Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ジョージ1世 (イギリス王) 20171011
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ジョージ1世 (イギリス王) - ノート
[編集]選考終了日時:2017年10月25日 (水) 00:06 (UTC)
- (自動推薦)2017年9月の月間強化記事賞受賞記事。--Trgbot(会話) 2017年10月11日 (水) 00:06 (UTC)
- コメントひとまずコメントとして。
- 幼年期節から結婚節へかけて。
- 幼年期節で「ゾフィー・ドロテア」、結婚節で「ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ」と異なる表記で登場すると、別人のようにも見えます。統一してはどうでしょう。
- 「サリカ法で規定されなかった収入を確保した。」のくだりの意味がわかりませんでした。(翻訳元をみても、何を言わんとしているのかよくわからないです。)
- ツェレへリンクがあったほうが良いでしょう。
- この記事だけでなく、ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)とゾフィア・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルクも眺めたましたが、結局よくわからなかったのですが、妻のゾフィーが「フォン・ツェレ」と呼ばれるようになったのはいつからなのでしょう?結婚節の後半、すなわちゾフィーがツェレに30年以上幽閉されるあたりを読んだ印象としては、30年ツェレに幽閉されたから「フォン・ツェレ」と称されるようになったのでは?もしそうだとするなら、結婚時点で「フォン・ツェレ」を付すのはちょっと辻褄が合わないと思うんですよね。そして、「ハノーファーとツェレの統一を推進」というくだりとも平仄が合わないような。結婚時点で「ofツェレ」であったとするならば、それはゾフィー自身が父から一定の領地を渡されていたってことに?
- (追記)原文ではゾフィーの父を「George William of Celle」と表記しているので、後段の「ツェレ」とつながるのですが、翻訳には父に「ツェレ」がついていないし、ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)にはリューネブルク公(侯)という表現で「ツェレ」が出てこないので、そこらへんがわかりにくさの原因かなあ。
- (さらに追記)出典を欠くのでちょっとアレなんですが、en:George William, Duke of Brunswick-Lüneburg(妻の父)には、「duchy of Celle」という表現がありますね。--柒月例祭(会話) 2017年10月18日 (水) 06:01 (UTC)
- 「ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚が解消されたが」とあるのですが、いわゆる法的に正式に離婚したのでしょうか?もしそうならば、どうして「離婚」後に、ジョージはゾフィーの父から領地を相続することができたのでしょうか?一度結婚してしまえば、離婚した後も相続権は有効なんでしょうか?
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク#ハノーファーを読むと、1698年のエルンスト・アウグストの死後、ジョージが選帝侯を継ぐことが認められるまでに争いがあって10年を要したことになっています。しかしこちらの記事ではすぐに選帝侯になったように読めてしまいます。(ここらへんのドイツ地歴記事はひどく入り組んでるんですよね。)
- ゾフィーが「1726年に死んだ」ことは翻訳元にはない情報なので、それを補っているのは親切でいいと思います。ですがどうせなら、いつから幽閉され、32年に及んだことも書くと良いのでは。
- こういう色々を補って説明しようとすると、「英文を翻訳」だけでは不足で、別途情報源を使って加筆する必要があるんですよね。だったら翻訳じゃなく書き下ろしでいいじゃないか、となっていくのですが・・・。他の英国王の記事と一緒で、本気で書き始めるといくらでも加筆可能な主題のはずで、それをどれぐらいコンパクトにまとめるかというところもありますよね。でもそうすると、記事だけ読んでも「なんで?」という疑問が増えるばかりで・・・むずかしいですね。
- これは記事の主題の性格上しょうがないことなのですが、幼年期のドイツ時代のことも英語風の「ジョージ」表記で、他の人々はみなドイツ風の表記なので、なんか気になります。愛称のゲルゲン(Görgen)はGeorgから来てるんだろうなというのはわかるとして、弟はアウグストが「グシェン(Gustchen)」になってるんですよね。翻訳元は英語版なので全員が英語風の表記になっているのですが・・・。これはどっちにするか決めるしかないことなので、これはこれでいいのかもしれないですが、私だったらイギリス時代より以前のことは「ゲオルク」にしたいかなあ。うーん。--柒月例祭(会話) 2017年10月17日 (火) 10:05 (UTC)
- (追記)ジョージ1世は、生まれながらにしてドイツとイギリスの位の継承者だったわけではないんですね。たとえば彼が生まれた時点では、父のエルンスト・アウグストは「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公」ではないので、「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の子として生まれた」的なニュアンスにはならないようにしたい。父が「Herzog von Braunschweig-Calenberg・Fürst von Calenberg」になったのは1679年。なんかそこらへんのいろいろな経緯をわかりやすく説明してみようと思って試しに下書きしてみたら、それだけで2、3万バイトになってしまいました。あははー、だめだこりゃて感じですね。
- 上にも書いたのですが、ドイツ関連の周辺記事がひどく入り組んでるんですよ。
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- ブラウンシュヴァイク=リューネブルクでは[[リューネブルク侯領|リューネブルク=ツェレ]]となっている
- で、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国]]みたいなパイプ付リンクがそこらじゅうにあって、なんかグルグル回ることになっちゃったりして・・・。--柒月例祭(会話) 2017年10月18日 (水) 06:01 (UTC)
- コメント 「サリカ法で規定されなかった収入を確保した。」については、伊佐坂さんが書かれていたことは正しくて、結婚するにあたって二人の父親、すなわち Ernst August と Georg Wilhelm が持参金として 10万ターラーを Sophie に持たせる(支払いは6年分納)ことと、さらに毎年4,000ターラーを Sophie に支給する(ただし管理するのは Georg)が取り決められています。Georg と Sophie の離婚時(1694年に正式に成立)は二人の父親が両者とも存命で、彼らの間で密かに取り決めがなされた結果、結局 Georg が領地などを引き継ぎました。Sophie は二度と結婚させないとの約束が交わされたので、これで事実上男系(婿が来てさらに男子が生まれたりするなどの可能性)が断たれたことになります。このあたりのことは出典として示されている こちらの本 に詳細が書かれています。Ernst にしろ、Georg Wilhelmにしろ、二人の離婚が不倫絡みだというのを世間に知られるのは選帝侯の家柄としては大変まずい状況だと考え、このような取り決めに至ったようです。Sophie のお相手が「失踪」したのも、、、。--薬師末 業(会話) 2017年10月21日 (土) 08:09 (UTC)
選考終了時点で賛成0票、反対0票のため、今回は見送りとなります。--まさふゆ(会話) 2017年10月25日 (水) 10:49 (UTC)