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Wikipedia:井戸端/subj/Twitterで個人のユーザーが本人が疑問を訪ねて、それを肯定したことは出典として使えるか?

Twitterで個人のユーザーが本人が疑問を訪ねて、それを肯定したことは出典として使えるか?

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少々くだらないことを訪ねるようなことになると思いますが、質問に答えて頂ければ幸いです。

今回お尋ねしたいのは井上麻里奈の記事において、あるユーザーがTwitterを出典として使おうとしているのですが、この出典というのは[1]のように、個人のユーザーが井上麻里奈さんに「演じているのは井上さんですか?」と尋ねて、それを井上さんが肯定しているというものです。井上さん本人が直接自分から明かすことをしていないのに、疑問を尋ねてそれを肯定するというのは出典として有効なのでしょうか?

有効」か「無効」で答えて頂き、その理由をお聞かせ頂けませんか? よろしくお願いします。--香辛料会話2014年5月5日 (月) 06:32 (UTC)[返信]

コメント香辛料さん、Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源には「自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられません」とあります。「本人が直接自分から明かす」場合を含めて不適切です。そもそも本人確認の問題と、情報の無差別収集(百科事典として特筆性・重要性がある情報かどうか)もあり、(無効以前に)記載すべきでは無いと考えます。--Rabit gti会話2014年5月5日 (月) 08:07 (UTC)[返信]

ということはこの場合は「自分から直接公表していない」ので、出典としては不適切ということですか。となるとあるユーザーは方針を熟読しているとはとても思えないということになりますね。自分も方針の熟読不足であることを痛感いたしました。お騒がせしました。--香辛料会話) 2014年5月5日 (月) 08:35 (UTC) 線引き追加--香辛料会話2014年5月5日 (月) 10:17 (UTC)[返信]

コメント「有効」。Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源では「自己公表された情報源または疑問のある情報源は、特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できます」と書かれているはずです。検証可能性の「自主公表された情報源:公式サイト」も参照ください。有効か無効か、ということと、「情報の無差別収集」は、直接関係があるわけではなくて、有効な出典があっても、無差別収集にあたるものは書かない、というふうに考えてください。おふたりとも、文書を丁寧に確認願います。--Ks aka 98会話2014年5月5日 (月) 08:56 (UTC)[返信]

Ks aka 98さん、コメントありがとうございます。要するに出演者本人が、自分から公表しようと疑問に答えることで明らかになろうと情報源としては使用できるということになるのですね。指摘されると自身の方針の熟読不足を痛感します。もう一度、方針の再熟読をしてみたいと思います。--香辛料会話2014年5月5日 (月) 10:17 (UTC)[返信]

コメントはやい話が今回の場合は有効。一般論的には、それを行ってただちに違犯には当たらないけれども、一律に掲載可能というものではなくて、本人の業績・本業にかかわるような、重要な質問・回答はツイッターであっても掲載する価値があるし、個人的な些細なことなら掲載する価値がないという運用になっています。例えばある有名作家Aさんに、この道に入るきっかけは何だったのですか?と質問して、高校時代に宮沢賢治さんのこの童話を読んで感動したからなどと返答されたら掲載に値しますが、好きな食べ物は?/イチゴ程度なら掲載するに値しないということになります。この掲載可能/不可能の閾値はないので見分けるのはある程度の常識とセンスが問われます。質問/回答をウィキペディアに掲載するというケースなら、場合によってはその頻度が節度を超えたと判断されれば、何かご注意が来るかも知れません。--Gyulfox会話2014年5月7日 (水) 02:44 (UTC)[返信]

質問 ちょい違和感を覚えたので便乗させてください。

Twitter(ここではmentionのやりとりが該当すると思います)やThe Interviews、Ask.fmなど、「出版などの査読プロセスを経ずに(UGM的に)情報を引き出せる」可能性があるもの(以降便宜上ここでは「UGM的メディア」と呼ぶことにします)が出典に使える、というのはOKとして、それは果たして肯定的に受け入れられるものでしょうか。仮にそうだとするなら、個人的にはかなりありがたいとは思う(紙媒体上への露出が少ないものについて、能動的に情報を作り出せる可能性がある)のですけれど。

例として、「出典の大半(すべて、ではない。おそらくそうした記事は特筆性方面から否定されると思います)をUGM的メディアとするが、記述内容はきちんと取捨選択されている(要するにトリビアは取り除かれている)記事」があったとしましょう。そうした記事はGA/FAに値するか?と考えた場合、どうもそれは歓迎されないように思えます。「出典として適正」であるはずの「UGM的メディア」であるはずが、それを多用していては「GA/FAに値しない」とすると、これは果たして「出典として適正」と言い切れるのでしょうか?せいぜい「次善策」くらいのものなのでは?というように思いました。 もしかするとわかりづらいかもしれないです。乱文で申し訳ない。かっこ多すぎですね、すいません。各位の見解をお伺いしたいです。--いすか (/) 2014年5月8日 (木) 02:38 (UTC)[返信]

「出典として適正」という話にはなってないはず。出典として「有効」か「無効」なら「有効」だけど、「適当で正しいこと」かどうかというと、そうではないし、記事の質として、それが多くを占めるなら良質な記事にはならない、てのは矛盾してないと思うけど。引き出す引き出さない以前に、そもそも当事者発の情報よりも、第三者的情報源が求められるってのが基本ですし。UGM的メディアが許容されるのは、当事者情報のみですが、UGM的メディアじゃなくて企業や事務所のオフィシャルが出典の大半なら、やっぱりGAにはならないでしょう。「次善策」ですらなくて、許容されるギリギリ、くらいのもの。事実関係の確認ではなく、公表されている情報では曖昧で記述が難しいが記事の内容として重要なもので、本人の意志や意図に関わるもの、に関しては、確認するのが「適正」かなあ。--Ks aka 98会話2014年5月8日 (木) 04:24 (UTC)[返信]
よかった。UGM的メディアの扱いについて、「使えるけど適正ではない」という感覚は共有します。
ただ、「使える」けど「正しくない」というのは、ちょっとわかりづらいようにも思います(特に今回のような方面の記事をいじったりするような人に対しては、理解される気がしない)。単に「使える(有効である)」という話だと、「使えるんだったら何の問題もないじゃん!」と受け取られてしまうのではというか、受け取られるに違いないと思うのですよね。結局UGM的メディアを出典にするには「基本的には適さない」と思うんですが、そういう判断になる材料やプロセスはどこかにか書かれているような気はしません(少なくともこのトピック内では)。本来的には「使えるが、(理由があって)適さない」ということを、たとえばWP:TWITTERあたりに書かなければいけないのかもしれないと思いました(WP:V#NR - 編集上の監督を欠く情報源、かな - がおなじセクションにあるので、これを参照してくれよという話はなくはないですが)。個人的にはここで「使えるが、適さない」ということを確認できたので、ひとまずは良いですが…。 --いすか (/) 2014年5月8日 (木) 04:55 (UTC)[返信]
おそらくその違和感は、WPの理念からくるものであって、「信頼できる情報源」の説明には、「ウィキペディアの記事は、第三者により出版された信頼できる情報源、事実確認や正確さに定評のある情報源に基づくべきです。」の第三者べきに対して遠いところにあるからです。方法論として使えるが理念として遠い。従ってそんな1次情報源より他はないの?という雰囲気はあって当然でしょう。記述内容の重要性との兼ね合いでしょう。--Gyulfox会話2014年5月8日 (木) 07:47 (UTC)[返信]
単に「使える(有効である)」という話だと、「使えるんだったら何の問題もないじゃん!」と受け取られてしまうのではというか、受け取られるに違いないとしても、理想と、現実的な解決と、避けなければならないものの間はけっこう広くあいているわけで、情報源に基づいて百科事典の執筆していくなら、そこは理解してもらわないと、てところだと思うんです。
「情報源として使用することができます(その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、また第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合はその情報と矛盾していない限り、)」(WP:TWITTER)として、「ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。」(Wikipedia:検証可能性#他の原則との兼ね合い)と補い、「特に公表者自身についての記事中において、公表者自身についての情報源として利用できます/次の条件を満たすことが必要です」(WP:SELFSOURCE)のすぐ上には「信頼性はスペクトルのように幅があり、それぞれの背景を考慮する必要があります」(Wikipedia:信頼できる情報源#信頼性の評価)と書かれています。これで分からんとなると、かなり逐一書かないといけなくて、それはある程度包括的なものである方針やガイドラインでは難しいと思う。丁寧に書かないと、かえって誤解を生じさせるようなこともあるし。
こういう感じで共通理解を深めたり確認したりしながら、理解してる、経験ある編集者が、不慣れな編集者に案内するってのを繰り返すって部分は避けられないんじゃないかなあ。--Ks aka 98会話2014年5月8日 (木) 08:47 (UTC)[返信]
コメント Ks aka 98さん、ご指摘ありがとうございました。いすかさん、「信頼性」や「妥当性」や「適切さ」は、幅があるものだと思います。乱暴に単純化すると「ブログやスポーツ紙は、相対的には信頼性が低いので、通常は出典として望ましくないが、絶対に駄目とは限らない。他に適切な出典が多数あるならNGだが、記事内容に重要な点で、他に出典が見当たらないなら当面仕方ない。判断基準のガイドは複数あるが、機械的にOK/NGが決まるものでもなく、最後はバランスやセンスの比重が高まり、コミュニティの議論や合意になる。」みたいなものかと思っています。なお、現実世界の法律や裁判も同様で、すべてのケースを条文に書ける訳でもなく、最後は妥当性や解釈かと思います。蛇足でした。--Rabit gti会話2014年5月8日 (木) 13:15 (UTC)[返信]

質問 あるオンラインゲームについての記事を編集中です。そのゲームは過去に何度かサービスが停止したことがあり、「Twitter上で複数の個人がその運営会社の社長のアカウントに再開を求めるリプライを送り、それに対して再開を検討する旨の返答が行われたのち、恒久的に再開された」ということが記事において、(無出典で)記されており、調べたところ該当する複数のツイートが発見できました。この場合に関して、いくつかの階層で判断を仰ぎたいことがあります。

  • 第一に、前述カッコ内のような記述はそもそも必要でしょうか。
  • 第二に、この社長のアカウントへのリンクを出典とすることは適切でしょうか。なお、写真やツイート内容からなりすましの可能性は低いと思われます。
  • 第三に、社長の、再開を検討する旨のツイートは特定個人へのリプライの形をとっています。プライバシーの観点から、当該ツイートへの直接リンクは適切でしょうか。

以上について、独断で出典を追加する前にお聞きしたく思います。--Eurfi Typhoon会話2015年2月6日 (金) 14:50 (UTC)[返信]