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[[1989年]]に南海は[[ダイエー|ダイエー本社]]に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また[[平和台野球場|平和台球場]]は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、[[内田強]]・[[原田賢治]]・[[白井孝幸]]の3選手との[[トレード]]によりオリックスに[[移籍]](参考:[[世紀のトレード]])。移籍後も変わらぬ活躍で、[[ブルーサンダー打線]]の中核を担った。[[1991年]]、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の[[1992年]]夏、記者に「オレは老衰」ともらし、同年現役を引退。引退試合は平和台球場での最終戦、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の[[野茂英雄]]投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。 |
[[1989年]]に南海は[[ダイエー|ダイエー本社]]に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また[[平和台野球場|平和台球場]]は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、[[内田強]]・[[原田賢治]]・[[白井孝幸]]の3選手との[[トレード]]によりオリックスに[[移籍]](参考:[[世紀のトレード]])。移籍後も変わらぬ活躍で、[[ブルーサンダー打線]]の中核を担った。[[1991年]]、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の[[1992年]]夏、記者に「オレは老衰」ともらし、同年現役を引退。引退試合は平和台球場での最終戦、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]の[[野茂英雄]]投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。 |
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無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂った事で、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。はいつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。[[2005年]]に[[脳梗塞]]を発症し、[[ |
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂った事で、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。はいつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。[[2005年]]に[[脳梗塞]]を発症し、[[2009年]]現在は[[糖尿病]]のため療養中である。 |
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[[2005年]]まで[[朝日放送]](ABC)の[[野球解説者]]を務めた。[[2006年]]、[[野球殿堂]]入り。[[7月21日]]に[[明治神宮野球場|神宮球場]]での[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム第1戦]]で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。 |
2009年4月19日 (日) 02:03時点における版
基本情報 | |
---|---|
出身地 | 奈良県五條市 |
生年月日 | 1948年2月26日(76歳) |
身長 体重 |
170 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手、指名打者 |
プロ入り | 1969年 ドラフト2位 |
初出場 | 1970年4月12日ロッテ戦(東京) |
最終出場 | 1992年10月1日近鉄戦(平和台) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2006年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手、指名打者)。現役時代は南海・ダイエー、オリックスで活躍した。
40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
来歴・人物
天理高校から社会人野球チームクラレ岡山へ入団。1968年、阪急ブレーブスからドラフト12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海からの2位指名を受け、プロ入り。
1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が巨人とのオープン戦の際、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった。しかし頑固で鳴る門田はこれを一切受け入れず、あくまで長打にこだわった打撃を押し通した。「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。
1979年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しほぼ1シーズンを棒に振るが、その年9月には代打で登場しファンを喜ばせた。翌1980年に復活。以降、「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う。」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと翌1981年は44本塁打で初の本塁打王に輝く。
怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、指名打者として出場することがほとんどになった。新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰え、打撃以外の守備・走塁のプレーは到底プロレベルとは呼べないもので「ただバットを力一杯振り回すだけの選手」との揶揄の声もあった。南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代にはブーマーや石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあったが、その鈍足・弱肩から守備範囲は相当狭くなっていた。
しかし打撃は衰えを見せず、1983年も40本塁打で本塁打王。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王にMVP。40歳で44本塁打は日本初の快挙。この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後も41歳で33本、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を持っている。
1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍(参考:世紀のトレード)。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」ともらし、同年現役を引退。引退試合は平和台球場での最終戦、近鉄の野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂った事で、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。はいつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。2005年に脳梗塞を発症し、2009年現在は糖尿病のため療養中である。
2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
エピソード
- 趣味は陶芸、油絵、写経など。炭酸飲料が好物。
- 南海時代、野村克也とソリが合わなかったといわれる。
- 選手兼任監督として君臨していた頃の野村が、選手の前で「俺に文句のある奴は手を上げてみろ」と言ったところ、門田一人が手を挙げた、との逸話が残る。また野村の監督留任が決まった時、「新体制には協力できない。辞めさせて欲しい」と爆弾発言した。この時野村は「カドのような選手はいらない。見せしめにしてやる」と言い切った。この年は門田が折れた形となった。これらは不仲を示すエピソードだけでなく、門田の持ち味というべき頑固ぶりがよく現れたエピソードでもある。
- 野村が南海の監督の時、門田が全打席ホームランを狙って大きいスイングをしていたのを見かねた野村は、スイングをコンパクトにするよう「全打席ホームランを狙って打てる奴なんかどこにいる」と門田に言ったら、門田は「王さんは全打席ホームラン狙っているようなスイングだからあれだけ打てる」と、一歩も譲らなかった。その年のオールスターゲームで野村は頼み込んで、王に進言するよう門田の元へ連れて来た。そのとき王は「さすがに全打席はホームラン狙いのスイングじゃないよ」と門田に言ったら、門田は「王さんと(野村)監督は後ろで口合わせをしているんだ」と、一歩も自分の考えを譲らなかった。それを聞いた野村は呆れて、結局門田の好きなように(本人がわかるまで)やらせるようにした。
- 後日、野村は「江本、江夏、門田の三人を三悪と呼んでいる。指導者には絶対向かん」と自著で述べている。しかし内心では野村は門田の実力を大いに認め(最初に門田を見出したのも野村である)、門田も従うべきところでは従っていたといわれている(出典:20世紀プロ野球事件簿、ベル・スズカワ、2001年他)。
- 大阪球場にはベンチに水道と鏡があり、左打者の門田は「鏡の中の左打者」野村克也の打撃フォームを熱心に観察・研究していたという。
- その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていた。1980年から使用した44番は大リーグの強打者に多いことや44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1982年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。
- 現役時代はマスコミとの接触をあまり好まなかった。特に、普段は見向きもしないのに記録がかかると大挙して押し寄せて来る東京のマスコミを嫌っていた。
- シャイで口下手な性格で、本人曰く「私は滅多に人を好きになれないようで、今日まで5人くらいしか気の許せる人はいない」ということである。また、※話す相手に性格が仇となって誤解をまねかないかと心配していた事もあった。(※追跡のインタビューで)
- 来歴・人物欄にあるアキレス腱断裂の際、チームに担架が用意されておらず、門田は戸板に乗せられて搬送された。南海の貧乏ぶりを示す逸話である。
- ホークスの福岡移転で門田が関西の他球団への移籍を申し出たことについて、門田を知る球団・球界関係者の多くは「子煩悩なカドさんなら仕方ないか。」と納得していたようである。(ちなみに夫人との間に一男一女がいるが、当時中学生だった娘のためだったと思われる。その後、娘の高校進学などでダイエーに移籍した。)
- 88年に本塁打王と打点王を獲得された際に日本テレビ系列で放映されたテレビ番組の追跡で特集された際に夫人と娘がインタビューを受けていたが、娘は普段の門田は面白いお父さんと答えていたが、夫人はシーズンオフの家では、とてもリラックスして過ごしているが、シーズンが始まると無口になり、とても近づきづらいと答えていた。また、娘が当時西武に在籍していた工藤公康のファンで会いに門田に内緒で大阪球場に行った際の話をしていた。娘が工藤のファンと門田本人に言ったところ、ある日の試合に家を出る際、「むちゃくちゃ打ったる!」と言って球場に行ったエピソードを答えていた。門田本人がこの回のインタビュアーであった作家の安部譲二にこの年(88年)にホームラン王を獲得できたことに関して、「ここ7・8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれた事。」と語っていた。
- オリックス時代に平和台球場での試合で、福岡のファンからオリックスに移籍し福岡に来なかったことに対して、博多弁で「なんばしょっか」と野次られたが、本人は「難波のショッカー」に聞こえ、また「帰れ!」コールには「ホークスに帰ってこい」の意味と思い込み、福岡のファンは自分を応援してくれてるんだと感動したという。
- オリックス移籍1年目の1989年、本塁打を打ち、出迎えを受けた際、ブーマーから怪力のハイタッチを浴びて腕を脱臼、シーズン終盤であったために残りの半月を棒に振る、というアクシデントに見舞われる。この年は近鉄・西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、このハプニングがなければ違った結果が出ていたかもしれない、と評する者も多い。
- 南海・オリックス時代、当時住んでいた奈良市の学園前から球場まで電車通勤していた。理由は79年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂して以来、足のトレーニングも兼ねていた。また、マイカーも持っているのだが、運転で集中力を切らさないためにあえて避けていた。
- 現役引退後の1993年1月26日放送のテレビドラマ「ホテルドクター」(ABC制作、テレビ朝日系)の第3話にラーメン屋台の主人役でゲスト出演した。
- オリックス移籍で感じたこととして、強いチームというのは勝つときも負けるときも淡白でさらっとしている、とのこと。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、ペナントの前半戦は善戦するも後半戦は息切れしていたことを挙げている。これをマラソンの25キロ地点で息切れするようなもの、と表現している。
- 広島市のお好み村に、広島風お好み焼き店を出していたことがある。
- 野球用語の使い方に強いこだわりを持っている人物である。打点は「RBI」、犠牲バントは「サクリファイスバント」等々、原語の野球用語を使うことを心がけていた。しかし、ドーム球場に対して屋根の付いていない球場のことを「ナチュラル球場」と呼ぶなど、長嶋英語に匹敵する単語も解説の際しばしば飛び出した。(ちなみに門田は長嶋のファンでもある。)
- グレープフルーツと共にゆで卵を摂取するデンマーク式ダイエットをオリックス時代に用いた事(平成時代の初期)があった。
- ABCのラジオ番組を持っていたときに、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の物真似を披露し、コーナーのタイトルを読み上げていた。持ちネタとして他に、山下清の物真似も披露していた。
- 2007年8月24日、8月31日の「小兵」をテーマとした『ナンだ!?』に、舞の海秀平(相撲)、志村雄彦(バスケットボール)と共に出演。「高校時代の3年間で1本も本塁打を打てなかった」などのエピソードを明かした。
背番号
- 27(1970年 - 1979年)
- 44(1980年 - 1982年)
- 60(1983年 - 1988年)(以上南海ホークス)
- 78(1989年 - 1990年)(オリックスブレーブス)
- 53(1991年 - 1992年)(福岡ダイエーホークス)
年度別打撃成績
年度 | 球団 | 背番号 | 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
打率順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 南海 | 27 | 79 | 232 | 27 | 58 | 12 | 1 | 8 | 96 | 31 | 2 | 1 | 0 | 2 | 9 | 3 | 39 | 2 | .250 | - |
1971 | 129 | 506 | 70 | 152 | 24 | 1 | 31 | 271 | 120 | 5 | 3 | 1 | 6 | 38 | 7 | 58 | 8 | .300 | 11位 | ||
1972 | 125 | 475 | 73 | 147 | 24 | 2 | 14 | 217 | 58 | 4 | 3 | 1 | 5 | 45 | 3 | 37 | 9 | .309 | 4位 | ||
1973 | 127 | 484 | 66 | 150 | 26 | 1 | 18 | 232 | 65 | 3 | 5 | 0 | 2 | 40 | 4 | 43 | 10 | .310 | 5位 | ||
1974 | 124 | 432 | 62 | 116 | 23 | 4 | 27 | 228 | 76 | 1 | 2 | 0 | 7 | 47 | 1 | 59 | 10 | .269 | 14位 | ||
1975 | 129 | 485 | 72 | 136 | 29 | 2 | 19 | 226 | 85 | 6 | 1 | 1 | 5 | 55 | 4 | 49 | 8 | .280 | 13位 | ||
1976 | 125 | 456 | 64 | 137 | 25 | 4 | 22 | 236 | 77 | 2 | 1 | 0 | 10 | 54 | 2 | 51 | 8 | .300 | 3位 | ||
1977 | 128 | 479 | 71 | 150 | 22 | 0 | 25 | 247 | 91 | 5 | 5 | 0 | 8 | 52 | 4 | 72 | 3 | .313 | 5位 | ||
1978 | 106 | 360 | 37 | 90 | 13 | 0 | 15 | 148 | 44 | 3 | 2 | 1 | 4 | 37 | 4 | 59 | 4 | .250 | 27位 | ||
1979 | 19 | 54 | 5 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | 15 | 0 | .278 | - | ||
1980 | 44 | 111 | 377 | 60 | 110 | 10 | 0 | 41 | 243 | 84 | 0 | 0 | 0 | 2 | 48 | 3 | 72 | 7 | .292 | 18位 | |
1981 | 127 | 438 | 83 | 137 | 18 | 0 | 44 | 287 | 105 | 4 | 1 | 1 | 4 | 92 | 2 | 70 | 10 | .313 | 5位 | ||
1982 | 107 | 333 | 42 | 91 | 17 | 0 | 19 | 165 | 45 | 6 | 1 | 0 | 4 | 52 | 3 | 63 | 6 | .273 | - | ||
1983 | 60 | 122 | 396 | 68 | 116 | 14 | 1 | 40 | 252 | 96 | 1 | 1 | 0 | 2 | 85 | 4 | 86 | 6 | .293 | 13位 | |
1984 | 108 | 362 | 60 | 103 | 11 | 0 | 30 | 204 | 78 | 3 | 1 | 0 | 5 | 75 | 2 | 75 | 1 | .285 | 14位 | ||
1985 | 114 | 383 | 63 | 104 | 12 | 2 | 23 | 189 | 62 | 0 | 0 | 0 | 4 | 78 | 1 | 88 | 9 | .272 | 23位 | ||
1986 | 123 | 416 | 51 | 109 | 14 | 0 | 25 | 198 | 77 | 2 | 3 | 1 | 0 | 57 | 5 | 101 | 7 | .262 | 32位 | ||
1987 | 126 | 379 | 63 | 120 | 16 | 0 | 31 | 229 | 69 | 1 | 1 | 0 | 3 | 74 | 2 | 66 | 5 | .317 | 4位 | ||
1988 | 130 | 447 | 82 | 139 | 12 | 0 | 44 | 283 | 125 | 2 | 1 | 0 | 10 | 98 | 2 | 82 | 13 | .311 | 6位 | ||
1989 | オリックス | 78 | 116 | 406 | 70 | 124 | 17 | 1 | 33 | 242 | 93 | 0 | 2 | 0 | 3 | 78 | 2 | 103 | 12 | .305 | 6位 |
1990 | 119 | 446 | 77 | 125 | 21 | 0 | 31 | 239 | 91 | 0 | 1 | 0 | 2 | 78 | 1 | 118 | 11 | .280 | 13位 | ||
1991 | ダイエー | 53 | 112 | 367 | 38 | 97 | 15 | 0 | 18 | 166 | 66 | 1 | 0 | 0 | 3 | 54 | 1 | 77 | 10 | .264 | 25位 |
1992 | 65 | 155 | 15 | 40 | 6 | 0 | 7 | 67 | 23 | 0 | 0 | 0 | 3 | 19 | 2 | 37 | 5 | .258 | - | ||
通算成績 | 2571 | 8868 | 1319 | 2566 | 383 | 19 | 567 | 4688 | 1678 | 51 | 35 | 6 | 95 | 1273 | 62 | 1520 | 164 | .289 | - | ||
6位 | 5位 | 8位 | 4位 | 13位 | - | 3位 | 4位 | 3位 | - | - | - | - | 5位 | - | 5位 | - | - | - |
タイトル・表彰・記録
- MVP:1回(1988年)
- 正力松太郎賞:1回(1988年)
- 本塁打王:3回(1981年、1983年、1988年)
- 打点王:2回(1971年、1988年)
- 最高出塁率:3回(1981年、1987年、1988年)
- ベストナイン:7回(1971年、1976年、1977年、1981年、1983年、1988年、1989年)
- カムバック賞(1980年)
- 月間MVP:3回(1981年7月、1988年5月、1989年5月)
- 月間本塁打:16本(1981年7月、プロ野球タイ記録)
- シーズン満塁本塁打:4本(1983年、パ・リーグタイ記録)
- 5試合連続本塁打:2回(1981年7月1日 - 7月7日、1981年7月9日 - 7月12日)
- 2試合連続サヨナラ本塁打(1990年9月9日 - 9月10日)
- 1試合5四球(1988年5月27日、パ・リーグタイ記録)
- 1試合10守備機会、1試合10刺殺(1973年6月10日、共に外野手としてのパ・リーグタイ記録)
- オールスター出場:14回(1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)
- オールスターMVP:2回(1976年第2戦、1983年第1戦)
- 野球殿堂入り(2006年)
- 初安打 1970年4月12日ロッテ戦(東京) 木樽正明から
- 初本塁打 1970年5月13日東映戦(大阪) 高橋直樹から
関連項目
外部リンク
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