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[[ボール (野球)|ボール]]を決して恐れず、[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]によると水原と宇野が[[ゴロ]]の[[打球]]から逃げたのを決して見たことがなかったという。また[[打席]]でも、内角の[[投球]]に対して、避けるふりをしながらダブダブに着用した[[ユニホーム]]の袖に擦らせて、[[死球]]を稼ぐことを得意とした<ref>『巨人軍の男たち』116頁</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
2020年10月22日 (木) 13:47時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市 |
生年月日 | 1917年4月10日 |
没年月日 | 1994年4月17日(77歳没) |
身長 体重 |
173 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 三塁手 |
プロ入り | 1947年 |
初出場 | 1947年 |
最終出場 | 1956年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
宇野 光雄(うの みつお、1917年4月10日 - 1994年4月17日)は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
経歴
旧制和歌山中学では春の選抜に4年連続出場し、1933年はベスト4、1934年はベスト8まで進出。1936年は優秀選手賞になるなど[1]、走攻守揃った三塁手として名を馳せた[2]。中学卒業後の1937年に慶應義塾大学へ入学すると、戦前の黄金期に中心選手として活躍。飯島滋弥・宮崎要・大館盈六と共に「100万ドルの内野陣」と謳われ[2]、東京六大学リーグでは通算90試合に出場し331打数79安打、0本塁打、打率.239を記録。卒業後の1946年には1年だけ母校・慶大の監督に就任し、戦後初のリーグでは5戦全勝で優勝を飾り、大島信雄・別当薫・加藤進を卒業生として送り出した。
退任後は藤倉電線を経て、1947年に三原脩監督の熱心な勧誘を受けて読売ジャイアンツへ入団するが、肩を故障してしまう[3]。療養中の1948年には同じく肩を壊して調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習得のきっかけとなった。結局、宇野の肩は治らず1948年シーズン途中で巨人を退団した[3]。巨人退団後は新東宝に入社して、一時は山田五十鈴の付き人も務めた。最初は山田が歩く3歩後ろを、宇野が化粧鞄を持って歩いていたが、だんだん距離が縮まり、終いには並んで歩くようになった。また、巨人在籍時には往年の強肩が見る影もなく衰えてしまっていたことについて、恋多き女、山田五十鈴にかわいがられたら、肩も腰も吸い取られてしまうだろう、との噂があったという[4]。
1950年に豊富なキャリアを評価されて巨人の二軍監督に就任[3]。少ない選手数の中で練習の手伝いをしているうちに肩の故障が回復し、シーズン終盤に選手として復帰。39試合に出場して打率3割を記録[3]すると、翌1951年からは手塚明治に替わってレギュラー三塁手となる。青田昇・川上哲治とともにクリーンアップを打ち[3]、打率.303を記録してセ・リーグ打撃成績10位に入る。1952年は5番の南村不可止に次いで6番打者を務めて[3]打率.290(リーグ11位)をマークする。しかし、1953年になるとハワイから来日していきなり.340の高打率を挙げた柏枝文治に押されて出場試合数が減り、同年限りで国鉄スワローズへ移籍する。宇野は守備力を高く評価された三塁手であっただけに、後任の柏枝文治・岩本堯・広岡達朗らでは宇野が抜けた穴を埋められず、長島茂雄が入団するまで巨人は三塁手に苦労したといわれる[5]。移籍については、1954年春の明石キャンプで水原茂監督から通告されたが、宇野は悔しさのあまり非常に荒れたという[6]。一方宇野の指導者としての能力を期待していた巨人は国鉄に対して、巨人では監督を生え抜きのOBに限定する内規を定めているため、移籍させると巨人の監督候補から外れることを考慮して、将来国鉄で監督に就任させるように条件を付けたという[7]。後年宇野はこのトレードは水原茂監督の温情だったのだろう、としみじみ語っていた[6]。
国鉄ではコーチ兼任の傍ら[3]、4番打者として打率.291(リーグ12位)を記録し、ベストナイン三塁手のタイトルを獲得する。また、宇野は対巨人戦で打率.338を記録したが[8]、チームも同年4月4日から6月20日まで巨人相手に8連勝し、宇野の闘志が国鉄に乗り移ったといわれた[6]。1955年まで4番・三塁手を務め[9]、1956年に国鉄の選手兼任監督に就任。同年引退。
国鉄の監督になると、宇野は巨人に対して非常に闘志を燃やして集中攻撃し、巨人対国鉄戦は毎試合のように大熱戦が展開される看板カードとなった[6]。特に、1956年の国鉄は対巨人戦11勝13敗と健闘し、チーム設立以来初めて4位に浮上する。しかし、1950年代後半の国鉄はエース・金田正一の最盛期であったが、4年連続4位と巨人・阪神・中日の三強の壁をどうしても崩すことができなかった。1959年の勝率.492を最高に一度もAクラス・勝率5割を達成できないまま、最下位に転落した1960年限りで監督を退任。監督が交代を告げる前に降板したことはおろか、監督が交代を告げる前にマウンドにのぼったこともあった金田とは[10]、感情的対立があったという[11]。
1961年からは西本幸雄の辞任を受けて大毎オリオンズの監督を務め、成績は就任前のリーグ優勝から2年連続4位に終わり、翌1962年限りで辞任。オーナーの永田雅一からオーナー室から采配について宇野に直接電話が来ることがあり、当時大毎の選手・コーチだった杉下茂は「野球好きで何度も球場に訪れていたが、口出すのは参った。ベンチにいると、オーナー室から宇野光雄監督のところに電話が来るんだ。采配について直接電話だよ。私も苦笑いするしかなかった。」[12]と述べている。1961年7月25日の東映戦(駒澤)[13]で、代打に須藤豊を送ろうとした際、「なーんだ、スーしかおらんのか。仕方ねぇなあー、そんならお前行けや」と配慮のない言葉を吐いてしまい、激怒した須藤から「監督なら、誰が残っているかくらいしっかり覚えときや!」とベンチ内で怒鳴りつけられた[14]。同年オフに須藤は土居章助との交換トレードで巨人に移籍した。退任後は1963年から1968年までラジオ関東「バッチリナイター」解説者、1969年から1970年までは、慶大・巨人の先輩である水原の下で中日のヘッドコーチを務めた。
中日コーチ退任後は千葉テレビ「CTCダイナミックナイター」(1971年 - 1973年)・東京12チャンネル「○曜ナイター」(1971年 - 1976年)・日本短波放送「たんぱストレートナイター」で解説者を務める。また、立川でビアホールを経営した[5]。
選手としての特徴
野球帽をあみだ被りにして、ひょうひょうとした仕草で、おとぼけのウーやんのニックネームで呼ばれた。一方で、実際のプレーは頭脳的で、相手の気持ちを読んだ駆け引きに秀でていた[3]。
故障により肩が万全でなかったため、三塁守備では浅い守備位置を取っていた[3]。
ボールを決して恐れず、千葉茂によると水原と宇野がゴロの打球から逃げたのを決して見たことがなかったという。また打席でも、内角の投球に対して、避けるふりをしながらダブダブに着用したユニホームの袖に擦らせて、死球を稼ぐことを得意とした[15]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1947 | 巨人 | 8 | 17 | 16 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 1 | 0 | -- | .125 | .176 | .125 | .301 |
1948 | 22 | 41 | 38 | 3 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 2 | -- | 1 | -- | 0 | 7 | -- | .158 | .179 | .158 | .337 | |
1950 | 39 | 135 | 120 | 21 | 36 | 3 | 1 | 5 | 56 | 25 | 6 | 0 | 1 | -- | 14 | -- | 0 | 8 | 9 | .300 | .373 | .467 | .840 | |
1951 | 111 | 439 | 390 | 66 | 118 | 17 | 4 | 3 | 152 | 59 | 23 | 8 | 8 | -- | 38 | -- | 3 | 15 | 14 | .303 | .369 | .390 | .759 | |
1952 | 115 | 443 | 404 | 42 | 117 | 16 | 3 | 5 | 154 | 54 | 11 | 7 | 6 | -- | 27 | -- | 6 | 27 | 14 | .290 | .343 | .381 | .724 | |
1953 | 97 | 347 | 318 | 32 | 86 | 18 | 2 | 4 | 120 | 53 | 5 | 1 | 4 | -- | 24 | -- | 1 | 29 | 11 | .270 | .324 | .377 | .701 | |
1954 | 国鉄 | 125 | 515 | 474 | 51 | 138 | 18 | 1 | 7 | 179 | 56 | 19 | 3 | 2 | 4 | 29 | -- | 6 | 36 | 14 | .291 | .337 | .378 | .715 |
1955 | 107 | 422 | 382 | 36 | 99 | 14 | 2 | 6 | 135 | 43 | 8 | 7 | 1 | 3 | 32 | 3 | 4 | 24 | 14 | .259 | .321 | .353 | .674 | |
1956 | 9 | 13 | 13 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | .154 | .154 | .154 | .308 | |
通算:9年 | 633 | 2372 | 2155 | 251 | 604 | 86 | 13 | 30 | 806 | 292 | 73 | 26 | 24 | 7 | 165 | 3 | 21 | 146 | 78 | .280 | .336 | .374 | .710 |
通算監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1956年 | 昭和31年 | 国鉄 | 4位 | 130 | 61 | 65 | 4 | .485 | 21.0 | 58 | .218 | 2.64 | 39歳 |
1957年 | 昭和32年 | 4位 | 130 | 58 | 68 | 4 | .462 | 15.5 | 83 | .226 | 2.74 | 40歳 | |
1958年 | 昭和33年 | 4位 | 130 | 58 | 68 | 4 | .462 | 17.5 | 59 | .223 | 3.10 | 41歳 | |
1959年 | 昭和34年 | 4位 | 130 | 63 | 65 | 2 | .492 | 15.5 | 62 | .230 | 3.19 | 42歳 | |
1960年 | 昭和35年 | 6位 | 130 | 54 | 72 | 4 | .431 | 16.0 | 73 | .232 | 3.09 | 43歳 | |
1961年 | 昭和36年 | 大毎 | 4位 | 140 | 72 | 66 | 2 | .521 | 15.0 | 103 | .258 | 3.23 | 44歳 |
1962年 | 昭和37年 | 4位 | 132 | 60 | 70 | 2 | .462 | 18.0 | 92 | .268 | 3.71 | 45歳 | |
通算:7年 | 922 | 426 | 474 | 22 | .473 | Bクラス7回 |
表彰
- ベストナイン:1回 (三塁手部門:1954年)
記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1953年、1954年)
背番号
- 29 (1947年 - 1948年)
- 40 (1950年 - 同年途中)
- 10 (1950年途中 - 1953年、1962年途中 - 同年終了)
- 1 (1954年 - 1955年)
- 30 (1956年 - 1962年途中)
- 61 (1969年)
- 67 (1970年)
脚注
- ^ 『巨人軍の男たち』114頁
- ^ a b 『ジャイアンツ栄光の70年』45頁
- ^ a b c d e f g h i 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』205頁
- ^ 『巨人軍の男たち』115頁
- ^ a b “「殺してやる!」と水原茂に飛びついた宇野光雄の思い出”. 東スポweb. (2020年1月25日) 2020年2月21日閲覧。
- ^ a b c d 『日本プロ野球トレード大鑑』81頁
- ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史・1992年度版』ベースボール・マガジン社、1992年12月[要ページ番号]
- ^ 『プロ野球データ事典』172頁
- ^ 『プロ野球データ事典』176頁
- ^ 【金田正一監督】「長嶋巨人と日本一を争うのがワシの夢や」 - 2014.6.29
- ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、P108
- ^ 杉下茂著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、207-208頁
- ^ 東映vs大毎 18回戦
- ^ 「土佐のいごっそう、監督を怒鳴る」Sponichi Annex職業野球人 第2回 須藤豊
- ^ 『巨人軍の男たち』116頁
参考文献
- 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年
- 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
- 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年
- 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年
関連項目
- 愛知県出身の人物一覧
- 慶應義塾大学の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 府立一中・日比谷高野球部(戦前戦後の時期、コーチに出向いていた)