「吉田孝行」の版間の差分
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: nl:Takayuki Yoshida |
編集の要約なし |
||
37行目: | 37行目: | ||
[[2011年]]からキャプテンを務め、J1では自己最多9得点を挙げた。また、親友の松田直樹死去後初の試合であった20節の浦和戦では2ゴールを挙げ、喪章を掲げ松田の背番号3を示すポーズを取った<ref>[http://www.jsgoal.jp/photo/00080700/00080741.html J1:第20節 浦和 vs 神戸] J`sGoal 2011年8月6日</ref>。 |
[[2011年]]からキャプテンを務め、J1では自己最多9得点を挙げた。また、親友の松田直樹死去後初の試合であった20節の浦和戦では2ゴールを挙げ、喪章を掲げ松田の背番号3を示すポーズを取った<ref>[http://www.jsgoal.jp/photo/00080700/00080741.html J1:第20節 浦和 vs 神戸] J`sGoal 2011年8月6日</ref>。 |
||
[[2012年]]は故障続きでほとんど目立った活躍をすることができず、シーズン終了後には引退することも考えていたと言うが、神戸の[[J2]]降格やクラブからの契約延長の意向もあり、[[2013年]]も引き続き神戸でプレーすることを決意した。 |
|||
==所属クラブ== |
==所属クラブ== |
2013年1月8日 (火) 15:33時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | ヨシダ タカユキ | |||||
ラテン文字 | YOSHIDA Takayuki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1977年3月14日(47歳) | |||||
出身地 | 兵庫県川西市 | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 67kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | ヴィッセル神戸 | |||||
ポジション | FW、MF | |||||
背番号 | 17 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
吉田 孝行(よしだ たかゆき、1977年3月14日 - )はヴィッセル神戸所属のプロサッカー選手。ポジションはFW。生年月日が元チームメイトの松田直樹と同一であり、親交も深かった。
来歴
滝川第二高等学校時代には日本で開催されたFIFA U-17世界選手権(1993年)に中田英寿、宮本恒靖、松田直樹と共に出場。高等学校卒業後、横浜フリューゲルスに入団。当時のシルバ監督が積極的に若手を起用していたこともあり、ルーキーの年から試合出場のチャンスを得て、フリューゲルス時代は95試合に出場し、21得点を挙げた。なお、フリューゲルス最後の試合となった1999年元日の天皇杯決勝で試合を決める得点を挙げている。
1998年に横浜マリノスとの合併によるチーム消滅に伴い、横浜F・マリノスに移籍。なかなか出番に恵まれず、2000年途中に大分トリニータに移籍。
大分ではキャプテンを任されJ1昇格に貢献。ここで現在のような中盤のフリースタイラーとしてのプレースタイルを確立する。
大分で中心選手として活躍していたが、古巣の横浜FMからオファーを受け2006年に完全移籍で6年ぶりに復帰。実際にプレーを見た岡田武史監督に「こんなに良い選手だとは思わなかった」と言わしめ、開幕戦では前年まで右サイドのレギュラーだった田中隼磨からスタメンの座を奪った。4月29日の広島戦では、復帰後初ゴールとなる決勝ゴールを後半ロスタイムに決めて勝利に貢献した。その後、田中の復調でベンチスタートに定着してしまったが、運動量と攻撃力を生かし、逆に後半守備を固めるためのスーパーサブとしてチームに貢献していた。
2007年は、当初は出場機会は少なかったものの、4-3-3から4-1-3-2へのシステム変更に際し、山瀬幸宏と共にスタメンに定着している。「戦術の理解度が高い」などと評価するなど、早野宏史監督も信頼を寄せていることが伺えた。
しかし、若返りを図るチームの方針を受け2007年シーズン最終戦が行なわれた12月1日にチームから正式に戦力外通告を受け退団。12月26日に地元であるヴィッセル神戸への加入が発表された。神戸では当初ほとんど途中出場だったが少ない時間でもきっちりと入れる決定力を買われ27節以降は先発として出場し活躍。2009年はシャドーストライカーとしてプレーする機会が多く、8月には3得点を挙げた。毎年秋頃の彼の活躍が神戸の戦績に関わっており、特に2010年はシーズン途中は起用されない時期もあったが、シーズン終盤には欠かせない存在になるまでに復活し、最終節は2得点を挙げ、残留に大きく貢献した。
2011年からキャプテンを務め、J1では自己最多9得点を挙げた。また、親友の松田直樹死去後初の試合であった20節の浦和戦では2ゴールを挙げ、喪章を掲げ松田の背番号3を示すポーズを取った[1]。
2012年は故障続きでほとんど目立った活躍をすることができず、シーズン終了後には引退することも考えていたと言うが、神戸のJ2降格やクラブからの契約延長の意向もあり、2013年も引き続き神戸でプレーすることを決意した。
所属クラブ
- ユース経歴
- 奈良・上牧小学校 (上牧SC)
- 奈良・上牧中学校
- 兵庫・東谷中学校 (中学2年から転校)
- 滝川二高
- プロ経歴
- 1995年 - 1998年 横浜フリューゲルス
- 1999年 - 2000年途中 横浜F・マリノス
- 2000年途中 - 2005年 大分トリニータ
- 2006年 - 2007年 横浜F・マリノス
- 2008年 - 現 在 ヴィッセル神戸
個人成績
このテンプレートは利用者空間内にあるため使用しないで下さい。:今後はコピー先のTemplate:サッカー選手国内成績表_topを使用して下さい。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 横浜F | - | J | 28 | 3 | - | 2 | 0 | 30 | 3 | |
1996 | - | 2 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 5 | 1 | ||
1997 | 15 | 21 | 0 | 5 | 0 | 4 | 3 | 30 | 3 | ||
1998 | 9 | 20 | 5 | 1 | 1 | 5 | 7 | 26 | 13 | ||
1999 | 横浜FM | 19 | J1 | 14 | 1 | 6 | 2 | 0 | 0 | 20 | 3 |
2000 | 11 | 7 | 1 | 2 | 0 | - | 9 | 1 | |||
大分 | 31 | J2 | 20 | 6 | - | 3 | 3 | 23 | 9 | ||
2001 | 11 | 41 | 15 | 2 | 1 | 3 | 2 | 46 | 18 | ||
2002 | 9 | 41 | 9 | - | 4 | 1 | 45 | 10 | |||
2003 | J1 | 29 | 7 | 2 | 1 | 1 | 0 | 32 | 8 | ||
2004 | 30 | 5 | 6 | 1 | 2 | 0 | 38 | 6 | |||
2005 | 28 | 2 | 3 | 0 | 2 | 0 | 33 | 2 | |||
2006 | 横浜FM | 17 | 27 | 1 | 10 | 0 | 3 | 0 | 40 | 1 | |
2007 | 22 | 3 | 7 | 0 | 1 | 0 | 30 | 3 | |||
2008 | 神戸 | 30 | 5 | 6 | 1 | 2 | 1 | 38 | 7 | ||
2009 | 29 | 5 | 5 | 0 | 2 | 0 | 36 | 5 | |||
2010 | 21 | 4 | 4 | 2 | 2 | 1 | 27 | 7 | |||
2011 | 29 | 9 | 1 | 1 | 1 | 0 | 31 | 10 | |||
2012 | |||||||||||
通算 | 日本 | J1 | 337 | 52 | 60 | 9 | 28 | 12 | 425 | 73 | |
日本 | J2 | 102 | 30 | 2 | 1 | 10 | 6 | 114 | 37 | ||
総通算 | 410 | 73 | 61 | 9 | 37 | 18 | 508 | 100 |
個人タイトル
- 1996年 AFC U-19選手権得点王
経歴
脚註
- ^ J1:第20節 浦和 vs 神戸 J`sGoal 2011年8月6日