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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/関東・東北の真宗移民 20240811

選考終了日時:2024年8月24日 (土) 16:23 (UTC)

  1. 「藩・幕領の飛地からの移民」節の芳賀郡の事例について、「成果が上がらなかった入百姓政策」は松平定信による移民政策を指すのか、あるいはそれよりも前の施策を指すのかが不明瞭と思います。
  2. 「水戸藩・宍戸藩」節・「移民への差別」節にある「潰れ百姓」について補足が必要と思います。また後者について移住者が継承した「株」は移住先の株という認識でよいのでしょうか?
  3. 「小活」節、北陸農民の自発的に移住という説明について。本文では加賀藩領民の説明だけしか行われていませんが、同じ出典には加賀藩と金沢藩では事情が異なるという断りつきで金沢藩領民の事情についても解説があります。
  4. 北関東における農民減少について、本文では「間引き」の文言が繰り返しみられるためこれが主たる理由であるかのような解説に受け取りました。いっぽうで間引きを主たる原因として万単位の農民減少が起こるのか?という疑問が浮かびました。これについては出典とされている五来重「北陸門徒の関東移民」では村高制度という悪政により農民から商人への転出が加速したという観点が強調されており、現在の本文との解説に齟齬を感じました。
  5. 現在の解説は主に政策的な観点から記述されているように思うのですが、背景として書かれている関東真宗教団への影響についての解説が不足しているように感じます。管見では語彙について触れられていますがそれ以上の影響、たとえば葬制や墓制、祭りなどの宗教に関連する文化・風習に北陸の痕跡は残されていないのでしょうか?1例として小野寺淳「北陸農民の北関東移住」では在来民は土葬で移住者が火葬であったという主旨の説明があります。また複数の出典で「政策面」の研究よりも「北陸移民による関東真宗教団の再興」の研究のほうが先行していたよう記述されているのですが、現在の出典をみるかぎりこれを主題とした研究に触れられていない懸念を感じます。
直接選考には関わらない部分ではありますが、人口過剰に悩んでいた加賀藩や金沢藩がなぜ欠落対策を強化したのか気になりました。欠落が頻発すると幕府からお咎めなどがあったのでしょうか?補足があればより充実した内容になると思います。--あずきごはん会話2024年8月17日 (土) 22:17 (UTC)[返信]
返信 (あずきごはん様宛) 主筆者として、まずはご講評ありがとうございました。本文への反映は追って行いたいと思いますが、先にご指摘に対して見解を述べておきます。
  1. これは定信就任以前の幕府や小田原藩による政策です。補足しておきます。
  2. こちらも反映いたします。北関東の農民の欠落によって後継者不在となった(=潰れた)家(株)を移民が引き継いだという趣旨です。
  3. 金沢藩というとふつう加賀藩と同義かと思うのですが、出典(小野寺 1979)にいう越後農民のことをおしゃっているのでしょうか。越後に関する記述が断片的になってしまっているのはその通りに思いましたので、改善したいと思います。
  4. 間引を主要因としてことさら強調したつもりはなく、江戸などへの転出と間引による人口抑制などが複合して関東の人口減少を招いたという理解です(各文献でもそのような文脈か、あるいは北陸の人口増加要因として対比的に述べられていると思います)。
  5. 確かに教団側の視点はもっと加筆してもよかったと思いました。荒廃した関東の寺院は寺勢を取り戻しており、信徒が移住したことで新設された寺院も多々あるようです。
葬制も含めて、戦後まで「移民特有の風俗」があったことは一応、簡潔には記載しています(岩本 1995)。ただ火葬などはすでに他宗でも一般化してしまっていますし、21世紀現在の動向としては書きづらいのが実情です。
「北陸移民による関東真宗教団の再興」の研究のほうが先行していた、という点はあまり首肯できません。岩本(1988)が関連文献を列挙していますが、戦前の文献でも人口政策等に着目したものが多いですし、宗教史の面から扱った服部之総などは強く批判されています。まだ目を通せていない文献もありますが、教団側の動向に関してはより最近の論考でカバーできると思いますので、そちらで補いたいと思います。--LT sfm会話2024年8月19日 (月) 12:00 (UTC)[返信]
返信 (あずきごはん様宛) ご指摘に関連して文言の差し替え、修正を行いましたのでご確認ください。なお、加賀藩の欠落対策に関して回答していませんでしたが、領内の人口減少はそのまま貢租・夫役の減少につながるので藩から歓迎されないのは当然のことと言えます。人口過剰による貧窮はあくまで農民側の事情です。 -LT sfm会話2024年8月21日 (水) 16:33 (UTC)[返信]
返信 (LT sfmさん宛) ご対応ありがとうございました。賛成とさせていただきます。過日いただいた返信への返答も含め2・3思ったことを記しておきます。3の金沢藩についてはご指摘の通り越後農民の錯誤でした。ご指摘ありがとうございます。5について「21世紀現在の動向としては書きづらい」との返答をいただきましたが、そもそも歴史上の出来事についての解説であるので、過去のことだからというのは記述しない理由にはならないと思います。また出典とされている堀一郎(1963)にも「移民が持ち込んだ固有性の多くは同化しても、なお同化を拒み続けたのは真宗的性格と宗教習俗(p281)」という主旨の解説がされており、宗教的な影響こそが移民のアイデンティティであったと思います。加えて中村正(1983)[1]では、宗教的影響は集落景観にも及ぶという視点から在来民と移民との差異を論じています。景観は簡単に変わるものではなく、おそらく現在もその差異を認識することはできるでしょう。本記事は私も知見のない分野で短時間で調べただけなのでこれ以上は踏み込めませんが、もう少し宗教的な側面について加筆できそうな雰囲気を感じていることは指摘させていただきます。あわせて「服部之総などは強く批判」という点も記述しない理由にはならないと思います。先行した論考がのちに批判されているのならば、なぜ批判されたのかまで解説するのが「網羅」だと思いますので、研究史節などを作って纏めるのが望ましいというのが私の考えです。--あずきごはん会話2024年8月22日 (木) 14:30 (UTC)[返信]
返信 (あずきごはん様宛) ご確認・指摘ありがとうございます。真宗の慣習について同化しなかった点が多々あるのはおっしゃる通りで、記事内でも多少触れているつもりではありますが、真宗の風俗が残存しているのは真宗移民である以上当然という考えもあり、どちらかといえば北陸から持ち込まれた文化的な側面の記述に重きを置いたところがあります。また服部等の研究についてもご指摘の通り、研究史・史的評価として記述する価値はあると承知しておりますが、研究が膨大で参照できていないものも多いため、そのような節は設けませんでした。ご意見としてたいへん参考になりましたので、また折を見て充実させたいと思います。 --LT sfm会話2024年8月23日 (金) 11:59 (UTC)[返信]

賛成のみ3票以上の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031会話2024年8月24日 (土) 15:25 (UTC)[返信]