Wikipedia:井戸端/subj/要出典への対応

要出典部分を執筆された方の対応について[編集]

スーパーシートにおいて、出典元が不明な部分に要出典をつけているのですが、その方は「安易に要出典を付けるべきではない。自分で調べろ」といった感じて要出典を外してしまします。他の方が要出典を付けた際も同じようです。要出典をつけられたことに関して、自分で調べろではなく、出典元を明記するのがガイドラインに沿った執筆だと思っていますが、詳しい方の見解をいただきたいと思います。よろしくお願いします。--122.18.112.95 2007年3月1日 (木) 11:35 (UTC)[返信]

テンプレートは、あらかじめノートに提案しておいて1週間ぐらい様子を見てから本文に貼るようにすることをお薦めします。その際、出典について知りたいと思った理由(ガイドラインにあるからというつまらない理由ではなく「私は○○だと思っていたので驚いています」とか)を書いておくと良いでしょう。--Ray go 2007年3月1日 (木) 12:15 (UTC)[返信]
コメントアウト」という形での表示を提案してみたらどうでしょうか。-- 2007年3月1日 (木) 13:02 (UTC)[返信]
記事のどの部分が「要出典」なのか分からない付け方をされる方もいるようです。具体的にどの部分なのか示して下さるといいと思います。自分でやってみれば=自身で検証してみれば分かるような事柄にも「要出典」を付ける方もいるようで、当たり前すぎて適切な出典を見つけるのが難しいケースもあります。--Peek-poke 2007年3月1日 (木) 13:08 (UTC)[返信]
編集競合が起きてしまいPeek-poke氏と同等の話ですが、要出典を張られていても「どこからどこまでなのか曖昧」なことがあります。ですのでやはりノートで具体的に疑問点を文章として投げておくと良いかもしれません。スーパーシートの場合、「差別化を図った」と「クラスJの計画をキャッチできなかった」のでは出典を求める度合いが違います。例えば差別化を図ったかどうかであれば確かに調べてなんとかなりそうですが、クラスJの計画をキャッチできなかったまで含めるのであれば出典はとても重要になります。--Chiether 2007年3月1日 (木) 13:10 (UTC)[返信]
(単なるコメント)要出典の但し書きには、まぁ理想的なもっともな解説かかれて入るんですが、正直悪用してる人もいないわけじゃないですよね。自分の気にいらない表現には漏れなく要出典を書く人も正直見受けられます。まぁそれ言い出したら、要出典の意義や収まるものも収まらなくなるんでしょうが。それこそ、あまりに当たり前すぎること何でもかんでもに要出典はり付けたら(貼り付けられたら)どうすんだろ?とか思ってしまいます。--陸奥守 2007年3月1日 (木) 13:35 (UTC)[返信]
ご意見いただきましてありがとうございます。(JALが極秘で進めたクラスJの計画を発表当日までキャッチできず、超短期でJALとの差別化を図るためには高級化しかなかった事情もある。[要出典])というように要出典を閉じカッコの手前に付けましたので、私はカッコ内全体についての解釈です。ただ、[1]にて、コメントアウトにてしつこく要出典を書き加えている人間がいるので書き加えておきますが、日経BP社の雑誌に全日空の役員が真相を語った記事があります。自分で図書館でも行って調べてみることと書かれていますので、執筆者はカッコ内だということを理解しているものと思います(IPが違いますが、要約欄の文調が似ているので同一人物ではと感じてます。断言はできませんが)。当該人のノートを見る限り、要出典に関してガイドラインから逸脱した理論をお持ちの方のようなので、難しいです。引き続きご意見をいただきたいと思いますので、よろしくお願い致します。--122.18.112.95 2007年3月1日 (木) 14:05 (UTC)[返信]
どういえばいいんでしょうか。むずかしいところですね~。
それなりの専門家の目から見ても「おまえ、それがどこが出典なんだよ」と小一時間問いただしたくなるようなものはあるんですよね。その目が正しいなら、要出典を貼るのは、別段間違ったことではないでしょう。おれも、それなりに自信が持てる場合には、要出典を貼り付ける場合があります。
確かにこう、イチャモンとしての要出典貼りとしか思えないものもしばしば見かけます。しかしそれって、当該分野では常識的なものであるのなら、要出典を貼ったやつに対して「おまえはその常識を知らんのか。馬鹿か。この項目の編集から立ち去れ!」と言ってもいいような気がします。その場合には問答無用で要出典をひっぺがしていいでしょう。おれも、問答無用でひっぺがすことがあります。
更に困るのが、なんだな、「条理」とか「常識」とかいうレベルのことに対する「要出典貼り」だなあ。事例はいっぱいあるけどそのどれを代表例とすればいいのかがわかんなかったりする(そして、代表例がない以上、どれを出しても「瑣末な事例」に見えたりするんだなあ)。そういうときは、おれは要出典は放置します。たぶん読者には「ここに要出典を貼ったやつば馬鹿か」と見えていると思うのですが、まあ馬鹿なのだから、馬鹿だと思われていただこうということですねえ(=^_^;=)。
まあなんだね。「要出典」に限りません。「削除依頼」もそうだし「コメント依頼」も「ブロック依頼」も同じだと思うんですが、Wikipediaにおいて、なんらかの攻撃的要素を持つ編集を行う場合には、行うと同時に、自分もまた計られる。そのことの怖さをどこまで認識しているかということだろうと思うんです。だから、確定したガイドラインなんかはあるわけがなく、ケース・バイ・ケースで異なる。
いやあ。実はおれも今(というか、さっき)、「当該分野では極めて常識的なこと」について「要出典」を貼られているのですが(=^_^;=)、正直なところ対応するよりは放置しとこうと思ってますよ。そんなことに対応している時間なんかありませんし、対応することそのものが攻撃的になりかねませんし。--Nekosuki600 2007年3月1日 (木) 14:18 (UTC)[返信]
うーむ、確かに、一般常識としてあたり前のことにいちいち「要出典」を貼っていくのも困りものです(どこかに同じような議論があったような……一般常識から演繹的に得られる事柄には出典を要さない、というような)。しかし、その分野の人にとっては常識的なことでも、他の人にとってもそうであるとは限らないのではないでしょうか。ですので、できれば何か教科書的なものでも貼っておいてもらえると、ありがたいのではないかと思います。でないと、Noda,Kentaro さんが主張していたことの一部(自分にとっては常識だから出典はいらない)は正しかったといえることになりはしますまいか。彼の場合は同じ分野の専門家から出典を要求されていたので同列には扱えませんが、極端な場合として。
とはいえ、上記の例は Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に を無視するものですので好ましくありません。「しつこく要出典を書き加えている~」の人は、出典を知っているなら書き加えれば良いのに、意地悪な人だと思いました。--Calvero 2007年3月1日 (木) 15:11 (UTC)[返信]
自分で調べろ、という相手には、「検証可能性」の方針をお伝えするのが第一であると思います。「当該分野の常識」については、当該分野の基本的な資料や入門書の類には当然載っているものですから、信頼できるものをいくつか挙げることができるはずだと思います。言語化されていない「常識」や、一定の知識を前提とした論理展開については、難しい場合もあるでしょうけど。--Ks aka 98 2007年3月1日 (木) 15:42 (UTC)[返信]
話がそれますけど、どうも{{要出典}}の使いかたがよくわかりません。これまで何度か貼っていますが、たいてい、「本当に言いたいのはそういうことじゃないんだけどなあ」と感じています。いままで貼ったものにはつぎのようなものがあります。
  1. 当該項目で記述する事項に対して、反論や批判が存在するという事実を付記したもので、出典が示されないもの。
  2. 学術的な理論に対する「常識的」な解釈にもとづく執筆の結果、不正確な記述になっていたり、「ほかのことについても同じことが言えるだろう」という記述になっているもの。
  3. 学術用語の意味を「常識的」に解釈した結果、誤った理論を記述している (結果として独自研究をつくり出している) もの。
  4. 独自研究の発表であると疑われるもの。
  5. 統計データなどで、出典や集計方法が明らかでないもの。
1.は「中立的な観点に対する誤解に基づいた執筆方法である」ということが本質的な問題であって、反論や批判に典拠が示されても問題は解決しないようにおもいます。
2.、3.、4.は、「出典がないこと」を納得したいわけですから、やはり問題の解決につながらないようにおもいます。
5.のみは、出典が示されれば問題が解決するでしょう。
あと、検証可能性が、現実には多くの記事で守られていないことも、{{要出典}}の解釈をあやふやにしている要因ではないかと感じています。--- 個人的には、「当該分野での常識に属すること」でも、というかそういうことだからこそ、出典を提示するというのが「検証可能性の保証」ということだとおもうのですが。
結果、検証可能性ということ自体がお題目になっているような例もみかけます (「記事が検証可能性を満たしているかどうか」そのものを検証していず、単に検証可能性にそった形式が整っているかどうかを問題にするだけ、というような傾向のこと。わかりにくいかな)。
雑駁ですが。 --Hatukanezumi 2007年3月3日 (土) 08:35 (UTC)[返信]
しばらくWikipediaをやっていると面白いなあと思うことがいろいろあります。「NPOV」という原則があるわけですが、まあそれなりに明らかなことを書いても「という意見もある」とかつけてその説明を無化しようとするやつがいたり、んで文意がぐっちゃぐちゃになってることが珍しくない。となると、どこに何を出典としてつけるかとかで悩んでしまうことが珍しくないのだなあ。
ついでに、出典出典という話がクローズアップされてきたのはわりと最近で、過去に調べて書いたものとかで改めて文献にあたりなおすのはしんどいなあ、と思って放置しているものがだいぶありますね(笑)。最近は、ごく基礎的な項目しか書いてないから、出典がどーのというのが問題になるようなケースには遭遇していないように思うのですが。--Nekosuki600 2007年3月3日 (土) 16:59 (UTC)[返信]
へ? と思ってWikipedia‐ノート:検証可能性などを流し読みしてみましたが、……そうなのかあ。WP:Vって日本語版Wikipediaの成立当初から確立していた原則ではないんですね。よく、「Webサイトの情報では検証可能性を満たさないが、商業出版された書籍に載っていることならオッケー」みたいな議論をみかけるので、「そらどっちもちゃうやろ」とか思っていたのですが、謎が解けました。
本来、verifiability というのは学術論文をモデルにした概念なのだろうとおもいます。したがって、典拠の提示というのは、単に記述の証拠として示すためのものではなく、さらには第三者が提示された出典にあたって検証するための材料にもとどまらず、資料批判 (「執筆者は、出典を誤読していないか」「出典には、ほかの解釈もありうるのではないか」「そもそも、出典に挙げた文献の主張は正しいのか」を評価すること) をも前提にしたものであるはずです。挙証責任は執筆する側にありますが、同時に、検証を試みる責任が読む側にも発生するはずです (逆に言うと、典拠を挙げなくてもこういったことが可能なら、いちいち繁雑な典拠の列挙はしない)。
公理的な「原則」として掲げられているために、そのことが理解されなくなっているようにおもいます。「お題目」になってしまうのも無理はない。
ともあれ、コミュニティの一般的な受け止めかたがそういう現状なら、{{要出典}}を貼ることは百害あって一理なしですから、わたしは今後はこのテンプレートを使わないことにします。自分の生産する記事にはできるかぎり典拠をあげて、本来の意味での検証可能性を確保した(ものに近い)記事を増やしていく、ということしかないように思いました(ちょっと疲れる考えかただなあ>>自分)。--Hatukanezumi 2007年3月3日 (土) 18:22 (UTC)[返信]
要出典を相手を非難する行動と取られる人が一部にいるだけで、出典を要求する行為は、通常のことです。基本的には、Wikipediaが一次リソースにならないように心がけるべきでしょう。それを守るように伝えればいいのではないでしょうか。--ゆきち 2007年3月1日 (木) 18:22 (UTC)[返信]
「出典を要求する行為は、通常のことです。」これは、ごもっともなことであり、そういう建前論についてはここで改めて声高に声明する必要も無い(既に書いてあり、ここに参加している方はみな読んでいるわけですから)ことであって、要出典を張る方法論や手段?ルール?にたいする不要論はだれも唱えてないと思います。
「要出典を相手を非難する行動と取られる人が一部にいるだけで、」これに関しては、証拠が無いというだけで、その手段を用いる方にも、用いられる方にも、双方に本来の趣旨・主義に基づいた理由以外でそれを捉えている人がいるのは事実だと思います。皆さんはその点を言っているんだと思います。で、だから何かをどうしろとか、どうしようとかいう話なのではなく、なにがどうかの実際論を述べているだけだと思います。(何かしらの対処や改善に対しての意見も若干述べている方もいますけど。)因みに、こういう類の発言に意味があるかどうか、もまた人それぞれのものであり、誰かが「これが正しい」という価値基準を決定できるものでもないと思います。--陸奥守 2007年3月1日 (木) 21:32 (UTC)[返信]

これは、状況によって『何が正解か』が大きく変わってくる類の事柄であると思います。ですので、まずは対立した相手と会話ページか記事のノートあたりで話をするべきでしょう。要約欄は話をする為のものではないし、コメントアウトでのやり取りは他ユーザに分かりにくいので、どちらも止めておく方がいいでしょうね。 -- NiKe 2007年3月2日 (金) 01:28 (UTC)[返信]

Wikipediaは、それこそ数多くの人間が参加しています。Aという人がX分野のスペシャリストであるがY分野に関しては無知に等しい。Bという人は、その逆というケースは当然起こりうる。
私自身は、脚注機能をフルに活用して記事を書くことが多いのですが、一つの目安として、他の文献から引用や要約をやった場合は、脚注機能を使って、検証可能性を担保できるようにはしています。その際は、大体、段落単位が多いですが、引用となってくると「」をつけて、そのカッコ内でつけることが多いです。--Tantal 2007年3月3日 (土) 01:23 (UTC)[返信]
個人的な印象として、脚注が山のようにある記事は、かえって読みづらいと思っています。脚注をずらずら並べるくらいならば本文に書けばいいものを。第一、紙の百科事典では脚注ばかりが何十行にも渡っているものなんてありません(ここで「ウィキペディアは紙の事典では無い」などと言う者がいるならば、それは矢鱈目鱈に要出典を張る常識知らずと似たり寄ったりでしょう)。一方で、ワンセンテンス毎に「~によれば…と書かれている」とか「~は…と見解を述べている」などとくどくど書いてあるのも読みづらい。ぶっちゃけ、百科事典というのは「出典の一覧」を編纂したものでは無いでしょう? 物事を調べる足掛かりとするものであって、必要以上に出典をずらずら述べたら、それこそ独自の研究ならぬ、研究論文では無いでしょうか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年3月6日 (火) 04:19 (UTC)[返信]
実例がないので、どの程度のことを「くどくど書いてある」、「『出典の一覧』を編纂したもの」と言っているのかよくわかりませんが、出典を列記しただけでは研究論文になりません。研究論文の場合、オリジナリティが必要であるがゆえに、「著者は、先行研究を参照したうえで独自の主張をしている」ということを示す習慣になっているのだとおもいます (単に出典の一覧を書いてあるものは研究論文ではありません。そういう論文もあるかもしれませんが)。この点は、ウィキペディアはもっと見習ってもよいのではないかとおもいます。
実際、(たとえその分野の専門家が書いたものであっても) 偏った見解を書いていることはありえます。また、ある説を紹介する場合、それが当該分野での絶対の支持を得ているということはありえず、かならず反対意見や修正論は存在するものです (そもそも、議論の余地のないことなら百科事典に掲載する必要はありません)。だから、参考文献を明示して客観性を確保しようとするわけでしょう。そういうわけで、百科事典であれば、それぞれの記述について出典を挙げて、読者が検証できるように (また、ほかの編集者が検証して加筆、書き直しができるように) しておくべきだとおもいます。
本文に書くべきことを脚注に書くべきではないですが、本文に書いたことをより深く理解できるように、脚注は豊富にあっていいとおもいます。--Hatukanezumi 2007年3月6日 (火) 13:28 (UTC)[返信]

たくさんのご意見、ありがとうございました。みなさんのご意見を参考にして記事のノートで対話してみようと思います。もしお話しが拗れた場合は、こちらでの議論の参加も呼びかけてみます。ありがとうございました。--122.18.112.95 2007年3月4日 (日) 12:20 (UTC)[返信]

議論が収束しかけたところで申し訳ないが、こういう場合(舌上射精)はもう荒らしに近いのではないでしょうか?まぁ元記事もあまり良くはないのでしょうが。Preacher 2007年3月4日 (日) 22:29 (UTC)[返信]

リバートして統合依頼かけたほうがよさそうですね・・・--Preacher 2007年3月5日 (月) 02:38 (UTC)[返信]