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「日食」の版間の差分

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皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の[[重力場]]を通ってきて屈曲することになる。一般相対性理論で予想される方向と実際に観測された方向とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。
皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の[[重力場]]を通ってきて屈曲することになる。一般相対性理論で予想される方向と実際に観測された方向とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。
=== 観測の時の注意点 ===
=== 観測方法と注意点 ===
は有害な[[紫外線]]など含まれるため、肉眼で直接観測すると[[日食網膜症]]を引き起こし、[[網膜]]の[[やけど]]や[[後遺症]]、ひどい場合には[[失明]]を引き起こすことがある。すすついガラスや黒い下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分であり、日食グラスや遮光フィルターなどの専用の器具で観測しなければならない。その上で直射日光目に入らいようにすために、一旦太陽に背を向けてグラスやフィルターを目に当ててから、太陽に向かって振り向くという動作をしなければならない
太陽光は光量が大きく有害な[[紫外線]]など含まれるため、肉眼で直接観測すると[[日食網膜症]]を引き起こし、[[網膜]]の[[やけど]]や[[後遺症]]、ひどい場合には[[失明]]を引き起こすことがあるため一定性能を満たした観測機器必要となる。
* 日食観察グラス(日食グラス)による観測

上記のよう適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、時間観測によって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2~3分程度の休憩を取ることがベストだとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告がなされている。また2012年5月12日に日本で発生した金環日食においては、一部のメーカーの日食グラスに粗悪品が混じっていたとして問題となり、消費者庁が警告を呼びかける事態になっている。
: 日食を日食観察グラス(日食グラス)で観測する場合、一旦太陽に背を向けてグラスを目に当ててから太陽に向かって振り向くという動作をしなければならない。日食観察グラスの品質や性能についても留意が必要であり、透過率は可視光線で0.003%以下、赤外線で3%以下とされ(いずれも目安)、室内の蛍光灯を見てかすかに確認できる程度の見え方であり、LEDライトなどの強い光にかざしたときにひび割れや穴等の損傷が無いものであることが必要となる<ref name="caa">[http://www.caa.go.jp/safety/pdf/120516kouhyou_1.pdf 日食観察用グラスの使用に当たっての注意喚起] 消費者庁</ref>。すすを付着させたガラスや通常市販されている黒色の下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分である。また、上記のよう適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、時間的な間隔を置かずに継続して観測するによって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2~3分程度の休憩を取ることがベストだとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告がなされている。
* 減光フィルターを装着した天体望遠鏡・双眼鏡による観測

* 太陽投影板での観測
* [[太陽望遠鏡]]による観測
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Solar Eclipse Observation - Kolkata 1220425.JPG|溶接用の[[保護面|遮光面]]で観測する人。日食の観測にはこのような強力な遮光が必要
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2013年4月5日 (金) 19:19時点における版

1851年7月28日に観測された皆既日食の写真
2006年3月29日トルコでの皆既日食
2012年5月21日茨城県鹿嶋市で観測された金環日食
2012年5月21日にアメリカネバダ州で観測された金環日食の時系列画像

日食(にっしょく、日蝕とも。solar eclipse)とは太陽によって覆われる現象である。の時に起こる。

種類

月の地球周回軌道および地球公転軌道は楕円であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を皆既日食total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを金環日食または金環食annular eclipse)と言う。

皆既日食と金環日食、および後述の金環皆既日食を中心食と称する。

中心食では本影と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では半影に入り太陽が部分的に隠される部分日食partial eclipse)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも部分食しか見られないこともある。

場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを金環皆既日食hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は低い。

また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に日出帯食、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を日没帯食と呼ぶ。この場合いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。

観測

ダイヤモンドリング
皆既日食を観察する人々(1912年4月17日
赤道儀を使用した観測。2012年5月21日山梨県甲府市

皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナ紅炎の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。

月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と見える状態になることがある。これを、原理を解明したフランシス・ベイリーの名を取ってベイリー・ビーズ(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。

また太陽がすべて隠れる直前と直後(より正確には直後のみ:直前はリングにあたるコロナが見えないので)には太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、これをダイヤモンドリングと言う。

皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して1919年一般相対性理論の検証がアーサー・エディントンによって行なわれた。

皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通ってきて屈曲することになる。一般相対性理論で予想される方向と実際に観測された方向とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。

観測方法と注意点

太陽光は光量が大きく有害な紫外線なども含まれるため、肉眼で直接観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜やけど後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。

  • 日食観察グラス(日食グラス)による観測
日食を日食観察グラス(日食グラス)で観測する場合、一旦太陽に背を向けてグラスを目に当ててから太陽に向かって振り向くという動作をしなければならない。日食観察グラスの品質や性能についても留意が必要であり、透過率は可視光線で0.003%以下、赤外線で3%以下とされ(いずれも目安)、室内の蛍光灯を見てかすかに確認できる程度の見え方であり、LEDライトなどの強い光にかざしたときにひび割れや穴等の損傷が無いものであることが必要となる[1]。すすを付着させたガラスや通常市販されている黒色の下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分である。また、上記のような適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、時間的な間隔を置かずに継続して観測するによって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2~3分程度の休憩を取ることがベストだとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告がなされている。
  • 減光フィルターを装着した天体望遠鏡・双眼鏡による観測
  • 太陽投影板での観測
  • 太陽望遠鏡による観測

原因

皆既日食で月の影に入ったトルコとキプロス2006年3月29日

太陽は黄道を1年で1周し、月は白道を約1か月で1周する。もし黄道と白道とが一致していれば(新月)には必ず日食が、(満月)には必ず月食が起こることになる。しかし実際には黄道と白道とは約5度の傾きでずれているため、太陽・月が黄道・白道の交わる点(月の昇交点・降交点)付近にいる時に限られている。

太陽が交点付近にいる期間を食の季節と言い、食はこの期間以外には起こらない。

食の季節は通常は年2回だが、3回ある年もある。これは交点が太陽の動く方向と逆向きに動いているためであり、その周期は約19年である。食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年に2 - 4回は起きることになり、まれには5回起こる(1935年)。逆に、食の季節であっても月食は起きないこともある。

しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測されるのは少ないことになる。月食は月食が発生している時に月が見えていれば必ず観測できるので、一般には月食の方が頻繁に起きていると認識されていることが多い。

ある日食から18年と10日(閏年の配置によっては11日)と8時間たつと、経度にして120度西の地点でよく似たタイプの日食が起こることが知られている。この周期は「サロス周期」と呼ばれ、紀元前から日食の予想に使われていたといわれている。

日食の経過

影の移動に基づく日食の経過

1999年8月11日の皆既日食の経過
日食の進行による地上の明るさ
日食が進めば進むほど暗くなることが分かる
  • 月の半影錐が地球を横切り始めると部分食が始まる。
  • 月の本影錐が地球を横切り始めると皆既食または金環食が始まる。本影によって起こるこの2つの食を合わせて中心食と呼ぶ。
  • 月の本影錐の軸が地球表面上を移動した軌跡を中心食線と呼び、この線上では太陽と月が同心円となる。
  • 地球表面上での本影の面積が最大になる時点を食の最大または食甚と呼ぶ。
  • 月の本影錐の軸が地球表面を横切り終わった所で中心食線は終わる。
  • 月の本影錐が地球を横切り終わると皆既食または金環食が終わる。
  • 月の半影錐が地球を横切り終わると部分食が終わる。

月と太陽の位置関係に基づく日食の経過

  • 月が太陽を隠し始めた瞬間を第1接触と呼ぶ。
  • 月縁が太陽の輪郭の内部に完全に含まれた瞬間(金環食の場合)、または月によって太陽が完全に隠された瞬間(皆既食の場合)を第2接触と呼ぶ。
  • 月が太陽の輪郭の外に出始めた瞬間(金環食の場合)、または太陽が月の背後から再び現れた瞬間(皆既食の場合)を第3接触と呼ぶ。
  • 月縁が太陽から完全に離れた瞬間を第4接触と呼ぶ。
  • それぞれ第1接触を初虧(しょき)、第2接触を食既(しょっき)、食の最大(中心食)を食甚(しょくじん)、第3接触を生光(せいこう)、第4接触を復円(ふくえん)ともいう。

日食の神話

近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。

インド

ヒンドゥー教の神話では食が起こる月の昇交点がラーフ(Rahu)、降交点がケートゥ(Ketu)という2人の魔神として擬人化されこの二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅睺星・計斗星の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している[3]

中国

古代中国では日食など天変をの警告とみなし、「日蝕説」によれば「日者,太陽之精,人君之象。君道有虧,有陰所乘,故蝕。蝕者,陽不克也。」(仮訳:日は太陽の精気で、君主の象徴である。君主の道に欠ける所があれば、陰に乗じられることとなり、日食が起こる。日食とは陽が勝たないことである)という。そのため統治者は天体観測を非常に重視し、豊富な観測記録が残されている。ある日食の時に、酒ばかり呑んでいて観測を怠った罪で、観測係の羲和という男が斬首されたという[4]

王朝では、日食は「天狗食日」といい、霊獣の「天狗」(日本の天狗とは異なる)が日を食べて起こるとされ、緊急に部隊を編成して銅鑼を叩き、天狗を追い払わなくてはならなかった。最も早い日食の記録は『詩経』「小雅・十月」の「十月之交、朔月辛卯、日有食之、亦孔之丑」である。統計によれば、甲骨文字の記録を除いて、春秋時代から同治11年まで(紀元前770年 - 1874年)で、記録された日食は985回(その内誤りが8回)で、日再旦(日の出の時間に日食が発生し、あたかも日の出が2回あるように見える)という現象の記録もある。『乙巳占』で、李淳風は日食は天子が徳を失ったことの表れとした。日食はたいてい天子の死や国の滅亡を予告しており、兵乱や天下の大乱や死亡や失地を引き起こすとした。発生する災害の種類は天象の具体的な表現から分かるとした。例えば日食が上部から始まれば天子の政に誤りがあり、横から始まれば内乱や大きな兵乱が起こり、新たに天子が立つ兆しとし、下から始まれば妃や大臣が自ら恣とするとした。漢の張衡は、「靈憲」のなかで日食と月食に対して合理的な科学解釈を提出し、原理を説明をした。代の京房は水盆で日食を観測し、直接太陽を見ることによって目を傷つけるのを避けた。後代、水は油に代わった。代の天文学者郭守敬は、独自に開発した仰儀を用いて観測した。

また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。

「この彫刻の絵は日食の原因を説明している。金烏(太陽の象徴)の中心がヒキガエル(月の象徴)によって隠されている。時代の人々はこの現象を太陽と月の良い組み合わせと呼んでいた。」

ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。

北欧

北欧神話ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけていて、これが日食や夏至冬至幻日などの太陽にまつわる現象の原因と解釈される[5]。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。

新世界

他の文化圏では日月食は驚くべき、かつ恐ろしい現象とする場合も多かった。クリストファー・コロンブスが西インド諸島に航海した際、服従の意思を示さない原住民を罰するために日食を起こしてみせて(実際は日食の起こる日を知っていただけ)、パニックになった原住民が彼に服従したというエピソードは有名であるが、文献上の証拠は怪しい。

イスラーム

コーランの第81章「巻きつける」に、日食を思わせる表現がある。

日本

天照大御神の天の岩戸の神話は日食を表しているとの見方がある。現在のところ過去の特定の日食現象には同定されていない。計算上は、邪馬台国の時期に日本列島で日食が2回起きた可能性がある。卑弥呼が死んだとされる247年248年である。国立天文台の谷川清隆・相馬充らは、「特定された日食は『日本書紀推古天皇36年3月2日628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球自転速度低下により特定できない」としている[6]

古代の文献などに記録されている日食

ここでは主に古代中世以前の文献などに記録されている日食を取り上げる。

日本

628年4月10日推古天皇36年3月2日):部分食
日本で記録に残っている最古の日食。『日本書紀』の推古36年3月の条に、「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」(三月の丁未の朔、戊申[7]に日、蝕え尽きたること有り)と記録されている(全文は近代デジタルライブラリー内『日本書紀巻二十ニ』(国史大系本第一巻)の205/300頁にあり[8])。「日、蝕え尽きたる」は、当時の都である飛鳥京で皆既食が見えたように思わせるが、実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で、当時の飛鳥京では食分0.93程度の部分食であった。推古天皇は5日後の4月15日3月7日)に死去している。
975年8月10日天延3年7月1日):皆既食
日本紀略』に「天延三年七月一日辛未、(中略)、卯辰刻皆虧 如墨色無光 群鳥飛亂 衆星盡見 詔書大赦天下(以下略)」(天延三年七月一日辛未[975年8月10日]、卯辰の刻に皆虧[午前七時に皆既]、[太陽は]墨色の如くにて光無し。鳥の群れ乱れ飛び、多くの星すべて見えたり。天下に大赦を発布す)[9]と書かれており、他にもこの食を記録した文献は多い。日本の首都で見られた史上初の皆既日食で、大事件であり、朝廷は天下に大赦を発布して、通常は対象にならない死刑囚まで罪を減じられている。中心食は中国の重慶付近で始まり、中国地方から関東地方を通った。京都での食甚は7時48分(京都真太陽時)とされる。
1183年11月17日寿永2年閏10月1日):金環食
平家物語源平盛衰記に記されている水島の合戦のさなかに起こった日食。水島での食分は0.93とされる。陰陽寮を擁する朝廷側の平家はこの日、日食が起こることを知っていて、太陽が欠けていくことに恐れ混乱する木曽源氏に対して戦いを有利に進め平家が勝利したという説もある。以下は、源平盛衰記の記述。
「寿永二年閏十月一日(1183年11月17日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。城の中より 勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄(にわか)に曇て、日の光もみえず、闇の夜のごとくなりたれば[10]、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、舟を退いていずちともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵(つわもの)どもはかねて知りにければ、いよいよ時(の声)をつくりて、重ねて攻め戦う。」

日食予報

古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている[11]。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。

このため、日本朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。

1183年治承・寿永の乱水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている[12]。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある[13]

江戸時代1839年には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった[14]

日食の一覧

過去発生した日食、及び将来発生する日食については「日食の一覧」を参照。

脚注

  1. ^ 日食観察用グラスの使用に当たっての注意喚起 消費者庁
  2. ^ a b 日本天文協議会、日本眼科学会、日本眼科医会、2012「別紙 2012年5月21日(月曜日) 日食を安全に観察するために」『平成24年5月21日の日食の観察における幼児・児童・生徒の安全確保に係る注意事項について(平成24年4月18日文部科学省研究開発局参事官(宇宙航空政策担当)付事務連絡)』2012年2月
  3. ^ ラーフは仏教釈迦の息子の名・ラーフラ(Rāhula。漢訳、羅睺羅、らごら)にも用いられたことで知られる。ただし、ラーフラについては別の説もある。古代のインド語では「ラーフ」はナーガ(竜)の頭、「ケートゥ」は尻尾をも意味した。そしてシャカの一族のトーテムは、他ならぬナーガであった。このことからラーフラとは古代インドの言い回しで「竜の頭」を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという説である。根拠は古来インドでは一族の跡継ぎがなければ出家することはできず出家を願っていた釈迦には息子の誕生はまたとない吉報であること、また釈迦の父・浄飯王もこの命名を喜んでいることである。
  4. ^ 尚書』「胤徵」。ただしこれの出典の箇所は後代の偽作と言われている
  5. ^ 『エッダ古代北欧神謡集』p.61、「グリームニルの歌」訳註117。
  6. ^ 中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動
  7. ^ 3月2日、即ち内務省地理局編『三正綜覽:付・陰陽暦対照表』(藝林舍、1997)p.173で計算するとユリウス暦628年4月10日
  8. ^ [1]
  9. ^ 古事類苑>天部一>日>日蝕【入】 第1巻41頁
  10. ^ 「闇の夜のごとく」は皆既食のようであるが、実際は金環食であるので誇張表現。夕暮れ程度の明るさはあった。
  11. ^ 春秋左氏伝』に類似した内容の記事が昭公26年(516年)の条に載せられているが、桓公ではなく景公のこととされ、かつ公が恐れたのは彗星とされている。だが、魯国の記録とされている『春秋』経本文には、対応する彗星に関する記事は無いこと(短時間かつ地域が限定される日食と違い、彗星ならば数日間にわたって地球上の広範な地域で観測可能である)、そもそも「彗星」という呼称は戦国時代以後に発生したもので当該記事以外の『左氏伝』の記事では春秋時代当時の呼称である「星孛」で統一されていることから、『左氏伝』の記事は元は桓公と日食の話であったものが戦国時代以後に景公と彗星の話として誤って混入された可能性が高いとされる。また、小沢賢二は戦国時代に日食予報が行われるようになったことで日食に対する見方が変化したことも日食→彗星への変化の一因としている。(小沢賢二「春秋の暦法と戦国の暦法」(初出:『中国研究集刊』45号(大阪大学、2007年)/所収:小沢『中国天文学史研究』(汲古書院、2010年ISBN 978-4-7629-2872-7 第4章))
  12. ^ 源平盛衰記には、「天にわかに曇り日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失って」とある。
  13. ^ “スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山”. 毎日新聞. (2012年5月19日). http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120519ddlk33040517000c.html 
  14. ^ “江戸時代の金環日食観測は”. NHK. (2012年5月19日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120519/k10015242411000.html 

関連項目


外部リンク

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