Wikipedia:井戸端/subj/カタカナ表記について

カタカナ表記について[編集]

下記ページにおいても同様の書き込みがなされていますので、そちらも参照願います。

--ドラムスコ 2007年1月21日 (日) 03:40 (UTC)[返信]

一ヶ所で議論できないのかな... 議論が分散して、ややこしいだけなんだけど。というか、投稿主は、全部これを監視して並行して議論するつもりだろうか....。--ゆきち 2007年1月21日 (日) 04:07 (UTC)[返信]

時系列もぐちゃぐちゃで、わけがわからないし、長すぎるという警告も出ますので、勝手ながら節に分けます。連続投稿になりますが、しばらくのあいだご勘弁を。 --ねこぱんだ 2007年1月21日 (日) 23:46 (UTC)[返信]

最初の議論[編集]

ウィキペディアの指針のもとでは投稿者は、宗教や商業を含む諸々の価値体系にたいしては中立的となることが望まれます。洋楽の曲名が日本国内においてカタカナで表記されているのは、「一般的な日本人は外国発の外国語表記には距離を置きがちである」といった前提あるいは先入観を持つレコード会社を始めとする諸組織のマーケティング戦略の一環として捉えられるところがあります。事実のほどはどうであれ、元が英語表記であれば英語で、スペイン語表記であればスペイン語で、といったふうに、曲名やアーティスト名の本来の音声的事実にたいしてはできるかぎり特有文化的な改変(すなわちカタカナによる置き換え)をおこなわないことが望まれます。

[Histwr]氏が挙げている「Stan」についても同様です。外国語のカタカナ表記というのは基本的に音声情報の非可逆的な劣化をもたらすのであり、「すきやき /sukɪjakɪ/」を「sukiyaki /sukɪjakɪ/」と綴る際には起こらない問題が「Stan /stæn/」を「スタン /sutan/」と表記する際に起こります(なぜなら日本語の文字体系には閉音節が存在しないからです)。カタカナ表記は日本人のために、という考えがありますが、言語にたいする日本人の進歩的な理解を真に期待するならば(そしてそれは日本語版ウィキペディアが全般的に望むことであり)カタカナではなく発音記号を用いるべきなのです。(また、ガイドラインで語られている「the」あるい「ザ」の除斥についても同様に大きな難点がある、ということをここで指摘しておきます。)

こういった難点は、信頼できる正確な情報を求められるウィキペディアの記事にとっては致命的なものです。されど解決法はとても簡単なものです。すなわち、よけいな手を加えなければいいのです。このあたりのケジメを私達は一緒に培ってゆくべきです。ウィキペディアをはじめとするインターネットの場というのは、国家や民族の自己中心的な観点や伝統的な風習から離脱して事象を捉えるための機会を私達に与えているものです。外国の語彙・用語をありのままの表記では受け容れたがらないという文化的性癖をせめてこのウィキペディアの環境の中でだけでも克するかたちで物事を「ありのままに」記述することは、日本人には不可能なのでしょうか?

日本語圏でそのような反省的気運がなかなか高まらないのは、日本語の話者のほとんどが日本民族からなっているために自らの言語文化を客観的に「相対化」して観察するという取り組みが一般化しづらいからでしょう。英語やスペイン語やフランス語やアラビア語やヒンディー語の話者達のと比較されうる事例です(これは自然の成り行きであり、私個人が咎めるところをもつものではありません)。そしていざ、日本民族には属さない人間によって日本語版ウィキペディアの記事の表記にまつわる中立性を高めるための議論を持ち出されると、これまでの長い時間にわたって無意識にも大量に繁殖させてしまった内輪的なカタカナ語とそれらへの自らの心理的な「甘え」をいったいどうすればいいのかがわからない、という人が出てくるわけです。

これは私の個人的な主張にとどまる指摘でしょうか? そうではないはずです。仮に日本語を話すイギリス人やアメリカ人やサウジアラビア人やバングラデシュ人やケニア人が急増して日本語版ウィキペディアの音楽の項目が彼らの目にさらされる折には、私がここで持ち出しているのと同じ議論が続々と回を重ねて提出されることでしょう。彼ら(日本国外の人を含む日本語話者全体、すなわち日本語という共同体全体)にとっては、英語がわざわざカタカナで書かれていなければならないという必要は無いのです。(カタカナで書かれていたってそれはどうせ日本語に化けたわけではないのです。それは日本語でも英語でもない、漠然とした文字列にすぎないのです。)彼ら日本語版の(いまだ仮想なる)国際的訪問者達は、日本語版を訪れる以上、日本語と外国語とがしっかり両立したかたちで区別されている文章を期待するのです。英語版ウィキペディアが英国人のためだけに存在するのではないように、日本語版ウィキペディアもまた日本民族のためだけに編集されるべく存在しているのではありません。曲名やアーティスト名は本来の正確な英語表記ではなくカタカナ表記がいい、というのは日本人に固有の好き嫌いの沙汰であり、ウィキペディア投稿者はこの特有民族的な気質にたいしてはあくまで中立的となるよう務めるべきです。「アーティスト」といった語がすでに日本語ではなく、だけどもそちらのほうに粋のよさを「音楽家」や「演奏家」や「歌手」よりも感じる、という日本人に固有の性向が表れています(私がここでカタカナ語を使っているのは、日本人投稿者からの返答を諮るべく一時的に日本人の好みに折れてのことです)。しかし日本語版ウィキペディアの本質的原理は日本人のその気質を望みません。日本語版の記事であるかぎりは日本語と外国語の区別がしっかりつけられていることが望まれるのです。(「ブランド・ニュー・アルバム」は日本語でしょうか? 違います。それでは英語でしょうか? そうでもありません。日本語ならば「新しい曲集」であり、英語ならば「a/the brand new album」なのです。)ちなみに洋楽のアーティスト名をアルファベットで表記することは日本語版の記事としての質を損ねるものではありません。なぜならその場合にあっても「事象(アーティスト)について日本語文で説明する」という目標はことごとく達成されるからです。その際のアーティスト名は、説明文を担うものではなく説明による観察・考察の対象そのものです。説明の手段と対象は異なるものです。

本来的に英語によって指示されている概念・事物があるとき、これをありのままの表記(アルファベット)に保ちながら日本語で説明することは、まったくもって可能なのです。「プリンス」というアメリカ人アーティストがいますが、彼は一時期自らを「Prince」の代わりに特殊な記号で称していました。この時期の彼を対象とする説明では、さて、彼のことはどう呼べばいいでしょうか? もちろん「プリンス」とも「Prince」とも表記するわけにはいきません。例の記号(Image:prince symbol.svg)を使うのです。要は、ここにみられる道理(principle)を日本語版ウィキペディアにおける外国語用語についても適用しましょう、ということです。繰り返しになりますが、それはぜんぜん難しいことではないのです。自らを「The Beatles」と名乗っていた4人がいるとき、彼らのことはそのまま「The Beatles」として説明すればいいのです。「The Beatles」の読み方がわからない、という人がいた際には、記事のはじめに「The Beatles [θə ˈbiːtl̰z]」とありのままに記述してあげればいいのです。発音記号なんて見たこともない、という人がいる場合には、IPA へのリンクを貼ってあげればいいのです。そんなん調べるのめんどいさかい、という閲覧者がいれば……もうそれはウィキペディアが負いうる責任を超えたところにいる人なのです。ウィキペディアの目標は「中立的で正確な、信頼できる情報」を提供することであり、日本人の甘えに譲歩してこれを歪めてしまうことではありません。特に英語というのは冠詞の種類と有無および頭文字の大小といった些細な情報の違いによって意図されている意味合が変わる言語です。「the Internet」と「an internet」は違うものだし、「the Beatles」と「beatles」は違うものなのです。「God」と「a god」にいたっては信条の相違に関わる機敏でもあるのです。それなのに日本語版では、日本語でもなければ英語でもない半端な「インターネット」や「ビートルズ」といった文字列が記事の題とされることが普通となっています。(ちなみに、日本語版の記事では、他の言語の記事と違ってアルファベットに ClearType がかからず、文字同士がくっついたりして汚く表示される場合があります。)

もう一度言います、日本人にはケジメが無いのです。日本語にたいする開発的な意識をほとんどの日本人は持たず、体系的な造語活動は停止し、(かわりに日本語の本質的な体系を離れたところで「2ちゃんねる用語」のような奔放なものが生まれ、)さらには大量の外国語を不器用なカタカナ文字で模し、それらを社会のあらゆるところでふんだんに使い回しているのにもかかわらず、英語そのものを言語として話すことも扱うことも一般には上達せずじまい。日本語と外国語の区別についてケジメをつけることは日本人を国粋主義者にするわけではありません。そのようなケジメは文化の相対性にたいする敏感な眼識を養わせるものです。そしてそれを支える中立的な観点が、ウィキペディアの編集においては望ましくあるのです。--PetitLamp 2007年1月20日 (土) 20:15 (UTC)[返信]

自説の開陳や啓蒙の場としてはWikipediaにはなじまないように思います。ご高説はともかくとして、日本語を巡る環境にご不満があるならばWikipediaの編集方針を変える前に新聞、放送、出版を巻き込んだムーブメントを起こすべきでしょう。そのとっかかりとしてWikipediaを利用することには断固として反対します。もしこれ以上ご自身のポリシーに基づく編集を強行されるようならば投稿ブロック依頼を提出するつもりです。まずはご自身の感じていらっしゃることを一般に知らしめるために書を書き下ろすことをお勧めします。それが一つのムーブメントになって以降、Wikipediaとしての対応を考えるべきでしょう。今はまだその段階ではないように思います。--Lcs 2007年1月21日 (日) 03:18 (UTC)[返信]

カタカナ表記のことばの性質[編集]

私の認識では、カタカナ語は日本語です。原語表記は日本語ではありません。日本の製品や楽曲が英字から成る名称を与えられている場合、それは『英字を使った日本語』です。コンピュータ関係で定着した英字名(FortranとかCOBOLとか)もしかり。我々が作っているのはWikipedia日本語版なので、記事名や記事は日本語にするのが適切でしょう。 -- NiKe 2007年1月21日 (日) 03:24 (UTC)[返信]

2点、申し上げることがあります。
まず、「カタカナ語は日本語である」という定義は完全に不適切です。カタカナ語辞典というものがありますが、これを引いてみると、たとえば「アドミニスタード・プライス」といったものが出てきます。当サイトでも登場するような言葉です。あなたはこのカタカナ語を日本語だと思いますか? この言葉は、英語における「man」(サンスクリット語から)や「cliché」(フランス語から)といった外来語とは違って、日本語の本来的な体系とはまったく関係の無いものです。「アドミニスタード・プライス」を構成するどの音素にも、日本語の本来的な語彙との関連性が存在しません。まして、このような言葉が一般の日本人の間における使用機会に恵まれているとも考えにくいです。つまり、このようなカタカナ語を日本語体系の内に位置づけることは不可能なのです。体系の異なる言葉が二つあるとき、私達はそれを「二つの違う言語」のものとして捉えるはずです。
次に、あなたの意見にしたがって、英字から成る日本由来の言葉( Fortran、COBOL、それから Karaoke、Toshiba など)が「英字を使った日本語」であるのならば、カタカナから成る外国由来の言葉(インターネット、マネジメント、ボトムスなど)は「カタカナを使った外国語」ということになります。このことは、「カタカナ語は日本語である」というあなたの定義と矛盾します。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 07:38 (UTC)[返信]
たぶん、日本語表記(カタカナ、ひらがな、漢字の羅列含む)と日本語(意味の通る言葉)の違いだと感じます。Wikipediaは辞典である以上、後者である必要があると感じますが、新しい単語で対応する訳語がないものは、前者になっても仕方が無いものがあるのではないかと感じます。これをどうするかは、私自身良い考えは無いです。実際、自分で英語記事からの翻訳を行う際に(固有)名刺の翻訳に迷う場合があります。その場合は良いのかは分かりませんが、併記をおこなっています。(これが元の音楽関係に利用できるとは思いませんが) --Daisydaisy 2007年1月21日 (日) 11:39 (UTC)[返信]
日本語を母語とする者にたいし、「緑」や「くるしい」といった言葉がすぐに特定の観念を連想させることができるのと違って、「アドミニスタード・プライス」はそのような直観を引き起こす音素を有していません。また、「アドミニスタード」について本来の「ad・minist・er・ed」という意味的構成を自然に把握するなんてことはもっと易しくないでしょう。カタカナ表記にはさらなる注意すべき弊害があります。すなわち、外国社会における本来の使用環境とは離れた日本語社会の内側での限定的な使い回しによって、当の外国語の言葉にまつわる歪んだ解釈が定着することになり、のちほどいざその外国語を本格的に学んだり話すことになる際、ある種の先入観がその言語の正しい使用を阻むことになります。日本人サッカー選手がよく口にする「ロスタイム」や「ドンマイ」を考えてみてください。「ロスタイム」をあえて日本人にアルファベットで書かせると大抵が「loss time」という綴りを返してきます。しかし、ごらんのとおりこの言葉は時制からしてまず文法的にデタラメです。正しくは「lost time」です。そして残念ながらそれでもこれは正当な英語ではありません。これは日本人が勝手に使い回している内輪的な言葉であり、イギリスのフーリガンをはじめとする英語人は理解してくれません。次に「ドンマイ」です。この綴りを戻せば「don't mind」となり、とりあえず文法的な誤りはありません。しかし、使う場面について日本人は大いなる誤解をしているのです。ベッカムがシュートを放ち、外れたとします。「気にしないで」というつもりであなたは「ドンマイ」と言う。ベッカムは余計に苛立ちます。なぜでしょうか。「don't mind」と耳にすれば英語人は「I don't mind」(どうだっていいよ=どうせ入らないおまえのシュートなんてはじめっから期待してねえよ)と捉えるのです。日本人にとっては「気にしないで」にて省かれている主語が「あなた」であっても、「don't mind」で略されている主語は「I」なのです。つまり、日本人は横暴にも自分達の価値体系をもって外国語を勝手に曲解し、またその本来的な文法性格を壊すということをしているのです。
何を言いたいかというと、総合的に話せもしない外国語の言葉はむやみに使うべきではない、ということです。しかし日本人は古来からずっとこのような流用を繰り返してきており、その習慣はあたりまえのものとなってしまいました。結果、和製英語を含め、カタカナ語をあたかもどの問題もなく使い回せるものとしてその機能と用途を妄信できるまでに、言語にたいする一般的な日本人の感覚が変容してきたのです。けれども、音声転写の点も含め私がこれまでに挙げてきたように、カタカナ語の問題は本当にけっこうあるのです。まずいことにそれらの問題は日本人の間では看過されるのが常です。なぜならその存在に気を留める人がまず少ないし、問題を取り上げて議論してみても聞く耳を持たない人がたくさんいるのです。どうして聞く耳を持たないのでしょうか。「日常化してしまった無数のカタカナ語を今更どうしろというんだ、どうにもならん、ほっといてくれ」、という思いがあるからです。あるいは、単に日本語よりもカタカナ語のほうに主観的な粋のよさを感じるからです。「きょくしゅう/曲集」よりも「アルバム」であり、「くらい/位」よりも「チャート」であり、「おんがく/音楽」よりも「ミュージック」、「くつした/靴下」よりも「ソックス」であり、「ぼうし/帽子」よりも「キャップ」であり、「みみかざり/耳飾」よりも「イヤリング」、という具合です。とにかく、本来の日本語をちゃんと使おうとしない日本人がわんさかいる、ということです。
だからこそ、日本語の使い方に関しては、本来の日本語をちゃんと使おうとする人の意見が貴重となってきます。日本語版 Wikipedia の記事は日本語で書かれるものです。書かれる日本語が悪い日本語であれば、日本語版としてのその記事の質は問われることになります。まずいことに、そのような質の悪さに真剣な疑問を投げかける人が日本語版にはあまりいません。「どうせ日本人しか読まないからいいじゃん、日本語のことは日本人にまかせろっての」、という日本人による声のほうが強いからです。結果、日本語版 Wikipedia はその根本的な難点を改善されずに日本人による内輪的な百科事典として Wikipedia の基本理念から逸脱してきているわけです。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 22:39 (UTC)[返信]
翻訳に迷う、という問題は、私もよく共感するところです。ただ、日本語が有する漢字、そしてその数のことを考えると、けっこういろんなことができると思うのです。要は創造力ではないのでしょうか。「guitar」は「むつみせん/六味線」といったかんじに表せます。ただ、一般の日本人が億劫恥ずかしさを覚えずに「guitar」のかわりに「むつみせん」と口にできるでしょうか。日本語を誇りきれない現代日本人はかなりいるのです。それによって「便所」は「トイレ」となりました。言い換えれば、日本語にたいする日本人の美的感覚は現代になっていくらか麻痺してしまっているわけです。そのような人達を相手取って私は日本語の健全さを求める議論をここでしているわけです。骨の折れる仕事です。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 22:39 (UTC)[返信]
根本的なところで思い違いをされているように感じます。どうして、多くの外国語において「guitar」という単語が使われているのか(例えば、どうして英語圏の人間は「six strings」と言うことができないのか)一度お考えになってみては如何でしょうか。Hegyi János 2007年1月22日 (月) 01:23 (UTC)[返信]

表記法に関して[編集]

話を複雑化させるようで恐縮なのですが、日本語版では何故、大文字・小文字やひらがな・カタカナの同一視がされないのでしょうか? 例えば英語版では(一部、わざわざリダイレクトを作っているものもありますが)大文字と小文字を同一視する機能が実装されています。アラビア語版では文中のリンクは接続前置詞を含めてリンクアンカーが自動的に付くような仕様になっています。日本語版が何故に「日本語の文法や慣習に倣った仕様になっていないのか」が理解できません。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月21日 (日) 05:56 (UTC)[返信]

日本人は一般的に、外国の文化体系が定位している場において、「日本」という実体を構成する諸々の文化体系を反省的に構想しなおすとか提示するということに慣れていない、あるいは億劫を覚えるようです。姓・名の順序に関する例があります。西洋人の名前を日本語で書くときには「ビル・ゲイツ」のように名・姓という西洋の原則を呑む一方で日本人は、自らの名前を西洋人に伝えるときにも西洋の原則のほうに折れて「Issei Miyake」と名・姓の順で書きます。また、本来の「三・宅・一・生」にある文字の区分すら示すこともありません(「IsSei MiYake」という表記が可能であるのにもかかわらず、です)。
日本人にとっては、国際的な場において日本語(あるいは日本文化そのもの)の原則をいくつか(あるいはまるごと)隠したり忘れたり破棄することが無意識的な了解となっているのです。考えてみるとおかしなことです。だって、西洋人の名前の表記の原則を呑むことが日本人にできるのなら、西洋人にだって日本人名のそれを呑むことはできるわけです。「西洋人の名前は名・姓の順で書く」という知識を日本人が持っているように、「日本人の名前は姓・名の順で書く」という知識をデンマーク人が持っていてそれを呑んでくれていてもおかしくはなかったはずなのです。でも現実には、日本人名に関するそのような知識は日本社会という枠組を越えてはあまり普及していないのです。なぜでしょうか? 日本文化の本来的な体系に関する反省力と建設力を日本人が国際の場においてちゃんと発揮できていないからです。今回の議論について言うならば、何が日本語の体系に属し、何がそうでないかを日本人の多くが客観的に解析できていないのです。「カタカナ語は日本語である」と主張する人がいるぐらいなのです。これでは日本人のみならず外国人にとっても日本語体系の輪郭が雲隠れしてしまうのも当たりまえです。そのように漠然とした状況へ私の指摘がやってきたわけです。事態の本質を理解できない人が多いのも無理はありません。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 07:38 (UTC)[返信]
う~ん、どうなのでしょう。「マクドナルド」を「マク=ドナルド」と書いたり、「サン=テグジュペリ」を「サント=エグジュペリ」と書くようなことを一般に行っているかというと答えは「いいえ」でしょうし、人名の云々は何か論点自体から違う気がします(「トイザらス」は法人自らがそう名乗った訳で、例外中の例外でしょう)。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月21日 (日) 07:58 (UTC)[返信]
一般に「McDonald」を「マク=ドナルド」と書いたり「Saint-Exupéry」を「サント=エグジュペリ」と書いたりすることはしない以上、日本人は必ずしも西洋人の言語原則を呑むわけではない、ということですよね。受け手の側としての日本人にそのような例外があることは私にもわかっています。(日本社会の内側にて、外国語を平然と不正確なカタカナで綴り、さらにはこれをまるで自分達の日本語単語のように略す、というような、外国語の文法・音韻原則にたいする違反だって、そのような例外に含まれるものです。)しかし私が主に問うたのは、国際社会にたいする送り手の側としての日本人に、自らが育った(自らを育てた)ところの文化体系についてこれを主体的に発揮できるような気概が一般的に欠けている、ということです。あなたの例を借りれば、「日本語の文字体系に即した文字種の同一視機能を実装しようとはせずに英語版の仕組のほうに折れている」ということ。私の例をもう一度引けば、「日本語の人名にまつわる原則を国際的な共通知識として外国人に伝達しようとはせずに西洋語の仕組のほうに折れている」ということ。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 20:39 (UTC)[返信]
[Lcs] さんへ
私は、日本の国家社会における日本語の使用環境について文句を吐いているわけではありません。あなたにとっては日本社会のみが日本語の使用舞台なのかもしれませんが、日本語の共同体そのものは国家の枠組を超えて(小規模ながらも)存在するものです。したがって日本国内で発行されている朝日新聞や経済新聞をとっかかりに「ムーブメント」を起こすことの必要性を私は感じていませんし、それを私の議論が目指しているわけでもありません。私の批判対象は日本語版ウィキペディアにおける言語環境です。ケベック州におけるフランス語の使用環境について議論する人がフランス国内におけるフランス語の使用環境を考察の主題とはしないように、私はここでの議論にて日本国内における日本人による日本語の使い方の改革については興味がありません。
国家的・民族的枠組とは離れて存在しているはずのこの場に私が持ち出している中立的な観点にまつわる改善案にたいしてあなたがどうして「断固として反対」しているのかが私にはわかりません。あなたは、当サイトの記事「戦略系コンサルティング」からの以下の文章を、中立的な観点にもとづいて日本語と英語を正当に扱っているものとして受けとめることができますか――「経営戦略をコンサルティングするため、キャリアの長いベテランコンサルタントが担当することがほとんどである。企業内コンサルタントについては、相談役という呼ばれ方がポピュラーであり、一流企業をリタイアした後に、再雇用や天下りで就任するケースが多かった。」これは、日本人に特有の趣向に根ざした、英語と日本語の両文法をないがしろにした特有民族的な記述形態です。しかし日本語版ウィキペディアは日本人のためだけに存在するのではありません。日本語を使って物事を理解することのできる全ての人のためにあるのです。言い換えれば、日本語しか話さない人でも存分に利用できるようあしらわれるべき情報源なのです。「コンサルティング」「コンサルタント」「キャリア」「ベテラン」「ポピュラー」「リタイア」、これらは日本語でしょうか? 違います。これらは、本来は取って代えられてしまう必要のない日本語がちゃんと存在していながらも、日本に住む人達の民族的な趣向によって好まれた英語が彼ら自身によって非英語化されてしまった、どっちつかずの言葉なのです。これらの言葉が日本国内における日本人によってこれから使われ続けることには私は反対していません。私が認識している難点とは、日本語版ウィキペディアにて日本語でも英語でもどの言語でもない言葉が漠然と使われている状況です。また今となっては、この難点を指摘すること自体が、日本語話者のうちのあくまで一つの集団である日本人から「断固として反対」されてしまっている状況が、さらなる難点として浮上しているようです。
「(日本国内において)それが一つのムーブメントになって以降、Wikipediaとしての対応を考えるべきでしょう」というあなたの意見は、ウィキペディアを特定の国家に従属するべき場として定義するものです。けれども実際にはそのような従属関係はあってはならないのです。英語版ウィキペディアでアメリカ人が新しく作成した記事が英国女王の認可を待っている光景をあなたは見たことがありますか? そんな過程が英語版には存在しないように、日本語版でも、日本語を使う国籍不問の人々によって作られる記事の全てが日本国内の日本人達の慣習と趣向と価値観による検閲を通過しなければならないということは無いのです。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 07:38 (UTC)[返信]

なぜ複数の場を使うのか[編集]

[Yukichi99]さんへ

「井戸端」のこの特定的な議論にまつわるノートを「ロック(音楽)」の編集者が読んでくれるという約束は無いわけですよ。私の同じ指摘が複数のノートに残されているのはそれを考慮してのことです。

「分散」という形容は見方によるものです。またあなたは「議論」と「投稿」を混同しています。私の議論そのものは分散していません。要は、外国語の表記にまつわる日本人の習慣を見直す、という一点に帰結します。ややこしさを覚えてしまう必要も、私の投稿のすべてに答える責任も、あなたにはありません。私とあなたとの間の一つの流れをもっぱらにして何が正しくて何がそうでないのかを一緒に確かめてくれればいいのです。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 07:38 (UTC)[返信]

Wikipediaはあなたひとりのものではありません。あなた一人が納得すれば言い訳ではありません。議論する対象にしたがって、適切な場所で議論するが本筋です。各地であなた一人が議論をする、などというのは、Wikipediaにもっとも不向きな行為です。謹んでください。--ゆきち 2007年1月21日 (日) 08:17 (UTC)[返信]
日本語版 Wikipedia は日本人だけのために存在するのではありません。日本人さえ納得すればどんな記述形態もまかりとおる、というわけにはいきません。アメリカ人やイギリス人のすべてが英語を正しく使えるとは限らないように、日本人だって日本語の誤用をおかすことはあります。上記の「戦略系コンサルティング」からの引用で指摘したことですが、「ポピュラーである」「リタイアする」といった表現は、日本語のみならず英語さえをも不適切に扱ったものです。日本語の使用環境にまつわるそのような難点を私が日本語版 Wikipedia でこうして指摘していることについて、あなたは「適切な場所で議論するのが本筋である」と私におっしゃいますが、何故ここが私の議論の適切な場所ではないのかを説明していただけますか? 「各地であなた一人が議論をする、などというのは、Wikipediaにもっとも不向きな行為です」――出る杭を好まない日本人の性格は私も理解しています。残念ながら、「一人では口を開くな」というあなたのその忠告は日本社会の内輪的な道理を語っているものであって、Wikipedia のそれではありません。また、私は一人で議論しているわけではありません。このノートにみられるように、それなりに豊かな数の人達と意見を交わしています。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 20:25 (UTC)[返信]
井戸端は何かを決定する場ではありません。表記に付いて方針を決定する場は、既に示された通りです。議論して満足するだけなら、他でやってください。この分散につき合っているのは、あなた一人だけだし、それに満足しているのも、あなた一人だけです。--ゆきち 2007年1月21日 (日) 21:00 (UTC)[返信]

仕切りなおし[編集]

要点がよくわからないので、PetitLampさん、あなたが主張したいことを箇条書きでもしてもらえないでしょうか? それと、なるべく例は使わないもしくは、文章に溶け込むように書かないでいただけると嬉しいです。--Showchan 2007年1月21日 (日) 08:14 (UTC)[返信]

PetitLampさんは『「批判対象は日本語版ウィキペディアにおける言語環境で」あり、「日本の国家社会における日本語の使用環境について文句を吐いているわけではありません。」』と仰いますが、私には『日本語のあり方』に関する問題提起としか取ることができません。ですので、Showchanさんも仰っていますように、「日本語版ウィキペディアに対して主張したいこと」を「日本語の使用環境に対して意見しているわけではないというのがわかるように」端的に箇条書きにしていただくことを希望いたします。--ドラムスコ 2007年1月21日 (日) 09:26 (UTC)[返信]

  • 記事の解説文は、日本語の文法と語彙で著すよう努める。(本来の日本語と外来の言葉の識別がここで図られる。識別できないものは一時的に放っておく。)
  • 解説の対象あるいは記事の主題は上の限りではない。(解説するものが何らかの和製英語そのものであったり英語由来の概念である場合。前者はカタカナで、後者はアルファベットで表記される。)
  • 解説文のうち、適当な日本語語彙に戻せないようなカタカナ語は一時的に放っておく。(「キャミソール」「ロケット」など。)

補足として次のことも指摘しておきます。

  • 日本語の話者は日本人だけではない。(日本語はあくまで人間が共有しうる言語体系の一つである。)
  • 日本語版 Wikipedia の理念と発展は、日本国・日本民族の社会的慣習や価値観の制約に従属してはならない。(言語の区分は国境の区分ではない。)
  • 日本語版 Wikipedia は、日本語による事象の把握が高度に実現する場として機能することが望まれるものである。(主観的な好みなどによって本来の日本語を不要にも外来の言葉で置き換えることは日本語版 Wikipedia としての記事の質を下げるものである。)--PetitLamp 2007年1月22日 (月) 03:25 (UTC)[返信]
このような言い方をして心苦しいのですが、PetitLampさんは演説が長すぎでお話の要点が理解できかねます。カタカナ表記以前に、日本語では簡潔に相手に意思を伝える文章力が大事です。またこの場所はディベートの場では無いので、他の方を名指しで説き伏せる行為は歓迎されません。--219.110.8.247 2007年1月21日 (日) 15:09 (UTC)[返信]
PetitLampさんの主張を探してご自身の投稿履歴を見てきました。あなたのWikipediaでの活動は、ロック関連の項目において日本の音楽業界のカタカナ使用を批判している活動だけですね。特別:Contributions/PetitLampこれではWikipediaに持論の演説に来たと思われても仕方ありません。皆さん私より詳しい方はそういうところもちゃんと見みていますよ。さらに日本語の文中にある句読点をカンマやピリオドに全て入れ替えた理由は何ですか。[1]この場で日本語に関して演説をするくらいですから、カンマとピリオドが日本語で使用されないのはご存知かと思いますが念のため理由を教えてください。--219.110.8.247 2007年1月21日 (日) 15:34 (UTC)[返信]

『「井戸端」のこの特定的な議論にまつわるノートを「ロック(音楽)」の編集者が読んでくれるという約束は無い』『私の議論そのものは分散していません』と仰るならば、それまでに話題提起した場所と違う場所で話題提起する際には、それまでに話題提起した該当ページへのリンク貼りを行うようお願い致します(今回は私が行っておきましたが)。

あと、日本語(日本における国語)は「漢字」「平仮名」「片仮名」であり、英語は日本における国語ではありません(英語は外国語という位置づけにあるはずです)。また、ノート:ロック (音楽)#カタカナ表記についてにおいても書かせていただきましたが、現在の日本語で通常使われている書き方で記載するというのが、ウィキペディアにおける暗黙のルールです。--ドラムスコ 2007年1月21日 (日) 09:26 (UTC)[返信]

「日本語は漢字・平仮名・片仮名である」という言い方は的を射ないものです。言語体系と文字体系の間には境界が存在します。
また、日本国民にとって英語が外国語であることは私もわかっています。考慮すべきなのは、Wikipedia においては「内国/外国」という隔てが無い、ということです。繰り返し強調してきたことですが、日本語版 Wikipedia はあくまで「あまたある言語のうちの日本語というものを理解する人」のためのものであって「日本国民」のためだけのものではありません。あなたの挙げる「(英語は)日本における国語ではないから…」という論理は、中立的な観点にまつわるこのサイトの理念を支持するどころかそれを揺るがすものです。Wikipedia の中でもその理念を比較的高度に実現している英語版のほうを観ていただければわかりますが、アメリカ人やイギリス人やカナダ人などは「アメリカ・イギリス・カナダにおける国語ではないから」という理由で日本語由来の「Karaoke」の正しい発音と表記を解説本文から棄てるなんてことはしないのです。すべての記事においてそのような施しをするのはやはり難しいことではありますが、せめて解説文における不要なカタカナ語だけでも減らすよう努めることは大切です。「人気である」「辞職した」と書けるところを「ポピュラーである」「リタイアした」と書く必要は無いのです。
しかしこれらの表現は、あなたの言うように、現在の日本語で通常使われている書き方で記載するという原則を守るところでは許容される範囲のものとなります。そしてそれはなにも Wikipedia だけでなく日本社会そのものにおける「暗黙のルール」となっています。このことが何を示唆しているのかというと、日本語の本来的な体系にたいする回帰性について日本人は貧窮している、ということなのです。「ポピュラーである、リタイアした、と書いたっていいじゃないか、それが我々日本人にとってはフツーなんだから」と言って、日本語そのものを省みるための眼識を発揮せずじまいにあるのです。日本語を本来の体系に即して使うつもりが特に無いというそんな人達が、この日本語版 Wikipedia にわんさか集まり、日本人以外の日本語話者がいる場合にはそちらに向かって「記事の書き方はまあ我々にまかせておきなさい」と言っているのです。そしてその状況に何かまずいものを認識している私がいるのです。--PetitLamp 2007年1月22日 (月) 03:54 (UTC)[返信]

長すぎてなんだかよくわかりませんが、「カタカナ表記する外来語は日本語ではない」とおっしゃりたいのですか? 何を勘違いされているかしりませんが、カタカナ表記することばを、日本語は『名詞』として受け入れます。例外的に「サボる」のように「サボタージュする」というサ変動詞の省略とおぼしきものがありますが、これにしても、「名詞+する」で動詞になるという日本語のルールにのっとっています。音韻が日本語にあわないものは、日本語化して受け入れます。最近はベトナムさえヴェトナムというようですが、VEをBEとしていわば「なまらせる」のが日本語です。それが、日本語としての中立性です。変な話ですが、ユリウス・カエサルは英語では(カタカナで書きますよ)ジュリアス・シーザーですよね。シェイクスピアの作品は「ジュリアス・シーザー」でなければおかしいですが、日本語として人物の表記はカエサルです。これをシーザーとしたら、英語寄りになってしまって、ローマ人だというのにおかしくなるでしょう。そういうものではないですか。 --ねこぱんだ 2007年1月21日 (日) 15:50 (UTC)[返信]

そういうものとして了解することにします。--PetitLamp 2007年1月22日 (月) 04:13 (UTC)[返信]

公人・著名人・著名団体等の場合、日本語訳の表記が当該人物・団体(の代理人・組織)の側から提供されることがある。エリザベスII世とか、ブッシュ大統領などは当該国の駐日大使館などの広報資料等にも用いられるし、場合によっては宮内庁や日本国外務省に提出される各種公文書の対訳に記載があるかも知れません。また、歌手などの芸能人にしても、日本でアルバム、映画パンフなどに片仮名表記がされることがあります。これらが100%公式であって強制力のある正統な日本語置換表記だとまでは言いませんが、少なくとも、当該著名人・団体側のほうで提供・主張している片仮名表記であり、それを使用することが中立性を損なうと言い切る根拠は何なのでしょう。日本国内の事情に固執すべきでない、世界全般の日本語話者という観点を念頭に置くべきという主張は部分的には同意できますが、だからといって、日本国内で一般的に使われている表記を排斥する強制力はどこにあるのでしょう。アメリカの片田舎に住む、日本文化と全く接点を持ったことのない(日本語置換表記を自ら提供した機会のない)同姓同名のハンバーガーショップ店長George Bush氏を勝手に片仮名表記にするな、というのならまだ分かりますが、公人であり片仮名表記の文章を自ら発出しているブッシュ大統領を片仮名で書くな、とおっしゃられるのなら、そのようなご意見には全く賛成できません。--無言雀師 2007年1月21日 (日) 16:14 (UTC)[返信]

提案者が結局何を言いたいのかが大変分かりにくいのですが、何にせよここではなく他の適切な場所へ移して議論を行うべきではないですか?Wikipedia‐ノート:記事名の付け方あたりが適切かと思いますが。--ELPA 2007年1月22日 (月) 03:19 (UTC)[返信]
わかりました。--PetitLamp 2007年1月22日 (月) 04:13 (UTC)[返信]