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Wikipedia:井戸端/subj/宗教宗派的な記述はどこまで許されるのか

宗教宗派的な記述はどこまで許されるのか

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ノート:菅直人より派生する話題です。一応、終結した話題ですが、ウィキペディア界全体にもかかわる話題かと思い、こちらにも。

菅直人の記事に対して、某占術家の宗教的見解を書き込もうとする動きがあるようです。また、ノート:船田元によれば、船田元の記事に対して、某宗教団体の教祖の見解をそのまま掲載しようとする動きがあるようです。「○○教団の教祖□□様が、政治家△△の前世は××だと主張なさっている!」のような記述は、百科事典にふさわしくないと思います。それはその宗教宗派の独自の考え方であり、偏った考え方だと思います。。安倍晋三の記事にも、「安倍首相の前世は○○だ」という某宗教団体の独自の見解が記載され、ゆるい編集合戦になっていたこともありました。

このような、ある特定の宗教宗派にまつわる記述は、どこまで許されるべきものでしょうか。ノート:菅直人の記事では、国産み神武天皇ナザレのイエス、などが例示されたのですが、それらの記事は宗教的側面の強い事物ですから、出典をともなっていれば宗教的な記述があって当然でしょう。それに対して、菅直人氏や船田元氏は現代日本の実在の人物であり、ある特定の宗教宗派における「神話上の人物」ではありません。このような人物に宗教的な記述をする必要があるのでしょうか? しかも、本人が信徒というわけでもないのに、勝手に占って勝手にそれを公表しているようです。なお、宗教団体の場合、著作を積極的に発行しているため、出典自体はいくらでもでてくるようです(たとえば、このような書物まであります→ ISBN 9784863950566 )。出典あるからといって何書いてもいいなんて一言も言ってないと思うのですが、いかがですか? 私にはある特定の宗教家の宣伝のように見えるのですが。利用者‐会話:Stttnnnを見て思ったのですが、特に宗教的な記述でもあまり気にされない人もいるようです。いかがです --以上の署名のないコメントは、111.188.17.233会話/Whois)さんが 2010年8月9日 (月) 10:22(UTC) に投稿したものです(Sashimuによる付記)。

その問題は基本的に、「ウィキペディアは何では無いか」に立ち返れば自ずと判断が付く無いようだと思います。まずもって、前世が何の誰某だと言ったところで、存命中の人物の説明には全く影響のないことで、むしろ蛇足と呼んでもいい事柄でしょう。まあ何代目首相の前世がミジンコだろーとアメンボだろーとクラミジアだろーと…いやいや脱線。兎も角、前世がなんだろうと近代以降の人物の評価は何も変わらないんだし、して実際どうなのか…というか転生輪廻を宗教観に照らして述べることは出来ても、誰某の人物の前世が何某かどうかは検証不能な事柄であり、ウィキペディアで検証可能性を満たして表現できるのは「誰がそのように主張しているか」までではありますが、それがどう主張されたからといって、実際の人物の説明に何等絡まなければ冗長なトリビア(もっと言えば「百科事典の説明的ではない記述」)でしかないと考えます。まあ、記事主題となっている該当人物が「私の前世は○○」と公式プロフィールに組み入れているなら、書きようがあるかもしれませんけどね。あとは公式発効されたガイドラインでは在りませんが、特筆性の考え方が参考になると思います。--夜飛/ 2010年8月9日 (月) 11:24 (UTC)[返信]
まあ、参考にはなるのかも知れませんが、「特筆性」は記事の作成基準であって、個別の記述内容の話ではないので……。それを補足なしに書いてしまうのは誤解を招くため避けるべきだとは思います。--iwaim 2010年8月9日 (月) 15:09 (UTC)[返信]
コメントまず、某宗教団体に属する事実であって、関直人氏なり船田元氏なりの事実ではないので、まず執筆対象の記事が違うということです。言い換えると、「某宗教団体の何がしは「菅直人氏は…である」と述べた」の主語はどう見ても「某宗教団体の何がし」なので何がしに属する事実ということだと考えます。(菅直人氏は「某宗教団体の何がしは…」とコメントした、なら屑でないか検討する余地はありますが…。菅直人氏が発したコメントがないなら検討すら不要でしょう)--あら金 2010年8月9日 (月) 15:00 (UTC)[返信]
追加で報告ですが、どうも亀卜占術の中でも手相占いを熱心に信奉する人たちが編集を繰り返しているようです(岡田克也氏の記事の編集[1]など)。実際に編集した人たちや彼らの編集を擁護する人たちの理屈としては「星座や血液型と同じはずです。占いなのです。興味を持つ方もいるでしょう(中略)手相ブームで興味を持たれる方がおられると思い編集した」[2]「手相ブームでそういった事に興味がある人が多いと思ったので書き込んでみた」[3]「手相は文化的側面もあり広く浸透しているものだから容認すべき」[4]とのことなので、どうやら手相占術が人々の間で蔓延しているのだからよいだろうとの主張のようです。また、「出典があるならとりあえずは問題ない」[5]「公人の●●●●が主張して多数のメディアに報じられているのですから強固な情報源とみなして問題なく、完全に検証可能性をみたしています」(某宗教家の氏名は伏せた)[6]と主張しており、検証可能性が満たせるのだからいいじゃないかということのようです(私には某宗教家が「公人」などとは到底思えないのですが、この人たちにはそう見えてしまうようです)。しかし、このような編集を許せば、お次は似非科学的なもの(血液型占い、水を褒めると云々かんぬん、など)まで次々に記載されかねないと思います。--以上の署名のないコメントは、114.48.49.207会話)さんが 2010年8月9日 (月) 16:07 (UTC) に投稿したものです。[返信]
勘違いされやすいですが、「検証可能性」は記述のための必要条件であって、十分条件ではありません。従って、当該人物の手相がこうこうである、と「有名な人物が評価した」という類の記述は、その評価が主題の人物や社会に与えた影響や、広く世間に敷衍しているかどうかを考慮して検討すべきであって、重要であれば掲載しても良いですが、単に一人二人の占い師や手相見が「評価した」で終わるだけのことであれば、省みるに値しない、瑣末な情報であると考えます。評価者が公人・重要人物であるかどうかなどは、記述の重要性と単純に比例するわけではありません。記述の重要性が主張されるのであれば、評価の対象者ではなく、その評価者本人の項目に記載すればよいでしょう。Wikipedia:存命人物の伝記#評論家の意見 も多少参考になると思います。--Calvero 2010年8月9日 (月) 17:12 (UTC)[返信]
報告。手相占術を強く信奉していると思われた利用者がブロックされたようです。いろんな記事に次々と占術関連の記述を加えたため、アウトになったようです。ただ、「星座や血液型と同じはずです。占いなのです。興味を持つ方もいるでしょう」[7]との指摘はたしかにそのとおりで、今後も手相占術にとどまらず、血液型占術や占星術、あるいはさまざまな宗教宗派の信徒が編集攻勢を仕掛けてくると思います。そのような場合、信徒らにどのように説明したらわかってもらえるでしょうか。「「検証可能性」は記述のための必要条件であって、十分条件ではありません」[8]というのはなるほどと思いました。ただ、一般人から見ると困惑するような内容でも、信徒らにとっては「紛れもない事実であり特筆性ある事項」だと頑強に信じている場合があり、そこはトラブルになりそう…英語版とかはどうしてるんでしょうか。インテリジェント・デザイン信奉者と根深い対立が起きてそうですが…--以上の署名のないコメントは、114.48.229.221会話)さんが 2010年8月10日 (火) 01:40 (UTC) に投稿したものです。[返信]
信徒に需要があるってのは、裏を返せば、信徒にしか需要が無いってことです。それは特筆性があるとは言わんのです。今回に限らず「需要がある」ってのは良く登場する文句だと思いますが、特筆性と需要に直接的な関係性は無いと思ってます。でなければ、ゲーム関連は裏技・小技ばっかりになる。それは攻略本であって百科事典ではないでしょう。--EULE 2010年8月11日 (水) 07:45 (UTC)[返信]

ここまでのご意見をまとめると、

特定の宗教家の見解を乗せようとする信徒らへの対応
  • 宗教家が某人を論評したからといって、某人の記事にそのことを書いてはなりません。
    • 「論評した」主体は某人ではなく宗教家の方ですから、仮に書くとするのであれば宗教家の記事の方でしょう。
  • 宗教家の書籍などの出典があったとしても、無条件に記述してよいとは限りません。
    • 「検証可能性」は記述のための必要条件であって、十分条件ではありません。
  • 特定の宗教の信者にしか需要がない情報は、記述してはいけません。
    • 百科事典に相応しい内容でないなら、記述してはいけません。
いずれにせよ、宗教家による見解については、他の人物や社会に対して影響を与えたか、広範に流布した著名な見解か、といったさまざまな要素を検討すべきです。
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こんなところですか。--111.188.33.68 2010年8月12日 (木) 10:37 (UTC)[返信]