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「千住」の版間の差分

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尚、南千住は住所では[[荒川区]]に属するため、殆どの場合、南千住を省くことが多い。
尚、南千住は住所では[[荒川区]]に属するため、殆どの場合、南千住を省くことが多い。


現在の北千住地域は、[[荒川放水路]]と[[隅田川]]に挟まれた地域の東側という印象があるが、[[住居表示]]が実施されるまでは、荒川放水路の北(現在の梅田、[[足立 (足立区)|足立]]、中央本町周辺)も千住の一部であった。現在では住民の意識も薄く、[[都営バス千住営業所]]、[[三菱東京UFJ銀行]]千住中央支店など一部にその名残が存在するのみとなっている。
現在の北千住地域は、[[荒川放水路]]と[[隅田川]]に挟まれた地域の東側という印象があるが、[[住居表示]]が実施されるまでは、荒川放水路の北(現在の[[梅田 (足立区)|梅田]]、[[足立 (足立区)|足立]]、[[中央本町 (足立区)|中央本町]]周辺)も千住の一部であった。現在では住民の意識も薄く、[[都営バス千住営業所]]、[[三菱東京UFJ銀行]]千住中央支店など一部にその名残が存在するのみとなっている。


[[住居表示]]として千住の名称が残っている地域
[[住居表示]]として千住の名称が残っている地域

2007年6月13日 (水) 06:48時点における版

葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」

千住(せんじゅ)は東京の地名である。(せんじゅう)とは発音しない。江戸時代の頃から日光街道千住宿が整備され発展した。同じ字を書く千住村がかつて佐賀市内に存在し、そちらは「せんじゅう」と発音した。

範囲

「千住」という場合、足立区千住(周辺の「千住○○町」なども含む)を指すのが一般的(つまり、北千住駅周辺のこと)。(地名としては、南千住は正式なものだが、北千住は地名としては存在せず、あくまでも通称である)。南千住のみを指して千住ということはまずない。荻生徂徠の『政談』によれば当地が「大江戸八百八町」の北限であった。

尚、南千住は住所では荒川区に属するため、殆どの場合、南千住を省くことが多い。

現在の北千住地域は、荒川放水路隅田川に挟まれた地域の東側という印象があるが、住居表示が実施されるまでは、荒川放水路の北(現在の梅田足立中央本町周辺)も千住の一部であった。現在では住民の意識も薄く、都営バス千住営業所三菱東京UFJ銀行千住中央支店など一部にその名残が存在するのみとなっている。

住居表示として千住の名称が残っている地域

  • 千住
  • 千住桜木(千住桜木町)
  • 千住元町
  • 千住大川町
  • 千住柳町
  • 千住寿町
  • 千住中居町
  • 千住龍田町
  • 千住宮元町
  • 千住緑町
  • 千住仲町
  • 千住河原町
  • 千住橋戸町
  • 千住旭町
  • 千住東(千住東町)
  • 千住関屋町
  • 千住曙町

住居表示の実施で千住の名称が消えた地域(荒川放水路の北側)

  • 千住八千代町
  • 千住高砂町
  • 千住末広町
  • 千住若松町
  • 千住弥生町
  • 千住栄町

地理的に現在の千住の一部となっている地域

  • 日ノ出町
  • 柳原

日ノ出町と柳原は元々千住ではない。柳原は南葛飾郡南綾瀬村の一部であったが、荒川放水路の完成によって地理的に本村と分断された。後に両郡は東京市の一部となり、柳原は葛飾区に属することになったが、地理的な側面から足立区に編入されるに至った。日ノ出町は南足立郡綾瀬村の一部であった。区制施行後の綾瀬村の解体により、日ノ出町は荒川放水路の両岸に置かれたが、葛飾区への一部編入などにより、南側の地域だけが残るかたちとなった。現在では双方とも地理的にも住民の意思的にも千住の一角を担っている。

歴史

勝專寺の寺伝によれば、1327年嘉暦2年)に新井図書政次が荒川で網で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。

他には、足利義政の愛妾千寿の出生地であったからという説や、千葉氏が住んでいたからだという説が知られている。

江戸時代頃から日光街道の宿場として発展した。江戸から一つ目の宿場であり、江戸四宿のひとつとしても数えられた。南北千住を結ぶ千住大橋の北岸を北組(千住1~5丁目)・中組(掃部宿)の二つに分け、橋南に南組(小塚原町・中村町)を設けこれら3組を合して千住宿と称した。北組・中組・南組が公的な地名となるのは明治になってからである。

いわゆる「岡場所」であり、当時の船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」というのはこれを指している。また江戸市街の喉もとで奥州街道陸前浜街道の始点として、日光東北方面への旅人で賑わったといわれている。

松尾芭蕉奥の細道の出発点であり、見送りの門弟たちとの別れを「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」と詠んだ。彼が発ったのは、南千住なのか北千住なのかは不明だが、江戸は現在の南千住までだったことから、江戸から出発したという事は南千住から出発したと考えるのが自然である。

また、練馬の大根、目黒の筍、尾久の牛蒡などとならんで葱の名産地として有名であった。

明治以降郡区町村編制法の施行を経て、南組を東京府北豊島郡南千住町、北組、中組は併合して同府南足立郡千住町とし郡役所を同町に置いた。

1871年明治4年)7月17日、千住黴毒院(ばいどくいん)が開設され、宿娼妓に梅毒検査が行なわれている。『経済及統計』(内務省・明治23年2月)によれば、1883年明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも二廓四宿においては内藤新宿板橋宿を上回っていた。1881年明治14年)10月11日、三条太政大臣岩倉右大臣が当宿に東北巡幸帰還中の明治天皇を迎えて、大隈重信の免職と国会開設の聖断を受けている(明治14年の政変)。

また水利の好条件を生かし、官営千住製絨所隅田川駅(貨物駅)・千住火力発電所などが置かれ、もって舟便のよいことが近在農村に広く知られるようになり、昭和20年代まで青物、川魚の朝市が毎朝のように開かれた。

1930年昭和5年)の国勢調査によれば、北豊島郡南千住町の人口は56,017で郡内20ヶ町村中7位の規模であり、南足立郡千住町は69,085人で郡中最大だった。翌々1932年昭和7年)10月1日、両町とも東京府東京市の一部となり消滅した。

現在では、東京の代表的な下町として有名である。

千住の町並みは、北千住駅を中心に広がる商店街住宅街が入り交じった作りである。 大手スーパーイトーヨーカドーの事実上の1号店は千住店である。 近年再開発が進み、マルイ、東京芸術センター、東京芸術大学千住キャンパスなどが建設されている。

山田宗樹小説嫌われ松子の一生」の舞台にもなり、中島哲也監督中谷美紀主演映画および内山理名主演のテレビドラマのロケも行われた。 その他、テレビドラマ「3年B組金八先生」などのロケ現場にもなっている。

足立区出身のビートたけしのギャグトークや著書にも時々登場する。

交通

かつて通っていた鉄道

千住を名乗るもの

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