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ノート:岡田更生館事件

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タグ除去可否の確認

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提案 {{TVWATCH}}および{{複数の問題}}として独立記事作成の目安、および百科事典でない、とのタグが計3つありますが、除去してよろしいでしょうか? TV Watchはそもそもタグの警告文と本件は全く関係ありません。国会でも再三取り上げられた事件ですので、独立立項の目安は十分満たした記事です。そして百科事典的でない記述は、私の全面改稿版 (oldid=79349739) でクリーンナップし、問題は解消していると考えます。--ProfessorPine会話2020年9月10日 (木) 23:30 (UTC)[返信]

賛成 3つのタグの問題は現在は解消されていると考えます。ProfessorPineさんのご提案に賛成いたします。--Rienzi会話2020年9月11日 (金) 02:49 (UTC)[返信]
賛成 本文の出典としても使われている様に山陽新聞でも特集が組まれていますし、{{複数の問題}}は除去して問題ないと思います。ただ、{{TVWATCH}}はノート:岡田更生館事件/過去ログ1#アンビリバボーの放送について節で挙げられている様に奇跡体験!アンビリバボーの公式サイトで成文化されているので、それを使って加筆するのを防止する観点では有効ではないかと思います。あと、2020年9月11日 (金) 16:44 (UTC) の時点で出典として使用されている脚注72個のうち、11、16、17と19から68(36と55及び61を除く)の50個は潜入した張本人である大森実氏による著作を原典としています。割合的に過半数なので、テンプレートの運用基準がどうかは分かりませんが、{{一次資料}}を逆に復帰させるか{{精度}}を貼付するべきかと思います。また、これに関連して国会での議事に関する出典としてのNDLは一次資料ではないかと思います。--121.80.102.115 2020年9月11日 (金) 17:48 (UTC)[返信]
  • 返信 IP: 121.80.102.115さんのご指摘に回答します。私も{{一次資料}}の復活が適切と思います。{{精度}}を用いるのは反対で、理由は「Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります」との文面が強すぎるからです。自叙伝的とは言え、信頼できる出版社の校閲を経て上梓されているので、WP:RSの範疇と思います。また、主筆者さん執筆バージョンでは大森・小西の潜入取材が数万バイトに渡って書かれていましたが、たった1日しか潜入していませんし、ウエイトを大幅に下げました。脚色していそうなストーリ展開も省いています。さらにRienziさんのご協力により、文献間で不整合が起こっている箇所には注釈が添えられています。ですから、改稿後はそこまで「精度」が低いとは思えません。
続いて{{TVWATCH}}ですが、文面をお読みください。主語が「テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は...」となっており、つまりこのテンプレートはTV番組を主題とした記事に対して貼り付けることを目的としています。例えば、NHK大河ドラマ番組『麒麟がくる』の記事で、次週予告編を見ただけであらすじやキャラ紹介の節に加筆するな、という意味です。
仮に今後、岡田更生館事件の記事にWP:RSに適合しない出典を用いて加筆されたとしたら、それは事後的に{{精度}}などを貼り付ければ良いだけです。現時点で誰もアンビリバボーを使って加筆していませんし、さらには素人ブログなどTV番組以外にもWP:RS不適合の出典を使って加筆を試みる人は将来出てくるかもしれません。これは岡田更生館事件の記事に限らずどの記事でも同様ですが、特集された一番組だけを取り上げて予防的に警告テンプレを出す必要性はありません。--ProfessorPine会話2020年9月12日 (土) 01:42 (UTC)[返信]
{{一次資料}}の復帰が適切とのこと了解です。色々説明を戴いて恐縮ですが、{{精度}}は{{一次資料}}が不適であった場合を想定していたので、私自身そこまで貼付に積極的ではないということをご理解戴きたく存じます。
{{TVWATCH}}については了解です。121.80.102.115 2020年9月12日 (土) 22:01 (UTC)[返信]

疑問点

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フラナガン神父

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扱う対象が孤児と大人である差異からフラナガン神父に言及するのは不適切として{{疑問点}}が貼付されていますが、岡山県における戦後の児童福祉の推移 その1 終戦と児童福祉の89頁に記載されている年表に「1947年4月25日に岡田更生館から67名の児童が『少年の丘』に移された直後の5月中旬にフラナガン神父が『少年の丘』へメッセージを送った」旨の記述があるので、検証可能性を満たすため一概に無関係と言い切れるものではないと思います。--121.80.102.115 2020年9月11日 (金) 17:48 (UTC)[返信]

  • 返信 私が疑問点で言及した意図が伝わっていないようなので、補足致します。現在の書き方だと、フラナガン神父の勧告が要因となってGHQを動かし、全国に浮浪者収容施設が建設される政策が展開された、という因果関係になっています。ですがこの政策は1946年に試行されており、当時のフラナガン神父は日本「国外」にいて孤児に限定して慈善活動をしていましたので、そのような方がGHQに直接進言できたとも思えません。しかもフラナガン神父の活動は孤児 (子供) に限定されており、岡田更生館のような「成人向け」でかつ「就労斡旋」をも目的とした収容施設運営とは乖離しています。岡田更生館をはじめとする成人向け施設がどのような経緯で設立されるに至ったのか、大森以外の別の一般的な学術文献から持ってくるべきでしょう。
なお、このような疑問を私が抱いた背景ですが、1946年5月の参議院厚生委員会議事録における言及 (032 木村) です。現在の厚生労働省は当時、厚生省 (健康) と労働省 (職業安定) に組織が分かれており、2つの省庁の所管で縦割り的な弊害があったとのニュアンスがこの答弁から見受けられます。これは岡田更生館事件とは関係ない文脈であり、単に同じ厚生委員会で別の委員が質疑しただけなので、念のためご留意下さい。私が面白いな、と思ったポイントですが、本来ならば岡田更生館のような施設というのは、厚生省と労働省の連携なくして制度設計できないはずですが、どうも厚生省傘下で進められたようだということです。その結果、就労者が職を得て自立できないような立地に岡田更生館を設営してしまい、それが理由で (他の浮浪者収容施設と比べても) 施設運営の予算やりくりが厳しくなり、悪循環を起こしたのではないかと推察しております。そして同厚生委員会で姫井議員は岡田更生館の現地視察についても報告しており (076 姫井)、立地の悪さがあって働き口が少ないので、岡田更生館は設備改修より移転すべしと提言しています。たぶんこの施設が労働省主導だったら、このような立地を選ばなかっただろうなと思うのです。
ということで、現在の「#評価・分析」節では触れられませんでしたが、背景節とからめる形で、大森氏以外の専門文献を使って加筆できる余地は大いにあると感じています。--ProfessorPine会話2020年9月12日 (土) 01:42 (UTC)[返信]
  • そういうことでしたら、脚注が「GHQの軍政部はそうした問題を一掃するよう命令を出し」の部分ではなく、「フラナガン神父の勧告」の部分にのみかかっているようなので、大森氏の著書でGHQに言及されているのならば、現状のままで大森氏以外の専門文献が入手できる編集者を待つか、大森氏の著書でGHQに言及されていないのならば、コメントアウトか除去で宜しいかと存じます。121.80.102.115 2020年9月12日 (土) 22:01 (UTC)[返信]
  • 横から失礼いたします。大森実の著作『エンピツ一本』203ページに、「米軍政府命令で浮浪者収容所になった」「フラナガン神父の勧告によった」との記載がございます。ただ、この「米軍政府」なる単語を「連合国軍最高司令官総司令部」と同一視して良いものかどうか、現時点では私は判断がつきかねます。--Rienzi会話2020年9月13日 (日) 10:06 (UTC)[返信]
  •  追記 追加で新聞データベース検索したところ、1995年8月8日 毎日新聞 大阪 夕刊 1頁 1面に「[戦後関西再見] 記者の50年 1945年 日米の50年 国際問題評論家・大森実」と題した記事がヒットしました。これは大森氏の回想録が書かれていて、米大統領夫人エレノア・ルーズベルトを大森氏が遊郭に連れて行ったことなどが語られた直後に、
...映画「ボーイズ・タウン」(少年の町) のフラナガン神父に、不潔な施設を見せ、GHQの福祉強行策に協力した。その成果として出来たはずの復員帰りのホームレスを収容する岡山県営の岡田厚生館で、ホームレスが多数殺されているという情報を聞き、同僚と二人で変装して...
との記述がありました。「更生」ではなく「厚生」表記です。この書きぶりだとまるで大森がホームレス収容所設置の立役者のごとく「だいぶ盛って」描かれていますが、先述の通りフラナガンと実際の政策の直接的な因果関係は不正確との印象を受けました。ご参考までに。--ProfessorPine会話2020年10月4日 (日) 04:48 (UTC)[返信]

被害者数

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Infobox上では累計「死亡者が76名(または72名)」(出典なし)、本文の導入節では累計「被害者が76名」(出典: 山陽新聞)、事件発覚の経緯節で述べた北川のリークによると「1949年時点で1か月間に50人から60人は死んでいった」、事件発覚後の姫井議員による視察報告 (評価・分析節) によると「死亡者は8日に1人の割合」となっており、数字にバラつきがあるのできちんと注釈を添えるべきと思います。これは、懲役1年・執行猶予3年という量刑がどのような事実認定に基づいて下されたのかにも関わりますので、重要な数字です。

まず、死亡者数と被害者数の定義です。罪状は殺人だけでなく暴行 (一命を取り留めた人) も含まれているので、死亡者数<被害者数になるはずです。そして大なり小なり虐待を受けた入所者は大勢いたでしょうから、被害者数に広げると数字が曖昧になってしまいます。ですので、死亡者数に限定して述べるのが適切と思います。

続いて死亡者数ですが、どこまでを施設職員の責任とし、どこからを不可抗力の死とするか、線引きが難しい時代だと思います。半数が結核にかかっていたとの証言がありますが、当時は施設外にいても結核で亡くなる方は多かったでしょうし。一方、栄養失調による死亡は、館長らの公金横領がなければ防げた可能性も高いでしょう。こう考えると、裁判記録上で何人を死亡させたと判定されたのか、数字が気になります。裁判記録を入手するのが困難なのは重々承知しているのですが、今後どなたかが調べられるかもしれないので参考意見として指摘させて頂きました。--ProfessorPine会話2020年9月15日 (火) 01:44 (UTC)[返信]

私はこれ以上の情報を調べる手立てを持っていないのですが、注釈を添えるべき、というのは同意します。121.80.102.115 2020年9月16日 (水) 20:46 (UTC)[返信]

就寝時の作業員の格好

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ウィキペディアの記事では山陽新聞を出典に『脱走防止を目的として全裸で就寝するよう命じられた』と書かれていたのですが、大森実伝 : アメリカと闘った男の83ページでは『パンツ一枚の裸』であったと書かれています。作業員の格好はどのようなものだったのでしょうか?山陽の記事は有料記事なので確認していないのですが、とりあえず本文を「全裸」から「裸」に変えてお茶を濁しておきました。どなたか結論を出せる方がいらっしゃいましたら編集をお願いします。--Sasuyan会話2020年9月25日 (金) 13:21 (UTC)[返信]

純粋な疑問なのですが、『大森実伝 : アメリカと闘った男』の出版年についてNDLCiNiiでは「2011.3」となっている一方で、本文中で出典として使用しているものは2013年になっているのは版の問題でしょうか?119.231.46.213 2020年10月13日 (火) 21:17 (UTC)[返信]
すみません、それについては単純に私の記入ミスです。多分、2011-03と入力しようとして2013になってしまったのだと思います。記事での記述も訂正しました。ご指摘ありがとうございます。--Sasuyan会話2020年10月14日 (水) 13:56 (UTC)[返信]

判決内容

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先ほど{{信頼性要検証}}を貼りました件につき (編集差分)、補足します。元々使われていた毎日新聞1950年3月1日付「元岡田更生館長に判決」の記事 (記事Aとします) ですが、毎日新聞の検索データベースではヒットしませんでした。代わりに同日の「元岡田更生館長に懲役一年」という記事 (記事Bとします) がありまして、刑期に矛盾が起こっていましたのでBを正として改稿し、Aに{{信頼性要検証}}を添えています。Bの記事では、

△役職 + 氏名 + 罪状 + 懲役○年 + 執行猶予○年 (○年)

という表記で4名に下った判決がそれぞれ書かれていました。この (○年) の箇所は「括弧内は求刑」と明記されています。しかし記事Aを元に書かれた旧版 (出典番号7番の箇所) では、求刑ではなく執行猶予として記述されていました。さすがに主犯格のN館長に執行猶予が付くのはおかしいし、執行猶予付きだったらわざわざ控訴する必要もないので、記事Bの記述を正として書き換えた次第です。--ProfessorPine会話2020年10月4日 (日) 04:48 (UTC)[返信]

追加調査・加筆用のメモ

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私はとりあえず著作権侵害対応のみお手伝いで入った身なので、私自身がこれ以上加筆することはありませんが、今後の補強ネタとして備忘録を残しておきます。

使えそうな文献
  • GHQ日本占領史』(1998.2) - 戦後の福祉事情と各種政策を包括的にまとめた文献。救済福祉計画、引揚者の福祉や住居供給、社会復帰などを網羅。関連法の制定にも言及。
  • 塩見鮮一郎『戦後の貧民』文藝春秋、2015年9月20日https://books.google.com/books?id=0_zMDwAAQBAJ&pg=PA78  - Google Books上のP78に参考文献が多数列挙。Amazon書評を見ると、やや叙情的な記述が気になるも、データ豊富とのこと。
  • 山本俊一『浮浪者収容所記―ある医学徒の昭和二十一年中央公論新社〈中公新書〉、1982年6月1日https://bookmeter.com/books/943467  - 浅草の東本願寺の浮浪者収容所で診療に当たった医学生の体験記。その後、この著者は東大医学部名誉教授として医学書多数出版。岡田更生館と他所との違いを比較する上で参考になるかも?
社会背景の分析にあたって押さえておくべき事象

参考ページは緩いNPOのサイトなのですが、1945年から50年にかけての日本の子供を巡る事件・事故年表より

  • 1945年12月15日 - 生活困窮者緊急生活援護要綱 閣議決定。⇒1946年4月に実施。母子保護法、軍事扶助法、医療保護法、戦時災害保護法といった救護法が分散して戦中に立法化されたが、これを戦後に暫定的に統合した。
  • 1946年4月15日 - 厚生省社会局が「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」を発表。
  • 1946年6月時点 - 1か月間に保護された浮浪児が3183人。また、既に全国に少年教護院が50か所設置されていて、入所中の青少年数は2661人。
  • 1946年9月9日 - 生活保護法公布。⇒10月1日より施行。前年の生活困窮者緊急生活援護要綱から一部バージョンアップしたと思われる。
  • 1946年9月19日 - 主要地方浮浪児等保護要項 発表。
  • 1946年9月27日 - 労働関係調整法 公布。⇒10月13日より施行。
  • 1948年1月15日 - 東京で「寿産院事件」発覚。金品着服のため、預かった乳幼児103人を餓死・病死させた事件。
  • 1949年1月1日 - 新刑事訴訟法 施行。
  • 1949年5月31日 - 人権擁護委員法、および教職員免許法の2本が公布。
  • 1949年12月26日 - 身体障害者福祉法

まず、フラナガン神父が来日した1947年よりも1年以上前に、既に浮浪者や引揚者などの弱者支援のための閣議決定がなされています。これがGHQ主導で閣議決定されたのか、それとも日本政府主導だったのか確認すべきでしょう。

続いて、岡田更生館がオープンする半年前の1946年6月には既に、犯罪に走る浮浪児を収容するための少年教護院が全国展開されており、成人向け収容施設と分離されているのが分かります。実際、岡田更生館に収容されていたのも殆ど成人です。したがって、やはりフラナガン神父の勧告を岡田更生館のような成人向け収容施設の設置政策とからめて記述するのはムリがあると思います。

岡田更生館の発覚より1年1か月前、類似の「寿産院事件」が発覚しています。一審の東京地裁では主犯女性が懲役8年、夫に懲役4年。二審の東京高裁では1952年4月にそれぞれ懲役4年と懲役2年で確定。これに対して岡田更生館のN館長でさえ、懲役1年・執行猶予3年なので、やはり寿産院事件と比べると岡田更生館事件の判決は軽すぎると思われます。判決の出た当時の新聞記事などチェックできる方がいれば、判旨や世論の反応など加筆をお願いしたいところです。

岡田更生館事件発覚後、衆参の厚生委員会で「福祉施設の関わる人間は資格なり審査を」とか「厚生省と労働省の縦割り」的な話が議事録に書かれていると先般申し上げましたが、これに関連して同年に人権擁護委員法、教職員免許法、身体障害者福祉法などが成立しています。裏を返すと、岡田更生館事件が発覚する前は、とにかく箱物 (ハード面) を全国に作ることに終始していて、それを運営する人の管理 (ソフト面) までは法律や制度設計がうまく届かなかったのだろうなと。--ProfessorPine会話2020年9月15日 (火) 01:44 (UTC)[返信]

コメント 誠に勝手ながら文献の一部に{{Cite book}}や和書パラメータの適用を行いました。121.80.102.115 2020年9月16日 (水) 20:46 (UTC)[返信]