- 一方、記事の中身には全く触らずに、カテゴリのつけかえ、記事の改名ばかりを盛んにやる方、それで論争を起こす方に対しては、「まずは記事の中身を書いてください」と感じます。--柒月例祭(会話) 2015年12月17日 (木) 07:07 (UTC)
なるほど。「暇」をどう受け取るかで後の意味合いがかなり違った文脈になるようで。これは良い見解の違いを多数頂きました。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月17日 (木) 11:59 (UTC)
- 一人でどんなに頑張っても書ける分量には限界がある。それよりは、皆さんがちゃんと書いてくれるように啓蒙・指導する方が、プロジェクトへの貢献度は高い。
- 選ばれた人が書く場合は、書く人がメインでその他の人はサポートという位置付けで良いけど、素人が自由に書いたものを使う場合は、玉石混淆の中から使えるものを取捨選択する作業の方が重要。
のような、管理・運営重視の見解があっても良いはずなんですけどね。これまでの議論の流れを見ても、管理・運営系重視の人は全くいない感じです。
考えてみれば、管理・運営系は、他の人の編集に注文をつけるのが仕事。当然、他の人から反撃を喰らうことがあるし、揉め事になる確率も高い。ルールをうまく説明して分かってもらうのが腕の見せ所になるわけだけど、余程気を付けていても「偉そうな態度」と言われたりして、ストレスが溜まります。それでも記事を改善できている実感があれば、それなりにやりがいもあるのだろうけど、実際にはルールそのものに反対の人が沢山いて、思うようには物事が進みません。そうこうしているうちに、何かの拍子につまらない言い間違いを咎められ、吊るし上げを喰って、結局プロジェクトから追い出されてしまうことになる。あるいは、報われない苦労にやる気を失い、自ら去って行く人も多い。私がこれまで見てきたなかでも、管理・運営系の人々の運命はかなり呪われているように思います。
その点、記事を書く人は幸せです。特に、マイナーな分野で新着記事を書く人は、他の人から絡まれる可能性も低いですし、ある程度作法を覚えてそこそこの水準のものが書けるようになれば(その水準に達するのが、実はかなり大変だったりするのでしょうが)書いたものがそのまま残ることが多い。ストレスは低くて、やりがいはバッチリ。いろいろな事情で活動のペースが落ちることはあるのでしょうが、嫌になって辞めたくなることは割と少ないのではないでしょうか。
というわけで、管理・運営系重視の人はいつしか淘汰されていなくなる。残っている古参の方は書き手の皆さんばかり。だから、自然に執筆重視の意見が主流になる。…ということかもしれません。
以上は、私の主観的な印象に基づく、客観的根拠のない推測でしかありませんが、雑談ということで、ご容赦下さい。--Dwy(会話) 2015年12月18日 (金) 09:37 (UTC)
コメント記事が先か、草取りが先かの議論に、意味はないです。 ある短気な完璧主義の優秀な執筆者はこう言いました。「ウィキペディアは本当は大学の先生に書いて欲しい」と。 短気な完璧主義ならば、完璧な記事を性急に求めるものでして、この言葉の意味は、大学の先生レベルならば、深い見識があるはずだから、適切に深く適切に広い記事(それこそ秀逸な記事というよりも完璧な記事に近づける)が書けるであろうという意味。 しかし現実は、大学の先生レベルの執筆者は、数えるほどです。つまり現状は素人集団ですね。 それに、大学の先生と言っても、ある日突然、(問題ある記事を発見し)大激怒して、優秀な記事を何件か書いた執筆者が主に製作した優秀な記事とみられる記事に、「この記事は、この見識が無いんじゃぁ、全部消して、この見識を取り入れた内容に全面的に改訂すべきだぁ」と大いに噛み付いて危険だったり、あるいは、同じような細かなミスが続き説明しても理解を得られない状態が続くような、若干困った状態の人かもしれません。大学の先生レベルだって人間ですし、そもそも人数が集まりません。 さて、では仮に、大学の先生レベル以外は新記事投稿は認めないと方針を変更したとして、草取りはどうなのかと言うと、経験から言えば、大学の先生(専門家か専門的に学んだ人)レベルであっても、初心者(新規投稿者)の場合は特に、草取りのオンパレードです、特に執筆量が多い人は。その先生にある程度の書式(ウィキ文法)を理解して頂いたとしても、その編集作業は完璧主義ではないので、手直しが必要な部分がどうしてもでてきます。 手直しには、多人数の「目」(気が付くための目)が必要です。出版したら、修正が難しい印刷物では校正のプロが必要ですが、同時に、印刷物も読者の指摘は大切です。そもそもインターネット上のウィキペディアの建前からくる宿命は、草取りは多数の目により行うしかないものなのです。これは自明です。 従って、「そんな暇があったら記事のひとつでも書け!」は、ダメ思想ではないかと疑っています。「そんな暇があったら草取りの一つでしろ!」ならば、案外正しいのではないでしょうか。--謗法(会話) 2015年12月18日 (金) 11:18 (UTC)
(コメント)さて、提起者が冒頭で仰っているWikipedia:雑草とりに従事する利用者を「劣化管理者ごっこ」として記事執筆活動者よりも下位に見るような文脈で多く見受けられるというのが事実誤認であることは複数の方から既に指摘されており、なるほど。「暇」をどう受け取るかで後の意味合いがかなり違った文脈になるようで。これは良い見解の違いを多数頂きました。とのコメントを見る限り、提起者にもご理解いただけたようなので、それは良いのですが、それとは別に、敢えて誰とは申しませんが約1名、壮大な勘違いをしてくれちゃってる人がいて、そういった誤謬をまき散らされると大変迷惑なので、釘を刺しておくことにします。
まず、Wikipediaにおける管理・運営系の仕事は、Wikipedia:管理者という文書1つ見ても明らかなように、Wikipediaの根本理念たる「質量ともに世界最高/最大の百科事典を構築する」ために、法的に問題のある投稿を削除したり、荒らしをブロックしたりといったこまごまとした仕事をこなすことであって、あれはダメだこれもダメだとけちをつけて回ったり、あーしろこーしろと注文(ないし指図)したりすることではありません。Wikipediaにおける管理者はあくまで、「縁の下の力持ち」となるAdministratorであって、現実世界の「管理職」を指すManagerではありません。もっとも現実世界のManagerにしたって、本来は業務のマネジメントをするのであって、業務に無関係のことでまで逐一あーしろこーしろと指図・命令するのはパワーハラスメント以外の何ものでもないわけですが。で、そこを勘違いしたごく一部の人たちが、各種管理者権限を剥奪されたり、目的外利用者としてブロックされたりしているわけであって、管理・運営系の利用者全般が「呪われている」わけじゃないんですよね。そういったごく一部の人たちの行為こそが、「低質な管理行為ごっこ」と呼ばれているわけで、それは仕方ない、むしろ当然とさえ言えるでしょう。なぜなら、事実として質が低いのですから。
そして、「記事を書く人は幸せ」とか「ストレスは低く、やりがいはバッチリ」とか言われちゃってますが... いや、これまで記事書きとしてそれなりにやってきた方が、「自分は記事を書けて幸せ者です!!」という趣旨で仰るのであれば理解できますが、自分ではロクに記事も書かない、サポートもしない人に言われても、「だったらあなたも記事を書けば?」としか言いようがないわけですね。だって、自分も記事を書けて幸せ、Wikipediaコミュニティも良い記事を書いてもらって幸せなら、最高でしょ、と。大抵の執筆者は自分の好きなもの、興味のある分野について記事を書いていますから、確かに、記事を書くことそのものに対するストレスは低いですし、やりがいはバッチリですが、その反面、自分ではロクに記事も書かず、草取りもせず、画像も上げず、インターフェース編集やテンプレート作成、Bot等の技術面でのサポートもせず、つまりは記事のため、ひいては百科事典のためになる行動を一切自分ではすることなく、ただケチをつけて回るだけ、指図して回るだけで、あまつさえ妨害や破壊もするような人たちから、多大なストレスを受けているわけですよ。ましてや、自分では記事の為になることは何もしないのに、口ばかりはいっちょまえで、知ったような口をきかれるというのは、輪をかけて多大なストレス要因なわけですね。で、先日ノート:クロアチアの地理で申し上げたことにも通ずるのですが、「そんなにダメだダメだ、あーしろこーしろ言うんだったら、あなたが自分で記事を加筆でも修正でも全面改稿でもして、良くして見せてよ」と言いたくなるわけですね。かく言う私自身、今でこそアメリカ合衆国の地誌はjawpにおける各国の地誌分野の中でも最も記事の充実した分野の1つになっていますが(それでもまだまだ質的にも量的にも全然足りませんが)、10年前のちょうど今頃はと言うと、記事の質は軒並み低いし、それ以前に重要事項の記事が無い、各州の州都でさえ4割も赤リンクだったという凄惨たる有様で、しかしそれをダメだダメだと言っているだけでは何ら建設的ではないから、今日まで記事を書き続けて、成果を出し続けてきたし、これからも記事で成果を出し続けていけると自負しているわけですがね。
...というわけで、この話題もそろそろ終わりでいいでしょう。皆さんもこんなところで油を売っている暇があったら、記事の1本でも書くなり、草取りの1つでもするなり、画像の1枚でも上げるなりしましょう。私も記事に戻りますので。あでゅー。Yassie(会話) 2015年12月18日 (金) 23:52 (UTC)
- 好例で〆て頂いたので終わりましょうか。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月19日 (土) 13:39 (UTC)