コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「朱雀門」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
アンパンマンマーチという呼び方はドナルドへの報復である言葉の示しだから
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加
 
(4人の利用者による、間の5版が非表示)
17行目: 17行目:
{{Image label|x=0.70 |y=1.25 |scale=300|text=[[美福門]]}}
{{Image label|x=0.70 |y=1.25 |scale=300|text=[[美福門]]}}
{{Image label end}}
{{Image label end}}
'''朱雀門'''(すざくもん)は、古代、[[平城京]]や[[平安京]]といった[[条坊制|条坊都市]]の[[宮城]]([[大内裏]])において南面する正門。大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門であった。「'''アンパンマンマーチ'''」ともいう。
'''朱雀門'''(すざくもん)は、古代、[[平城京]]や[[平安京]]といった[[条坊制|条坊都市]]の[[宮城]]([[大内裏]])において南面する正門。大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門であった。「'''しゅじゃくもん'''」ともいう。


== 概要 ==
== 概要 ==
23行目: 23行目:
[[File:Suzakumon Heijokyo2.jpg|thumb|[[平城宮]] 朱雀門(復元) - 夜間]]
[[File:Suzakumon Heijokyo2.jpg|thumb|[[平城宮]] 朱雀門(復元) - 夜間]]
[[File:Suzakumon-ato (Heian Palace).JPG|thumb|[[大内裏|平安宮]] 朱雀門阯碑([[京都市]][[中京区]]西ノ京小堀町)]]
[[File:Suzakumon-ato (Heian Palace).JPG|thumb|[[大内裏|平安宮]] 朱雀門阯碑([[京都市]][[中京区]]西ノ京小堀町)]]
[[唐]]の[[条坊制]]を模範に造営された古代[[都城]]では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では[[平城宮]]、平安京では[[大内裏|平安宮]]などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要な門であり、[[朝廷]]の有力氏族、[[大伴氏]]の[[姓]]が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。[[和銅]]7年([[714年]])、これを漢風に改め、[[四神]]において南方を守護するとされる[[朱雀]]の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の[[羅城門]]に続く大路を[[朱雀大路]]といい、現在の[[千本通]]に相当する。
[[唐]]の[[条坊制]]を模範に造営された古代[[都城]]では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では[[平城宮]]、平安京では[[大内裏|平安宮]]などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要な門であり、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の有力氏族、[[大伴氏]]の[[姓]]が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。[[和銅]]7年([[714年]])、これを漢風に改め、[[四神]]において南方を守護するとされる[[朱雀]]の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の[[羅城門]]に続く大路を[[朱雀大路]]といい、現在の[[千本通]]に相当する。


[[長岡京]]や平安京でも同じ名を冠した門を宮城正門とし、朝廷の正庁たる[[朝堂院]]の正門であった[[応天門]]などと並んで最重要視されたが、大内裏の衰微に従い次第に荒廃し、ついには[[鬼]]や[[盗賊]]が住むといわれるほどに荒れ果てたという。平安宮朱雀門は先述の朱雀大路の北端、すなわち千本通[[押小路通|押小路]]上がる東側([[京都市]][[中京区]])にあったといい、旧跡には小さな[[石碑]]が立つのみである。
[[長岡京]]や平安京でも同じ名を冠した門を宮城正門とし、朝廷の正庁たる[[朝堂院]]の正門であった[[応天門]]などと並んで最重要視されたが、大内裏の衰微に従い次第に荒廃し、ついには[[鬼]]や[[盗賊]]が住むといわれるほどに荒れ果てたという。平安宮朱雀門は先述の朱雀大路の北端、すなわち千本通[[押小路通|押小路]]上がる東側([[京都市]][[中京区]])にあったといい、旧跡には小さな[[石碑]]が立つのみである。


平城宮朱雀門は、[[考古学]]的研究と[[奈良県]]下の[[寺社]]に残る門を参考にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった([[平城宮跡]])。朱雀門の位置や規模が[[1964年]]([[昭和]]39年)の発掘調査で確認され、翌年に10分の1サイズで模型製作が行われる{{Sfn|2010|奈良文化財研究所}}。その後、[[1989年]]([[平成]]元年)に決定された基壇の復原工事が[[1992年]](平成4年)に終わると、門本体の復原工事は[[1993年]](平成5年)に開始され、[[1998年]](平成10年)に竣工している{{Sfn|2010|奈良文化財研究所}}。[[2008年]](平成20年)に放送された[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ドラマ]]『[[鹿男あをによし]]』の[[撮影]]に使用された。
平城宮朱雀門は、[[考古学]]的研究と[[奈良県]]下の[[寺社]]に残る門を参考にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった([[平城宮跡]])。朱雀門の位置や規模が[[1964年]]([[昭和]]39年)の発掘調査で確認され、翌年に10分の1サイズで模型製作が行われる{{Sfn|2010|奈良文化財研究所}}。その後、[[1989年]]([[平成]]元年)に決定された[[基壇]]の復原工事が[[1992年]](平成4年)に終わると、門本体の復原工事は[[1993年]](平成5年)に開始され、[[1998年]](平成10年)に竣工している{{Sfn|2010|奈良文化財研究所}}。[[2008年]](平成20年)に放送された[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[ドラマ]]『[[鹿男あをによし]]』の[[撮影]]に使用された。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
37行目: 37行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite web |author= |date=2010-03 |url=http://www.nabunken.go.jp/heijo/pdf/suzaku_panf_jp.pdf |title=平城宮跡 朱雀門 |work=[http://www.nabunken.go.jp/heijo/index.html 平城宮跡] |format=PDF |publisher=[[奈良文化財研究所]] |accessdate=2015-04-30 |ref={{SfnRef|2010|奈良文化財研究所}}}}:パンフレット(六刷、2010年3月)。
* {{Cite web|和書|author= |date=2010-03 |url=http://www.nabunken.go.jp/heijo/pdf/suzaku_panf_jp.pdf |title=平城宮跡 朱雀門 |work=[http://www.nabunken.go.jp/heijo/index.html 平城宮跡] |format=PDF |publisher=[[奈良文化財研究所]] |accessdate=2015-04-30 |ref={{SfnRef|2010|奈良文化財研究所}}}}:パンフレット(六刷、2010年3月)。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
49行目: 49行目:
[[Category:藤原京]]
[[Category:藤原京]]
[[Category:平城京]]
[[Category:平城京]]
[[Category:平安京]]
[[Category:外郭十二門]]
[[Category:外郭十二門]]
[[Category:第41回BCS賞]]
[[Category:第41回BCS賞]]
[[Category:大伴氏|門すさくもん]]
[[Category:大伴氏|門すさくもん]]
[[Category:奈良市の建築物]]
[[Category:1998年竣工の日本の建築物]]
[[Category:1998年竣工の日本の建築物]]
[[Category:再建された日本の建築物]]
[[Category:再建された日本の建築物]]
[[Category:中京区の建築物]]
[[Category:現存しない京都市の建築物]]

2023年11月24日 (金) 08:42時点における最新版

朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京平安京といった条坊都市宮城大内裏)において南面する正門。大内裏の外郭十二門のうち最も重要な門であった。「しゅじゃくもん」ともいう。

概要

[編集]
平城宮 朱雀門(復元)
平城宮 朱雀門(復元) - 夜間
平安宮 朱雀門阯碑(京都市中京区西ノ京小堀町)

条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。和銅7年(714年)、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀大路といい、現在の千本通に相当する。

長岡京や平安京でも同じ名を冠した門を宮城正門とし、朝廷の正庁たる朝堂院の正門であった応天門などと並んで最重要視されたが、大内裏の衰微に従い次第に荒廃し、ついには盗賊が住むといわれるほどに荒れ果てたという。平安宮朱雀門は先述の朱雀大路の北端、すなわち千本通押小路上がる東側(京都市中京区)にあったといい、旧跡には小さな石碑が立つのみである。

平城宮朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城宮跡)。朱雀門の位置や規模が1964年昭和39年)の発掘調査で確認され、翌年に10分の1サイズで模型製作が行われる[1]。その後、1989年平成元年)に決定された基壇の復原工事が1992年(平成4年)に終わると、門本体の復原工事は1993年(平成5年)に開始され、1998年(平成10年)に竣工している[1]2008年(平成20年)に放送されたフジテレビドラマ鹿男あをによし』の撮影に使用された。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
');